●【脱ハウツー本!本当の人生戦略】戦略の階層 上位が下位を決定する原則 - 政治・社会 - ZAKZAK 2012.11.13 奥山真司(おくやま・まさし)
われわれ日本人の多くは、いままで「戦略」というものを、学校や職場でまともに習ったことがない。習っていないわけだから、分からなくても当然である。
「いや、会社で経営戦略を習ったことがある」という方もいるだろう。しかし、そもそも「戦略とはどういうものか」という本質的なことは絶対に習わないので、ある程度まで理解できても、根本的なところが身に付くはずがない。
では日本人は戦略を体得できないのか? 私は「絶対にできる」と考えている。だがそのためには1つのヒントが必要だ。それが「戦略をタテに考える」ということだ。
戦略は、上下の「階層」に分かれている。
例えば国家が戦争をするとき、まず必要なのは、優秀な兵隊や戦車・戦闘機を支える「技術」である。これらは最も具体的なものだが、使いこなせないと意味がない。そのために必要になるのが「戦術」で、さらに、いくつかの戦術を使って大きなプロジェクトを達成するために「作戦」が必要だ。
ところが作戦だけは戦争に勝てない。勝つためには作戦をいくつか束ねて軍事的に相手を圧倒するための「軍事戦略」が必要になる。その上で、国家の資源を戦争で活用するための「大戦略」が必要になる。
大戦略を準備するには軍人だけでなく政治家のバックアップが必要で、政治家は国の「政策」を決定する。そして政策の最終的な方針は、その国のリーダーが持つ「自分の国は何者で、どのようなビジョンがあるか」といった「世界観」に決定されるのだ。
つまり戦略というのは、下から順に技術、戦術、作戦、軍事戦略、大戦略、政策、世界観とレベル分けされる。しかも「上位のものが下位のものを決定する」という原則があるのだ。
個人にこの階層を当てはめると、語学や資格の習得などは最底辺の「技術」レベルになる。そのため、やみくもに技術を得ようとしている人は、さらに上の階層から技術習得の意味を位置付けている人には勝てない。
また、日本が国家ぐるみで提唱している「ものづくり」も、実は「技術」レベルでしかない。これでは上から戦略を組み立てている国には勝てるわけがない。
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20121113/plt1211130709000-n1.htm
■■ Japan On the Globe(922) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■
地球史探訪: アメリカの国体、日本の国体
「自由を求める人びとの国」という理想が、アメリカの歴史を作ってきた。それに対する日本の理想は何か?
■転送歓迎■ H27.10.1
■7.「一つ屋根の下の大家族」という国体
近代世界におけるアメリカを見ると、古代の東アジアにおける日本列島も似たような存在ではなかったのか、と思えてくる。古代の日本列島には、北から西から南から様々な民族が流れ込んできた。戦乱の激しかった大陸や朝鮮半島から逃れてきた人びとも多い。
古代の日本は多民族国家であったと言っても良い。それを一つの国家にまとめたのが、皇室を中心とする大和朝廷であった。初代・神武天皇は、大和の地で都を造る際に、次のような詔(みことのり)を出している。
__________
人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根(一宇)の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。[c]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
アメリカの国体が「自由を求める人びとの国」であるとすれば、日本の国体は「一つ屋根の下の大家族」である。この理想を抱き、皇室のもとで、立派な家庭を築いていこう、という志を抱いた多くの先人たちの努力がわが国を形成してきた。[d,e]
先人の努力の跡を偲び、その志を現代のグローバル社会の中でどのような形で継承していくかを考えることが、国際派日本人の努めである。
(文責:伊勢雅臣)
http://archives.mag2.com/0000000699/index.html
●八紘一宇 - Wikipedia
八紘一宇(はっこういちう)とは、古代中国でしばしば用いられた慣用句を元とし、『日本書紀』巻第三神武天皇の条に書かれた「掩八紘而爲宇」の文言を戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して使用し、縮約した語。八紘為宇ともいう。大意は「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87
●皇室のきょうかしょ - 少年タケシ
vol.8 天皇の御名(おんな)
天皇と皇族の名前のことを、正式には、「御名」(おんな)もしくは「諱」(いみな)といいます。今上天皇は御名を「明仁」(あきひと)と称されます。
しかし、天皇の御名を直接口にすることや、文字にして書き記すことは、畏れ多いことであり、歴史的に憚(はばか)られてきました。ですから、民間人だけでなく皇族ですら、天皇を直接御名で呼ぶことはありません。
このことは、われわれの日常生活でも同じことです。目下の人を名前で呼ぶことは許されますが、目上の人を名前で呼ぶことは失礼なことなのです。
ですから、皇子が父である天皇から、御名で呼ばれることはあっても、皇子が天皇を御名で呼ぶことは許されないのです。
しかも、天皇を「天皇」と呼ぶことすら畏れ多く、憚られます。実際は敬称の「陛下」などが用いられることは、既に第四回「天皇の敬称」で説明したとおりです。
皇族が御名を賜る時期は、平安中期から江戸期までは親王宣下(しんのうせんげ)のときに、また現在では、皇族は降誕から七日目の「命名の儀」(めいめいのぎ)で、天皇から御名を賜ることになっています。(「親王宣下」とは、皇族の子が一定の年齢に達し、天皇から親王として認められる儀式のこと。親王宣下を済ませると正式に皇族の一員となる。現在は皇族の子は生まれながらにして皇族になるので、親王宣下は行われていない。)
歴代天皇の御名の表を見ると、ほとんどが「○仁」であることがわかるでしょう。遡ってみると、昭和天皇が「裕仁」(ひろひと)、大正天皇が「嘉仁」(よしひと)、また明治天皇が「睦仁」(むつひと)、それ以前もずっと御名に「仁」が付きます。
歴代天皇で一番初めに御名に「仁」が付くのは第56代清和(せいわ)天皇の「惟仁」(これひと)、続いて第60代醍醐(だいご)天皇の「敦仁」(あつぎみ)、そして第66代一条天皇の「懐仁」(やすひと)、そして第70代の後冷泉(ごれいぜい)天皇の「親仁」(ちかひと)以来現在まで、八例の例外(女帝は含まない)を除いて、全ての天皇の御名に「仁」が付いています。
御名に「仁」が付くのは、約千年の歴史があるのです。
では「仁」にはどのような意味があるのでしょうか?
『大漢和辞典』(大修館書店、日本最大の漢和辞典、全十三巻)によると「仁」の意味として第一に「いつくしむ」、「親しむ」、「愛する」が挙げられていて、その他に「諸徳の総称」、「有徳の人」の意味もあるようです。「仁」の字は、慈愛(じあい)の徳を示し、善行(ぜんこう)の総称であると考えられています。(「慈愛」とは、いくつしみの気持ち。「善行」とは、良いおこないのこと。)
「仁」の字は、皇室が本質的に守りつづけてきたテーマを見事にいい表していて、天皇が称するについて不足のない立派な字だといえるでしょう。
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu08.html
●【謎】皇族の名前にはなぜ「仁」「子」が必ず付くのか?その意味 | 皇室の話題
http://皇室.net/namae-113
●仁徳天皇 - Wikipedia
仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。
人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し[1]、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
●儒教 - Wikipedia
儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。
教義[編集]
儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。
仁:人を思い遣る事。孔子以前には、「佞る事」という意味では使われていた。[要出典]白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者の頼もしさをいう語」。「説文解字」は「親」に通じると述べている。「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。孔子は仁を最高の徳目としていた。
義:利欲に囚われず、すべきことをすること。
礼:仁を具体的な行動として、表したもの。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。
智:学問に励む
信:言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99
●和諧社会 - Wikipedia
和諧社会(わかいしゃかい、正式名称: 社会主義和諧社会、簡体字:和谐社会、正式名称: 社会主义和谐社会、拼音: héxié shéhui)とは、矛盾のない調和のとれた社会のことを指す中華人民共和国のスローガンである)[1]。2004年中国共産党第16回中央委員会第4回全体会議(第16期4中全会)で提起され、2006年の第16期6中全会では、社会主義和諧社会建設に関する討議がなされた[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%AB%A7%E7%A4%BE%E4%BC%9A
●《故事・ことわざ・四字熟語》 辞典・「わ」
和をもって貴しと為す
(わをもってたっとしとなす)
仲良く和合することが最も大切だということ。『礼記・儒行』には「礼は之これ和を以もって貴しと為なし、忠信を之れ美とし、優游ゆうゆうに之れ法のっとる」とあり、『論語・学而』には「礼の用は和を貴しと為す。先王の道は斯これを美と為す」とあるように、礼の根本は調和にあるとされた。聖徳太子の「十七条憲法」の第一条にも「和を以て貴しと為す。忤さからう無きを宗むねと為す」とある。
http://thu.sakura.ne.jp/others/proverb/data/wa.htm
●Amazon.co.jp: 和をもって日本となす〈上〉 (角川文庫): ロバート ホワイティング, Robert Whiting, 玉木 正之: 本
野球を通して日本人の価値観を再確認する 投稿者 カスタマー 投稿日 2001/5/1 形式: 文庫
身近な野球という題材とガイジン選手という名ガイド役を通じて、日本についての理解が新たになる。ベースボールはplay baseballで、野球はwork baseballであるという一文は、言い得て妙である。つまり、ベースボールはフィールド内が全てであり、野球は球場に入るまでがほとんど全てである。日本のプロ野球選手が長時間練習することはそれによって安心(精神的な到達感)を得るためで、“サラリーマン”にも共通するといえる。我々は、高校野球が精神修養の場であることは理解しているが、その流れが実はプロ野球にも脈々と流れていることに気づかされる。キャンプでの千本ノック、特に長嶋監督直々のノックを受けるところに、万人が一つの精神的な高揚を感じるところに、精神修養である野球が息づいていることを改めて実感する。プロの技を見ること以上に、技を極めるためにどのような修行を積んでいるかを知り、納得する、これが日本人のプロ野球の見方である。ここに、日本人の人生観ともいうべきものが凝縮されており、ガイジン選手が理解に苦しむ根源的な相違点であることが理解できる。この日本人の特質を日本人自身が理解することが、ビジネスがグローバル化する現在、必要不可欠といえる。
http://www.amazon.co.jp/dp/4042471013
●日本武道協議会|武道振興事業|日本武道館
目的:国内を統括する各武道連盟との連絡融和を図り、かつ柔道・剣道・弓道・相撲・空手道・合気道・少林寺拳法・なぎなた及び銃剣道を奨励して、その精神を高揚すると共に健全な国民の育成に努め、世界の平和と福祉に貢献する。
http://www.nipponbudokan.or.jp/shinkoujigyou/kankeidantai_01.html
●全柔連について | 全日本柔道連盟
変えてはならない部分は、嘉納治五郎師範が終生取り組まれた、柔道を通じた「人づくり」です。礼に始まり礼に終わる毎日の柔道の稽古を通じて、逞しい体力と精神力、そして知性と品性を兼ね備え、競技を離れた長い人生においても心豊かな生活を送れる青年を社会に送り出すという柔道の「人づくり」の原点に立ち返り、人間教育をいかに具体化していくかが我々に課された課題であります。
http://www.judo.or.jp/aboutus
●柔道の目的・技の理念 | 講道館
嘉納師範は、一般に言いならわされていた柔術を柔道として単に技を修得するだけでなく、天下の大道を学ぶものとし、その教育場を「講道館」と呼んだのです。
講道という語には、道を学び、明らかにし、実践するという意味があり、講道館柔道と名付けて柔道の本質を明らかにしているところに、嘉納師範が、いかに道を重んじ、その修行を一生の大事としていたかを知ることができます。
嘉納師範は、柔道修行の目的は、攻撃・防御の練習によって身体を鍛練して強健にし、精神の修養につとめて人格の完成をはかり、社会に貢献することであると示されています。
http://kodokanjudoinstitute.org/doctrine/purpose/
●中朝事実 - Wikipedia
中朝事実(ちゅうちょうじじつ)は、山鹿素行が記した尊王思想の歴史書。寛文9年(1669年)に著わした。全2巻。付録1巻。山鹿素行は儒学と軍学の大家である。
当時の日本では儒学が流行し、中国の物は何でも優れ日本の物は劣る、という中国かぶれの風潮があった。また、儒教的世界観では、中国の帝国が周辺の野蛮人の国よりも勢力も強く、倫理的にも優れるという中華思想が根本にあった。素行はこの書で、この中華思想に反論した。当時中国は漢民族の明朝が滅んで、万里の長城の北の野蛮人の満州族が皇帝の清朝となっていた。また歴史を見ると、中国では王朝が何度も替わって家臣が君主を弑することが何回も行われている。中国は勢力が強くもなく、君臣の義が守られてもいない。これに対し日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている。中国は中華ではなく、日本こそが中朝(中華)であるというのが、この書の主張である。ただ、朝鮮の小中華思想は、中華から朝鮮への継承権の委譲とでも言えるものだが、素行の主張は攘夷や国粋といったスタンスである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E4%BA%8B%E5%AE%9F
●「日本人こそが本当の中国人だ」という学者の言葉に、「日本...:レコードチャイナ 配信日時:2015年2月5日(木) 23時37分
2015年2月5日、中国版ツイッター・微博(ウェイボー)に「日本人こそが本当の中国人」と題したつぶやきが登場し、多くのネットユーザーがコメントを寄せている。
「日本人こそが本当の中国人」は中華民国時代の著名な学者である辜鴻銘氏の言葉で、「中国人の文明は元の時代にすでに途絶えており、日本人だけが真に漢や唐の文明の真髄を継承している」ことを表している。あるネットユーザーは、中国人が日本に親近感を覚える理由について、特に京都や奈良に中国から伝わった文化の跡が見られるからだと説明している。
これについて、ほかのネットユーザーからは、多数の意見が寄せられている。
「こういうやつはバカだ」
「確かに中国人は伝統文化を重視していないが、日本と比べるな」
「漢族の文化だけが中国の文化なのか?元朝の人は中国人ではないと言うのか?」
「わざわざ絡ませるなよ。日本人も中国人も認めないだろう」
「つまり、日本はすでに中国のものってことだね(笑)」
「うそつけ、世界は大韓民国のものニダ」
「現代にも適用される言葉だ」
「日本は憎いが否定しない。国民の素養、伝統文化…。確かにその通りだ」
「同感だ。そして現代の中国人は以前の日本人のようになってしまった」
「自分たちが(文化を)大事にしなかったくせに、他人に継承されるのは嫌なのか?」
「漢や唐の文化の神髄は、日本の方が中国よりも色濃く残っている。中国は漢や唐だけでなく、さまざまな王朝が栄えた。現代だってそのうちの1つにすぎない。そう思わないか?」
「それは中国をどう定義するかによる。元も含めるなら、すべての王朝が中国の一部分だ」
「問題の重点は日本が漢や唐の文化を継承しているということではなく、中国人が文化を継承していないことだ」(翻訳・編集/北田)
http://www.recordchina.co.jp/a102001.html
【私のコメント】
世界情勢は混沌としているが、もはや国際金融資本の世界覇権崩壊と、大東亜共栄圏・ロシア・カトリックドイツ・フランス・中南米などの反対勢力連合の勝利は揺るがないと思われる。2006年に私が南朝鮮とイスラエルの滅亡が迫っていることに気づいて開設した本ブログもそろそろ役割を終えた様に思われる。しかしながら、本ブログが第二のテーマとして取り上げるべき重要な事柄があることに気付いた。それは、これからの日本の進むべき道を示すことである。それは日本人の世界観と切り離せない。
戦略家として名高い奥山真司氏は「戦略の階層」という概念を主張しており、全ての戦略について「世界観」が最も重要であると主張している。それは人生観、世界観、地理感覚、心、ビジョンなどを指す。日本について言えば、「日本とは何か、どのような役割があるのか」という問いかけになる。私はこの奥山氏の主張を聞いてから、日本人の世界観とは何か、他の人々の世界観とはどう異なるのかを自問自答し続けてきた。
大航海時代から20世紀まで世界を支配してきた国際金融資本の世界観とは、フェニキア・カルタゴ商人の商道徳である。それは、利潤の追求を最優先し、そのために顧客を騙す巧妙な技術を磨くことを至上とする。一般大衆は人間ではなく獣であり、彼らの財産や生命は奪うべきものである。大英帝国とはまさにこのような理念に基づいて建設され運営されてきた。
米国の世界観も上記の国際金融資本のそれに近い。米国はイギリス=国際金融資本の植民地から出発した。その過程で、移民たちは先住民を様々な方法で虐殺・追放して土地や資源を奪い取ってきた。そのような行為を米国国民は「マニフェスト・デスティニー」と呼んで正当化してきた。米国が銃社会であるのは、豪州やカナダと異なって先住民が移民に対抗するために武装しており、彼らを虐殺するために銃が必要不可欠だったという建国の由来が原因である。このような米英の世界侵略を見るとき、それを「鬼畜米英」と呼んで批判した我々の祖先の偉大さに感動せずにはいられない。そして、現在の日本が米英の占領下にあるのは、日本が「鬼畜米英」という真実をかつて叫んで彼らの打倒に立ち上がったことが原因である。
欧州の中心であるドイツの世界観は国歌に歌われている様に「世界に冠たるドイツ」であろう。歴史的に東アジアの中心であった中国の伝統的世界観も「中華思想」、すなわち我々が世界の中心というものであろう。南アジアの中心であるインドの世界観は恐らく「ヒンズー教の世界」、アラブ人の世界観も「イスラム教の世界」と思われる。残るユーラシアの超大国であるロシアの世界観は「我々は純粋な欧州ではなく、かといってアジアでもない、ユーラシアという独特の存在である」というものであると思われる。
では、日本の世界観とはなんだろうか?私の答えは、「思いやり(仁)と和が最も重要」である。
聖徳太子の「十七条憲法」の第一条には「和を以て貴しと為す。」とある。井沢元彦が「逆説の日本史」で主張する様に、日本最初の憲法の最初の条項には日本で最も重要なことが書かれている筈である。
もう一つ私が重要と考えるのは、仁である。大和言葉では「思い遣り」を意味する。第70代の後冷泉(ごれいぜい)天皇の「親仁」(ちかひと)以来現在まで、八例の例外(女帝は含まない)を除いて、全ての天皇の御名に「仁」が付いているという。これは、皇室が「仁」を極めて重要であると考えていることを示す。仁徳天皇の「民の竈」の逸話で明らかな様に、日本は古代から「仁=思い遣り」を非常に重要と考えてきた。
「和」と「仁=思い遣り」のどちらがより重要だろうか?恐らくそれは「仁=思い遣り」である。思い遣りの無い人・集団との和を維持することは苦痛以外の何物でも無い。元寇の時に鎌倉幕府は日本侵略の尖兵であったモンゴル人・高麗人の捕虜は全員殺したが、モンゴル人や高麗人の命令でやむなく日本攻撃に参加した南宋の兵士は殺さずに帰国させている。これは、「仁」を欠いた集団に対する日本人の厳しい態度と、同情すべき南宋への「仁=思い遣り」という鮮烈な対比を示す。
「仁」は儒教に於いて最高の徳目とされる。また、儒教では「礼は和をもって貴しとなす」とされており、「和」も儒教の徳目に属する。儒教は軍事力ではなく王の徳による統治を至上としている。戦乱の相次ぐ中国本土で失われてしまった儒教の徳目が日本では古来(儒教の伝来と関係があるのかどうかは不明)から実行され、現代まで維持し続けられているのである。
大東亜戦争では「八紘一宇」という理念が掲げられたが、これも人々の間の和と思い遣りを至上とする儒教的価値観である。これは神武天皇に由来するとされるが、神武天皇は日本の先住民族の王であったと思われる出雲の大国主命を虐殺してその土地を占領した人物であり、そこには思い遣りも和も感じられない。出雲大社が日本最大の建築物とされてきたのは、国を奪われ命も奪われた大国主命の強い怨念を封じ込めるためであるという井沢元彦氏の指摘は恐らく真実だろう。「八紘一宇」は大正時代に作られた概念であり、元来は「神武天皇による先住民虐殺と日本統一」を意味するに過ぎないと思われる。従ってこれは日本人の世界観には該当させるべきで無い。
「自然との共生」も日本人の価値観の一つだが、これは神道というシャーマニズム的宗教を日本が持つことに関係していると思われる。そして、日本以外のシャーマニズム系集団にも共通する価値観のように思われる。これも確かに重要であるが、「仁=思い遣り」や「和」を超える重要性があるとは思えない。我々は神道にのみ注目すべきでは無く、世界の各民族のシャーマニズム的多神教(道教やヒンズー教を含む)を比較・分析していくべきである。
「島国であること」も日本人の自己認識の一つだが、日本人と全く相容れない世界観を持つ米英人も自己を「世界島周囲の大洋に浮かぶ島国」と自己認識しているのであり、日本人の世界観とするべきではないだろう。
日本の武道は他国のスポーツと異なり、肉体を鍛えることや競技に勝つことよりも精神修養を重視する。これは、外国から輸入されたスポーツ(たとえば野球)でも見られる。外国のスポーツは戦闘の練習という要素が大きい。同様に日本でも宮本武蔵に代表される剣豪は敵を殺す技術を競ってきた。しかし、武道では戦うべきは敵では無く自分の心である。試合というものが存在しない合気道はその究極の姿であろう。では、なぜ精神修養が必要なのだろうか?それは、「思い遣り=仁」を実現するには、全ての者が自己の欲望や怠惰な心を我慢して、同情すべきかわいそうな人に恩恵を与える必要があるからである。そして、高位の統治者には高いレベルの「思い遣り=仁」が必要とされる。仁徳天皇の「民の竈」の逸話はそれを説いたものである。恵まれない人々への恩恵を重視することは、イスラム教の喜捨の概念に通じる。
日本人は本能的に貧富の格差の縮小を善と考えており、新自由主義やTPPに代表される格差社会に批判的である。これは、日本人の世界観が新自由主義と相容れないことに由来する。また、日本人は漢民族がその激しい生存競争故に陥りがちな自己中心的・反公共的行動に批判的だが、これも日本人の世界観が原因である。多くの日本人は自覚していないが確固たる世界観を有しているのだ。
多くの中国人は日本に留学して、日本が儒教の徳目により統治されていることに気付く。そして、儒教のふるさとである中国も、全世界も、儒教の徳目によって統治されるべきであると考えるようになる。1924年11月に訪日中の孫文は神戸で有名な「大アジア主義講演」を行う。日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米の帝国主義にたいし東洋の王道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。この「東洋王道」とは統治者の徳による統治という儒教的価値観に他ならない。また、2004年以降の中国で叫ばれている「和諧社会」も、日本的、あるいは儒教的な価値観の中国への導入に他ならない。このことは、日本人と中国人の理想とすべき社会が一致したことを示している。
米国政府要人は「米国と日本は民主主義という理念を共有している」とたびたび発言し、日本が米国の政策に従うことを正当化する。しかし、米国の民主主義とは有色人種を虐殺し生命と財産を奪う行為を正義とする人々が主権者として意思決定を行っているのであり、日本とは全く相容れないのだ。多くの米国国民はイスラエル支援によってイスラム世界で激しく憎まれていることを理解せず、米国が正義の国であると思い込んでいる。このような愚かな人々が投票して選ばれる統治者が極めて愚かなのは自明である。重要なのは統治者が賢明であることであって、その統治者が君主であれ貴族であれ役人であれ一般大衆であれどうでもよいことなのだ。そして、日本を始め世界主要国は伝統的に、君主、あるいは君主の周囲の賢明な人々の集団によってうまく統治されてきたのだ。
日本人は自分たちが日本人であって中国人では無いと考えている。しかしながら、米の飯を食べる湿潤地帯の農耕民族である日本人の生活は、モンゴル族・チベット族・満州族などの中国の少数民族よりもずっと中国人に近い。また、日本の公用語である日本語は中国語とは大きく異なっている。しかし、そもそも中国では方言が強く、地域が異なると言葉が通じないのが普通である。日本語の発音は中国の呉や越のそれに近いという話もある。日本語は中国の方言の一つという見方もできるのだ。更に、中国人の伝統的定義は「漢字を用いて意思疎通する」ことであり、日本人は間違いなく広義の中国人に含まれてしまう。それどころか、日本人は中国の伝統的かつ重要な思想である儒教を実行し続けており、日本人こそが真の中国人であって現在の中国人は中国人の心を失った偽中国人という見方すらできるのだ。
「文明の衝突」のハンチントンに代表される多くの欧米人が日本を中国から独立した文明として扱ってきたとの反論もあるだろう。しかし、これは日本を中国から切り離したいという彼らの野望の反映と思われる。日本は明治維新以降、中国侵略の基地として欧米シーパワーの事実上の占領下に置かれてきた。そして、中国を占領するための貴重な技術が欧米から多数導入されてきた。しかし、外見でも文字でも文化でも中国と日本の共通性はかなり高い。欧米の技術をたっぷり吸収した日本が中国に寝返ることは欧米シーパワーにとって悪夢と思われる。それが、欧米が日本を中国から独立した文明として扱う理由である。そして、日本は日清戦争期以降、表向きは中国と激しく対立して欧米シーパワーを安心させつつ、裏では中国と協力し、中国を経済的にも軍事的にも強大化させることに力を注いできた。中国の核武装は日本人技術者の貢献が大きいとは有名な話である。また、改革開放以降も日本は中国の工業に大きな貢献を行っている。これらの日本の協力によって中国は強大化し、今や多くの分野で米国を上回り始めているのだ。沖縄出身の先祖を持つと思われる歴史学者の與那覇潤は「中国化する日本」という主張を行っている。しかし、現実に起きているのは「日本化する中国」である様に思われる。
江戸時代の儒学者・兵学者である山鹿素行は著書「中朝事実」で、中国は異民族に何度も支配されるなど勢力が強くもなく、家臣が君主を殺して君主の地位を乗っ取る事件が多発するなど君臣の義が守られてもいないと指摘、異民族に支配されず万世一系の皇室が保たれている日本こそが真の中華であると主張した。現在の日本は米軍という異民族支配であり、皇室もかろうじて命脈を保っている状態である。しかしながら、仁や和などの儒教の徳目を国民が実践し、統治者も「徳による統治」を行ってきた日本人、元号という中国的文化を維持し続けている日本人は、漢民族以外で唯一漢字を公用語に使用していることを考慮すれば、広義の中国人であるだけで無く、中国人の理想とすべき社会を実践してきた真の中国人であると言えるだろう。中華民国時代の著名な学者である辜鴻銘氏の「日本人こそが本当の中国人だ」という言葉は「中国人の文明は元の時代にすでに途絶えており、日本人だけが真に漢や唐の文明の真髄を継承している」ことを意味する。実は唐も鮮卑族の拓跋氏による異民族制服王朝であり、中国は漢民族王朝と異民族征服王朝が交代してきた歴史を有している。そして混乱の度に厳しい生存競争が起こり、儒教の徳目を実践するような人は生き残れず、自分さえ良ければ良いという自己中心的な人しか生き残れなかったのだ。そして、漢民族の偉大な道徳理念である儒教は本土では滅亡し、海を越えた日本でのみ生き残って実践されてきたのだ。
結論を言おう。日本人は広義の中国人に含まれる。日本人の世界観は「仁=思い遣り」と「和」を至上としており、儒教的な「徳による統治」を実現し続けてきた。我々日本人は儒教という理想を漢民族と共有している。我々の使命は、漢民族と協力して鬼畜米英を滅亡させ、彼らの犯罪的世界観を粉砕し、その被害者を救い、加害者を全員処刑し、その上で世界の隅々まで「仁=思い遣り」と「和」を広げることである。その暁には、中国人vs日本人という区別は無くなり、日本人は広東人や四川人、上海人、北京人と同等の世界島東部(アジアという言葉はフェニキア人に支配されたギリシャ人がアナトリア半島を指して呼んだ言葉であり、今後は別の名前で呼ぶべきだと考える)の漢字文化圏の中の一民族となっているだろう。そしてその中心の一つになっているだろう。あるいは北京語に代わって日本語が世界島東部地区の共通語になっているかもしれない。それが恐らく原田武夫氏の主張する「パックスジャポニカ」なのだろう。
↓↓↓ 一日一回クリックしていただくと更新の励みになります。
にほんブログ村
われわれ日本人の多くは、いままで「戦略」というものを、学校や職場でまともに習ったことがない。習っていないわけだから、分からなくても当然である。
「いや、会社で経営戦略を習ったことがある」という方もいるだろう。しかし、そもそも「戦略とはどういうものか」という本質的なことは絶対に習わないので、ある程度まで理解できても、根本的なところが身に付くはずがない。
では日本人は戦略を体得できないのか? 私は「絶対にできる」と考えている。だがそのためには1つのヒントが必要だ。それが「戦略をタテに考える」ということだ。
戦略は、上下の「階層」に分かれている。
例えば国家が戦争をするとき、まず必要なのは、優秀な兵隊や戦車・戦闘機を支える「技術」である。これらは最も具体的なものだが、使いこなせないと意味がない。そのために必要になるのが「戦術」で、さらに、いくつかの戦術を使って大きなプロジェクトを達成するために「作戦」が必要だ。
ところが作戦だけは戦争に勝てない。勝つためには作戦をいくつか束ねて軍事的に相手を圧倒するための「軍事戦略」が必要になる。その上で、国家の資源を戦争で活用するための「大戦略」が必要になる。
大戦略を準備するには軍人だけでなく政治家のバックアップが必要で、政治家は国の「政策」を決定する。そして政策の最終的な方針は、その国のリーダーが持つ「自分の国は何者で、どのようなビジョンがあるか」といった「世界観」に決定されるのだ。
つまり戦略というのは、下から順に技術、戦術、作戦、軍事戦略、大戦略、政策、世界観とレベル分けされる。しかも「上位のものが下位のものを決定する」という原則があるのだ。
個人にこの階層を当てはめると、語学や資格の習得などは最底辺の「技術」レベルになる。そのため、やみくもに技術を得ようとしている人は、さらに上の階層から技術習得の意味を位置付けている人には勝てない。
また、日本が国家ぐるみで提唱している「ものづくり」も、実は「技術」レベルでしかない。これでは上から戦略を組み立てている国には勝てるわけがない。
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20121113/plt1211130709000-n1.htm
■■ Japan On the Globe(922) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■
地球史探訪: アメリカの国体、日本の国体
「自由を求める人びとの国」という理想が、アメリカの歴史を作ってきた。それに対する日本の理想は何か?
■転送歓迎■ H27.10.1
■7.「一つ屋根の下の大家族」という国体
近代世界におけるアメリカを見ると、古代の東アジアにおける日本列島も似たような存在ではなかったのか、と思えてくる。古代の日本列島には、北から西から南から様々な民族が流れ込んできた。戦乱の激しかった大陸や朝鮮半島から逃れてきた人びとも多い。
古代の日本は多民族国家であったと言っても良い。それを一つの国家にまとめたのが、皇室を中心とする大和朝廷であった。初代・神武天皇は、大和の地で都を造る際に、次のような詔(みことのり)を出している。
__________
人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根(一宇)の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。[c]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
アメリカの国体が「自由を求める人びとの国」であるとすれば、日本の国体は「一つ屋根の下の大家族」である。この理想を抱き、皇室のもとで、立派な家庭を築いていこう、という志を抱いた多くの先人たちの努力がわが国を形成してきた。[d,e]
先人の努力の跡を偲び、その志を現代のグローバル社会の中でどのような形で継承していくかを考えることが、国際派日本人の努めである。
(文責:伊勢雅臣)
http://archives.mag2.com/0000000699/index.html
●八紘一宇 - Wikipedia
八紘一宇(はっこういちう)とは、古代中国でしばしば用いられた慣用句を元とし、『日本書紀』巻第三神武天皇の条に書かれた「掩八紘而爲宇」の文言を戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して使用し、縮約した語。八紘為宇ともいう。大意は「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87
●皇室のきょうかしょ - 少年タケシ
vol.8 天皇の御名(おんな)
天皇と皇族の名前のことを、正式には、「御名」(おんな)もしくは「諱」(いみな)といいます。今上天皇は御名を「明仁」(あきひと)と称されます。
しかし、天皇の御名を直接口にすることや、文字にして書き記すことは、畏れ多いことであり、歴史的に憚(はばか)られてきました。ですから、民間人だけでなく皇族ですら、天皇を直接御名で呼ぶことはありません。
このことは、われわれの日常生活でも同じことです。目下の人を名前で呼ぶことは許されますが、目上の人を名前で呼ぶことは失礼なことなのです。
ですから、皇子が父である天皇から、御名で呼ばれることはあっても、皇子が天皇を御名で呼ぶことは許されないのです。
しかも、天皇を「天皇」と呼ぶことすら畏れ多く、憚られます。実際は敬称の「陛下」などが用いられることは、既に第四回「天皇の敬称」で説明したとおりです。
皇族が御名を賜る時期は、平安中期から江戸期までは親王宣下(しんのうせんげ)のときに、また現在では、皇族は降誕から七日目の「命名の儀」(めいめいのぎ)で、天皇から御名を賜ることになっています。(「親王宣下」とは、皇族の子が一定の年齢に達し、天皇から親王として認められる儀式のこと。親王宣下を済ませると正式に皇族の一員となる。現在は皇族の子は生まれながらにして皇族になるので、親王宣下は行われていない。)
歴代天皇の御名の表を見ると、ほとんどが「○仁」であることがわかるでしょう。遡ってみると、昭和天皇が「裕仁」(ひろひと)、大正天皇が「嘉仁」(よしひと)、また明治天皇が「睦仁」(むつひと)、それ以前もずっと御名に「仁」が付きます。
歴代天皇で一番初めに御名に「仁」が付くのは第56代清和(せいわ)天皇の「惟仁」(これひと)、続いて第60代醍醐(だいご)天皇の「敦仁」(あつぎみ)、そして第66代一条天皇の「懐仁」(やすひと)、そして第70代の後冷泉(ごれいぜい)天皇の「親仁」(ちかひと)以来現在まで、八例の例外(女帝は含まない)を除いて、全ての天皇の御名に「仁」が付いています。
御名に「仁」が付くのは、約千年の歴史があるのです。
では「仁」にはどのような意味があるのでしょうか?
『大漢和辞典』(大修館書店、日本最大の漢和辞典、全十三巻)によると「仁」の意味として第一に「いつくしむ」、「親しむ」、「愛する」が挙げられていて、その他に「諸徳の総称」、「有徳の人」の意味もあるようです。「仁」の字は、慈愛(じあい)の徳を示し、善行(ぜんこう)の総称であると考えられています。(「慈愛」とは、いくつしみの気持ち。「善行」とは、良いおこないのこと。)
「仁」の字は、皇室が本質的に守りつづけてきたテーマを見事にいい表していて、天皇が称するについて不足のない立派な字だといえるでしょう。
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu08.html
●【謎】皇族の名前にはなぜ「仁」「子」が必ず付くのか?その意味 | 皇室の話題
http://皇室.net/namae-113
●仁徳天皇 - Wikipedia
仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。
人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し[1]、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
●儒教 - Wikipedia
儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。
教義[編集]
儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。
仁:人を思い遣る事。孔子以前には、「佞る事」という意味では使われていた。[要出典]白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者の頼もしさをいう語」。「説文解字」は「親」に通じると述べている。「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。孔子は仁を最高の徳目としていた。
義:利欲に囚われず、すべきことをすること。
礼:仁を具体的な行動として、表したもの。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。
智:学問に励む
信:言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99
●和諧社会 - Wikipedia
和諧社会(わかいしゃかい、正式名称: 社会主義和諧社会、簡体字:和谐社会、正式名称: 社会主义和谐社会、拼音: héxié shéhui)とは、矛盾のない調和のとれた社会のことを指す中華人民共和国のスローガンである)[1]。2004年中国共産党第16回中央委員会第4回全体会議(第16期4中全会)で提起され、2006年の第16期6中全会では、社会主義和諧社会建設に関する討議がなされた[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%AB%A7%E7%A4%BE%E4%BC%9A
●《故事・ことわざ・四字熟語》 辞典・「わ」
和をもって貴しと為す
(わをもってたっとしとなす)
仲良く和合することが最も大切だということ。『礼記・儒行』には「礼は之これ和を以もって貴しと為なし、忠信を之れ美とし、優游ゆうゆうに之れ法のっとる」とあり、『論語・学而』には「礼の用は和を貴しと為す。先王の道は斯これを美と為す」とあるように、礼の根本は調和にあるとされた。聖徳太子の「十七条憲法」の第一条にも「和を以て貴しと為す。忤さからう無きを宗むねと為す」とある。
http://thu.sakura.ne.jp/others/proverb/data/wa.htm
●Amazon.co.jp: 和をもって日本となす〈上〉 (角川文庫): ロバート ホワイティング, Robert Whiting, 玉木 正之: 本
野球を通して日本人の価値観を再確認する 投稿者 カスタマー 投稿日 2001/5/1 形式: 文庫
身近な野球という題材とガイジン選手という名ガイド役を通じて、日本についての理解が新たになる。ベースボールはplay baseballで、野球はwork baseballであるという一文は、言い得て妙である。つまり、ベースボールはフィールド内が全てであり、野球は球場に入るまでがほとんど全てである。日本のプロ野球選手が長時間練習することはそれによって安心(精神的な到達感)を得るためで、“サラリーマン”にも共通するといえる。我々は、高校野球が精神修養の場であることは理解しているが、その流れが実はプロ野球にも脈々と流れていることに気づかされる。キャンプでの千本ノック、特に長嶋監督直々のノックを受けるところに、万人が一つの精神的な高揚を感じるところに、精神修養である野球が息づいていることを改めて実感する。プロの技を見ること以上に、技を極めるためにどのような修行を積んでいるかを知り、納得する、これが日本人のプロ野球の見方である。ここに、日本人の人生観ともいうべきものが凝縮されており、ガイジン選手が理解に苦しむ根源的な相違点であることが理解できる。この日本人の特質を日本人自身が理解することが、ビジネスがグローバル化する現在、必要不可欠といえる。
http://www.amazon.co.jp/dp/4042471013
●日本武道協議会|武道振興事業|日本武道館
目的:国内を統括する各武道連盟との連絡融和を図り、かつ柔道・剣道・弓道・相撲・空手道・合気道・少林寺拳法・なぎなた及び銃剣道を奨励して、その精神を高揚すると共に健全な国民の育成に努め、世界の平和と福祉に貢献する。
http://www.nipponbudokan.or.jp/shinkoujigyou/kankeidantai_01.html
●全柔連について | 全日本柔道連盟
変えてはならない部分は、嘉納治五郎師範が終生取り組まれた、柔道を通じた「人づくり」です。礼に始まり礼に終わる毎日の柔道の稽古を通じて、逞しい体力と精神力、そして知性と品性を兼ね備え、競技を離れた長い人生においても心豊かな生活を送れる青年を社会に送り出すという柔道の「人づくり」の原点に立ち返り、人間教育をいかに具体化していくかが我々に課された課題であります。
http://www.judo.or.jp/aboutus
●柔道の目的・技の理念 | 講道館
嘉納師範は、一般に言いならわされていた柔術を柔道として単に技を修得するだけでなく、天下の大道を学ぶものとし、その教育場を「講道館」と呼んだのです。
講道という語には、道を学び、明らかにし、実践するという意味があり、講道館柔道と名付けて柔道の本質を明らかにしているところに、嘉納師範が、いかに道を重んじ、その修行を一生の大事としていたかを知ることができます。
嘉納師範は、柔道修行の目的は、攻撃・防御の練習によって身体を鍛練して強健にし、精神の修養につとめて人格の完成をはかり、社会に貢献することであると示されています。
http://kodokanjudoinstitute.org/doctrine/purpose/
●中朝事実 - Wikipedia
中朝事実(ちゅうちょうじじつ)は、山鹿素行が記した尊王思想の歴史書。寛文9年(1669年)に著わした。全2巻。付録1巻。山鹿素行は儒学と軍学の大家である。
当時の日本では儒学が流行し、中国の物は何でも優れ日本の物は劣る、という中国かぶれの風潮があった。また、儒教的世界観では、中国の帝国が周辺の野蛮人の国よりも勢力も強く、倫理的にも優れるという中華思想が根本にあった。素行はこの書で、この中華思想に反論した。当時中国は漢民族の明朝が滅んで、万里の長城の北の野蛮人の満州族が皇帝の清朝となっていた。また歴史を見ると、中国では王朝が何度も替わって家臣が君主を弑することが何回も行われている。中国は勢力が強くもなく、君臣の義が守られてもいない。これに対し日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている。中国は中華ではなく、日本こそが中朝(中華)であるというのが、この書の主張である。ただ、朝鮮の小中華思想は、中華から朝鮮への継承権の委譲とでも言えるものだが、素行の主張は攘夷や国粋といったスタンスである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E4%BA%8B%E5%AE%9F
●「日本人こそが本当の中国人だ」という学者の言葉に、「日本...:レコードチャイナ 配信日時:2015年2月5日(木) 23時37分
2015年2月5日、中国版ツイッター・微博(ウェイボー)に「日本人こそが本当の中国人」と題したつぶやきが登場し、多くのネットユーザーがコメントを寄せている。
「日本人こそが本当の中国人」は中華民国時代の著名な学者である辜鴻銘氏の言葉で、「中国人の文明は元の時代にすでに途絶えており、日本人だけが真に漢や唐の文明の真髄を継承している」ことを表している。あるネットユーザーは、中国人が日本に親近感を覚える理由について、特に京都や奈良に中国から伝わった文化の跡が見られるからだと説明している。
これについて、ほかのネットユーザーからは、多数の意見が寄せられている。
「こういうやつはバカだ」
「確かに中国人は伝統文化を重視していないが、日本と比べるな」
「漢族の文化だけが中国の文化なのか?元朝の人は中国人ではないと言うのか?」
「わざわざ絡ませるなよ。日本人も中国人も認めないだろう」
「つまり、日本はすでに中国のものってことだね(笑)」
「うそつけ、世界は大韓民国のものニダ」
「現代にも適用される言葉だ」
「日本は憎いが否定しない。国民の素養、伝統文化…。確かにその通りだ」
「同感だ。そして現代の中国人は以前の日本人のようになってしまった」
「自分たちが(文化を)大事にしなかったくせに、他人に継承されるのは嫌なのか?」
「漢や唐の文化の神髄は、日本の方が中国よりも色濃く残っている。中国は漢や唐だけでなく、さまざまな王朝が栄えた。現代だってそのうちの1つにすぎない。そう思わないか?」
「それは中国をどう定義するかによる。元も含めるなら、すべての王朝が中国の一部分だ」
「問題の重点は日本が漢や唐の文化を継承しているということではなく、中国人が文化を継承していないことだ」(翻訳・編集/北田)
http://www.recordchina.co.jp/a102001.html
【私のコメント】
世界情勢は混沌としているが、もはや国際金融資本の世界覇権崩壊と、大東亜共栄圏・ロシア・カトリックドイツ・フランス・中南米などの反対勢力連合の勝利は揺るがないと思われる。2006年に私が南朝鮮とイスラエルの滅亡が迫っていることに気づいて開設した本ブログもそろそろ役割を終えた様に思われる。しかしながら、本ブログが第二のテーマとして取り上げるべき重要な事柄があることに気付いた。それは、これからの日本の進むべき道を示すことである。それは日本人の世界観と切り離せない。
戦略家として名高い奥山真司氏は「戦略の階層」という概念を主張しており、全ての戦略について「世界観」が最も重要であると主張している。それは人生観、世界観、地理感覚、心、ビジョンなどを指す。日本について言えば、「日本とは何か、どのような役割があるのか」という問いかけになる。私はこの奥山氏の主張を聞いてから、日本人の世界観とは何か、他の人々の世界観とはどう異なるのかを自問自答し続けてきた。
大航海時代から20世紀まで世界を支配してきた国際金融資本の世界観とは、フェニキア・カルタゴ商人の商道徳である。それは、利潤の追求を最優先し、そのために顧客を騙す巧妙な技術を磨くことを至上とする。一般大衆は人間ではなく獣であり、彼らの財産や生命は奪うべきものである。大英帝国とはまさにこのような理念に基づいて建設され運営されてきた。
米国の世界観も上記の国際金融資本のそれに近い。米国はイギリス=国際金融資本の植民地から出発した。その過程で、移民たちは先住民を様々な方法で虐殺・追放して土地や資源を奪い取ってきた。そのような行為を米国国民は「マニフェスト・デスティニー」と呼んで正当化してきた。米国が銃社会であるのは、豪州やカナダと異なって先住民が移民に対抗するために武装しており、彼らを虐殺するために銃が必要不可欠だったという建国の由来が原因である。このような米英の世界侵略を見るとき、それを「鬼畜米英」と呼んで批判した我々の祖先の偉大さに感動せずにはいられない。そして、現在の日本が米英の占領下にあるのは、日本が「鬼畜米英」という真実をかつて叫んで彼らの打倒に立ち上がったことが原因である。
欧州の中心であるドイツの世界観は国歌に歌われている様に「世界に冠たるドイツ」であろう。歴史的に東アジアの中心であった中国の伝統的世界観も「中華思想」、すなわち我々が世界の中心というものであろう。南アジアの中心であるインドの世界観は恐らく「ヒンズー教の世界」、アラブ人の世界観も「イスラム教の世界」と思われる。残るユーラシアの超大国であるロシアの世界観は「我々は純粋な欧州ではなく、かといってアジアでもない、ユーラシアという独特の存在である」というものであると思われる。
では、日本の世界観とはなんだろうか?私の答えは、「思いやり(仁)と和が最も重要」である。
聖徳太子の「十七条憲法」の第一条には「和を以て貴しと為す。」とある。井沢元彦が「逆説の日本史」で主張する様に、日本最初の憲法の最初の条項には日本で最も重要なことが書かれている筈である。
もう一つ私が重要と考えるのは、仁である。大和言葉では「思い遣り」を意味する。第70代の後冷泉(ごれいぜい)天皇の「親仁」(ちかひと)以来現在まで、八例の例外(女帝は含まない)を除いて、全ての天皇の御名に「仁」が付いているという。これは、皇室が「仁」を極めて重要であると考えていることを示す。仁徳天皇の「民の竈」の逸話で明らかな様に、日本は古代から「仁=思い遣り」を非常に重要と考えてきた。
「和」と「仁=思い遣り」のどちらがより重要だろうか?恐らくそれは「仁=思い遣り」である。思い遣りの無い人・集団との和を維持することは苦痛以外の何物でも無い。元寇の時に鎌倉幕府は日本侵略の尖兵であったモンゴル人・高麗人の捕虜は全員殺したが、モンゴル人や高麗人の命令でやむなく日本攻撃に参加した南宋の兵士は殺さずに帰国させている。これは、「仁」を欠いた集団に対する日本人の厳しい態度と、同情すべき南宋への「仁=思い遣り」という鮮烈な対比を示す。
「仁」は儒教に於いて最高の徳目とされる。また、儒教では「礼は和をもって貴しとなす」とされており、「和」も儒教の徳目に属する。儒教は軍事力ではなく王の徳による統治を至上としている。戦乱の相次ぐ中国本土で失われてしまった儒教の徳目が日本では古来(儒教の伝来と関係があるのかどうかは不明)から実行され、現代まで維持し続けられているのである。
大東亜戦争では「八紘一宇」という理念が掲げられたが、これも人々の間の和と思い遣りを至上とする儒教的価値観である。これは神武天皇に由来するとされるが、神武天皇は日本の先住民族の王であったと思われる出雲の大国主命を虐殺してその土地を占領した人物であり、そこには思い遣りも和も感じられない。出雲大社が日本最大の建築物とされてきたのは、国を奪われ命も奪われた大国主命の強い怨念を封じ込めるためであるという井沢元彦氏の指摘は恐らく真実だろう。「八紘一宇」は大正時代に作られた概念であり、元来は「神武天皇による先住民虐殺と日本統一」を意味するに過ぎないと思われる。従ってこれは日本人の世界観には該当させるべきで無い。
「自然との共生」も日本人の価値観の一つだが、これは神道というシャーマニズム的宗教を日本が持つことに関係していると思われる。そして、日本以外のシャーマニズム系集団にも共通する価値観のように思われる。これも確かに重要であるが、「仁=思い遣り」や「和」を超える重要性があるとは思えない。我々は神道にのみ注目すべきでは無く、世界の各民族のシャーマニズム的多神教(道教やヒンズー教を含む)を比較・分析していくべきである。
「島国であること」も日本人の自己認識の一つだが、日本人と全く相容れない世界観を持つ米英人も自己を「世界島周囲の大洋に浮かぶ島国」と自己認識しているのであり、日本人の世界観とするべきではないだろう。
日本の武道は他国のスポーツと異なり、肉体を鍛えることや競技に勝つことよりも精神修養を重視する。これは、外国から輸入されたスポーツ(たとえば野球)でも見られる。外国のスポーツは戦闘の練習という要素が大きい。同様に日本でも宮本武蔵に代表される剣豪は敵を殺す技術を競ってきた。しかし、武道では戦うべきは敵では無く自分の心である。試合というものが存在しない合気道はその究極の姿であろう。では、なぜ精神修養が必要なのだろうか?それは、「思い遣り=仁」を実現するには、全ての者が自己の欲望や怠惰な心を我慢して、同情すべきかわいそうな人に恩恵を与える必要があるからである。そして、高位の統治者には高いレベルの「思い遣り=仁」が必要とされる。仁徳天皇の「民の竈」の逸話はそれを説いたものである。恵まれない人々への恩恵を重視することは、イスラム教の喜捨の概念に通じる。
日本人は本能的に貧富の格差の縮小を善と考えており、新自由主義やTPPに代表される格差社会に批判的である。これは、日本人の世界観が新自由主義と相容れないことに由来する。また、日本人は漢民族がその激しい生存競争故に陥りがちな自己中心的・反公共的行動に批判的だが、これも日本人の世界観が原因である。多くの日本人は自覚していないが確固たる世界観を有しているのだ。
多くの中国人は日本に留学して、日本が儒教の徳目により統治されていることに気付く。そして、儒教のふるさとである中国も、全世界も、儒教の徳目によって統治されるべきであると考えるようになる。1924年11月に訪日中の孫文は神戸で有名な「大アジア主義講演」を行う。日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米の帝国主義にたいし東洋の王道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。この「東洋王道」とは統治者の徳による統治という儒教的価値観に他ならない。また、2004年以降の中国で叫ばれている「和諧社会」も、日本的、あるいは儒教的な価値観の中国への導入に他ならない。このことは、日本人と中国人の理想とすべき社会が一致したことを示している。
米国政府要人は「米国と日本は民主主義という理念を共有している」とたびたび発言し、日本が米国の政策に従うことを正当化する。しかし、米国の民主主義とは有色人種を虐殺し生命と財産を奪う行為を正義とする人々が主権者として意思決定を行っているのであり、日本とは全く相容れないのだ。多くの米国国民はイスラエル支援によってイスラム世界で激しく憎まれていることを理解せず、米国が正義の国であると思い込んでいる。このような愚かな人々が投票して選ばれる統治者が極めて愚かなのは自明である。重要なのは統治者が賢明であることであって、その統治者が君主であれ貴族であれ役人であれ一般大衆であれどうでもよいことなのだ。そして、日本を始め世界主要国は伝統的に、君主、あるいは君主の周囲の賢明な人々の集団によってうまく統治されてきたのだ。
日本人は自分たちが日本人であって中国人では無いと考えている。しかしながら、米の飯を食べる湿潤地帯の農耕民族である日本人の生活は、モンゴル族・チベット族・満州族などの中国の少数民族よりもずっと中国人に近い。また、日本の公用語である日本語は中国語とは大きく異なっている。しかし、そもそも中国では方言が強く、地域が異なると言葉が通じないのが普通である。日本語の発音は中国の呉や越のそれに近いという話もある。日本語は中国の方言の一つという見方もできるのだ。更に、中国人の伝統的定義は「漢字を用いて意思疎通する」ことであり、日本人は間違いなく広義の中国人に含まれてしまう。それどころか、日本人は中国の伝統的かつ重要な思想である儒教を実行し続けており、日本人こそが真の中国人であって現在の中国人は中国人の心を失った偽中国人という見方すらできるのだ。
「文明の衝突」のハンチントンに代表される多くの欧米人が日本を中国から独立した文明として扱ってきたとの反論もあるだろう。しかし、これは日本を中国から切り離したいという彼らの野望の反映と思われる。日本は明治維新以降、中国侵略の基地として欧米シーパワーの事実上の占領下に置かれてきた。そして、中国を占領するための貴重な技術が欧米から多数導入されてきた。しかし、外見でも文字でも文化でも中国と日本の共通性はかなり高い。欧米の技術をたっぷり吸収した日本が中国に寝返ることは欧米シーパワーにとって悪夢と思われる。それが、欧米が日本を中国から独立した文明として扱う理由である。そして、日本は日清戦争期以降、表向きは中国と激しく対立して欧米シーパワーを安心させつつ、裏では中国と協力し、中国を経済的にも軍事的にも強大化させることに力を注いできた。中国の核武装は日本人技術者の貢献が大きいとは有名な話である。また、改革開放以降も日本は中国の工業に大きな貢献を行っている。これらの日本の協力によって中国は強大化し、今や多くの分野で米国を上回り始めているのだ。沖縄出身の先祖を持つと思われる歴史学者の與那覇潤は「中国化する日本」という主張を行っている。しかし、現実に起きているのは「日本化する中国」である様に思われる。
江戸時代の儒学者・兵学者である山鹿素行は著書「中朝事実」で、中国は異民族に何度も支配されるなど勢力が強くもなく、家臣が君主を殺して君主の地位を乗っ取る事件が多発するなど君臣の義が守られてもいないと指摘、異民族に支配されず万世一系の皇室が保たれている日本こそが真の中華であると主張した。現在の日本は米軍という異民族支配であり、皇室もかろうじて命脈を保っている状態である。しかしながら、仁や和などの儒教の徳目を国民が実践し、統治者も「徳による統治」を行ってきた日本人、元号という中国的文化を維持し続けている日本人は、漢民族以外で唯一漢字を公用語に使用していることを考慮すれば、広義の中国人であるだけで無く、中国人の理想とすべき社会を実践してきた真の中国人であると言えるだろう。中華民国時代の著名な学者である辜鴻銘氏の「日本人こそが本当の中国人だ」という言葉は「中国人の文明は元の時代にすでに途絶えており、日本人だけが真に漢や唐の文明の真髄を継承している」ことを意味する。実は唐も鮮卑族の拓跋氏による異民族制服王朝であり、中国は漢民族王朝と異民族征服王朝が交代してきた歴史を有している。そして混乱の度に厳しい生存競争が起こり、儒教の徳目を実践するような人は生き残れず、自分さえ良ければ良いという自己中心的な人しか生き残れなかったのだ。そして、漢民族の偉大な道徳理念である儒教は本土では滅亡し、海を越えた日本でのみ生き残って実践されてきたのだ。
結論を言おう。日本人は広義の中国人に含まれる。日本人の世界観は「仁=思い遣り」と「和」を至上としており、儒教的な「徳による統治」を実現し続けてきた。我々日本人は儒教という理想を漢民族と共有している。我々の使命は、漢民族と協力して鬼畜米英を滅亡させ、彼らの犯罪的世界観を粉砕し、その被害者を救い、加害者を全員処刑し、その上で世界の隅々まで「仁=思い遣り」と「和」を広げることである。その暁には、中国人vs日本人という区別は無くなり、日本人は広東人や四川人、上海人、北京人と同等の世界島東部(アジアという言葉はフェニキア人に支配されたギリシャ人がアナトリア半島を指して呼んだ言葉であり、今後は別の名前で呼ぶべきだと考える)の漢字文化圏の中の一民族となっているだろう。そしてその中心の一つになっているだろう。あるいは北京語に代わって日本語が世界島東部地区の共通語になっているかもしれない。それが恐らく原田武夫氏の主張する「パックスジャポニカ」なのだろう。
↓↓↓ 一日一回クリックしていただくと更新の励みになります。
にほんブログ村
太公望答「天下万民に分け与える琴」
本居宣長「大和心とは」
「漢意(からごころ)でないもの」
ttp://www.norinaga.jp/naobitama-05b.php
時は経ちそして万民が問うウォール街のこころ^^
今、私達日本人に必要なものとは、人徳とか、仁とは何か、世界はどうあるべきか、といった大きな理想です。
聖徳太子の「十七条憲法」は、極めて素晴らしいものです。
社会改革、宗教改革を実行した、世界に冠たる偉業の一つではないでしょうか。
国際金融資本による、経済破綻や戦乱の影が忍び寄っていますが、これらに負けない力が、我が日本にはあります!!
中国人以上に儒教を知り、身につけている「中国人以上に中国人らしい」日本人。
欧米などでは戦乱を経て宗教改革をしたにも関わらず、戦乱なしで宗教の融和を実現している日本人。
胸を張って、これらからの動乱の時代を生き抜きましょう!!
>我々の使命は、漢民族と協力して鬼畜米英を滅亡させ
日本人は、もう騙されてはいけない。
著者の言わんとすることはよく理解できるし、白人嫌い、アメリカ嫌い、ユダヤ嫌いも理解できるが、白人も一枚岩ではない。
現時点で漢民族と協力などありえない。
少なくても、共産党が解体された後でなければ、中国人と協力などありえない。
リアリズムに感情を入れすぎではないでしょうか。
また、日本を語るにおいてどうして神道という言葉が一言もないのでしょうか。
近日中にコペルニクス的転換が訪れるはずです。その後にこの記事をもう一度読んでみて下さい。
「加害者を全員処刑し」でずっこけました。
「平和のために戦う」に似たなんだかなあ?感を感じました。
加害者たちの人道に反する罪は決して許されるものではありませんが、処刑しても被害を確定させるだけで、こちらには何の利益もない。
大切なのは過去ではなく未来。過去は変更出来ませんが未来は変更できる。過去の事実は消せないが未来に対する意味付けは変えられます。
つまり、被害の償いに相当する価値分だけ彼らから取り立てなくてはならず、処刑ではなく徴収が必要なのです。
加害者の多くは被害者的要素も持ち合わせている。たとえば新大陸に移住した白人移民の多くは貧窮故に新天地への移住を余儀なくされた面もある。彼らの多くは現在、国際金融資本の新自由主義により貧窮に苦しんでいる。私はこのような面にも注目して彼らを救済すべきと考えており、新大陸の白人を皆殺しにせよと主張しているわけでは無い。また、独仏露等の白人ランドパワーは基本的に我々の味方である。
ただ、国際金融資本の中枢である人々はやはり全員処刑する必要があると私は考える。彼らの行った巨大な罪悪はやはり死刑にふさわしいからだ。彼らを今根絶しなければ、将来彼らが復活してまた世界支配を企む危険がある。ローマ帝国がカルタゴ遺民に滅ぼされて地中海世界が、その後には全世界が強欲資本主義に占領されたという過去の過ちを繰り返すべきで無い。
https://www.youtube.com/watch?v=8jvNiVo1loo
先日来、つまらない笑劇を投稿させて頂いている者です。
本日のblogは誠に日本人としては同意できるものですが、悲しいかな悲壮な理想論を叫んでいるように思われます。
小学生に微分方程式を教えても、徒労に終わるでしょう。彼らには他に山ほど学ぶべき事がある。
同じように、特亜人に和と仁を説いても無益なのです。
これは人種差別をしている訳ではなくて、モノには順序というものがある、という単純な事実です。八紘一宇・五族協和、いずれも素晴らしい高説ですが、それは彼らが高等学校レベルの世界観を学ぶ準備が整ってからの話でしょう。やはり、旧皇軍は理想に走りすぎたと思っています。
孔子の儒教は仰るとおりに日本で花を咲かせて結実した、と思います。しかし本国や半島では枝葉末節に拘り、換骨奪取の体たらくでしょう。・・腐れ儒者ばかりです。
彼らと協調することは、即ち我々の堕落につながる。また、ご指摘の通り欧米とも我々の世界観は根本から異なっている。
従って我々は独自の道を行くしかない。(なぜか尊皇攘夷説に聞こえますね。でもこれは鎖国しろという話ではありません)
このように思います。
でも、blog主さまの世界観には同意できるもの多々ありますね。
>こんにちは。 >先日来、つまらない笑劇を投稿させて頂いている者
どうもこちらこそ 「笑劇」さまざまな視点があっていいよねー
タイミングが合うようでしたら私が被せて「衝撃」致したいなあ
ご承諾お願い^^
独自の世界観を流布し始めた中国
ジンバブエ大統領に授与された中国版「平和賞」が意味すること
2015年10月29日付 英フィナンシャル・タイムズ
ttp://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45133
>無限の可能性を秘めたこの宇宙
>ジンバブエを何十年も(大抵はむちゃくちゃに)支配してきたロバート・ムガベ氏にノーベル平和賞が授与される惑星があるのかもしれない
>だが、この地球では、ムガベ氏は中国版の「同等品」、つまり香港のとある団体が設けた「孔子平和賞」なるもので満足するしかない
>「アンチノーベル平和賞」とも言われるこの賞 >91歳のムガベ氏の建国の取り組みと汎アフリカ主義への貢献を称えて授賞を決めた
>過去にはロシアのウラジーミル・プーチン大統領やキューバのフィデル・カストロ元議長などが受賞してい
>今回ムガベ氏が選ばれたことにより、西側の価値観への敵意をむき出しにした賞だという評価はさらに強固
>この賞は大きな流れの中の小さな、そしていささか奇妙な一例にすぎない
>中国共産党はゆっくりとではあるが確実に
>西側中心の世界観に匹敵するナラティブ(物語)を構築しようとしている
>過去100年間は、民主主義や個人の自律、法の支配といった米国の概念が普遍的と見なされる時代がほとんどだった
>が、中国はこれに異議を申し立て始めている
>中国政府がいろいろな事象について自分なりの解釈や説明を構築したいと考えることは、その影響力増大がもたらす予見可能な結果
>この国は同じことをほかの分野でも行っている。金融の分野では、通貨人民元でドルに対抗しようとしている
>また、アジア・インフラ投資銀行(AIIB) >ブレトンウッズ機関と並列させる形で立ち上げつつある
>西側の世界観を避ける人なら誰でも味方?
>ムガベ氏への賞の授与からは、西側の世界観を避ける人物
>――たとえそれがどれほど問題の多い人物であっても
>――とにかく味方したいという意識が透けて見える
>ムガベ氏も臆面もなくこれを辞退した
https://www.youtube.com/watch?v=JnpBtRlfdjc
ttp://www.amazon.co.jp/dp/4622079178?tag=weblog004-22&ie=UTF8
ユダヤの手羽先のアングロサクソンなんて、そんなもんだろw