この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

ダイ・ハード4.0。

2007-06-23 10:32:14 | 新作映画
 ブルース・ウィリス主演、『ダイ・ハード4.0』、Tジョイ久留米にて鑑賞。


 言うまでもなくシリーズ第一作はアクション映画の傑作だった。
 登場人物は端役に到るまでが性格付けがなされ、台詞はシャレていて含みを持ち、シーンの一つ一つが次のシーンに繋がるべく物語は展開し、そしてアクションはただひたすらド派手。
 面白いアクション映画とはこれだ!!というお手本のような映画である。
 シリーズ第二作、第三作については特に語るべきこともない。まぁシリーズ化されるということはそれだけ第一作は面白かったんだな、という証しに過ぎない。
 さて、第一作より十九年、満を持して公開される『ダイ・ハード4.0』は傑作たりえるのか、それとも第二作、第三作同様証しに過ぎないのか。
 上映開始後十分、思った。
 この映画の脚本家は観客はアホだと決め付けているアホだな、と。
 FBIからの命令でハッカーであるファレルを拘束するべく夜中の三時に彼の部屋を訪問するマクレーン。ファレルはマクレーンに対し、偽名で応対するのだが、このとき自分はどうやってマクレーンはファレルが偽名を使っていることを見破る(というかファレル本人であることを証明してみせる)のだろうかと興味津津で観ていた。
 そして驚いた。
 ファレルの隣人が「面白いゲームがあるんだけどどうだい、ファレル?」とドアを開けて彼に声を掛けるのだ。タイミングよく。夜中の三時に。マクレーンみたいな胡散臭い奴が目の前にいるというのに。
 まぁ何だ、そりゃハッカーであれば昼夜の区別はないのかもしれない、それか昼夜が逆転した生活をしているのかもしれない、そしてこれ以上観客にわかりやすい証明方法もないのかもしれない、だが一言で言えば要は脚本家が、マクレーンがファレル本人だと証明してみせる上手いやり方を思いつかなかったのだろう(ちなみにその上手いやり方についてはシリーズ第一作を参照のこと。マクレーンは実に見事に敵の首領であるハンスの偽名を見抜いてみせる。)。
 一事が万事こんな感じで進む。脚本家がアホであるから当然登場人物も揃いも揃ってアホである。
 サイバー・テロ集団の首領ガブリエルがなぜファレル一人に固執するのかがわからない。彼一人であれば放っておいても計画に支障はないように思えるのだが。
 わからないといえばテロ集団の規模もわからない。大規模なテロを仕掛けるためにはファレルたちハッカーの協力が必要だったという設定なのだが、そのハッカーの数はわずか八人である。それぐらいなら自前で何とかならなかったのかと言いたくなる。
 その八名を始末するためにガブリエルは一人につき五人の部下を送り出すのだ。いや、その五人に一晩で全米各地にちらばる八人のハッカーの始末をさせようとしたのか、、、よくわからない。
 わからないことはまだまだたんまりとあるが、本作の一番の謎はガブリエルその人だろう。相撲の決め技、ではなく、聖告天使の名を持つこのキャラクター、凄腕のプログラマーという設定であるのだが、本作では作中ただの一度もパソコン(のキーボード)に触れないのだ(意識して見出したの途中からなので最初の辺は触っているかもしれない)。
 ただの一度もパソコンに触らない凄腕のプログラマー!!こんなに説得力に欠けるキャラクターもそうはいないだろう。
 登場人物が敵味方揃ってアホなのでシーンとシーンの繋がりも極めて悪い。まるでRPGでこの町での用事は済んだのででは次の町へ行きましょう、のような感じだ。第一作の展開のスムーズさなど見るべくもない。
 たださすがにアクションは白眉で、、、といいたいところだがこれも正直言って燃えなかった。ホバリングしている戦闘機の上にジャンプ!そこからさらにダイブ!!っていうのはいささかやりすぎの気がした。アクション映画にリアリティを求めるのもどうかと思うが、観ていて白けてしまった。
 ブルース・ウィリス自身はインタビューで「シリーズ第一作を超えるべく云々」と述べているようだが、本作が人々の記憶に長くとどまることはないだろう。シリーズ第一作の面白さの比較対照の目的以外では。 
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