ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

粋生倶楽部増尾通所リハビリ

2016年04月30日 | 日記
○7時30分起床、起床時室温16℃。
○迎えの車が来るまで、車庫屋根でジョギング風早足踏みなど、身体を慣らした。そんなことが出来る身体になっていることに、少々感動。
○午前中、粋生倶楽部増尾通所リハビリ。今日はスタッフのお一人の勤務最終日。お祝いとお礼を兼ねて、ブルーマウンテンをおいれした。
*「また割き具」で20×4。やはり疲れますね。できないと言っていた所長さん、「できるよ!」とご披露。さすがお若いですね。
*全身マッサージ、「宇宙遊泳」300歩。自転車漕ぎ30分。今日は9㎞走りました。9㎞越えは初めてのこと。暖か姫。
*所長さんから「初心に戻りましょう。」と軍曹さんと向かい合って、踏み台を使っての膝上げ訓練。左脚を軸足にして行うことがかなり軟弱であることを、思い知らされました。
*平行棒に捕まって、グループで足運びの訓練。そのあと、整え体操。
*利用者のHさんから、「元気だねぇ。」と称えられた。「ありがとうございます。でも、元気ブリッコしてます。イヤになってしまう身体だから、本当は元気など無いのですけれど、自分自身に元気なんだよ、と言い聞かせて、自身を鼓舞しているという次第です。本当は、ダラーン、としていたいのですけれど、そうすると、間違いなく、悪くなりますものね。」とお答えした。
○増田さんから便りが来た。20年前に教えた人だ。
*20年前のある日、20代半ばを超えたほどの女性が涙を拭いながら研究室を訪問してきた。聞くと、「社会人入試で入ってきた者は正規の学生じゃない。卑怯者だ!」と授業中のグループ討議の中で面罵されたという。それも一人からじゃない、自分を除くほとんどの学生からだという。理由は、自分たちはそれこそ夜も寝ない日もあるぐらいに入試科目を必死に勉強して、やっと大学に入れた、しかし、社会人入試は論文と英語と面接だけの楽勝だ、だから卑怯だ、正規に大学に入ったとは言えない、ということだった。
 社会人に対して大学の門が開かれ始めたころで、あまり、実態的な情報も流れていないから、その「入試科目」名だけで判断する者がいたことは不思議ではない。それにしても…。確かに、「自分は仮面浪人でここにいる。だから、そちらが受かればここは退学する。」という学生が少なくない頃の我が大学だったから、「大学に入学する」というのはメンツと建前に縛られていることは理解できた時代ではあるが。
*涙を流した学生が増田さん。その後、キャンパス内ですれ違うことがあると言葉がけして励ました。会話の中で、一人っ子の小学校4年生のお坊ちゃんのことを聞くことがあり、そのたびにぼくはちょっと首をひねった。母子一体が強すぎるのではないか、と。離婚家庭なので父親はいない。それをどう乗り越えるかも増田さんの課題だな、と考えた。その親子の姿はまるでぼくの少年期の精神内と同じなのだ。思春期が怖い。・・・
 その少年と旅をしたり(三重)、交換日記をしたりと、「カウンセリング」でかかわった。それには、一人の女子学生のカウンセリングについての臨床学習、かつ当該学生自身のカウンセリングを兼ねていた。この頃は、荒れた学生も多くおり、本当に大学教育の困難期であったと思う。
*増田さんは、卒業後、苦労に苦労を重ねたが、念願の教師の職に就いた。そしてお坊ちゃんは思春期を乗り越え、関西の国立大学を経て、現在は大手の企業に勤めている、と聞いた。皆さんそれぞれに、有意義な人生の道を選び歩んでおられるのだなぁ。
○今日のお昼は「鳥うどん」。一昨日鳥コマを買ったので、それを利用。オリーブオイルを絡めて、醤油と少々の砂糖を加えて、フライパンでじっくり炒めた。火を止める寸前に、そろそろ平らげた方が良い薩摩揚げを投げ込み、余熱を加える。うどんはしっかり湯通しし、少量の醤油を落としただし汁にうどんを落とす。「鳥」と「うどん」とを併せて、はい、召し上がれ。今日は野菜がないのです。なかなかいいお味でした。肉うどん系を作ったのは数年ぶりになりますな。

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少しお出かけ

2016年04月29日 | 日記
○7時10分起床、起床時室温18℃。よく眠れず。ここ数日のパリ・コミューン調べ(著書では綴っていないこと)の集中のためか。
○午前中、1時間半ほど、「お散歩」。新柏、東武ストアーへお買い物目的含む。左脚、調子よくないねー、いやだねー。
○食いしん坊で狂暴マヌちゃん、とうとう、ぼくの部屋を根城と定めたようだ。お天道様が照っている午後は西側窓の敷居で日向ぼっこ、陽が陰りかけるとぼくのすぐ横で日照のかすかにある畳でうつらうつら、その次はマッサージチェアを占拠してぐっすり。ただし、いかなる時も、ぼくから「食の音」が聞こえると直ちに起き上がり、ぼくの正面足下に来て、じっとぼくを見つめる。かわいさのあまり手を出すと、時に、その手に「食」があると思い込んで、鋭い爪でむしり取ろうとする。
○「パリ・コミューン」―『パリ燃ゆ』編その4
 「パリ・コミューン」の勃発は、普仏戦争に敗北したフランスの「戦後処理」とも言えることと大きくかかわっている。この辺りはフランス近代史で綴られることである。その処理のあり方について、ヴィクトル・ユゴーは次のように日記に綴っている。
 「(大統領の)ティエールは、(モンマルトルに続いて、パリ市民によって保管された)ベルヴィルの大砲を取り戻そうとしているが、とどのつまり、パリが深刻な状態になってきているのはそのせいである。彼が火薬庫に火花を散らしたのだ。(普仏間の)政治の戦いを消したくて、かれは(フランス国内の)社会戦争に火をつけたのだ。」(3月24日 日記)
 その「火薬庫」パリが、1871年5月下旬、壊滅状態までに燃え広げられた。先に、これは偶発的な事件ではなく、パリ・コミューン議会議員による命令の下で行われた、と綴っておいた。それと同時に、パリ市民(婦人を含む)の手によっても果敢に闘われたことを紹介しておかねばなるまい。それを象徴する戯画が、バリケードで右手に赤旗左手にたいまつを持った婦人画、である。


 なお、ぼくの世代近辺の人たちは「火炎瓶闘争」ということばと事実になじみがある方が多いだろう。まさに、それが果敢になされたのである。「パリ・コミューン」事変下で、石油の入ったビン(=火炎瓶)を持ち歩き建築物に放火していた女性を指してPETROLEUSEという言葉が作られた。PETROLEは「石油」、PETROLEURは印刷で使う塗油器の義である。紹介する戯画では石油の入った塗油器が持ち歩かれている。


 また、男性も同様の行為をしていたわけで、塗油器と同じくPETROLEURと呼ばれていた。紹介する戯画の男性は瓶を持っている。


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終日在宅

2016年04月28日 | 日記
○7時45分起床。起床時室温19℃。6時過ぎの起床準備で思いっきり体を伸ばしたら、左脚ふくらはぎに激痛。攣った。健常時と同じほどの攣りの痛みのたうち回ったけれど、じつにじつに久しぶりの感覚に変な感激。
○「パリ・コミューン」 『パリ燃ゆ』編その3
 パリの超高級街広場ヴァンドーム。「パリ・コミューン」の頃からも、市井に生きる人たちにとっては無縁の場所であった。
 1871年5月16日午後3時半、国民衛兵隊(準軍隊)第172連隊・第190連隊が「ラ・マルセイエーズ」を誇らしげに演奏。広場の真ん中に聳え立つ円形記念碑(コロヌ)土台部では巨大な赤旗が翻っていた。同日午後5時半、同記念碑は、ツーロン生まれの元舞台俳優、「パリ・コミューン」事変の間は、国民衛兵隊の連合体中央委員会のメンバーであったローズ・オーギュスト・バロン(Rose Augste Barron 1835-没年不明)の指揮のもとに、引き倒された。
 ヴィクトル・ユゴーは、かつて【1827年】に、同コロヌ(およびナポレオン像)を「復讐のモニュメント、きらめくコロヌ、至高のブロンズ」と讃えている(『ヴァンドーム広場のコロヌに捧げるオード』)。
 一方、パリ・コミューン市議会は、同年4月16日に「政令」を発した。コロヌの倒壊命令である。「野蛮の記念建築物、暴力と偽りの栄光の象徴、軍国主義の肯定、国際的な権利の否定」との理由が付されている。
 これをブリュッセルで伝え聞いたユゴーは、倒壊という「愚行」を避けさせるべく創作(詩編『二つの戦勝記念碑』)をあちこちに発表した。議会決定から実施にいたるまで1ヶ月の間があったのは、ユゴーのその「思い」に触れた倒壊予定指揮者が逡巡しためだという(そのために予定指揮者は更迭された)。
 倒壊後、ユゴーは、自らが「亡命」という手段を使ってフランスを離れざるを得なかった、そのフランス国民議会に対して、コロヌの速やかな再建を進言している。5月25日、国民議会は再建を議決した。
○現在のコロヌと倒壊直後のコロヌ


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幻戯書房訪問

2016年04月27日 | 日記
○6時45分目覚め、目覚め時室温21℃。
○ビニールごみ出し。上り坂は、まるで、クラムシーのクロ=パンソンの丘に上るような身体(脚)の重さ、今日は特に膝の調子が悪そうだ。
○いつものアイアンを持った散歩人とすれ違い。挨拶を交わした。こっちは膝が痛い、あっちは腰が痛いと「情報交換」。「めげずにがんばりましょう」と別れた。ほんと、めげそうだもんな。
○やはりブラインドが外れた。ちょっといじると、だものなあ。幸い片方が外れただけなので、再設置は難なくできたけれど…。
○11時過ぎ、幻戯書房に到着。翻訳書の残務整理。まだ、公共図書館には出回っていないとのこと。予算執行期まで少し時が必要だろう。
○社長さんから伺った「姫様」情報。
*「この春休みに上京され、会社にも顔をお出しになりました。」
*「(旦那の)Mさんが香川の田舎はいやだと東京に出てこられています。職も決まっています。」
*「看護師の資格が取れたら、上京されるそうです。」
 以上のことを、このお二人の結婚保証人のお一人である貴婦人にお伝えしたら、「まぁ」と、少し驚いた反応がありました。ほんま、まぁ、ですな。
○お昼は幻戯書房近くのレストランにて。フランス国旗が店先に掲げられていたので、つい、入ってしまった。注文の品は、「ステーキランチ」。もちろん牛であるぞ。退院の時、栄養士さんから、「食べてはいけません」と指定された牛なのだが、本の件もすっきり片がついたことだし、血液ゲンサも◎だったし、あれから2年経っているし、で、キッパリと注文した次第。筋の多いステーキ肉の上にトマトソースがたっぷり乗っかっている。店の人が、「お箸お持ちしましょうか?」と品を置くなり言ったので、にっこり笑って(歯が抜けていて気味悪かったかな?)「フランス生活の経験がありますので、お作法は存じております。」と嫌みでもなく、事実をありのままに申した次第。オネ―ちゃん、ちょっと口がゆがんだ笑顔になったかな。
 ごく当たり前のごとく、右手にナイフ左手にフォークを…!!あたりまえじゃないっ!フォークをちゃんと持つのにわらわらした次第。手の麻痺、残っておられますです。で、フォークの背に(つまり日本風に)ライスをのっけて口に運ぼうとするも、ライスがちゃんと乗っかってくれません。アチャー。ええい、日本オリジナル作法なんか、この際どうでもイイ。フォークでライスをいただけるのだ、ぶきっちょながら。
 *困難性と可能性とを発見した、和風ステーキライスのランチでありました。
○「パリ・コミューン」ー『パリ燃ゆ』編その2
 『レ・ミゼラブル』でおなじみのヴィクトル・ユゴーは、亡命先のブリュッセルで、事変としての「パリ・コミューン」の動向に心を痛めていた。彼は日記で「最悪のこと。パリに火がつけられた。ベルギーにまで消防士を求めてきている。ベルギーの人たちが大急ぎで出発した。」(5月25日)と綴っている。
 さて、火を付けたのは、「パリ・コミューン」鎮圧側「ベルサイユ政府軍」なのか、「パリ・コミューン」側なのか、それとも両者激突による必然なのか、あるいは、このころ流言飛語されていた「火炎瓶女」すなわちパリの民衆による暴動によってなのか。
 要は偶発によるものかそれとも組織・意図的によるものなのか、という問題である。後者だとすればそれを実行する命令書があるはずである。それには当然、指揮者による署名がなされていなければならない。
 ティルリーとルーヴルは、1871年5月19日、パリ・20区選出議員ブルジェレJules Henri Marius Bergeret(1830-1905)によって、放火命令書が出されている。続く5月21日、パリ・7区選出議員ブルネルPaul Antoine Magloire Brunel(1830-1904)によって、パリ全市の放火命令署名なされている。
 この二人がどのような地位にいたのかは、後に紹介するつもりであるが、自分たちが治める街〔自治都市パリ=パリ・コミューン〕を自らの手で焼き放った、ということなのだ。
 ユゴーが綴っている「ベルギーにまで消防士を求め」たのは、誰かは明記されていないが、反「パリ・コミューン」側であることは想像に難くない。皮肉なものである。
○ステーキランチ

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終日休日宣言

2016年04月26日 | 日記
○6時半起床、起床時室温19℃。夜中の目覚め1回。
○資源ゴミ出し。今日も杖使用。左膝に力が入らない感覚があり、坂の上りが体重の急激な増加を感じさせた。
○「何もしない」ことは不可能。「生産的なことは何もしない=休日」と理解しなおしたが、さて、俺は今、何か生産的なことをしている日常なのか、と自問。生きていること=生産的であってほしいなあ、という願望の中であがいているだけなのね。「リタイア」って、働いて給料をもらう、ということから外れてしまったわけなのだけれど、それが即全面的に非生産生活になるなんて、悲しすぎるじゃないか。ねえ。
○・・ということで、生産的と言えるかどうかは疑問だけれど、少し、おつむを使ってみました。
○先日のFBF田中茂美さんとの短い時間の語らいの中で交わされた「パリ・コミューン」話題について、リタイアに伴う廃棄処分から何とか免れることのできた関係史料を、『パリ燃ゆ』(大佛次郎1964年作品)の視点で眺めている。
 じつは、この表題は、大佛のオリジナルだと評価していいかどうか、難しいところがある。というのも、「パリ・コミューン」終焉の1871年5月末から、その史実検証も意味するのであろう「パリ・コミューンはこんな風であった」という記録集が、新聞(日日の出来事をタイムスケジュールで追う記事風のもの)であったり、写真アルバム集であったりなど、さまざまに刊行されているが、それらのテーマは、まさに、「パリ燃ゆ」なのであった。私の手元に残っている関係書は、写真家の手になる『案内ー燃えたパリ選』(1871年)などわずかである。なお、この写真集は、戦火に焼かれ、また打ち壊されたパリの建築物を「そのまま」外国人観光客にガイドする、という目的をもって発行された。
 公共図書館は当然のこととして、関係史資料を求めて、古本屋を訪ね歩く。各古書店の主が必ず言うこと―「お前は日本人か。日本人の有名な作家がパリ中の古書店のパリ・コミューン関係をごっそり買っていった。そのことは知っているか?」その枕詞に続くのは、「だから、他の革命期の史資料に比してパリ・コミューン関係は高くなってしまった。文句を言うのなら、その日本人作家に言え。」であった。苦笑するしかないけれど、それでも、表示価格から2割は引かせる努力はした。
○そうさんからメッセージが届く。
「ご無沙汰しています。なんとか生き延びています。
 2人目生まれました。今回は女の子です。子育てをしています。何をする(しない)のが子供のためになるのかさっぱりなまま4歳になってしまいました。今度は女の子なので、ますますどうアプローチをしたらいいやら・・・」云々
 まったく変わってないなー。よい事です。旦那は看護学校を卒業し看護師をしているとか。散々、人生をさまよった結果の選択故、立派な看護師さんになるだろう。
○西日のあたりがきつくなってきた。これからの季節を考えると、1.何とかブラインドを下ろす、2.机の位置を変える、などの対策を講じなければならない。思いついたが吉日で、ブラインドを下ろす試みをした。数度失敗の後、下ろすことに成功!しかし、これを上げたり下げたりすることは難しいと考え、下ろしっぱなしの状態を保つことにした。暗いナー。ま、そのうちに、良い考えが浮かぶことでしょう、どうせ暇人なのだから。
○パリ・コミューン議員の内、顔写真がある人物をチェックしはじめた。経歴などもアラ読みをしている。面白いぞ。、
○お昼は定番のうどん。今日は具にさつま揚げを入れた。ちょっとくどかったかな。くどいかもしれないと思い、みょうがを刻んでトッピングをしたのだが。
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