君は銀河の青い風  八木真由美 岡山

自然に沿って、自分につながって、
心地のよい光とともに。
竪琴ライア 自然農 ライトワーク ヒンメリ

  

宇宙のほんとうのお話し 川口由一さん ご講話より

2015年08月28日 | 自然農川口由一の世界

 

僕が今日まで生きてくる中で、

思索をするのは「言葉」を使ってです。

皆さんもそれぞれに「言葉」を持っておられると思います。

僕の使う言葉に慣れておられる人は、理解しやすいと思いますが、

「宇宙」「自然」「時空」という言葉を使う時、

ひとりひとりにおいて少し曖昧だと思うのです。

それを整理すると話が伝わりやすいと思います。

                               

ところで宇宙という言葉が示しているものは、

宇宙はすなわちいのち、すなわち時空、

あるいは本体、あるいは神、あるいは仏、みな同じところを示しています。

宇宙自然界、生命界、やはり同じところを示していますが、

自然という言葉を使う時は、ちょっと違うのですね。

宇宙の性質を示しているわけです。

 

自然は「おのずからそうなる」ということです。

時空がおりなすその世界は「勝手にそうなる世界なんだ」ということです。

目的がない世界なのです。

それでいて完全絶妙な世界だということです。

 

さらにその性質として、無始無終である、

姿形がない、色もない 音もない 質量もない、

物質をあらわさない世界、姿形なき世界。

そして絶対の世界、対の絶えた世界、

こんなふうにみな同じところをさしていて、それが根底にあります。

そして未だ個々別々に分かれていない一体の世界です。

 

ですから、これを観るのには能力を養わなければね。

本体を観るには、見方が必要になってきます。

曇りなき悟りの眼、真眼ですね。

 

それでいて、一体の世界と同時に個々別々を現すわけですね。

相対界ですけれども、これは現象界、

質量、重さ、色、形を持った物質の世界です。

これもまた事実です。絶対界があっての相対界なのです。

 

 

自然界は、目的がありません。

おのずからしからしむる・・という性質は、

目的があってのいとなみではないということです。

絶対界も相対界もすべて目的のない営み・・

宇宙・時空・本体・神・仏が織りなすいのちの世界です。

 

ところで「時空」と言うときと、

「時間、空間」と言うときは、

示している所のものが違うのです。

 

無始無終のいのちの世界に、

みなさんは100年前後の時空間を与えられていますが、

時空は無始無終ですね。

時間と空間はその中のここからここまでの間ととらえます。

私たちは時の間、100年を与えられています。

流れる本体は見えないのですが、

確かにあるから営めたのですね。

刻々と営まれているのだな、

時は大切なんだ、ということです。

 

ところで 絶対界を「時」と「空」に分けると

相対的な見方になりますが、

本体は分けられない、

ということの認識を深くしたいと思います。

 

空間があるから時を流すことができる

空間があるからいのちのが営める

存在することができるのですね。

 

絶対界では、一つのこととして切り離すことができない営みです。

 

営みは空なるところで、

営みそのものは時の流れですし、

時を流すのは空なるところですから、

分けられない営みです。

 

相対的にみると、わかりやすいのですが、

時の流れの中で 空間でつくられるわけですね。

営みは同時に時空が営んでいるのですね。

 

空なるところで存在して、空なるところでいのちが営めば、

何かが生まれる・・。

 

 

 

3時間の時空を得て勉強ができた、

時空を営んだのです。

3時間の時が流れたというだけでは、片手落ちですね。

別では営めない、絶対界ですからね・・。

 

絶対の存在は、過去現在未来をあらわさず、

止観しなければ観れない絶対界です。

絶対界は生まれることも死ぬこともなく、不生不滅の世界です。

現象界は姿形を伴っていますので、かならず生滅します。

しかし宇宙は死なないのです。

 

宇宙に終わりがあるという場合は、相対界を見ているのですね。

絶対界を見ないと、宇宙は論じられませんね。

不増不減ですから、絶対界の宇宙は膨張することはなくて、

増えたり減ったりするのは相対界のことです。

ゼロは無いのではなく あり続けているということです。

あり続けているというのがゼロ。

 

何もない所で、

時空の営みの中で生死にめぐっています。

 

止観できた場合は、絶対界も相対界も真実として観ることができます。

そして根底は絶対界です。

アインシュタインは絶対界が欠落しているので、真理ではないですね。

現象界に於いてはその通りなのですが、

相対界を見ながら相対界のことを説明していますから、

それはそれで証明できるのですが、宇宙の大元は膨張していませんしね。

 

朝の太陽や西に沈む太陽を見て感動するのは、

相対界の美しさに感動しているわけですが、

それ以上に、確実に時が流れて明日必ず東から太陽が昇る、

そうあらしめている時と空間があるのだな・・というところまで感じて感動する場合は、

絶対界も相対界も同時に見て感動しているわけですね。

さらに確かに見ているということですね。

                                           

ところで、感動する時に私がしっかりと絶対界に立っていないと、

現象に感動してしまうわけです。

私がしっかり私でないと、

その感動しているものに心うばわれると

私のいのちの営みがストップしているわけで、

同化してしまうと生きることからの逃避になります。

それには止観する強さがいります。

 

絶対界に立って相対界を正確に位置づけられない場合、

絵を描くときにゆらがせる、ゴッホなどはそうしますね。

絶対界に立っている人は揺らがせない。

一般的に光と影、遠近法などで描くことがありますが、

それを越えて絶対の境地に立って描く時、揺らがせませんし、すっと書くのですね、

人の顔なども一色(ひといろ)で書きます。

鼻の横に影があるとか、人物の後ろに窓があるから遠近をつけるとか、

それは相対的な見方ですね。

 

目で見えるものと私は、相対している関係であり一体、

同化してはいけないのです。

そこではじめてしっかりと観ることができるのです。

 

相対界は相対するので人間性が成長していないと競争するとか、

戦うとかね、そうなりますが・・・。

宇宙における私はどうなっているのか、

それを知ることが大切です。

 

何故そうなっているのかと言えば、

そうなっているから、そうなっているということです。

絶対界は死ぬことが無く、私は死ぬ、

そういう場合は相対的に見ているわけですが、

絶対界で観ると、わたしと宇宙は相対しておらず、

私は宇宙、私は時空、となります。

 

時空を相対的に観ると、

時は陽、空は陰。

宇宙に星が生まれるのは、

陰陽が一つになって生むのです。

それでいて、営みにおいては陰陽の別なくです。

宇宙は何もないところで、その営みをすることになって 

たとえば電気が生じる、磁力が生じ、音が生まれるとか・・。

 

果てのない宇宙を 時空でとらえると、

陰と陽がいとなみをしていますので、物質が生まれる・・と、

そう捉えたらいいのだと思います。

宇宙の子である私たちも、

宇宙と同様の営みをするわけです。

 

          
                                       ・・・・・ 自然農実践家・指導者 川口由一さんのご講話より 抜粋 ・・・・・

                                                             

 

 わたしたちは どのような世界に生かされているのか・・

また みずから生きているのか・・・・

そのいのちの舞台を明確にすることは

今の地球人にとって何よりも大切なことだと感じています。 

私たちを生んだ大いなる親・・・

絶対の存在 宇宙のことを・・。

まゆみ

 

 

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