らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

天下の台所

2015-04-04 | 雑学

満開の桜は昨日の風雨で無残にも散ったのではないでしょうか?
でも今日と明日の休日は、まだお花見が楽しめそうです。
お弁当を作って、家族揃って桜を愛でていただきたいと思います。

ところで、江戸時代に大阪は「天下の台所」と呼ばれていました。
なぜ大阪が「天下の台所」なのでしょうか?

天下の台所」とは、商業の中心地であった大阪を指した異名として使われる用語で、全国の藩が大阪に蔵屋敷などを設け、生活物資の多くが一旦生産地より大阪に集められて、再度全国の消費地に送られたからだと言われています。

当時、家の中で家財道具をはじめ物品が数多く存在した場所は台所だったそうです。
日本を家に例えた場合、多くの物資で溢れかえっていた大阪を捉えて「台所」に相当すると考えらたようで、実際、江戸時代の文献に大坂を「諸国之台所」「日本の賄い所」と評する記述が存在しているということです。

政治の中心が江戸であるのに対して、大坂は経済の中心として発展しました。
これは、1615年の「大坂夏の陣」で荒れ果てた大坂を、その後、幕府が直轄領として復興を進めたことによります。
運河が整備され、諸国の船が絶え間なく行き交う「水の都」として再生した大坂は、各藩の蔵屋敷が立ち並び、米や特産物の取引が行われて日本経済を左右する「天下の台所」と呼ばれるようになったのです。

大坂には瀬戸内海航路を利用して九州、四国はもちろん、北前船によって、日本海経由で北海道、東北の物産などの生活物資の多くが一旦生産地より大坂に集められるようになったと言います。

江戸時代の大阪には三つの大きな市場がありました。
堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場(ざこば)の魚市場です。
なかでも重要なのは堂島の米市場で、ここで行われる取引が、全国の米の値段を左右しました。
ここでは、世界ではじめて「先物取引」が行われていました。
これは、その年の米の出来具合を予測し、実際に収穫される数か月前に、値段を決めて売買していたのです。

米のほかにも、木綿、油などを専門的に扱う問屋が多くでき、「株仲間」を作って大きな利益を上げましたが、こうした経済的な発展を背景に、大阪には独特の文化が生まれたのだそうです。