振り出しに戻る「落陽日記」

旅や日々の生活の一コマ。60代半ば、落陽期を迎えながら気持ちは再び振り出しに戻りたいと焦る日々です。

カニを食べに浜坂温泉までバイクツーリング

2020-11-30 20:46:13 | バイクツーリング
11月の中旬のことだが、いつものバイク仲間と1泊2日のツーリングに出掛けた。目的は解禁されたばかりの松葉ガニに食するためだ。

宿泊サイトで以前から見つけていた、山陰にある魚が旨そうな温泉宿で、行くならカニ漁が解禁された後にツーリングで行くことを仲間で確認をしておいた。快晴にも恵まれ、GOTOキャンペーンも使えたのでお得な料金でツーリングが堪能できた。





11月も中旬で、しかも夕方になると風が冷たくなり身体が冷えるが、温泉のある宿はありがたい。食事の前にゆっくりと入浴して、すっかり温まった身体で食堂にむかった。



通常の海鮮料理コースに松葉ガニが1匹がついている。カニには水揚げ港のタグも付いていた。



アワビやホタテの蒸した料理まであって、日本酒が美味しくいただけた。この宿は水産会社が運営しているようで、新鮮な魚貝類が自慢のようだ。



品数の多い朝食にも満足満足。

帰りには同じ水産会社が経営するスーパーに寄ってお土産を購入したが、やはり地元の人たちが利用する場所だけに、お買い得な値段だった。スーパーに寄る前に観光客が立ち寄るお土産店にも行ってみたので間違いない。GOTOキャンペーンでもらえる地域共通券も地元で消化できた。


標高1350メートルの四国カルストと石灰石の露天掘り

2020-11-28 13:41:30 | 旅行
もう少し時間があれば梼原の町を歩き回ってみたいが、先を急いで四国カルストに向かった。

梼原は雲の上の町と呼んでいるが、宿のあった場所が標高で言うと410メートルなので、さほど高くはない。但し前日入った温泉の場所は510メートルなので、少し移動するだけで高低差は大きい。

車で向かった先の四国カルストは高知県と愛媛県の県境の、四国山地の尾根になるような場所にあり、梼原からだと千メートルも高度差がある。途中からはクネクネと曲がった狭い坂道が続き、下ってきた大型のミキサー車に出くわした時は一瞬ドキッとしたが、ミキサー車がすぐにバックをしてくれて離合できたのでほっとした。





キャンプをしているグループがいたが、ホテルは前週末で冬季休業に入ったようで、自販機の中身の回収作業をしていた。天気は素晴らしく良いのに、放牧されていたはずの牛も全く見えず、風力発電の羽根だけがゆっくりと回っていた。



郷里の山口県にある秋吉台とどうしても比較をしてしまうが、先に秋吉台を見ているとやはり物足りないのは仕方ない。鍾乳洞も無いが、未発見のままで存在していることはないだろうか。



カルスト学習館のスタッフの方に聞いたが、このカルスト台地も元々は木々に覆われていたとか。牧草地にすることで石灰岩の見える景色なっているようだ。


今回の旅では梼原の木の文化を発見して、大きな成果になったが、来るまでは四国カルストに関心を抱いていた。と言うのは、1年前に大阪からベトナムに向かう飛行機から四国上空で見た景色がきっかけになっている。







10月なので積雪があるはずもなく、そうとうな広さで真っ白く見えるのは何だろうとカメラを構えた。後でグーグルマップの衛星写真を探して、石灰石の露天掘り採掘場だと判明。

そう言えば四国カルストもあるので、なるほどと思ったのだが、今回は梼原まできたので四国カルストにも立ち寄ろうと決めた。採掘場までは直線距離は僅かのはずだが道はない。迂回すると2時間近くかかるようなので採掘場に行くのははあきらめた。

土佐藩の脱藩者たちのルートにあった梼原

2020-11-25 11:54:09 | 旅行


土佐藩には明治維新に関わった人物が多くいるが、やはり最も著名なのは坂本龍馬に違いない。彼が脱藩を決意して実行したのは1862年。高知から梼原に入り、龍馬と親交のある郷士で、後に脱藩する那須親子の家に泊まった。翌日は那須親子の案内で韮ケ峠を越えて伊予に入り、大洲、長浜を経て海路で長州藩の三田尻に向かっている。

また同じく土佐藩を脱藩して天誅組を組織し、大和五条で挙兵したもの幕府軍に敗れて戦死した吉村虎太郎は、梼原の庄屋を勤めていた。その庄屋のあった場所に梼原の勤王の志士、掛橋和泉の邸宅が移築され現存している。







掛橋和泉なる人物は初めて知ったが、吉村虎太郎と親交があり、脱藩する志士たちに家財を費やして多くの援助をしていたようだ。そのことが一族内で発覚し、自決とある。



明治維新に至る時代の混乱の中に身を投じた脱藩者たちやその支援者8人の銅像が梼原にある。







戦いに向かって駆ける躍動感にスゴイものが感じられる。吉村虎太郎ら大和で挙兵して戦死した3人と、長州軍に加わって禁門の変で戦死した者となっている。

逆光でシルエットしかわからないが、脱藩する龍馬と澤村惣之丞の二人を那須俊平が道案内をしている場面のように見える。そしてそれを掛橋和泉が見送っているのだろう。

新しい夜明けを見ることなく非業の死を遂げた者たちの出発点は、ここ山奥の里、梼原にあったと言っているようだ。







梼原は木の文化の町

2020-11-23 20:48:19 | 旅行
宿泊したホテルのあるマルシェ・ユスハラは隈研吾氏による建造物で、地元の木材を多用したデザインが特長だ。温泉施設の隣の「雲の上のホテル本館」も、そして梼原町の総合庁舎も同様に木材を利用したデザインだった。





これら以外にも図書館や福祉施設も同じ木造デザインらしい。

どのようないきさつから隈氏と梼原町の接点が生まれたかは知らないが、これらのデザインの起点となった建物が「ゆすはら座」と言う木造の芝居小屋とある。総合庁舎に近くに移築された小屋が残っていて、現在も使われることがあるようだ。







昭和23年建築とあったが、林業の盛んな時代には四国の山奥の地でも芝居演芸が人気だったのだろう。隈氏もまず最初にこの建物を見られたようだ。

更にびっくりしたのは建物だけでなく、川に架かる橋梁まで木造だったことだ。







昔からの街道が通る橋で、別に新しく国道ができて車の通行量は少ないのでこのような事も可能だったのだろう。もちろん骨格は鉄で木材で外装をしたのだろうが。

他にも同様の木橋があるらしいが、ここは木材を地産地消する木の文化が極まっている感じのする、良い町だ。お金もかかっていると思うが、それ以上に知恵や工夫を凝らしている。




雲の上の町、梼原での宿は隈研吾氏による建造物

2020-11-22 17:01:34 | 旅行
四国山地の中にある小さな町、梼原町で泊まった宿は「雲の上のホテル別館マルシェ・ユスハラ」で、1階は地場産品を販売する町の駅。2,3階がホテルになった複合施設で、建築家隈研吾氏のデザインによるものだった。





外壁やファサードには木材や茅が使われ、山に囲まれた景色の中に建物がキチンと調和している。



館内にも柱や内装に杉などの木材が使われて、窓からは自然光が多く差し込むようになっているので、山の中のちょっと開けた場所にいる感じさえする。

2kmくらい離れた場所に雲の上のホテルの本館があり、隣接した温泉施設を使える入浴券をもらったので車を走らせた。シャトル送迎のマイクロバスもある。無論だが、別館の部屋にもバスはある。



地元の人たちが仕事帰りに使っている様子もあった。

夕食はプランによっては本館のレストランにするか、別館の近所にある指定された飲食店にするかのコースがあり、後者を選んだ。朝食は別館で食べたが、夕食を供するだけのキャパシティが別館には無いようだ。



宿から歩いて3分ほどの肉料理の専門店のような店に席がキープしてあり、土佐牛のしゃぶしゃぶコースをいただいた。生ビールを2人で5杯も飲みお腹が一杯になったのでチマキはお持ち帰りにしてもらい、最後のデザートをお断りしたら、生ビール1杯分の勘定を差し引いてくれた。こういう親切は大変嬉しい。もちろん料理の代金は宿の宿泊料金に含まれている。

この宿を見つけたのは宿泊サイトだったが、当初は四万十川沿いの宿でと考えていた。1軒だけ適当なのがあったが、生憎と満室だったので範囲を広げて他をあたっていたらここを見つけた。

口コミには温泉も夕食も離れた場所に移動が必要で不便だと言う声もあったが、逆にそのようなプランも面白いと思った。そして隈研吾氏のデザインと言うのにも興味が湧いてきた。

梼原は宿を予約することで初めて知った町だが、翌朝に町内を歩き回ることで町の魅力がわかってきた。また誰かを誘って訪れたいと思うような町だ。