ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

ものさしを壊す(旧作、部分改訂)

2014年10月14日 | 日記
再会
 数年前の秋、某教育学会がW大学を会場として開催されたときのことである。
 パネルディスカッションのために壇上に並んでいる4人のパネラーの1人に、なにやら懐かしさを覚えた。その懐かしさがどこからくるのかは皆目見当が付かなかった。名前は「K.S.」とある。どこかで聞いたような気もするが、平凡な名前だから、ひょっとしたら教えたことのある学生の名前とたまたま一緒なのかもしれない。
 パネルディスカッションの後の懇親会の席でのこと。先ほど覚えた懐かしさなどはさっぱり忘れ、久しぶりに会った学問の仲間たちと談笑しているところへ、「K.S.先生」が「よろしいでしょうか?」と入ってきた。「こちらこそ。」との挨拶もまもなく、「K.S.先生」はぼくに向かって「瀬田君、30年ぶり以上ですかね、お会いするのは。」と言われる。そのとたん、懐かしさの根源がパーッと甦ってきた。教育実習でご指導いただいた先生だった。あれ以来一度もお会いしていない。
 ぼくには「懐かしさ」という感慨だけが誕生したというのに、すでに初老の様態を示しているK先生は、かつての教育実習生・瀬田康司を過去帳から取り出されたのだ。なんということだ。
 懇親会の席で、ぼくたちのグループは、教育実習生・瀬田康司をめぐって、話の花が咲いた。
「瀬田君は、学校始まって以来の、体罰教育実習生でしてね------」

過去帳
 自分にどれほど人間的な力量があるというのだろう。そして同時に教科書に示された学問に対してどれほどの造詣があるというのだろう。にもかかわらず、「生徒になめられてたまるか」という驕りだけはしっかりと形成されていたぼくは、教壇に立ったとたん、生徒の逐一の行動に腹を立てていた。「教育実習生だと思って、なめるんじゃねえよ。」これが第一声だった。そして、第一回の授業の後、しっかりと「宿題」を出した。
 次の授業にて。
「宿題を点検する!」
 ぞろぞろと、かったるそうな生徒の行動。どうやら、多くが「宿題」をやってこなかった様子。
「宿題をしてこなかった者、手を挙げろ!」
 十数人が手を挙げた。さて、それからをどうするか。先を見通して「宿題」点検に臨んだわけではない。おそらく生徒から見れば、やくざが赤鬼のような顔をして突っ立っている、という様子であったろう。しばらく沈黙の後、ぼくの口から漏れた言葉は、「おまえらは、罰を与えられるべきだ。教育実習生をなめたのだから、それにふさわしい罰だ。教室のテレビの前で立っていろ!恥ずかしい、という思いを持たせてやる。」だった。ぞろぞろと教室前方のテレビを背にして、彼らは並ぶ。教卓の前にまで列があるから、ぼくは黒板と彼らの間に挟まれた格好で、授業を進めた。もちろん、この間、「宿題忘れ組」は、教科書もノートも手にすることが出来ず、ただただ起立しているだけである。後に、これは学校教育法で禁じられている「体罰」に相当することを知ることになるが、その時のぼくは、「学習することの厳しさを体で分からせてやる」と、ふと思いついただけのことであった。
 ・・・・・・とはいえ、さすがのやくざ教育実習生も、彼ら一人ひとりに教科内容に関する課題を質問の形で出し、答えられた者から順番に自席に戻ることを「許可」した。

教材研究の一夜
「瀬田君、今日、ぼくの下宿にこないか。手作りの料理をごちそうするよ。」
 K先生が、授業が終わった後、声をかけてくださった。ぼくは「目をかけてもらえるほど、いい教師ぶりだったのだ。」と有頂天になった。
 K先生に連れられて、学校近くの商店街であれこれと買い物をし、彼の下宿を訪った。入ってまず目を引いたのが、6畳の部屋の隅から隅まで本がずらりと並んでいることだった。「座布団を出しますね。」と言いながら開けた押入にも、やはり本が積まれている。
 すき焼きをごちそうになりながら、話は、K先生の自分史、ぼくの将来についてに及ぶ。「そうですか、瀬田君は、教師を希望しているのですか。」「ぼくは、絶対、いい教師になれると思います。友人たちもそう言ってくれています。」
 ごちそうも終わりになった頃、先生が、「瀬田君に担当してもらっているところは、短歌と方言だったね。これからどうするつもりなのか、少し聞かせてください。」とおっしゃる。ぼくは、教師用の指導手引き書いわゆる赤本を入手していたので、それを元にして授業計画を語った。「で、君は、教えようとしている短歌が好きですか?」「ぼくは短歌の専門家じゃありませんから、好きとか嫌いとかはありません。」
「ぼくも短歌の専門家じゃありません。ですが、いや、だからこそ、教えようとしている短歌について、とことん調べ尽くさないと、生徒が、ああ短歌って素晴らしいな、とか、ぼくだったらもっと別の表現法をするな、などという理解にまでは行き着かない、行き着くような指導は出来ません。君が研究授業で教える白秋の

  石垣に小供七人腰掛けて河豚を釣りをり夕焼け小焼け

については、うちの生徒たちは、赤本を遙かに越えて理解する力を持っていますよ。・・・・・よかったら、今夜、一緒に勉強してみませんか。」
 その夜、K先生のレクチャーを徹夜で受けた。まず北原白秋に関する資料、近代短歌に関する資料、短歌表現されている情景に関する資料、そして言語に関する資料。たった一つの短歌に対して畳の上に積まれた資料は10数冊。K先生はレクチャーをしながら、それらの資料をすべてぼくに開示してくださった。
 夜が明け、朝食の準備をしながら、ぼくに背を向けて、「生徒たちは教育実習生だからなめているのではなく、教材の背後にあるべき学力のなさをたしなめてくれたのではないかな。」と、ぽつんと言葉を吐かれた。
 なぜか涙がこぼれ出た。

研究授業
 「指導案の書き方」などは教わらなかった。「何を教えたいかではなく、生徒たちに短歌を通して、内的世界を広げるための授業の展開に留意して」という示唆をいただき、あれこれの指導案事例を紐解き、指導案を纏めた。「思う存分にやってください。」教室に向かう直前にかけられたK先生の声だ。
 国語教育の大家・A先生はじめ10数人の参観者が居並ぶ中で、授業を始める。「体罰」を行使したときなどには覚えもしなかった身の震えが襲ってくる。白秋の短歌を板書し、言語的事項を訊ねてみる。やはり、即答で返ってくる。近代短歌史に関わる説明もすんなりと入っていく。彼らは、もはや、赤本程度のことは完全にマスターしているのだ。授業予定を組み替えて、早速短歌鑑賞に入った。
「誰か、この短歌の意味を説明してくれますか。」
 T君がさらさらと説明する。ただ、教室の雰囲気が何か違うのだ。もの憂いというか、もの悲しい。生徒たちは頭を上げようとはしない。前列の生徒にそっと尋ねると、この日の朝、同級生のS君が骨肉腫を病魔として永訣したのだという。ぼくはS君とは一度も顔を合わせたことがない。けれど、同級生たちは友を失ったばかりなのだ。
「そうですか。それじゃ、この授業、S君に対する惜別の歌、にしませんか。みんな、S君に、君たちの思いのたけを、白秋の歌に託して、語ってみませんか。」
 参観者の間に静かなざわめきが起こるのが聞こえ、生徒たちの間にはしばらくすすり泣きが聞こえていた。ぼくは、その静寂をじっと受け止めた。やがて、生徒たちは、次々と、自分の短歌鑑賞を語り始めた。指名などしなくても、語ってくれる。
「ねえ、石垣に腰を下ろす姿って、どんなイメージを持っているのかな。」と問いかけると、数人が黒板の所に出てきて、それぞれのイメージを語る。父親と埠頭に釣りに行ったことがあるというF君は、埠頭の絵を描いた。それを見て、すかさず、「石垣だよ。」と訂正に及ぶWさん、白秋の歌の舞台になった三崎に行ったことがあるから、と言葉を足してくれた。
 「小供七人腰掛けて」の所では、「何故七人なんだろう」と疑問を出してくれたEさん。「そう言えば、カラスの歌にも、七つ、というのがあるね。(注:歌の原題は「七つの子」)」と問いを発展させてくれたY君。「七人の侍、もあるよ。」とは、その当時としては珍しい帰国子女のOさん。アメリカで映画を見たそうだ。
 ぼくは、彼らの発言を、一人ひとり固有名詞を添えながら、板書する役を務めた。
 白秋のこの短歌は、牧歌的で、かつどこかコミカルで、「日本のふるさと」を感じさせる。河豚釣りが終わった後、子どもたちは、「七人の侍」よろしく、刀や槍の代わりに釣り竿を肩に掛けて、「カーラースー、なぜ鳴くのー、カラスはやーまーにー」などと謳いながら、帰っていくのだろう。
 外の何かを釣りたいのだけれど河豚ばかりが釣れる、という生徒の解釈。ぼくは、「そうかな、河豚は釣ることだけが目的で、それで十分満足しているんじゃないかな、釣り上げられた河豚はプーッと体を膨らませる、子どもたちはその河豚を叩きつけて、ポンとはじける音を楽しむ、そういう日本の子どもの遊び歌だと思うけれど。」と「反論」する。教室内は一転してにぎやかな「論争」が繰り広げられる。
 白秋が求めた「子どもの世界」は、近世の庶民社会のそれであることは、いくつかの研究書が指摘していることである。大正という近代の激しく変動した時代にこのような子どもの世界を描いているということは、白秋なりの「近代化」に対するアンチ・テーゼであったのではないか、と授業を締めくくった。「白秋は、小供の村は僕らで作ろ、という詩も残しているんだよ。そういう世界は、江戸時代のムラにあったんだって。君たちも調べてみるといいね。」
 ぼくなりに、生徒たちの既知の世界を越えようとするための教材研究の成果であった。

その後のこと
 研究授業の合評会の席では、A先生から「対話が成立する授業で、涙が出るほど感動した。」とおほめをいただいた。
 驕らず謙虚に。それをモットーとして、その後教育研究を進めることになる。そのようなぼくの「生き方」を耕してくれた教育実習------具体的には、43人の生徒たちとK先生、それと「教科書」に込められた学問。
 さて、K.S.先生のこと。K先生がぼくを指導してくださったときのお歳は、24歳。大学を卒業して二年目の時のことだ。そして、その時に初めてぼくを指導学生として迎えたわけだ。爾来、何百人という教育実習生の指導をしてこられたであろう。にもかかわらず、その一人ひとりをすべて記憶しておられる。それほどに、K先生の主体の側に、強いコミュニケーションがあった、ということだ。K先生曰く「こいつにはどう向かい合えば、その良さを引き出せるかな。」と。
「瀬田君みたいに、熱意はあっても、その熱意を教育力量として使いこなせない者に対しては、その熱意をベースにして教育力量を形成する。あの、徹夜のレクチャーみたいにね。でも、あれ以来、徹夜のレクチャーを必要とするようなゆがんだ熱意の持ち主は現れないね。」

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セガンによるイタール批判の本質ーK先生への書簡

2014年10月12日 | 日記
K先生

 過日、電話での久方ぶりのコミュニケーションをいただき、ありがとうございました。
 その折、私が、セガンが口伝ではイタールから学んでいないのではないか、という1つの仮説(というほどのものでもないのですが)を語っていることに対し、先生はそのことに大いに疑念がある風な口ぶりで「セガンが記憶違いをしているかもしれない(だけのことだ)」とおっしゃいました。それで、改めて、三つの書物を取りだし、このことについて考えをめぐらせました。その前にお断りしておきますが、私はセガンが何故にあのように(1843年以降のこと)激しく、厳しくイタール批判をしているのか、そのことを知りたいだけのことであると、申し上げます。
 三つの書物とは、1.世界教育史大系の清水寛論文 2.イタール実践(中野、松田氏による訳書) 3.新しく「発掘」したJohann-Christoph Hoffbauer, Médecine légale relative aux aliénés et aux sourds-muets, ou Les lois appliquées aux désordres de l'intelligence(J-C. オフボウ『精神病者、聾唖者に関する法医学、あるいは知性の障害に適用される諸法』)です。イタール実践をどのように評価すべきかという観点ではなく、イタール実践の到達は何であったのか、そして願うべくは、イタール実践の残された課題は何であったのか、という点を知りたかったからです。
 清水寛氏の論文では、230頁「ボナテールは…」以下に象徴されているように、セガンの1866年著書を下敷きにしており、その後の研究によるテキストクリティークによって、少なくとのこの記述部分には、セガンの解釈が入っており史実そのものではない、ということが明らかになっています。とりわけ「自らの観察に基づいて、この少年が単に野性的であるか、ないしは完全に無教育なだけに過ぎないのだと主張した」は、セガンの解釈以外の何ものでもありません。(セガンの前提は、「イタールはヴィクトールが白痴なのに白痴でないと言った」という言葉に示されております。)
 しかしきわめて重要な問題でありますので、2.イタール実践に基づいて考える必要があります(イタール実践の当事資料―第一次資料―で先生と私の間で共有できる資料)。しかし、清水寛氏の論文232頁では、「イタールは、第一実験と第二実験との間に、不本意ながら、この少年が『白痴』に違いないという結論に達した」とデイビスの研究を借用し、そして「第二実験」では、ペレールの生理学的方法が「積極的に採り入れられた」とセガンの著書を借用し、評価づけしています。イタールの公刊された実践記録からどうしてそれらのことが言えるのだろうかと、私は、今もなお、疑問を持っています。やはり、イタール実践そのものの分析、イタールの言説そのものから、評価づけすべきでありましょう。この点から申しますと、イタール実践の末尾の次の表現こそが、イタールが自らの実践に下した、そしてヴィクトールに下したその時点での評価だと、思わずにはいられません。翻訳書の訳文に少し首を傾げはしますが、引用しておきます。「最後に閣下、こうした長期の実験をどのような観点から捉えようとも、自然人の方法的教育と考えるにせよ、自然に疎んじられ、社会に棄てられ、医学に見放された者の一人に対する身体・精神療法としてみるにせよ、・・・(中略)・・・上げてこの異常な青年に対する学者の注目、当局者の配慮、政府の保護を呼びかけているのです。」(140-141頁)
 このような末尾ですから、先生もすでにご承知のはずですが、イタールはヴィクトールを「病院に幽閉」したのでもなく、聾唖学校の「生徒」の身分が確保できるように奔走したわけです。つまり、イタールは「第二実験」の報告書を出した後も、ヴィクトールを被験者として何らかの研究を継続していた(その気が強くあった)、ということになります。
 このことを、間接的に証明する文献をようやく見つけることが出来ました。それが前記3.の文献です。1811年来ゲラン婦人とともに住んでいた、聾唖学校のごく近くのアパートで、ヴィクトールが、死亡したのが1828年の初めと伝えられています。この文献はその前年に刊行されています。この文献にはエスキロルとイタールが署名つきの注解を寄稿しており、イタールは「聾唖」を担当しています。その注記の中で、「全く動物のような暮らしでいのちを紡ぎ、森の中でひとりで生きた人間に見られたある状態が、先天性の白痴なのかたまさか愚鈍・白痴のような状態なのかの検討は、今もなお必要である。この事例のようなことはいくつもあり、その事例の一つとして、今世紀初め、アヴェロンの森に棄てられたひとりの子どものことを挙げることができる。云々」と書いています(183頁、下線引用者)。つまり、「白痴だ」と断定もしておりませんし、「自らの観察に基づいて、この少年が単に野性的であるか、ないしは完全に無教育なだけに過ぎないのだと主張した」のとは違って、「白痴か野生人か」という問いを持ち続けていたことが分かります。

 以上、ほんの少しかいま見ただけですが、セガンのイタール評価は事実(史実)とは異なる「何か」を元にしてなされていることが分かります。このようなところから私は「口伝では学んではいないのではないか」としたわけです。そして、事実とは異なる「何か」こそが明らかにされなければならないのではないかとも、考えているわけです。
 なお、セガンがイタールについてはじめて触れたのは、『知能の遅れた子どもと白痴の子どもの教育の理論と実践 第二・四半期 不治者救済院の若い白痴への訓練 (Théorie et pratique de l’éducation des enfants arriérés et idiots Deuxièmes trimester. Leçons aux jeunes idiots de l’hospice des Incurables)』(1842年、Chez Germer Ballière、未邦訳)の注記においてです。「イタール博士氏はわが父とはヴァル・ドゥ・グラス(陸軍病院、医学研修の場)での元学友で、私の最初の研究をしっかり指導しようとしてくださった。そればかりではない。彼が1800年来白痴教育に関して集めてきた宝の山=観察結果を一気に私に開示してくれた。それらは、イタールが彼の最初の生徒、かの名高いアヴェロンの野育ちの子に教育を施した際のものであった。彼は、もう決して使うことのない資料を私が意のままに使うことを許し、40年に及ぶ経歴を有する非常にすばらしい仕事を私の若々しい情熱に任せたのであった。」
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