3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

2017.10.20のバルコニー便り 秋の長雨

2017-10-20 19:37:12 | 日記
このところ雨ばかり、それも結構な量の雨が降っていて、バルコニーの草花はもう雨はたくさん、って言っているようである。

雨だと水をやらなくてよいので、楽ではあるが、水をやりながら草花を観察するということがないので、どうも寂しい。
窓ガラスの向こうに雨なのに鳥がやってきて、椿の木の先に留まってピーと鳴いている。
菊が雨に打たれて倒れてしまったので、切り花にしてリビングに飾ってみた。
とても華やぐ。
ゼラニウムがまだ咲いているが長雨にやられてしまいそうで心配である。
もう初冬の庭で、椿でも咲いてくれないと物悲しくて仕方がない。

日曜日は選挙だが、雨になるようだ。
人生長くやっているので何度目かの選挙である。過去にどんな選挙があったか、20歳になって初めて選挙に行った時のことなど、今では本当にすっかり記憶の底に沈んでしまっている。子どものころは、政治が生活の中心だった時があったように思うのである。次第に政治が生活の中心ではなくなり、みんな自分の生活に気を取られ、あまり政治に関心を持たなくなってしまったのはいつのころだったか。

そんな間隙を縫うように劇場型の政治スタイルが登場し、マスコミのあおりなどで、政治が政治ショーと化し、二者択一、シンプルな選択肢しか示せず、また、政治問題をまじめに議論することが気恥ずかしいという雰囲気が蔓延してしまった。若者たち、大学生も政治の話はタブーになってしまった。

なんだか、もの足りない日本になってしまったような気がするのである。
がっつり政治的議論をたたかわせるそういう日常が必要である。本当は、もっとみんな口角泡を飛ばして、老いも若きも議論すべきなのである。憲法について、森友加計問題について。そう、やはり、議論の中心は憲法と森友加計だろう。

などといいながら、そういう私も、つい忙しい日常に追い立てられ、政治談議はせずに、いいお天気ですねとか、今日も雨で嫌ですね、なんて言葉しか交わさなくなってしまっている。欺瞞である。

生活の中に政治をもっと取り込む必要があるだろう。

長雨の秋の庭をながめながら、20歳のころ、初めて投票に行った日のことを思い出している。
そして、もっとまえ、日本がまだ熱く政治の季節に酔っていた子供のころの記憶をたどると、とても懐かしい気持ちになる。父も母も若く、よく政治の話をしていた。その議論に食い込みたかった。子ども心に政治の話をすることが大人への入り口のような気持ちがしていた。ませた子供だったかもしれないが、ひどく懐かしい。









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