●北方少数民族 戦時徴用実態調査へ サハリンで今秋にも 政府に補償求め 2007年6月6日 東京新聞
太平洋戦争中に旧樺太(現ロシア・サハリン)で旧日本軍に徴用されながら日本政府が軍人恩給などを認めないウィルタやニブヒなど北方少数民族について、ウィルタ協会(北海道網走市)の田中了会長(77)は、今秋にもサハリンを訪問して本格的な現地調査に乗り出す方針を明らかにした。徴用の事実や死亡状況などを調べ、日本政府に戦後補償を求める考えだ。
徴用などを示す資料がないことが補償実現の大きな壁だったが、ロシア側が保管していた「名簿」が二〇〇〇年に確認され、補償を求める動きにはずみがついた。旧日本軍に徴用された北方少数民族のうち、戦後に旧ソ連の軍事法廷でスパイ罪などに問われ有罪判決を受けた計四十人の名簿が同年、サハリン州政府に保管されていることが判明したのだ。シベリア送りにされた四十人のうち、少なくとも二十三人は同地で死亡していた。
さらに、田中会長らが三十年来進めてきた生存者や遺族らからの聞き取りで、名簿の四十人のほかに少なくとも三十三人の存在も確実視されているという。ロシア側は「(四十人のほかに)資料は残っていない」としており、田中会長らは全容解明のため、現地調査を決めた。
三十三人のうち十二人は死亡日時や場所も不明で、田中会長は「人の生死にかかわる重大事だ。一人でも二人でも、詳しい状況を明らかにしたい」と話している。
日本軍に徴用された北方民族について、日本政府は「四十人の名簿はロシア側のもので、日本側に従軍の記録はない」とし、補償の対象になっていない。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2007060602021990.html
●台湾の李前総統、靖国神社を参拝 「個人的行為」と説明 朝日新聞 2007年06月07日
靖国神社への参拝を終えた台湾の李登輝前総統=7日午前
来日している台湾の李登輝前総統(84)は7日午前10時ごろ、東京・九段の靖国神社に参拝した。関係者の話によると、本殿に上がり黙祷(もくとう)したという。李氏の兄は第2次大戦中、日本が植民地統治していた台湾から日本軍兵士として出征、戦死して、靖国神社にまつられている。李氏は「62年前に別れた兄に頭を下げる個人的行為だ」と説明した。
靖国神社には、李氏の実兄、故李登欽氏が「岩里武則」の日本名でまつられている。登欽氏は海軍兵士としてフィリピンで戦死したとされる。参拝時間は約40分。参拝形式について、神社側は「個人の参拝なので説明は控えたい」という。
李氏はキリスト教徒。神社訪問直前、記者団に「政治的、歴史的(行為)と考えないでほしい」「父が兄の戦死を信じていなかったため、実家には位牌(いはい)もなく、(追悼も)何もしてこなかった」と語った。
李氏は副総統時代の85年に東京を訪問。今回の来日に際して「22年前は(兄がまつられていることを)知らなかった。今回行かないのは人情として忍びない」と述べていた。中国の反応については「問題ない」との認識を示していた。
「台湾は中国の一部」とする中国は、「日本植民地経験を持つ台湾は中国とは違う」という李氏の主張を「独立派の証し」と警戒。総統退任後の来日自体も「台湾独立をにらんだ動き」と一貫して批判してきた。
李氏は5月30日に「私人としての学術文化交流」を目的として来日。6日まで「日本文化を深く知るため」、東北地方の「奥の細道」ゆかりの地を回っていた。総統退任後は01年4月と04年12月に来日している。
http://www.asahi.com/politics/update/0607/TKY200706070097.html
【私のコメント】
兄弟揃って旧日本軍に兵士として参加し、兄が戦死しているとされる台湾の李登輝前総統が6月7日午前10時頃に靖国神社を参拝した。この事件は、第二次大戦時に日本側の支配下にあり繁栄していた台湾+上海と中国のその他地域の間の対立を煽り、それによって中国国内の文明の対立線を可視化させる可能性がある。中国政府や台湾政府がこの問題をどの様に国内で報道し、それによって各地域の国民がどの様に反応するかが非常に注目される。
同様に私が非常に注目するのは、6月6日の東京新聞で報道された、旧樺太で日本軍に徴用されたウィルタやニブヒなど北方少数民族への戦後補償問題である。
日本とロシアは1956年の日ソ共同宣言により国交を回復したが、その一方で平和条約は締結されず国境線は未確定のままであり、第二次大戦の戦争状態がポツダム宣言受諾により停戦状態になった状況が依然として現在まで継続しているとも言える。
欧州やロシア、北米を中心とする先進国は最近になって人口増加が緩慢化ないし停止し、人口激増中の途上国からの不法移民の脅威に脅かされるという守りの体制に入りつつある。この状況で先進国が自己を防衛するための最大の根拠は、欧州について言えば、「不法移民は先住民族である欧州民族に被害を与えており、それ故に追放されねばならない」というものになるだろうと私は想像している。そして、欧州人が先住権を主張するときに最も問題になるのがロシアや新世界での欧州系移民による先住民族迫害の歴史であり、一歩間違えれば新大陸やシベリアから欧州系移民が全員追放されるべきという主張を生み出しかねないのだ。それを乗り越えるためには、新大陸やシベリアの欧州系移民は先住民族を尊重し、過去の迫害を真摯に反省して償いを行う必要が出てくるだろう。
このような観点から見たとき、旧樺太出身で現在日本に居住する北方少数民族の戦時徴用について日本政府が補償を行うことは、彼らが日本国民であることの根拠ともなり、樺太(特に南部)についての日本の領有権の主張の余地が出てくると想像される。日本が樺太南部について領有権を主張するかどうかという政策決定には先住民族であるウィルタやニブヒなどの意見が反映されるべきであり、彼らが徴用後にシベリア抑留などの迫害を受けている事を考えれば、日本もまた先住民族に対する迫害を真摯に反省すべきであり、ウィルタやニブヒ、アイヌなどに属さない一般の日本人が軽々しく「南樺太はいらない」などと主張することは許されないのだ。
その一方で、ウィルタやニブヒなどの少数民族は旧ソ連領の北樺太にも居住しており、その子孫が現在ロシアに居住している。樺太の先住民族が同一民族でありながら日露両国に分断されて居住している訳であり、日露間の来るべき平和条約で扱われるであろう樺太の領有権についてはそれが反映されねばならない。
なお、北海道の先住民族であり南樺太や千島にも多数居住していたアイヌ人はその子孫のほとんどが日本に居住しており、これは千島列島や南樺太の領有権が日本に属することの根拠になりうるものである。日露間の国境線確定に際してはアイヌ民族の同意を得ることが必要不可欠であろう。
【6月16日追記】
●アイヌ民族の自然観 知事がサミットで発信 各国首脳夫人らに 北海道新聞 2007年06月15日 07:24
高橋はるみ知事は十四日、地球温暖化を主要テーマとする来年七月の北海道洞爺湖サミットの際、各国首脳の夫人らを胆振管内白老町のアイヌ民族博物館(「しらおいポロトコタン」)に招くなどして、アイヌ民族の自然観を積極的に発信する考えを明らかにした。また、道として、国がアイヌ民族を「先住民族」と認知するよう求めていく意向も示した。
高橋知事はアイヌ民族について、「その文化は、北海道が国内の他地域と世界に誇りうるものだ。アイヌの方々の、自然と共生する思想が道民の中に根付いて、自然環境を守ってこれた。そうしたことをサミットでぜひ発信したい」と述べた。
担当の環境生活部がすでにプログラムを作成しているという。
道立アイヌ総合センター(札幌)によると、アイヌ民族は、自然現象や動植物などすべてに魂が宿り、神の国から使命を担い、姿かたちを変えて人間の世界に現れると考え、自然の一部として生きる知恵を受け継いできた。
国による先住民族の認知をめぐっては、「北海道としては、時間がかかるとしても、求めていくという基本スタンスを貫いていく必要がある」と語り、政府の理解を得るための「環境整備」に努める姿勢を強調するなどした。
知事は「知床」の世界自然遺産登録が決まった二○○五年七月のユネスコ世界遺産委員会でのあいさつで、「北海道の先住民族であるアイヌの人々」と表現している。
政府はアイヌ民族の先住性と民族としての独自性は認めながら、「国際的に確立した定義がない」との理由で、先住民族と扱うことを避けている。政治的自決や土地などの権利が浮上するのを懸念しているためだ。
道ウタリ協会の加藤忠理事長は高橋知事の発言を受けて、「まず北海道から、アイヌは先住民族であるとアピールする運動を展開したい」と話している。
【コメント追記】
私は、途上国からの移民増加に悩む欧米先進諸国が近い将来に「途上国からの移民は侵略者であり、先住民族である欧米人を迫害している」との理由で途上国からの移民を迫害・追放する戦略に転じるのではないかと想像している。暴動や犯罪の温床である移民に対し挑発的な姿勢をとる一方で自らも移民二世である(途上国出身ではない)サルコジ仏大統領が5月に当選したこと、あるいは6月13日にオーストリア系移民一世のシュワルツネッガー米カリフォルニア州知事が中南米系移民に対し英語習得の必要性を強調、あえて苦言を呈する目的で「スペイン語のテレビを消すべきだ」と発言したことはその先駆けである様にも思える。
だとすれば、先進国内部で過去に先住民族が迫害されてきたことにはより大きな反省が実行されるはずだ。北海道知事の今回の発言はその先駆けであり、近い将来に日本政府もアイヌ=先住民族と公認して大々的な保護政策を打ち出すと想像する。私個人の希望としては、アイヌの利益追求、あるいは日本の国益追求だけでなく、北東アジア~シベリアのアジア系少数民族全体の利益が追求されることを希望する。そして、「シベリアから侵略者の子孫であるロシア人が追放されてしまえば巨大な力の空白が生まれ、膨大な数の中国人が流入して木材を伐採し農地に変えることで広大なシベリアの森林が黄土高原のような半砂漠地帯に変化する」という悪夢を避けるためにも、侵略者の子孫であるロシア人が現在と同様にシベリアの住民として留まることが許容されることを希望するものである。
太平洋戦争中に旧樺太(現ロシア・サハリン)で旧日本軍に徴用されながら日本政府が軍人恩給などを認めないウィルタやニブヒなど北方少数民族について、ウィルタ協会(北海道網走市)の田中了会長(77)は、今秋にもサハリンを訪問して本格的な現地調査に乗り出す方針を明らかにした。徴用の事実や死亡状況などを調べ、日本政府に戦後補償を求める考えだ。
徴用などを示す資料がないことが補償実現の大きな壁だったが、ロシア側が保管していた「名簿」が二〇〇〇年に確認され、補償を求める動きにはずみがついた。旧日本軍に徴用された北方少数民族のうち、戦後に旧ソ連の軍事法廷でスパイ罪などに問われ有罪判決を受けた計四十人の名簿が同年、サハリン州政府に保管されていることが判明したのだ。シベリア送りにされた四十人のうち、少なくとも二十三人は同地で死亡していた。
さらに、田中会長らが三十年来進めてきた生存者や遺族らからの聞き取りで、名簿の四十人のほかに少なくとも三十三人の存在も確実視されているという。ロシア側は「(四十人のほかに)資料は残っていない」としており、田中会長らは全容解明のため、現地調査を決めた。
三十三人のうち十二人は死亡日時や場所も不明で、田中会長は「人の生死にかかわる重大事だ。一人でも二人でも、詳しい状況を明らかにしたい」と話している。
日本軍に徴用された北方民族について、日本政府は「四十人の名簿はロシア側のもので、日本側に従軍の記録はない」とし、補償の対象になっていない。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2007060602021990.html
●台湾の李前総統、靖国神社を参拝 「個人的行為」と説明 朝日新聞 2007年06月07日
靖国神社への参拝を終えた台湾の李登輝前総統=7日午前
来日している台湾の李登輝前総統(84)は7日午前10時ごろ、東京・九段の靖国神社に参拝した。関係者の話によると、本殿に上がり黙祷(もくとう)したという。李氏の兄は第2次大戦中、日本が植民地統治していた台湾から日本軍兵士として出征、戦死して、靖国神社にまつられている。李氏は「62年前に別れた兄に頭を下げる個人的行為だ」と説明した。
靖国神社には、李氏の実兄、故李登欽氏が「岩里武則」の日本名でまつられている。登欽氏は海軍兵士としてフィリピンで戦死したとされる。参拝時間は約40分。参拝形式について、神社側は「個人の参拝なので説明は控えたい」という。
李氏はキリスト教徒。神社訪問直前、記者団に「政治的、歴史的(行為)と考えないでほしい」「父が兄の戦死を信じていなかったため、実家には位牌(いはい)もなく、(追悼も)何もしてこなかった」と語った。
李氏は副総統時代の85年に東京を訪問。今回の来日に際して「22年前は(兄がまつられていることを)知らなかった。今回行かないのは人情として忍びない」と述べていた。中国の反応については「問題ない」との認識を示していた。
「台湾は中国の一部」とする中国は、「日本植民地経験を持つ台湾は中国とは違う」という李氏の主張を「独立派の証し」と警戒。総統退任後の来日自体も「台湾独立をにらんだ動き」と一貫して批判してきた。
李氏は5月30日に「私人としての学術文化交流」を目的として来日。6日まで「日本文化を深く知るため」、東北地方の「奥の細道」ゆかりの地を回っていた。総統退任後は01年4月と04年12月に来日している。
http://www.asahi.com/politics/update/0607/TKY200706070097.html
【私のコメント】
兄弟揃って旧日本軍に兵士として参加し、兄が戦死しているとされる台湾の李登輝前総統が6月7日午前10時頃に靖国神社を参拝した。この事件は、第二次大戦時に日本側の支配下にあり繁栄していた台湾+上海と中国のその他地域の間の対立を煽り、それによって中国国内の文明の対立線を可視化させる可能性がある。中国政府や台湾政府がこの問題をどの様に国内で報道し、それによって各地域の国民がどの様に反応するかが非常に注目される。
同様に私が非常に注目するのは、6月6日の東京新聞で報道された、旧樺太で日本軍に徴用されたウィルタやニブヒなど北方少数民族への戦後補償問題である。
日本とロシアは1956年の日ソ共同宣言により国交を回復したが、その一方で平和条約は締結されず国境線は未確定のままであり、第二次大戦の戦争状態がポツダム宣言受諾により停戦状態になった状況が依然として現在まで継続しているとも言える。
欧州やロシア、北米を中心とする先進国は最近になって人口増加が緩慢化ないし停止し、人口激増中の途上国からの不法移民の脅威に脅かされるという守りの体制に入りつつある。この状況で先進国が自己を防衛するための最大の根拠は、欧州について言えば、「不法移民は先住民族である欧州民族に被害を与えており、それ故に追放されねばならない」というものになるだろうと私は想像している。そして、欧州人が先住権を主張するときに最も問題になるのがロシアや新世界での欧州系移民による先住民族迫害の歴史であり、一歩間違えれば新大陸やシベリアから欧州系移民が全員追放されるべきという主張を生み出しかねないのだ。それを乗り越えるためには、新大陸やシベリアの欧州系移民は先住民族を尊重し、過去の迫害を真摯に反省して償いを行う必要が出てくるだろう。
このような観点から見たとき、旧樺太出身で現在日本に居住する北方少数民族の戦時徴用について日本政府が補償を行うことは、彼らが日本国民であることの根拠ともなり、樺太(特に南部)についての日本の領有権の主張の余地が出てくると想像される。日本が樺太南部について領有権を主張するかどうかという政策決定には先住民族であるウィルタやニブヒなどの意見が反映されるべきであり、彼らが徴用後にシベリア抑留などの迫害を受けている事を考えれば、日本もまた先住民族に対する迫害を真摯に反省すべきであり、ウィルタやニブヒ、アイヌなどに属さない一般の日本人が軽々しく「南樺太はいらない」などと主張することは許されないのだ。
その一方で、ウィルタやニブヒなどの少数民族は旧ソ連領の北樺太にも居住しており、その子孫が現在ロシアに居住している。樺太の先住民族が同一民族でありながら日露両国に分断されて居住している訳であり、日露間の来るべき平和条約で扱われるであろう樺太の領有権についてはそれが反映されねばならない。
なお、北海道の先住民族であり南樺太や千島にも多数居住していたアイヌ人はその子孫のほとんどが日本に居住しており、これは千島列島や南樺太の領有権が日本に属することの根拠になりうるものである。日露間の国境線確定に際してはアイヌ民族の同意を得ることが必要不可欠であろう。
【6月16日追記】
●アイヌ民族の自然観 知事がサミットで発信 各国首脳夫人らに 北海道新聞 2007年06月15日 07:24
高橋はるみ知事は十四日、地球温暖化を主要テーマとする来年七月の北海道洞爺湖サミットの際、各国首脳の夫人らを胆振管内白老町のアイヌ民族博物館(「しらおいポロトコタン」)に招くなどして、アイヌ民族の自然観を積極的に発信する考えを明らかにした。また、道として、国がアイヌ民族を「先住民族」と認知するよう求めていく意向も示した。
高橋知事はアイヌ民族について、「その文化は、北海道が国内の他地域と世界に誇りうるものだ。アイヌの方々の、自然と共生する思想が道民の中に根付いて、自然環境を守ってこれた。そうしたことをサミットでぜひ発信したい」と述べた。
担当の環境生活部がすでにプログラムを作成しているという。
道立アイヌ総合センター(札幌)によると、アイヌ民族は、自然現象や動植物などすべてに魂が宿り、神の国から使命を担い、姿かたちを変えて人間の世界に現れると考え、自然の一部として生きる知恵を受け継いできた。
国による先住民族の認知をめぐっては、「北海道としては、時間がかかるとしても、求めていくという基本スタンスを貫いていく必要がある」と語り、政府の理解を得るための「環境整備」に努める姿勢を強調するなどした。
知事は「知床」の世界自然遺産登録が決まった二○○五年七月のユネスコ世界遺産委員会でのあいさつで、「北海道の先住民族であるアイヌの人々」と表現している。
政府はアイヌ民族の先住性と民族としての独自性は認めながら、「国際的に確立した定義がない」との理由で、先住民族と扱うことを避けている。政治的自決や土地などの権利が浮上するのを懸念しているためだ。
道ウタリ協会の加藤忠理事長は高橋知事の発言を受けて、「まず北海道から、アイヌは先住民族であるとアピールする運動を展開したい」と話している。
【コメント追記】
私は、途上国からの移民増加に悩む欧米先進諸国が近い将来に「途上国からの移民は侵略者であり、先住民族である欧米人を迫害している」との理由で途上国からの移民を迫害・追放する戦略に転じるのではないかと想像している。暴動や犯罪の温床である移民に対し挑発的な姿勢をとる一方で自らも移民二世である(途上国出身ではない)サルコジ仏大統領が5月に当選したこと、あるいは6月13日にオーストリア系移民一世のシュワルツネッガー米カリフォルニア州知事が中南米系移民に対し英語習得の必要性を強調、あえて苦言を呈する目的で「スペイン語のテレビを消すべきだ」と発言したことはその先駆けである様にも思える。
だとすれば、先進国内部で過去に先住民族が迫害されてきたことにはより大きな反省が実行されるはずだ。北海道知事の今回の発言はその先駆けであり、近い将来に日本政府もアイヌ=先住民族と公認して大々的な保護政策を打ち出すと想像する。私個人の希望としては、アイヌの利益追求、あるいは日本の国益追求だけでなく、北東アジア~シベリアのアジア系少数民族全体の利益が追求されることを希望する。そして、「シベリアから侵略者の子孫であるロシア人が追放されてしまえば巨大な力の空白が生まれ、膨大な数の中国人が流入して木材を伐採し農地に変えることで広大なシベリアの森林が黄土高原のような半砂漠地帯に変化する」という悪夢を避けるためにも、侵略者の子孫であるロシア人が現在と同様にシベリアの住民として留まることが許容されることを希望するものである。
樺太(サハリン):報道されない驚愕の実態1 of 3
http://www.youtube.com/watch?v=sfDbeM3dlug
樺太(サハリン):報道されない驚愕の実態2 of 3
http://www.youtube.com/watch?v=WOhAhM_RepE
樺太(サハリン):報道されない驚愕の実態3 of 3
http://www.youtube.com/watch?v=kwWUUCS3hdo
毎日新聞 2012年10月20日 地方版
◇本当の故郷はどこに
稚内市から日本海側を南に約40キロ、豊富町稚咲内(わかさかない)に、戦後サハリンから移住して来た樺太アイヌの女性がひっそり暮らしていた。「60年たってここが故郷になってしまいました。でも本当の故郷は(サハリン東海岸の)白浜(ソビエツコエ近郊)です」。津山愛子さん(79)の脳裏には17歳まで過ごした故郷の浜での豊かな暮らしが今もよみがえる。
樺太にソ連軍が侵攻したのは、終戦直前の1945年8月8日。津山さんの村にもソ連人がやって来た。家は大きな網元だったが、ソ連軍侵攻後、魚の販路を失い、一転してどん底の暮らしを味わった。
2カ月後、出征していた父からはがきが届いた。「満州から戻って余市にいる」。一家はサハリンを離れる決心をし、49年11月、引き揚げ船で函館に着いた。余市、釧路、足寄と道内を転々とした。
村全体が親類同然だった白浜とは一転し、「見る人は皆他人」。食べるには苦労しなかった白浜での暮らしを思い出しては、「引き揚げて来なければよかった」とため息をつく母の姿が津山さんの目に焼き付いている。
* *
樺太アイヌは日露の国境線が動くたびに流浪を余儀なくされた。「雑居の地」だった1875年、日露間に樺太千島交換条約が結ばれ、樺太アイヌは移住するか、とどまるかの二者択一を迫られた。約3分の1の841人が対岸の宗谷地方に移った。さらに翌76年、開拓使が札幌近郊の対雁(ついしかり)(現在の江別市)に強制移住させた。
開拓使は対雁で農業をやらせようとしたが、もともと漁業が生業のアイヌに農業は向かなかった。男は石狩川に出稼ぎ漁に出た。10年後、天然痘とコレラが集落を襲い、半数が命を落とした。
「帝国臣民として強制的に日本人に同化させられ、それまでのアイヌの風習、言語は一切禁止になりました。なのに、1932(昭和7)年まで無国籍でした」。樺太アイヌの血を引くアイヌ文化アドバイザーの楢木貴美子・北海道アイヌ協会札幌支部事務次長(64)=札幌市北区=は、故郷を追われた民族の歴史を語る。
そんな彼らに、故郷へ戻るチャンスが訪れた。日露戦争後に結ばれたポーツマス条約で樺太の南半分が日本に割譲されたのである。生き残った樺太アイヌの大半は故郷・樺太を目指した。だが、同胞は冷たかった。「お前らは30年前に故郷を捨てたではないか」
国境の変遷によって分断された民族の間に築かれた心の壁。再び北海道に戻る人もいれば、肩身の狭い思いをしながら樺太にとどまる人もいた。第二次大戦で樺太がソ連軍に占領されると、彼らは再び故郷を追われた。
楢木さんの母も戦後、青森県に移住して楢木さんを産み、道内外を転々とした。
* *
ラッコを追って千島列島を転々としていた北千島アイヌも似たような運命をたどった。樺太千島交換条約の9年後、開拓使は北千島アイヌ97人を「政府の給助が行き届かない」という理由で色丹島などに集め、農業と沿岸漁業をさせたが、うまくいかず、人口も激減した。
彼らも、北方領土がソ連軍に占領されると色丹島から追い出された。多くは北海道に移り住んだが、北千島アイヌの出自を名乗る人はいない。【本間浩昭】
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■ことば
◇樺太と千島の先住民族
サハリンにはかつて南部に樺太アイヌ(エンチウ)、中部以北の海岸線にニブフ(ギリヤーク)、内陸部にウィルタ(オロッコ)が暮らしていた。日露国境線の変更に伴い、樺太アイヌは繰り返し移住を余儀なくされたが、残りの2民族は大半がサハリンにとどまった。一方、千島列島の中部千島に暮らしていたコディアック諸島出身のアリュートは、樺太千島交換条約でまずカムチャツカ半島に移住させられ、さらに北方のコマンドルスキー諸島に移った。一方、北千島アイヌは、同条約から9年後、国策で大半が色丹島に強制移住となり、第二次大戦後に北海道に再移住した。