エドワード・マクマーナンは、久方ぶりの目覚めのよい朝をホテルの豪奢なベッドの上で迎えた。
マクマーナン家の本邸に泊まれば、そこは自分自身がハイスクール時代まで過ごした家でもあるのだが、安くもないホテル代を節約はできる。けれど、エドワードはそうする気など毛頭なかった。
主人のアルバートの死を悼み、執事のディケンズを始め、屋敷中の人間は皆辛気臭いことこの上ない。短い時間であれば、その仲間の振りをすることも出来るが、正直なところエドワードには兄の死を悲しむ気にはなれなかった。清々したといってさえよかった。
少しばかり遅めの朝食をホテルのカフェで取りながら、エドワードは新聞の経済欄に目を通した。エグゼクティブの仲間入りを果たしたような気分になり、その悦により深く浸ろうとしたその時、ホテルのボーイが一通のメールを彼に持ってきた。
受取のサインをして、差出人の名前を確かめようとしたが、そのようなものは見当たらなかった。封を切ると、短い、文章とも言えぬ文面の手紙が出てきた。差出人の名前はやはり記されていない。書いてあるのは、場所と日時、それに50万ドルという金額だけだった。
それ以上のことは、例えば50万ドルをどうしろという指示などは、何一つ具体的には書かれていなかった。
問題は添えられていた古い新聞記事のコピーだった。それは一人の少女があるアパートで絞殺体で見つかったという小さな囲み記事だった。少女の名前さえ載っていなかった。
無視しようとすれば出来るはずだった。事件はもう二年以上前のことだ。今更誰が蒸し返そうというのか。だが手紙に目を通し終えたエドワードは、その足で銀行に向かった。口座には50万ドルも預金は入っていない。口うるさい兄のアルバートが死んで、50万ドルとはいかなくても遺産が少なからず分けられるはずだったが、とにかく今のところそんな多額の預金はない。仕方なく2万ドルだけ引き落とした。
今になって誰が自分を告発しようというのか、エドワードには見当もつかなかった。
いや告発ではなく、脅迫だと彼は訂正した。
それにしてもしたたかな相手だといえた。必要最低限のことしか記さず、50万ドルをどうしろという指示もなく、それでいて見る者が見れば脅迫状以外の何物でもない。上手いやり方だと思う反面、50万ドルをその日のうちに、日時は今日の午後二時だった、用意しろというのならば、それは無理な話だった。
医者であれば誰でも100万単位の金を右から左へ動かすことが出来ると考えているのなら、それは大きな間違いというものだった。
自分は医者ではあっても、兄ほど優秀な医者ではないからな、とエドワードは自嘲気味につぶやいた。医者の家系に生まれ、その他の道は示されず、自分自身もそうなることが当然だととりあえず医者にはなったものの、未だに大学病院のインターンでしかない。高名な外科医である三つ年の離れた兄のアルバートとはえらい違いだった。容姿だけを比べれば、特に顔は、実の両親でさえ時々見間違える程似ているというのに。
それにしても、とエドワードは兄のことを思った。高名な医者として名を馳せ、かわいい娘にも恵まれ、妻とは死に別れているものの、順風満帆に思えた兄が、なぜ自殺しなければならなかったのだろうか。
しばらくの間考えていたが、無論答えなど出るはずもなく、結局兄は救いがたい馬鹿だったのだと結論づけた。それだけのことだ。
兄が死んで、エドワードは長い間両の肩に乗っていた重石が消えたような気分だった。どうも勘の鋭いアルバートは事件のことについて何かしら感づいていた節があった。だが偽善者であり、さらに憶病者でもある彼には弟に対して真相を問いただす勇気などあろうはずもなかった。精々出来ることと言えば疑惑と、そして哀れみの混じった視線を向けるだけであった。
エドワードにはそんな兄の態度が嫌でたまらなかった。そんな無間地獄からようやく開放されたと思ったばかりなのに…。
爽快なはずの朝は、たった一通の手紙によって台無しにされた。
くそ、思わずそう毒づいたエドワードは手紙をクシャクシャに丸めてしまいたい衝動に駆られ、ギュッと拳を握って耐えた。
自分は、兄のような馬鹿ではない…。確かに優秀な医者でないかもしれないが、馬鹿ではない。それを証明するためにも、今日は上手く立ち回らなければならない…。
喫茶店で、そんな無為なことを考えていたエドワードは、約束の時間が迫っているのに気づき、慌てて勘定を払って、その場を後にした。
指定の場所は郊外の廃工場だった。放課後にでもなれば子供たちの格好の隠れ家にでもなりそうだとエドワードは呑気なことを考えたが、それにはまだ時間が早い。
昼なお暗い工場の中は赤錆びた旋盤加工の機械やプレス機などが、子供が片付けようとしない玩具のように乱雑に放置されていた。 約束の時間の五分前には着いていたエドワードだったが、待ち惚けを食らわされた。ただ待つだけでは、どうしてここに自分がいるのか、と頭の中で疑問符ばかりが湧いてきて、腹立たしくさえなった。
三十分が過ぎて、やはりあれはたちの悪い悪戯だったのだと思い始めた時、エドワードは、その男のことに気づいた。
いつからそこにいたのだろう、彼の目の前、ほんの十メートルほど先に、男が、いや男というより一見すると少年のようだったが、立っていた。両開きの鉄扉がある入り口の方でなく、より奥に位置 するところに、まるで天使が空から舞い降りたように、その男はいた。
地元のフットボールチームの赤いキャップを目深に被っているので顔はよく見えない。だが、身長や体格は明らかにローティーンのそれだった。
「やあ、マクマーナンさん」
美しいボーイソプラノが廃工場の静寂の中で響いた。
「遅れてしまって、申しわけありません。道が込んでいたものでね…」
男の下手な言い訳にエドワードは腹が立つというより、あきれてしまった。
「ずいぶんと若いな。子供じゃないか」
エドワードの言葉に相手は唇端を歪め、笑ったようだった。
「子供だなんて、ひどい言い方をされますね。昔から年より若く見られて、損ばかりしているんですよ」
「貴様一人か?」
「我々が何人だろうと、マクマーナンさん、あなたには関係のないことでしょう。さあ、ではそろそろ持ってきたものをいただきましょうか」
そう言いながら、男はエドワードの方に近づいてきた。
“我々”のところを強調するような言い方だとエドワードは思った。人の気配は自分と目の前の若い男以外に感じられなかった。本当にこの男は一人ではないのだろうか。どうしてもそうは思えなかった。すると急に懐の二万ドルが惜しくなった。
「ま、待ってくれ。急に言われても、五十万ドルなんて大金は用意出来なかったんだ。に、二万ドルしか持ってきていないんだ…」
おどおどと相手の様子を伺いながらエドワードは上着の内側に右手を差し入れた。
「やれやれ、あなたの未来が買えるんなら、五十万ドルだって安いものでしょうに…」
肩をすくめた男に、エドワードは懐から取り出した銃を突きつけた。
「その未来のために金が要るんだよ!」
次の瞬間何が起こったのか、エドワードには正確にはわからなかった。ヒュッという何かが風を切る音と、薄暗い闇を切り裂く稲妻にも似た煌き、それらとともに彼の右手の人差し指と中指は切り飛ばされた。
この世のものとは思えない、獣のような絶叫が自分の口から吐き出されるのをエドワードは耳にした。
「銃を使うのであれば、相手をあまり近づけては駄目ですよ…」
エドワードをそうたしなめると目の前の男はキャップを取り、素顔をさらした。
「お久しぶりですね、マクマーナンさん…」
ジョシュアはそう言うと、慈愛に満ちた天使のような微笑みを見せた。
*『空のない街』/第十五話 に続く
マクマーナン家の本邸に泊まれば、そこは自分自身がハイスクール時代まで過ごした家でもあるのだが、安くもないホテル代を節約はできる。けれど、エドワードはそうする気など毛頭なかった。
主人のアルバートの死を悼み、執事のディケンズを始め、屋敷中の人間は皆辛気臭いことこの上ない。短い時間であれば、その仲間の振りをすることも出来るが、正直なところエドワードには兄の死を悲しむ気にはなれなかった。清々したといってさえよかった。
少しばかり遅めの朝食をホテルのカフェで取りながら、エドワードは新聞の経済欄に目を通した。エグゼクティブの仲間入りを果たしたような気分になり、その悦により深く浸ろうとしたその時、ホテルのボーイが一通のメールを彼に持ってきた。
受取のサインをして、差出人の名前を確かめようとしたが、そのようなものは見当たらなかった。封を切ると、短い、文章とも言えぬ文面の手紙が出てきた。差出人の名前はやはり記されていない。書いてあるのは、場所と日時、それに50万ドルという金額だけだった。
それ以上のことは、例えば50万ドルをどうしろという指示などは、何一つ具体的には書かれていなかった。
問題は添えられていた古い新聞記事のコピーだった。それは一人の少女があるアパートで絞殺体で見つかったという小さな囲み記事だった。少女の名前さえ載っていなかった。
無視しようとすれば出来るはずだった。事件はもう二年以上前のことだ。今更誰が蒸し返そうというのか。だが手紙に目を通し終えたエドワードは、その足で銀行に向かった。口座には50万ドルも預金は入っていない。口うるさい兄のアルバートが死んで、50万ドルとはいかなくても遺産が少なからず分けられるはずだったが、とにかく今のところそんな多額の預金はない。仕方なく2万ドルだけ引き落とした。
今になって誰が自分を告発しようというのか、エドワードには見当もつかなかった。
いや告発ではなく、脅迫だと彼は訂正した。
それにしてもしたたかな相手だといえた。必要最低限のことしか記さず、50万ドルをどうしろという指示もなく、それでいて見る者が見れば脅迫状以外の何物でもない。上手いやり方だと思う反面、50万ドルをその日のうちに、日時は今日の午後二時だった、用意しろというのならば、それは無理な話だった。
医者であれば誰でも100万単位の金を右から左へ動かすことが出来ると考えているのなら、それは大きな間違いというものだった。
自分は医者ではあっても、兄ほど優秀な医者ではないからな、とエドワードは自嘲気味につぶやいた。医者の家系に生まれ、その他の道は示されず、自分自身もそうなることが当然だととりあえず医者にはなったものの、未だに大学病院のインターンでしかない。高名な外科医である三つ年の離れた兄のアルバートとはえらい違いだった。容姿だけを比べれば、特に顔は、実の両親でさえ時々見間違える程似ているというのに。
それにしても、とエドワードは兄のことを思った。高名な医者として名を馳せ、かわいい娘にも恵まれ、妻とは死に別れているものの、順風満帆に思えた兄が、なぜ自殺しなければならなかったのだろうか。
しばらくの間考えていたが、無論答えなど出るはずもなく、結局兄は救いがたい馬鹿だったのだと結論づけた。それだけのことだ。
兄が死んで、エドワードは長い間両の肩に乗っていた重石が消えたような気分だった。どうも勘の鋭いアルバートは事件のことについて何かしら感づいていた節があった。だが偽善者であり、さらに憶病者でもある彼には弟に対して真相を問いただす勇気などあろうはずもなかった。精々出来ることと言えば疑惑と、そして哀れみの混じった視線を向けるだけであった。
エドワードにはそんな兄の態度が嫌でたまらなかった。そんな無間地獄からようやく開放されたと思ったばかりなのに…。
爽快なはずの朝は、たった一通の手紙によって台無しにされた。
くそ、思わずそう毒づいたエドワードは手紙をクシャクシャに丸めてしまいたい衝動に駆られ、ギュッと拳を握って耐えた。
自分は、兄のような馬鹿ではない…。確かに優秀な医者でないかもしれないが、馬鹿ではない。それを証明するためにも、今日は上手く立ち回らなければならない…。
喫茶店で、そんな無為なことを考えていたエドワードは、約束の時間が迫っているのに気づき、慌てて勘定を払って、その場を後にした。
指定の場所は郊外の廃工場だった。放課後にでもなれば子供たちの格好の隠れ家にでもなりそうだとエドワードは呑気なことを考えたが、それにはまだ時間が早い。
昼なお暗い工場の中は赤錆びた旋盤加工の機械やプレス機などが、子供が片付けようとしない玩具のように乱雑に放置されていた。 約束の時間の五分前には着いていたエドワードだったが、待ち惚けを食らわされた。ただ待つだけでは、どうしてここに自分がいるのか、と頭の中で疑問符ばかりが湧いてきて、腹立たしくさえなった。
三十分が過ぎて、やはりあれはたちの悪い悪戯だったのだと思い始めた時、エドワードは、その男のことに気づいた。
いつからそこにいたのだろう、彼の目の前、ほんの十メートルほど先に、男が、いや男というより一見すると少年のようだったが、立っていた。両開きの鉄扉がある入り口の方でなく、より奥に位置 するところに、まるで天使が空から舞い降りたように、その男はいた。
地元のフットボールチームの赤いキャップを目深に被っているので顔はよく見えない。だが、身長や体格は明らかにローティーンのそれだった。
「やあ、マクマーナンさん」
美しいボーイソプラノが廃工場の静寂の中で響いた。
「遅れてしまって、申しわけありません。道が込んでいたものでね…」
男の下手な言い訳にエドワードは腹が立つというより、あきれてしまった。
「ずいぶんと若いな。子供じゃないか」
エドワードの言葉に相手は唇端を歪め、笑ったようだった。
「子供だなんて、ひどい言い方をされますね。昔から年より若く見られて、損ばかりしているんですよ」
「貴様一人か?」
「我々が何人だろうと、マクマーナンさん、あなたには関係のないことでしょう。さあ、ではそろそろ持ってきたものをいただきましょうか」
そう言いながら、男はエドワードの方に近づいてきた。
“我々”のところを強調するような言い方だとエドワードは思った。人の気配は自分と目の前の若い男以外に感じられなかった。本当にこの男は一人ではないのだろうか。どうしてもそうは思えなかった。すると急に懐の二万ドルが惜しくなった。
「ま、待ってくれ。急に言われても、五十万ドルなんて大金は用意出来なかったんだ。に、二万ドルしか持ってきていないんだ…」
おどおどと相手の様子を伺いながらエドワードは上着の内側に右手を差し入れた。
「やれやれ、あなたの未来が買えるんなら、五十万ドルだって安いものでしょうに…」
肩をすくめた男に、エドワードは懐から取り出した銃を突きつけた。
「その未来のために金が要るんだよ!」
次の瞬間何が起こったのか、エドワードには正確にはわからなかった。ヒュッという何かが風を切る音と、薄暗い闇を切り裂く稲妻にも似た煌き、それらとともに彼の右手の人差し指と中指は切り飛ばされた。
この世のものとは思えない、獣のような絶叫が自分の口から吐き出されるのをエドワードは耳にした。
「銃を使うのであれば、相手をあまり近づけては駄目ですよ…」
エドワードをそうたしなめると目の前の男はキャップを取り、素顔をさらした。
「お久しぶりですね、マクマーナンさん…」
ジョシュアはそう言うと、慈愛に満ちた天使のような微笑みを見せた。
*『空のない街』/第十五話 に続く
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