ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

不治者救済院の調査着手

2017年08月31日 | 日記
○5時30分起床、起床時室温27℃。全景が茶系の街。前に見た夢舞台か。駅を降りて目的地案内看板を探すも見つからず。さまよい歩く。そもそも目的地がどこなのか、分かっていない夢。「いざ発たむ当てはなくとも秋の暮れ」 枕元に浮かんだ俳句。「秋」より「夏」の方がいいっすな。「いざ発たむ当てはなくとも夏が暮れ」としましょう。
71.8
125 68 52
○小雨の中を燃えるゴミ出し。左脚のぐらぐら感収まらず。
○足裏着地訓練、大股で歩行訓練。体がぐらつき気味。まっすぐ安定して歩きたい。
○じつに久しぶりに、終日フランス語。メガネをとっかえひっかえして、読み進めた。
*セガンが白痴教育を進めた場l’hospice des Incurables (オスピス・デザンキュラブル 不治者救済院) 法令上から実際を探る作業を進め始めた。
*セガンが、フランス時代の実践を詳しく綴っているのが、フォーブル・サン=マルタン男子不治者救済院の子どもたち10人の教育についてだ。1841年10月から1842年3月まで。その記録の最初の3ヶ月分の邦訳が中野善達氏によってなされているが、これによって、我が国のセガン研究が大きくゆがめられてきた。訳も誤りが多く解説も史実が捏造されていたりゆがめられていたりしている。このセガン論文を改訳する必要は当然あるが、ぼくには荷が重く、意思があっても筆がたびたび止まってしまう。この作業の助走になればと思い、改めて、「不治者救済院」調査開始。
*そもそもhopital(オピタル)とhospice(オスピス)との実質区別が、ぼくにはつきにくい。ぼくの意識は19世紀前半期以前のそれらなのだから、歴史用語として、前者が「施療院」、後者が「救済院」との訳語を当てることが出来る。その前身が修道院が担った巡礼者用宿泊施設に端を発する慈善施設なのである。
 前者は今日でいう「病院」だとすれば、後者は、たとえば「孤児院」、「養老院、「母子寮」などが当てはまろうが、それらの用語とて我が国では現在は使用することがはばかれている。「養護施設」など(各種の)「社会福祉施設」とでもいうべきなのだろうか。オスピスを「貧窮院」とする語り手もいるが、それでは実際を狭めて理解してしまうのではないか、と思ってきた。
*セガン研究で馴染みのある代表的なオスピス機関は、「ビセートル救済院」(男子施設)、「ラ・サルペトリエール救済院」(女子施設)だ。セガンを論ずるほとんどの人が、「ビセートル院」「サルペトリエール院」と呼ぶ。2003年初夏に、「院ってどういう意味ですか?」とセガン研究の大家・清水寛先生にお尋ねしたら、「病院のことです」とのお答え。しかし、セガン研究の文脈でいえば、ホスピスなのだから、先に述べたことからすれば、「病院」というのは正確では無い。現に、セガンが白痴教育に関わり始めた頃の「ビセートル」と「サルペトリエール」の公的呼称は、それぞれ「男子養老院」「女子養老院」であったのだから。
*関係法令は幾度も出されているが、基本は1805年。「ビセートル」と「サルペトリエール」は、「70歳以上すべて」「年齢を問わず、精神病者、癲癇患者、癌患者」を、「不治者救済院」は、「赤貧者」「不治の身体障害者」を収容するとした。要は、精神病者・不治者・ホームレスの強制収容所、および「姥捨て山」、そして罪人収容「監獄」であった。革命以降は、フランス社会の近代化政策(社会浄化政策)の一環としての性格を強く持つ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

船橋東武へ

2017年08月30日 | 日記
○6時30分起床、起床時室温30℃。3時頃からなかなか眠れず。6時頃から腰痛が襲う。ぎくっぎくっ。気をつけましょう。寝具の問題なのかなぁ。かと言ってもねぇ。
*元同僚たちと懇談。バー?スナック?店内に流れる静かな西洋音楽に合わせて長老S氏がバイオリンの音色。なかなかのもの。沈鬱な軍歌。若手S氏が朗々と歌う。現実ではこんなことは全くなかったのだ。
71.1
126 71 52
○ビニールゴミ出し。ヨロヨロという感じか。帰路の左足首はぐらぐら感。爪先を何度も引きずる。
○9時30分~16時 船橋へ 歩行につらさを覚える左脚の状況。
*主目的は携帯の充電の接続不良のため、本体に問題があるのか、充電器に問題があるのかを判別してもらうこと。充電器側の問題だったので胸をなで下ろし、たまったポイントで充電器を購入。
*東武物産展は福島・栃木。いろいろと買い物を楽しみました。お昼は「牛乳や」食堂でソーストンカツ丼。ボリュームたっぷり。とんかつもご飯も残しました。

*おかず類はベーコン。
*主食類は耳うどん(前にも買ったっけ?)。そばは多くの店が出していたが、ぼくはそばそのものをあまり好まないので、唯一の耳うどんを。
*朝食用にロールパン 他。
*料理用に日本酒(1合) 高級な日本酒なんだそうだが、よく分からない。
*5階の文具店でルーペ。新しいセガン研究のためのツール。これでペーパー辞書を「読む」ことが苦痛ではなくなるはずです。
○大阪のきっちゃん関係情報を、facebookで偶然、知った。
 2018.1.20.土〜1.21.日
 第15回全国病弱教育研究会全国大会@大阪大会
*ぼくが「知的障害教育の開発者・セガン」研究に関わり始めた時、パリの「病弱児施療院」(現在のパリ児童病院)内に、同病院の(1802年)創設当初から、入院児童のための普通教育が組織されていることを知って、病弱教育の歴史の深さ、重さを痛感したものです。2005年秋のこと。セガン研究の大物N氏がガセネタをまき散らした機関。この機関の第2代院長ゲルサンが、入院児童アドレアンの教育の相談をイタールにした、それをきっかけとしてセガンが白痴児と思われたアドレアンの教育に携わるようになった、というN氏の論。どうしてそういう荒唐無稽話が出来るのか、研究者品性を疑うしかない。でも、その論を前提とした「セガン研究」がなされてきたことも事実である。調査のために誰一人、この病院を訪れ史資料調査をしてはいないのだから。
*「セガン研究」での資料調査で、セガンの白痴教育過程を示す公文書を閲覧する端緒となったネッカー子ども病院の創設門(1802年)。歴史門であるが、現在も活用されている。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ハナモモ2番摘実

2017年08月29日 | 日記
○7時20分起床、起床時室温29℃。昨夜もたばこ吸いの夢。歩行時の火の付いたたばこは手ですっぽり覆うようにして人に触れないように気を配っていたが、夢でもそう。禁煙をして11年になるが、喫煙要求が起こってきたのか?夢以外のぼくはたばこに誘惑されることはない。
*刺すような痛みが左腰に襲い来て、しばしば目覚める。この痛みは起床後少しの間ある。
71.5
126 69 46
○まるで空襲警報。空襲警報ってのは予告なんで、直前直後に警告を鳴らして、どうする?恐怖と危機感をあおって戦争体制に一気に持って行くのか?同時に、シェルターなど軍事産業を一気に肥大化させるか?戦争殖産体制。とんでもない時代に誘導されつつある。
○庭のハナモモが、ようやく全体的に色づいてきた。我が部屋に桃のかぐわしい香りが漂い来る。しかし、実を摘むには十分ではない。

○山羊肉ブロックが余っているので、角煮に挑戦しました。
頼りにするのは、自分の頭の中にある味覚情報と調理情報だけですので、できあがりは、自己満足したいなあ!であります。
骨付き山羊肉ブロックをお店で適当に切り分けてもらったのを使用。ごま油を熱し肉を転がしながら表面全体に火を通す。
別鍋でカツオ、コンブのだし汁を作っておき、肉の鍋に入れる。
醤油、みりんで味付け。
根気よく煮る。
途中で、少々の味の変化を求めるため、あれこれと(他人様からすれば手当たり次第、でたらめに)小量ずつ、ぶち込む。後は、火から下ろしたり、火にふたたび掛けたり・・・・。
早めの夕食前に盛り付け(写真)。肉に色物を添えました。
 デザートはもちろん、今朝摘み取ったハナモモ。

○セガン 史上初の知的障害児者学校の創設者  余録】
 私自身、著書において、セガンを「知的障害教育の開拓者」と表記している(『知的障害教育の開拓者セガン~孤立から社会化への探究』新日本出版社、2010年)。だけれども、こうした「レッテル」貼りは、セガンは望まないだろうという思いが心の奥にある。
 私のような俗人は「それは○○が一番最初に試みたことで、一番最初に成功したことだ、だから○○を大いに顕彰しよう!」という思考と行動とをする。平たく言えば、「偉人」史観だ。
 だがセガンは、1866年に刊行した著書冒頭で次のように言っている。
 「畏敬の念に値するような新しいことが起こる場合には人類にとってたくさんのすばらしい大きな変化がある。ある特定の時期に、時の流れが望んでいたものが非常に多くの地域でいっせいにその変化が起こされる。いつも、その変化を発見したのが特定の個人であるということが議論されるが、明らかにそれは、人間を通して顕示されたもうた神の御心のままなのであると思う。」
 セガンが敬虔なクリスチャンであったことはほとんど知られていない。彼がいずれの教会にも属さない「平信徒」であったということを、どのように理解するか、という問題なのだが、「セガン研究40年」のお方などは、セガンを限りなく唯物論の世界に近づいた人、という理解をしておられる。
 知的障害教育方法のあれこれの分析・研究はその専門家に委ねて、私は、現存の能力が許す限り、思想研究に深入りしようと思っている。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

通所リハビリ

2017年08月28日 | 日記
○6時30分起床、起床時室温26℃。2度目ざめ。腰痛に責められた。
*昨夜もまた母が夢に登場。「すぐに迎えに来い」と電話。朝まだ暗いうち。交通機関が動いていない、と答える。場面は男4人が雑魚寝しているところに知った顔の若い女性が「私の寝るところを作れ」と強い口調で現れた。それでどうなったのかの夢の結末はない。
71.4
124 70 48
○粋生倶楽部増尾通所リハビリ
*腰の痛みが時々襲い声を上げてしまったが、瞬間的な痛さ故、訓練・運動は中止することはなかった。ただし、「手抜き」ならぬ「足抜き」加減。
*麻痺による左足首から先の変形はだいぶん改善されてきていることをスタッフさんに確認していただいた。これからも頑張ろうという気概が生まれた。
*このところ「大学名」についていろいろと声かけをされ、会話をするようになっているXさんが、今日も語りかけてきた。「工事、建設などの仕事のもっとも基礎労働にあたる人たちをもっと厚遇し、多くを養成しなければ、日本は、本当にひ弱な者が支配する国になってしまう。大学生が多すぎると思わないか?」 「おっしゃるとおりです。大賛成!」 意気投合した次第。
*ハードル歩行訓練、やはり今日も左足を引っかけてしまった。ステップ、レッグマジック、踏み台、スクラッチングボード。左足裏着地訓練、左手で1キロボールの投げ受け。マッサージ、あったか姫。
○今日のお昼
*味噌カレー煮込みうどん 麺汁に、ニンジン、タマネギ、トマト、白味噌、カレー粉。トッピングに、半熟卵、茹で茄子。 
 いろいろと試みてみるものです。おいしい。

○【セガン 史上初の知的障害児者学校の創設者 3】

 史料等の調査によって、セガンによる「白痴学校」は、公教育大臣の認可によって、1840年1月3日に発足したことが理解できた。啞で痴愚の8歳男児、水頭症で白痴の21歳男子、単純白痴で13歳女子が生徒であったという記録が、第3者によって、なされている。
 セガンは規模の拡大を願っていたが、虐待等があるという流言によって生徒は集まらず、セガンは損害賠償を求めて裁判を起こした。セガンに有利な裁判が進められていた模様だが、結末については、それを明確に知る史料は未発見である。
 学校情報は大衆紙や専門紙に掲載され、多くの人たちの関心が向けられ、注目を浴びるようになった。セガンに倣って、白痴教育に関わる教育施設の設置も、幾つかの国で進められるようになる。知的障害教育が水流となってヨーロッパ社会に浸透していくようになったわけである。セガンはまさに「開拓者」と呼ばれるにふさわしい存在であった。
 しかし、未解明なことが少なくない。基本問題だけを指摘ておこう。
 学校開設の請願者は「エデュワール・セガン氏」。
 ただし、請願内容を審査した結果の報告文書には「医学博士
エデュワール・セガン氏」とある。
 開設認可を受けた者は「医学博士セガン氏」。
 開設条件として、公教育大臣は「医学博士セガン氏」に、「初等程度の教師1人を雇用すること」とある。
 しかし、セガンは医学はまったく学んでいない。そして開設された学校には、1人の「介護人」が雇用されているだけであった。つまり、「医学博士セガン氏」は虚偽存在なのである。
 セガンの半生史(1812年~1850年)には、こうした不可解な事柄が少なくない。セガンを巡ってさまざまな理解や評価がなされてきている根源が、このようなところにある。理解するには、難しい人だ。
                (終わり)

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

セガン 史上初の知的障害児者学校の創設者 2

2017年08月27日 | 日記
○6時30分起床、起床時室温28℃。
*夢に母が登場。研究室を訪問した。あれこれ世話を焼いてくれた学生数人(実在)、女性老教授(こちらは仮想)。夢の中でも母は・・・・!
71.9
125 69 48
*どうもjcomメール関係の受信が不調のようだ。ま、いいか。
*携帯の充電口関係が接続不良。買い換えの時期か?
○足裏着地訓練、足首柔軟化体操、両膝屈伸、偽装ストレッチングボード、その他。
*13時~13時50分 児童公園で運動。駆け足もどき、サッカードリブルもどき、鉄棒周辺でいろいろ。まだ足は引きずります。ギッタンバッタンです。
○【セガン 史上初の知的障害児者学校の創設者 2】
「セガンが世界で初めて白痴の子どものための学校を創設した。」
 それがいつのことなのかの確定情報は無い。それがどのような内実を伴っていたのかの確定情報も無い。となると、「へー、そうなんだ、すごいねー、立派だねー。」という世間話程度の「セガン研究の到達」でしかないわけだ。「盲学校」や「聾唖学校」のような、教育史実とはまったく違うとしか言えない。
 じつは、セガンの死後100年祭(1980年)にあわせて、在野の社会史研究者(ティエイエ)が著名な精神医学博士(ペリシエ)との共同で、「白痴学校」の基礎情報史料(の一部)を発掘し公刊していた。「セガン研究40年」の大先生をはじめ多くの人がその情報を手にしていなかっただけだ。それによると、当該の学校は、パリ・ピガール通り(現在のパリ9区)の共同住宅の屋根裏部屋2室に置かれた、との「推定」がなされていた。開設時期については明言されていないが、よく読むと、1843年以降の時期を想定している。それは明らかに史実ではない。
 屋根裏部屋2室!そういう空間が「学校」になり得るのか?(19世紀半ば以降の)パリ大改造以前の共同住宅の屋根裏部屋の、住む人にとっての劣悪な状況一般については一通りの知識があるので、この「推定」にはいささかの疑問を抱き続けており、現在の私は、別の「推定」をしている・・・。
 「聾唖学校」や「盲学校」のような寄宿型(強制収容型)か、それとも通学型(自主就学型)か。当時の白痴への処遇から考えると通学型はあり得ないのだが・・・。
 「学校」か「私塾」か。「私塾」ならば公権力によって開設認可がなされていないが、「学校」ならば公文書が残っている可能性がある・・・。
 「セガン研究」に深入りする動機も意欲も能力も無かった私にとって、「セガンが創設した白痴学校」史実の調査は、最終的に、「セガン研究40年」の大先生に、「力及ばずまったく不明です。申し訳ありません。」と報告するに、何のためらいもなかった。しかし、他のフランス近代教育史研究課題(1871年のパリ・コンミューン下の教育改革・学校創設)のためには、19世紀に私人が「学校」を創設する、ということの必要な手続き等情報については、知っておきたいことだった。「それなら、国立パリ古文書館で調べたらいいですよ。」と、フランス人知人が示唆してくれた。

 同古文書館には、2005年~2008年、勤務大学の授業休暇期間を利用して通った。同館の門をくぐった延べ日数は10日ほどになる。毎度毎度、入館手続きをし、レファレンス係に調査趣旨を述べ、関係周辺史料を出してもらう・・・。フランス文字筆記体が踊る変色した史料の束(化粧箱大の箱数個)から当事・関係資史料を選び出す作業に、絶望感が襲ってくる。
 2008年11月初旬、AJ 16 156と分類記号・番号が記された史料箱の中に、求めて止まない史料類を見いだした。心臓が飛び出る!
 公教育大臣が視学長官に宛てた諮問文書(書簡)
 視学長官が公教育大臣に宛てた答申文書(書簡)
 公教育大臣が視学長官に宛てた決定文書(書簡)
 これらを総合することによって、セガンの「白痴学校」の設立経緯、設置条件等がくっきりと浮かび上がってきた。セガンが公教育大臣に、「学校設立の許可願い」の書状を出したことに端を発している。残念ながら、その書状そのものは見いだすことが出来ていない。
 1838年にセガンの請願(直訴)がなされ、1839年12月31日に公教育大臣による設置許可がなされていた。
 これらのことを明らかにした先行研究類の存在を私は知らない。
(以上の文書詳細は、拙著『一九世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(2014年、幻戯書房)に、綴った。)
       (続く)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加