King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

『珍夜特急』と経度と緯度の測り方

2019年09月18日 15時44分44秒 | 読書

よく観光地で記念碑があるとそこに緯度と経度が記されていることがあります。

測候所がなくなりましたがその地にはいまだ百葉箱と降雨計とか何かのアンテナとか

装置がある一方何のためか経度と緯度の記された柱もあります。こんなのを見ても誰も

地球上の自分の位置を気にしたり、地球の大きさを気にしたりしないでしょう。それは

我々が誰でも義務教育として最低限の教育でもそれらの知識を教わり太陽の周りを周る

第三惑星に住んでいるという事を知っているからで、物の大きさを測ったり木の高さを

測る方法を知っているからでしょう。地図に入っている縦と横の線は経度と緯度であり

その数値で地球上の位置もあらわされると知っているからです。

 

しかし、実際に中学生や高校生にその意味や数値の出し方を質問したとしてどれだけの答えが

返ってくるでしょうか。

 

最近テレビで見た東海道にある古い家からお宝を見せてもらうという番組で伊能忠敬以前の

地図というのを見ましたが、その出来はかつてテレビなどでやる伊能忠敬以前の地図からすると

かなりの精度でそれが伊能忠敬の60年ほど前といいますから如何に我々が正確な情報に接して

おらず教育としても甚だ怪しい知識でしかこの基礎科学部分を理解していないことを知るのです。

 

私が一番最初に伊能忠敬の事を知るのは歴史の本からでなく、道徳の本からです。この道徳の授業

はテストとかなく一週間に一回ぐらいしかなかったと思いますが、とても心に残る話があったように

思います。走れメロスとか鑑真が日本を目指した話とか陸上でペースメーカーを命じられた生徒が

腐らずに練習に専念して結局レース本番に優勝してしまう話など今でも思い出します。そんな中

伊能忠敬が出てきたのは自分は50歳なのに31歳の人に弟子入りしたという事で登場するのです。

 

彼が弟子入りしたのは天文方という幕府の役人です。そして道徳の本では師としてもう教えることは

ありませんと言われて伊能忠敬はその獲得した技術で測量の旅に出るというものでした。

 

多くの日本人が理解する伊能忠敬は日本地図を作った人という事ですが、幕府に収めた地図にしろ

伊能家にあった地図にしろみんな火災や関東大震災で焼失し彼の偉業が改めて評価されるようになった

のは最近と言ってもいいかもしれません。しかし、その理解が未だにテレビ番組で紹介される偉業に

しても初めて地図を測量して作ったと言った理解に止まり、日本の教育のお粗末さを露呈していて

このままでは確かに国際競争力も衰えてしまうわけだと感じるのです。つまり、彼が測量したいと

思ったのは蝦夷地まで行って測れば地球の大きさが解ると思ったからなのにそれを教えずにこの人の

偉大さと科学に対する興味を伝えることもできないわけです。

 

世界では伊能忠敬が生まれるより10年早い1735年に地球の経線と赤道線を測る測量隊が派遣されています。

 

この測量は天文観測によるデーターが示す地球の形状が極方向に長いのではないかという学説上の争いに

終止符を打つべく学術調査として派遣されるのですが、使命を果たすまでに命を落とす人が続々現れ簡単に

終わらず、その体験記が出版されると世界にめがむく結果になり色々な影響を与えたのです。

 

私もかつて深夜特急という体験記を読みそんな冒険をしてみたいという事を夢見たりしました。また当然に

社会に出る前に若者の特権である自分探しの旅というものに出て世界中を歩いてみることもするものと

思っていました。しかし、実際には進路指導の先生の言うがままに普通に就職して淡々と社会人生活に入り

海外をまたにかけて活躍するビジネスマンでもなく普通の日本人的な世界観に止まるわけですが、テレビなどで

憧れたヒッチハイクでユーラシア大陸を旅する猿岩石の番組が人気になったりとかつて私がやろうとした旅を

実際にやっている人達を見ると何かしらやり残したことのように感じるのも確かです。

 

今回読んだ『珍夜特急』というのはインドからポルトガルのロカ岬を目指す旅をバイクで果たした旅行記なのです。

現在の世の中ではできないこれまた良き昔のお話となってしまった世界情勢とか色々と考えさせる本でした。

そもそもロカ岬にしたところにもしかしたらこの人も宮本輝の本を読んでロカ岬を最終目的地にしたのかと

予測したのですが、全体的な知識とか文化的欲求とかそもそもそんな旅に何を求めていたのかという目的も

実に味わいもなくあやふやなものなのです。観光地など興味がないとばかりに名だたる名所をことごとくすっとばし

遺跡や観光名所などもたいした紹介もなく、美術館などゴッホ美術館とゲルニカとミュシャ美術館だけという

なんとももったいない行動なのです。

 

出てくる描写も荒野をただバイクで一日何百キロも走ったりとバイクで走る描写もただ何も起きなくて日本の

バイクの性能の良さをうかがわせるような旅でこんなトラブルも少なく良く行けたなあという物語です。

もう色々と経験もして旅行経験とか人生経験もしてしまうとまたこれを読んでも私が高校生でそんな海外放浪の

旅の本を読み漁っていたころに出会えばまた違った感想だったのは間違いありませんが、今となれば何もない

この本は現在ではこのようなことはできないしと考えると昔はよかったねとしかいえない本です。

 

せめて宮本輝の『草原の椅子』のように砂漠や原野に宇宙とのかかわりを見出したり、最古の文明の地など

今では入れない地に行けたのに何の未練もなく立ち寄りもしないなど期待するには本人の資質に問題あり

なのではという気もしたのです。それは世界というものに過度に期待する私の方が問題なのかという気も

しないではありませんが登場する多彩な旅での出会いなどそれにつれコースを自由に変えそんな人に助けられたり

また違う人に出会ったりとそんなことを重視しての旅なのかという気もします。そんな旅もやはり若いうちに

やってみようという人が日本人にもこれからたくさん現れて日本や世界を変えていってくれることとを願います。

 

 

 


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