この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

『空のない街』/第一話

2017-05-03 22:05:55 | 空のない街
 ウォルター・マードックはその朝最悪な目覚めを強いられることとなった。
 ドアのチャイムの、ほとんど偏執的とまでいっていいしつこさに、元来気が長い方ではないマードックは、半ば激昂しかけていた。インチキ宗教家か、それとも百科事典のセールスマンか、どちらにしてもただじゃおかない、ぶっ飛ばしてやると怒り心頭に発してはみたものの、チェーンを外し、ドアを開けると、彼の怒りは戸惑いへと変わった。
 ドアの向こうに立っている少年が誰なのか、寝起きのマードックはすぐにはわからなかった。
 洗いざらしの古物のジーンズ、上着には地元のフットボールチームの赤いジャンパー、頭にはジャンパーとお揃いのキャップ、身につけているものだけならどこにでもいそうな子供だった。
 だが、その顔にはわずかながら見覚えがあった。
 これまで生きてきて、あらゆる悪徳と、そして原罪に関わったことが一切なさげな、その、まるで慈愛に満ちた天使のような顔立ちには、確かにどこかで…。
 少年はマードックの顔を見ると、ほっとしたような笑みを浮かべた。
「お久しぶりです、マードックさん」
 琴線を弾くような耳に心地よいその声に、マードックはようやく少年の名前を思い出した。
「ジョシュア、ジョシュアか!見違えたな、まったく…」
 そう、見違えた。まるで別人だぜ、とマードックは独りごちた。
 あの頃のこいつときたら、泥にまみれ、ゴミにまみれ、糞にまみれ、近寄るのも嫌になるくらい臭かった。妹の方は、名前は何だったか、エリー、いや、エミリーだ、商売上着飾らせてはいたが、兄貴の方は本当にゴミ同然だった。
 それがどうだ、この変わりようときたら!あの頃からは到底想像できない。
「あの、入っても、いいですか・・・」
 ジョシュアはおずおずと、まるで加虐心を煽るように尋ねた。
 ああ、もちろんだ、入ってくれ・・・」
 マードックは少年の肩に手を回し、抱き寄せるようにしてジョシュアを部屋の中に招き入れた。
 妹の方はずいぶんと稼いでくれたが、兄貴のほうもなかなかどうして上玉だ。この手の商品は決して需要が絶えることはない。俺様の眼も節穴もいいところだ・・・。少年を値踏みつつ、マードックは自分でも知らぬ間に唇の端がゆがみ、自然とにやけるのを押さえることが出来なかった。
「いい部屋に、住んでらっしゃるんですね…」
 ジョシュアが部屋の中を見回しながら、抑揚のない口調で感想を述べた。
「ん?そうか…?」
 マードックは壁に備え付けられたワイン棚から、無造作に一本のワイン瓶とグラスを二つ取り出した。
「飲むだろ?」
 少年の年齢などほとんど気にする様子もなく、マードックはジョシュアの分までグラスにワインを注いだ。
「本当に、いい部屋ですよね・・・」
 手渡されたグラスに口をつけずに、ジョシュアはゆっくりとマードックのそばに寄り、同じ感想を再び繰り返した。
 これは?そう言って、少年はベッドサイドテーブルの上に置いてある写真立てを指差した。
 写真にはマードック本人と、彼の妻と思しき女性、そして二人の子供が写っていた。子供たちはさして楽しくもなさそうに笑っていた。
「うん?ああ、カカァとガキだ」
「お子さんがいらっしゃるとは知りませんでした」
「まあ言いふらすことでもないからな…」
 まったく近頃生意気な口をきくようになってな…、そう言いながら、マードックは写真立てに手を伸ばした。写真立てに触れる寸前、ジョシュアがマードックの手を、拳で上から思いっきりバンと叩いた。
「何しやがる・・・」
 そう言いかけて、マードックは目を見開いた。彼の右手の甲が銀色のナイフでテーブルに串刺しになっていた。
「本当にいい部屋です」
 グラスをテーブルに置きながら、ジョシュアは同じ台詞をさらにもう一度口にした。
「ここなら防音設備も整っているようですし、少しぐらいの騒音が外に漏れることもないでしょう…」
 天使のようなおだやかな笑みを浮かべながら、少年はバタンと写真立てを倒した。
 ウォルター・マードックの、人生最悪の目覚めは、同時に彼にとって人生最後の目覚めとなった。


                            *『空のない街』/第二話 に続く
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« おりづるパヅル、再び。 | トップ | そうだ!四次元パーラーあん... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

空のない街」カテゴリの最新記事