長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

恐ろしいのは、幽霊か?人か? ~映画『回転』~

2024年04月04日 21時00分32秒 | ホラー映画関係
 ヘヘヘイどうもこんばんは~。そうだいでございますよっと。
 いや~、花粉症キツすぎる……先月のけっこう後半まで雪が降るくらいの寒さだったのに、やっと暖かくなってきたかと思えば、すぐこれですよ! もう夜からぐずぐずよ!? 体中の水分がとめどなく鼻水として失われていく恐怖! 例年お世話になっている薬も、今年はなんだか効果が薄れているような気が……夕方の薬の切れがおそろしくってなんねぇ!! またお医者様にかからねば。

 そんな、春の訪れに喜べそうで実はそうでもない今日この頃なのですが、つい先日に私、話題の映画『オッペンハイマー』を観に行ったりしました。さすがは高度な空調設備がウリの映画館、観てる間は花粉症の症状も忘れることができてた……ような気がします。
 ハリウッドきっての硬派エンタメを得意とするノーラン番長らしく、やはりこの作品も緊張感と空想世界への飛翔のバランスがかなり巧みな3時間だと感じました。3時間よ!? この長さを1つの作品で退屈しないように見せてくのって、やっぱ偉業ですよね。まぁ、そもそも3時間クラスにする必要があるのかという作品も昨今はちまたに溢れていますが、この『オッペンハイマー』に関しては毀誉褒貶はげしい偉人の半生を描くものなので仕方がないかとは思います。
 非常に興味深い作品ではあったのですが、やっぱり核兵器誕生の経緯を真正面からとらえた難しいテーマですし、戦後のオッペンハイマーの動向に関しても私は不勉強でしたので、ちょっと我が『長岡京エイリアン』にて独立した感想記事をつづることは考えていないのですが、やはり日本人ならば観る必要のある作品なのではないかと思います。ましてや、原水爆の申し子ともいえる怪獣王ゴジラに始まる日本特撮が大好きな方ならば、自分たちの好きなジャンルが、一体どのような歴史的事実の苦い土壌から生まれ出たものなのかを知っておいて損はないのではなかろうか。少なくとも、『ゴジラ×コング 新たなる帝国』よりもこっちの方がよっぽど初代『ゴジラ』(1954年)に近い空気をまとっていると思います。ノーラン監督流に『ゴジラ』を撮ろうと思ったら、たどりたどってゴジラの「祖父」にあたるお人の生涯に行き着いちゃった!みたいな。
 ほんと、面白い作品でしたね。過去作品と比較するのならば、『アインシュタインロマン』(1991年)的なイマジネーションの世界から始まって『 JFK』(1991年)のような歴史ドキュメンタリー大作の様相を呈し、後半はオッペンハイマーという天才と、彼の引力に翻弄された叩き上げの男との『アマデウス』(1984年)のような愛憎関係を番長らしく熱く語る大河ドラマになっていたかと思います。老け役のロバート=ダウニーJr. が『生きものの記録』あたりの三船敏郎に見えてしょうがなかったよ! アジア人に似てると言われたら、ロバート殿はおかんむりかな?
 言いたいことは山ほどあるのですが、ノーラン番長作品によく登場する「ずんぐりむっくりな謎の女」枠が、今作ではまさかあの『ミッドサマー』のピューさんだったとは気づきませんでした。エンドロールでほんとにびっくりした! そしてノークレジットで特別出演したゲイリー=オールドマンの演技のすごみときたら……さすがは、世界帝国アメリカの大統領といった感じですね。引退なんかしないでぇ~♡


 さて、さんざん別の映画の話をしておいてナンなのですが、今回は核兵器とも戦争とも全く関係の無い、ある名作映画についてでございます。
 怖い……とっても怖い映画です。怖さに関して言えば『オッペンハイマー』に勝るとも劣らない作品なのですが、怖さの種類がまるで違うし、そもそもこの映画を「ホラー映画」とラベル付けしてよいものなのかどうか。取りようによってはホラーっぽい超常現象などいっさい起こっていない「サイコサスペンス」なのかもしれないんですよね……あいまい! そのあいまいさこそが、この作品の恐ろしさの本質なのです。


映画『回転』(1961年11月公開 モノクロ100分 イギリス)
 『回転(原題:The Innocents)』は、イギリスのホラー映画。ヘンリー=ジェイムズ(1843~1916年)の中編小説『ねじの回転』を原作とする。
 本作の冒頭で流れる印象的な独唱曲は、音楽を担当したジョルジュ=オーリックの作曲と、イギリスの脚本家ポール=デーン(1912~76年 代表作に『007 ゴールドフィンガー』や『オリエント急行殺人事件』など)の作詞による『 O Willow Waly(悲しき柳よ)』で、本編中ではフローラが唄う歌として、フローラ役のパメラ=フランクリンではなく、本作に別の役で出演しているイギリスの歌手で女優のアイラ=キャメロン(1927~80年)が吹替で歌唱している。
 ちなみに、この『 O Willow Waly』は本作のオリジナル曲であり、タイトルが似ているスコットランド民謡『広い河の岸辺(原題:O Waly,Waly)』や、ジャズの有名曲『柳よ泣いておくれ(原題:Willow Weep for Me)』(作曲アン=ロネル)とは全く関係が無い。

あらすじ
 ギデンズ嬢は住み込みの家庭教師としてある田舎町を訪れ、ブライハウスという古い屋敷に向かう。そこではマイルズとフローラの幼い兄妹が長い間、家政婦のグロース夫人に面倒を観られながら暮らしていた。兄のマイルズは、何らかの問題を起こして学校を退学処分になっていた。雇われて屋敷で生活して行くうちに、ギデンズは屋敷にいるはずのない男の姿を屋上で見かけたり、遠くからこちらを見つめる黒服の若い女性の姿を見かけたりと、さまざまな怪奇現象に襲われる。ギデンズはその謎を解明するためにブライハウスに関する情報を調べるが、自分の前任者の家庭教師ジェセル嬢が悲惨な惨劇に見舞われていたことを知る。

おもなキャスティング
ギデンズ先生  …… デボラ=カー(40歳)
フローラ    …… パメラ=フランクリン(11歳)
マイルズ    …… マーティン=スティーヴンス(12歳)
グロース夫人  …… メグス=ジェンキンス(44歳)
ブライ卿    …… マイケル=レッドグレイヴ(53歳)
メイドのアンナ …… アイラ=キャメロン(34歳)
クイント    …… ピーター=ウィンガード(34歳)
ジェセル先生  …… クリュティ=ジェソップ(32歳)

おもなスタッフ
監督・製作 …… ジャック=クレイトン(40歳)
脚本    …… トルーマン=カポーティ(37歳)、ウィリアム=アーチボルド(44歳)
音楽    …… ジョルジュ=オーリック(62歳)
撮影監督  …… フレディ=フランシス(43歳)
製作・配給 …… 20世紀フォックス


原作小説『ねじの回転』とは
 『ねじの回転(原題:The Turn of the Screw)』は、1898年1~4月にアメリカ・ニューヨークの大衆週刊誌『コリアーズ・ウィークリー』にて連載発表されたヘンリー=ジェイムズの中編小説。怪談の形式をとっているが、テーマは異常状況下における登場人物たちの心理的な駆け引きであり、心理小説の名作である。
 本作を原作とした映画が4作(1961、2006、09、20年版)、オペラ(1954年初演 作曲ベンジャミン=ブリテン)、バレエなど多数の作品が制作されている。また、本作の前日譚にあたる映画『妖精たちの森(原題:The Nightcomers)』(1972年 主演マーロン=ブランド)も制作されている。
 題名の「ねじの回転」の由来は、ある屋敷に宿泊した人々が百物語のように怪談を語りあうという設定の冒頭部分における、その中の一人の「ひとひねり利かせた話が聞きたい」という台詞からとられている。「(幽霊話に子どもが登場することで)『ねじを一ひねり』回すくらいの効果があるなら……さて、子どもが二人だったらどうだろう?」「そりゃあ当然ながら……二人いれば二ひねりだろう!」

主な邦訳書
『ねじの回転、デイジー・ミラー』(訳・行方昭夫 2003年 岩波文庫)
『ねじの回転 心霊小説傑作選』(訳・南条竹則、坂本あおい 2005年 東京創元社創元推理文庫)
『ねじの回転』(訳・土屋政雄 2012年 光文社古典新訳文庫)
『ねじの回転』(訳・小川高義 2017年 新潮文庫)


 いや~、うわさにたがわぬ歴史的名作でしたね! この作品。モノクロ映画の美しさの極地なのではないでしょうか。
 非常に不勉強なことに、私はこの作品を最近やっと DVDで購入して初めて視聴したのですが、ホラー映画の歴史を語る上で決して忘れることのできない名作として、この作品の名前はずいぶんと前から知ってはいました。

 いわく、あの映画『リング』(1998年)で爆発的ブームとなった「 Jホラー」の表現する恐怖表現のひとつの起源となる重要な作品であるとか。

 純然たるイギリス映画であるこの『回転』をつかまえて日本発のブームのネタ元とするとはおかしな話なのですが、死霊なりモンスターなりの「恐怖の象徴キャラ」が実体を持ってぐわっと襲いかかってくる欧米、特にアメリカ産のホラー映画と違って、いわゆる Jホラーにおける恐怖の象徴は、「視界のすみっこ」にぼんやり誰かがいるような、いるのかいないのかわからない、あいまいな空間からじわりじわりとにじり寄ってくる、その「実体のつかめなさ」にその独自性があるという分析が、私が夢中になっていたころの1990~2000年代のホラー界隈では定説のようになっていたと記憶しています。
 もちろん、最終的には貞子大姐さんなり佐伯さんのとこの母子なりが主人公の前に実体を現わしてクライマックスを迎える流れはあるのですが、どちらかというと、そこにいくまでの「呪いのビデオ」だとか「人死にがあったらしい住宅」といったお膳立てのかもし出す「不吉な雰囲気」を重視する作劇法こそが、当時の日本産ホラー映画の特徴だったようなのです。それは、『リング』よりも『女優霊』(1995年)だとか鶴田法男監督によるオリジナルビデオ『ほんとにあった怖い話』シリーズ(1991~92年)のほうが端的かと思われます。カメラのピントが合っていない所にたたずむ、あいまいなだれか。

 それで、そういった「あいまいな恐怖」を先駆的に描いていた作品としてよく名前があがっていたのがこの『回転』でして、他には『たたり』(1963年)だとか『シェラ・デ・コブレの幽霊』(1964年)あたりが伝説っぽく語られていたと思います。『シェラ・デ・コブレの幽霊』さぁ、実はもう海外版の DVDを購入してるんですが、まだ観てないのよね! 近いうちに必ず腰すえて観ようっと。

 それはともかく、まずこの映画の原作であるヘンリー=ジェイムズの中編小説『ねじのひねり』(私はこの邦題が大好きなのでこれで通します)こそが、当時の怪奇文学ジャンルの中で「恐怖の対象をあえてあいまいな描写にとどめる」という「朦朧法」の実践例としてつとに有名な作品なので、これが映像化されたときに「あいまいな恐怖」を描くのは当然のことでしょう。小説と映画という世界の違いこそあれ、人間の思い抱く恐怖をどのように表現したらよいのかと模索する試行錯誤は、まるで鳥とコウモリ、もぐらとおけらのように同じ道を目指していく収斂進化の様相を呈していたのねぇ。

 ジェイムズの原作小説『ねじのひねり』と映画『回転』との内容の違いを比較してみますと、まぁ物語の大筋の流れにさほど大きな差異は無いように見えるのですが、やはり主人公となるギデンズ先生の「追い詰められ方」、つまりはテンパり具合において、小説と映画とで印象の違いを生んでいるような気がします。

 まず原作小説『ねじのひねり』の方なのですが、こちらは上の解説情報にもある通り、後年のギデンズ先生と親しかったダグラスという紳士が、怪談会の中でギデンズ先生自身のつづった回想の手記を公開するという設定で物語が始まります。
 そのため、物語の視点は当時20歳そこそこだった若きギデンス先生からの完全一人称となっており、その彼女が古い屋敷の中で何度となく出会う、彼女にしか見えないらしい「見知らぬ男女」が、果たして幽霊なのか、それともまぼろしなのかというのが、原作小説の肝となっているわけです。

 ちなみに、怪談会の中でのある人物の話という実録形式で語られるこの物語は、現実に1898年に週刊誌で連載されるまでに、作者(ジェイムズ?)が最近死没した友人ダグラスから死の直前に託された、まだダグラスが健在だった時に2人が参加した怪談会の中でダグラスが紹介した、彼が約40年前、大学生だった時に親しくなった10歳年上のギデンズ先生からもらった、彼女が20歳だった時に体験したエピソードを回想した手記という体裁になっています。まるで『寿限無』みたいに長ったらしい、わざとエピソードの時代設定をあいまいにさせようとする入り組んだ迷路みたいな事情なのですが、ここらへんも、「友達の兄貴の彼女のいとこの先輩の体験したほんとの話なんだけどさ……」みたいな感じで始まる現代の実録怪談のご先祖様らしい、実にもったいぶった前置きですよね。作者ジェイムズはこの小説を発表した時は50代なかばですので、ダグラスが具体的に何歳なのかはわからないのですが、だいたいジェイムズと同年代かと推定すれば、その10歳年上のギデンス先生が20歳の頃に体験したということは、おおよそ半世紀前、つまり19世紀半ばころのイギリスの片田舎で起きた事件ということになりますでしょうか。そのころ、日本はまだ江戸時代でい、てやんでぇ!

 話を戻しますが、小説『ねじのひねり』は徹頭徹尾ギデンス先生視点で物語が進んでいきます。そしてそこに出てくる男女の幽霊(と、ギデンス先生が主張している存在)は、どうやらギデンス先生以外の誰にも見えていないらしいという事実がほの見えてくるのですが、ギデンス先生自身は、屋敷に住むマイルズとフローラの幼い兄妹に対して「見えているのに知らないふりをしている」という疑いの目を向けていきます。
 この状況を頭に入れつつこの小説を読んでいきますと、実はこの物語は幽霊たちが存在しなくても成立することがわかります。すなはち、ギデンス先生が見たという幽霊たちは実際にポルターガイストの如く屋敷の家具調度を飛ばしたり壁に投げつけて割ったりするでもなく、ただ現れるだけなのです。いつのまにか現れて、そこにいるだけ。それなのに、それがギデンス先生にとってはたまらなく恐ろしく忌まわしいのです。
 ギデンス先生は、この屋敷の関係者の中に、ここ1年かそこらのうちに不審死を遂げた使用人のクイントという男と、その彼とよこしまな関係にあり、その死ののちに精神のバランスを崩して自殺したという前任の家庭教師ジェセル先生がいることを知り、その2人が幼い兄妹になんらかの未練を残しているために幽霊となっているのではないかと推測するのですが、彼らは遠巻きに兄妹を見ていたり、兄妹を探して屋敷の周辺をさまようばかりで、特に何もしないでいるのです。このへんの、生者に全く何もしないけど確実にいる、襲いかかるでも呪うでもなくただいるだけという存在感が、一体何をしたいのかがさっぱりわからないだけに、ギデンス先生の理解の範疇を超えたコミュニケーション不能の恐ろしさをかもし出しているのでしょう。
 原作小説におけるギデンス先生は、親が教師ということで教育に関する素養こそ持っているものの、実践の経験は全くない若い女性に設定されています。そして、そんな娘さんに対して、彼女を甥と姪の家庭教師に雇った貴族の男性は、破格の給料を約束こそするものの、労働条件として「屋敷のことのいっさいを取り仕切り、自分に決して相談しないこと」という、働き方は自由のようでいてその反面、責任もむちゃくちゃ重い要求を課すのです。当初ギデンス先生はガチガチに緊張しながらも「それだけ信頼されてるんだな……よし、がんばるゾ☆」とはりきるのでしたが、着任して早々、寄宿制の学校に行っていて夏休み期間に帰省してくるだけだったはずの兄マイルズが「退学処分」という形で屋敷に転がり込むというトラブルが発生し、その頃からギデンス先生は幽霊たちを見るようになり、同時に兄妹が「私に何か隠し事してるんじゃないかしら……」という疑心暗鬼状態に陥っていくのでした。

 このシチュエーションを見て、ホラー映画ファンならば、あのスタンリー=キューブリック監督の超名作『シャイニング』(1980年)を思い出さない人はいないでしょう。あの映画もまた、分厚い積雪に囲まれた冬季閉業中のホテルの管理を任された主人公が、自身の作家業のスランプというきっかけから精神を病んでいき、気味の悪い幽霊たちに翻弄された挙句に自らの妻と息子に殺意さえ抱く極限状態にまで追い詰められてしまう「サイコサスペンス」という、原作者スティーヴン=キングも激おこのアレンジが施されていました。原作小説は純然たる超能力ホラーなんですけどね……

 つまり、原作小説『ねじのひねり』は、幽霊怪談の形式を採っていながらも、世間一般で言う幽霊とは、精神のバランスを崩した人が見てしまう幻覚なのではないか?という解釈も可能にしている、「幽霊の存在を信じようが信じまいが成立する」物語になっているのです。その真相をあいまいにすることこそが、作者ジェイムズがこの物語を世に出した意義であり、「いると思えばいる。いないと思えばいない。」というあやかしの存在を文学の世界に成立させた大発明だったのではないでしょうか。
 このジェイムズの筆のものすごさをイメージするだに私が連想してしまうのが、あの黒澤清監督のホラードラマ『降霊』(1999年)なのですが、あの作品でも、登場人物の一人がそういうセリフを言っているんですよね。殺人鬼ジェイソンや宇宙船ノストロモ号の中にひそむエイリアンとは全く別種の恐怖が、そこには黒々と存在しているわけです。直接危害は及ぼさないけど、確実に見る者の精神をむしばんでいく、理解不能ななにか。

 ちょっと、原作小説があまりにもすごすぎるので、本題であるはずの映画『回転』の内容に入るのがだいぶ遅れてしまいました! だいぶどころじゃねぇ!!

 ほんでもって肝心カナメの『回転』なのですが、こちらはある一点で、原作小説と大きく異なる変更がなされています。
 すなはち、主人公のギデンス先生がかなりの御妙齢に。アラフォー!

 単なるキャスティングの都合だろうと言われればそこまでなのですが、原作に比べて映画版のギデンズ先生が20歳も年上の、しかも演じるのが気品たっぷりの美貌と貫録を持つデボラ=カーであった場合、ギデンズ先生のキャラクター造形にどのような変化があらわれるのかと言いますと、そこには「教育に関する強い自信」と、それがゆえに「子ども達は私に嘘をついている!」という疑いを確信的にしてしまう頑固さを原作以上に強くする効果があったのではないでしょうか。

 おそらく、原作通りにギデンス先生が20歳そこそこの新人家庭教師だった場合、物語の中心にいるのは幽霊たちと子ども達の謎に翻弄され、あわれに疲弊してゆく若い娘さんだったはずです。その、ある種の万能感を持ってチャレンジしたはずの若者が理解不能な屋敷の不条理にぶち当たり挫折してゆく姿は、映画版とはまるで違う印象を観る者に与えていたことでしょう。それこそ、教え子との心の壁に苦悩するギデンズ先生を思わず応援したくなるような、普遍的なヒューマンドラマになっていたかも知れません。はたまた、日本の明治時代末期に一大オカルト旋風を巻き起こし、その渦中でもみくちゃにされた挙句、ごみのように捨てられてしまった「千里眼事件」の女性超能力者たちの悲劇を彷彿とさせる、つらい物語になっていたのかも。ヒエ~また『リング』につながっちゃった!

 だがしかし、実際の映画版での妙齢ギデンス先生はどう仕上がったのかと言いますと、正直言いまして「幽霊よりもあんたが怖いわ!!」と言いたくなるくらいに目をひん向いて「あの子たちは嘘をついてる! 私にはわかるの!!」とでかい声でつぶやき続ける、かなり危険なかほりを漂わせるヒステリックレディになっていたかと思います。そして、そういったカーさんの女優オーラに耐えうる実力を持った対抗馬として、疑惑の幼い兄妹を演じた2人の子役も、心の裏がまったく読めず、かわいらしく笑えば笑うほど薄気味悪く見えてくる恐ろしげな存在になっていました。
 つまり要は、ギデンズ先生が子ども達に淡い幻想を抱くほど青くなく、年齢的にも8~10歳くらいの子ども達との隔絶が大きくなってしまったがために、同じ「幽霊よりも人間が怖い」作品にするにしても、原作小説とはまるで違うアプローチで「人間の思い込みのかたくなさ」と「無邪気な子どもの中に潜む残酷性」を活写する作品に、映画版は仕上がっていたのではないでしょうか。
 かくいう私個人は、演じる子役さんの演技力次第で出来がだいぶ違ってくるので、子役が前面に押し出される作品はあんまり好きではないのですが、悠久たるホラー映画の歴史の中には、「子どもが怖い系」というジャンルも確立してるんですよね。そうか、この『回転』はそっち系の重要な先行作品にもなってるのか! そっちらへんで有名なのは『オーメン』(1976年)とか『ペット・セマタリー』(1989年)でしょうが、私が好きなのはやっぱ『ペーパーハウス 霊少女』(1988年)ですかねぇ。

 とにもかくにも、小説『ねじのひねり』も映画『回転』も、幽霊よりも「人間の怖さ」に焦点を当てた名作であることに違いはありません。しかし、かたや文字かたや映像ということで、人間のどこに怖さを見いだすかでまるで違うテイストの世界を築いているところに、21世紀の今もなお伝説の傑作として語り継がれるにふさわしい、双方の魅力があるのではないでしょうか。

 それに、映画版はともかく映像がきれい! ハマー・プロの怪奇映画の監督としても有名なフレディ=フランシスの手による撮影映像の巧緻な設計プランと融通無碍なセンスの世界は、どのカットを切り取ってももはや西洋絵画の域! モノクロという映像形式をまるで制約と思わせない、色が無いからこそ無限のイメージを喚起させる色の豊かさは、もうお話なんかどうでもいいやと思わせてしまう程の魔力を持っていると思います。また、夜のシーンが夜らしく見えない位に白さを強調している夜空をバックにしているので、実にあいまいな、今が昼なのか夜なのかが一瞬わからなくなる幻惑感を演出しているんですよね。ゴシックホラーだからこその思い切った挑戦、お見事!
 あと、映画版は映像作品らしく音声という点でも原作小説に無かったオリジナリティを発揮していて、フローラがなにげなく口ずさむ『 O Willow Waly』のメロディの美しさや、兄妹と幽霊たちとの過去のつながりを濃厚ににおわせるオルゴールの存在感は、物語に時間の奥行きを生む技ありな小道具になっていたと思います。辻村深月先生の『かがみの孤城』のアニメ映画にもオリジナルでオルゴールが登場していましたが、映像化作品に音のアプローチって、定番ですよね。


 さて、ここまでいろいろとくっちゃべってきて字数もかくのごとくかさんできましたので、そろそろ本記事もおしまいにしたいと思うのですが、気がつけば、部屋の隅から恨めしげにこちらを見つめて、

「あの~、おらだづのごとは、触れてもくんねぇんだべが……」

 と無言の圧力をかけてくる、2人の男女の影が。あぁ~ごめんごめん、今ちゃちゃっと言うから!

 映画版で不気味な男女の幽霊を演じていたのは、使用人クイントがピーター=ウィンガード、ジェセル先生がクリュティ=ジェソップなのですが、どちらもセリフ無しながら非常に強烈なインパクトを残していたと思います。怖いというよりは忌まわしい、憐みを誘うたたずまいなんですよね。特にジェセル先生役のクリュティさんは、顔のアップさえほぼないのに、黒い喪服ドレスを着た遠景ショットだけで「あ、この人、生きてない。」という説得力を持たせるとんでもない才能を発揮していたと思います。そんな才能、幽霊役の他にどこで役に立つわけ!? でも、撮影監督のフレディさんは、本作の翌年に自身が監督したホラー映画『恐怖の牝獣』(原題:Nightmare 1964年)にもクリュティさんを起用してるんですよね。よっぽど気に入ったんだな……山村貞子さんの遠い遠いご先祖様ですよね。そういえば、雰囲気が木村多江さんに似てるかも。
 そして、不気味ながらもどこか、野卑な使用人とは思えない気高さをたたえる顔立ちをしていたクイント役のピーターさんなんですが、私、この人を見た瞬間から「どっかで見たことあるような……」とモヤモヤしていたんですが、30代半ばだった本作の時期よりも後年のお写真を見てやっとわかりました。この人、ジェレミー=ブレット主演のグラナダTV 版のドラマ『シャーロック・ホームズの思い出』(1994年 通算第6シリーズ)の中の第1話『三破風館』で、上流社交界の裏ゴシップに精通した怪紳士ラングデール=パイクを演じておられた方だ! 日本語吹替版の声担当は小松方正!! 

 小松方正さんと言えば、太平洋戦争の終戦直後に海軍兵となって広島に配属されていたのですが、あの1945年8月6日の前日の終電で東京へ出向したために原子爆弾の惨禍をまぬがれたという、もはや唖然とするしかない超豪運の持ち主です。原爆!? よし、これで本記事の冒頭につながったぞ!! もう、なにがなんだか。
  
 『回転』、合わない人にはちと退屈な作品かも知れませんが、ホラーな雰囲気が大好きな方にはたまらない歴史的名作です。おヒマならば、ぜひぜひ~!!
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