●『中国化する日本』(與那覇 潤・著) | 単行本 | 書籍情報 | 文藝春秋 立ち読み可能
http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163746906
●『中国化する日本』 與那覇潤著 : 書評 : (2011年12月12日 読売新聞)
評・椹木野衣(美術批評家・多摩美大教授)
未曽有の試練への指南
副題に「一千年史」の文字が躍る。わずか三百頁(ページ)あまりで一千年史を語れるものか。そう思われても仕方があるまい。少なくとも、あの三月十一日までは。
数百年に一度と呼ばれる大災害が起こったいま、千年と聞いて驚く者はもういない。なぜ、我々はかくも無防備だったのか。一千年単位の歴史を語れずにいたからだ。たかだか戦後の日米関係や、明治の欧化だけで近代に仲間入りを果たしたと過信していた。端的に言って、思考の尺が短かすぎた。ではどうするか。
本書ではまず、世界史において近代化とは宋の中国に始まったと語られる。身分制を排し、科挙制度を導入して中央集権を徹底。印刷メディアを駆使して価値観をあまねく統一。民には自由な市場を開いた。これらを一方的に西洋の達成とするのがいかに早とちりであったか。歴史学の最新の知見を随所にちりばめ、ときに強烈な皮肉さえ交え、著者は読者を説得していく。
そもそも、いま躍進する中国の原動力はなにか。宋代の徹底した近代化が、国家という概念さえ溶解しつつある現在の世界情勢に、前もって完璧に適合していたからだ。つまり、遅れた中国が西洋=近代化しているのではない。逆に、世界の方がいま、やっと中華=近代化を余儀なくされつつあるのだ。
これにもっとも遠い道を歩んで来たのが我が国に他ならない。日本は宋と疎遠になることで貴族や武家が特権を得、中央集権が崩れて諸大名が跋扈(ばっこ)し、最終的に江戸=鎖国化で安定した。その後、明治維新を迎えるが、気がつくといつも、政治、経済はおろか科学さえ「江戸」的なイエ(家族)、ムラ(会社)に引き戻されてきた。
近代以後の日本を支えたのが、実のところ、このような江戸時代的なシステムの継続にすぎなかったのだとしたら、両者が劇的に失われつつある現在、日本もまた中華=近代化するしかない。それこそ本当の意味で未曾有(みぞう)の試練だろう。本書は、そのための指南の書でもある。
◇よなは・じゅん=1979年生まれ。愛知県立大准教授・日本近現代史。
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20111212-OYT8T00287.htm
●『中国化する日本』 (與那覇潤 著) | 著者インタビュー 「西洋化」に代わる物語を - 本の話WEB 2011.12.14 08:00
発売後1週間で増刷が決まるなど、『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(11月刊)が好調である。著者の與那覇潤さんは弱冠32歳の大学准教授。本書は著者のふだんの講義内容をまるでライブ録音そのままに、会話体で書き下ろしたものだというが、タイトルにある「一千年史」のとおり、院政の開幕/源平合戦から政権交代/ポスト3.11まで、1000年超の日本史すべてを斬新な視点で論じ切る内容が話題になっている。その狙いや執筆の舞台裏を、與那覇さんに語っていただいた。
(注・文中の「*」印のあるURLは外部リンクです)
――與那覇さんの本来の専門は明治時代の沖縄問題(*『翻訳の政治学』 岩波書店 2009)で、前著で扱っているのは昭和の戦争(*『帝国の残影』 NTT出版 2011)と、これまで近現代史の分野で研究をしてこられました。それが今回はそもそも、どうして一人で1000年分も書こうと思ったんですか?
與那覇 普通じゃないですよね(笑)。ただ、従来からよきにつけ悪しきにつけ、日本の近代化って「特殊」だ、といつも言われてきた。「よき」の方は「アジアで唯一の列強入り」や「奇跡の戦後復興」であり、「悪しき」の方は「歪んだ軍国主義」とか、「民主主義の不成熟」とか。でも、そういうこと言うならじゃあ、日本の近代化の歩みはいつどこで「歪められた」のか。その「特殊さ」の起源をつきつめて考えていくと、結局そこまで遡らないといけないことに気づいたんです。
――遡るといっても、普通の本なら明治かせいぜい幕末までで、日本が「欧米列強」と比べていかに「特殊」かを説明してゆくわけですよね。ところがこの本だと、なんと源平合戦まで戻っちゃうから、比較の対象も欧米ではなく中国に。
與那覇 はい。たとえば先日の*TPP論争でも「開国」や「黒船」にたとえられて、「どうして日本人はグローバル化がヘタなのか」とか、逆に「そもそもロクなもんじゃないグローバリズムに日本が合わせる必要があるのか」とか、議論されてましたよね。でも実はこれって、今に始まった話じゃないんですよ。中世の昔から日本は「グローバル・スタンダードに合わせるのか、日本独自の道をゆくのか」で揺れてきて、源平合戦も南北朝の動乱もある意味、全部それをめぐる争い。ただし、当時はヨーロッパなんて後進地域だったので、その「グローバル・スタンダード」は「中国標準」のことだった。
――それがタイトルの『中国化する日本』の由来なわけですね。
與那覇 そうです。第1章(※期間限定で無料ダウンロード実施中。2012年1月5日まで)に書いたことなんですけど、実際、日本史でいうと中世の年代に当たる宋朝以降の中国の国内秩序と、現在賛否両論の「グローバリズム」の国際秩序は、すごく似ていて。よく言えば徹底的な競争社会、悪く言うと弱肉強食の格差社会で、形式的には「平等」な条件で自由競争していることになってるにもかかわらず、実態としては猛烈な権力の「一極化」や富の偏在が起きている。そういう中国=グローバル社会のあり方を受け入れるか否か、で国論が二分されたから、日本は中世のあいだはものすごい内戦状態だったんだけど、結局、「受け入れない」という結論を出したおかげで、近世にはピタリと平和になって…。
中華文明・日本文明、1000年の構図
――江戸時代の「徳川文明」ができたと。いわゆる「国民性」とか「日本らしさ」のようなものはこの時、「中国化」の影響力を脱することで初めてできたんだ、という点を本書は強調していますよね。そして、それがあまりにも日本人にとっては居心地がよかったので…。
與那覇 心のふるさとになってしまって、疲れるといつもそこに帰りたがる(笑)。自分の本では「再江戸時代化」という言葉で表現している部分です。明治維新で産業革命をやってガバッと競争社会にしたけど、「昭和維新」では農本主義で農村を救えとか、ブロック経済で雇用を守れとかで、ガチガチの国家統制に戻しちゃう。戦後も高度成長でガンガン人口が都市に出てきて根無し草になると、田中角栄の国土の均衡ある発展とか、竹下登のふるさと創生事業とかで、やっぱり『古き良き地方社会』のイメージを守ろうとする。小泉改革であれだけ規制緩和だ自由競争だと言ってたのに、彼が首相を辞めたらあれよあれよという間に昭和ブームが起きちゃって、「やっぱり、ちょっとくらい不自由でも我慢しあって生きてくのが日本人だよ」みたいな(笑)。これは結局、中世の頃に「中華文明」を取り入れかけたんだけど、結局それについていけなくて別の道を選んだ、*日本文明というものの体質の表れなんです、よくも悪くも。
――サブタイトルにある『日中「文明の衝突」一千年史』というのも、そういう含みがあるわけですね。元寇や日中戦争のような、両国が直接「軍事衝突」した事例だけではなくて、中華文明と日本文明という二つの文明が、東アジアでパフォーマンスを競い合った1000年間という構図で描かれている。
與那覇 その通りです。逆にいうと、今日のグローバリゼーションの核にあるとされる「西洋文明」というのは、新参者として後から日中に割り込んできたわけ。しかもコイツが曲者で、ある面では中華文明に似てるのだけど、他の面では日本文明に近い。その結果として、20世紀の半ばまでは日本文明のほうが相対的にうまく適応していたのですが、冷戦が終わる頃から、昨今かまびすしい「停滞する日本」と「台頭する中国」という構図が出てきちゃった。江戸時代って基本的には農耕文明で、そのムラ社会を護送船団方式や日本的経営に改装することで、工業化にも適合させて「延長」してたのが昭和期の「再江戸時代化」だったんですけど、資本主義が金融化・情報化・サービス産業化していくと遂についていけなくなった。最初は「COOL JAPANで世界市場を席巻だ!」とか言ってたはずが、今や「韓流やK-POPに国内市場を盗られる」とかいう話になってるでしょう(笑)。西洋文明のうち中華文明に近い方の側面がグローバル化で前面に出てきたから、中国・韓国の方がうまく乗っかっちゃってるわけですね。
――そして『中国化する日本』ということは、1000年間の戦いを経て、最後の勝利者は中国に…?
與那覇 いえ、そうは断定していないんです、よく誤解されてるみたいですけど(笑)。むしろこれまで長いこと、「西洋化」とか「グローバル化」とか言われると、あたかも自明に「いいもの」だとか、「欧米先進国に並ぶためにやらなくちゃいけないこと」みたいに見えちゃってたわけじゃないですか。でも、「それ、実は中国化かもよ」って言われたら、ちょっとギョッとなるというか、少なくとも、「いったいその内実が何で、どんなメリットとデメリットがあるのか、きちんと判断してから考えよう」とは思いますよね。それこそが今の日本で必要な態度だと思うし、実際、近代以降「西洋化」してきたと言われてる日本だって、実のところは「中国化」しかして来なかったんじゃないかとも言えるので…。
政治に失望すると授業が人気に?
――本当ですか!? たとえばどんな…?
與那覇 今の政治なんか典型じゃないですか。本書が出て1週間後に、ダブル選挙で大阪維新の会が勝ちましたけど、これってもう政党どうしの争いではなくて、橋下徹さんというカリスマ個人への期待ですよね。複数の国政政党が、全国レベルで日本をどうしたいかというマニフェストを出し合って、その一環で地方の首長選挙があるわけじゃなくて、まずは橋下さんという「トップ」一人だけを地域の住民みんなで担いで、後はその人気や権勢にぶら下がりたい人たちが議員としてついてくればOKと。もちろんそれを見て「民主主義の危機だ」って騒ぐ人たちもいるけど、ある意味これって中国的な「民主主義」なんですよ。皇帝一人を推戴して、その人が既得権益者をバッサバッサとなぎ倒すのをみんなで応援しようと。だから伝統中国で「選挙」といえば、一人一票で議会の議員を選ぶ投票じゃなくて、皇帝の手足になるスタッフを試験で選抜する科挙のことなわけです。
――つまり、日本が「西洋化」してきたと思っているから混乱するけど、「中国化」してきたんだと思えば、しごく当然の帰結であるということですか。
與那覇 そうそう。国政レベルだってそうですよね、盛り上がるのは「誰を次の総理に」でトップのクビをすげ替えるときだけで、替える理由もよく分からない。政策を転換するために交替させるっていうよりも、支持率が落ちてきて「人徳がないから」とかなんかそんな感じ(笑)。国会の審議や政治報道だって、与野党間で政策を競うよりもスキャンダルをつつきあう方が注目が集まるから、ゴシップ記事みたいな話ばっかりじゃないですか。要するに「政策的にとるべき選択肢は何か」の議論と、「道徳的に優れた統治者は誰か」の議論を区別できてないわけで、近代西洋型の合理主義というよりも、儒教の道徳原理に支えられた伝統中国の徳治主義のほうに近い。
――これまで自民党の長期政権が続いてきたあいだは、日本の民主主義は政権交代がないから「特殊」でダメなものだと言われてきて、だから2009年に民主党政権ができた時には一見、「これでヨーロッパに追いついた」となった。しかし、実際の日本は「西洋化」するどころか「中国化」していたので、今日の体たらくに…。
與那覇 それがまさに本書の隠れモチーフですね。実は、この前も学生さんと笑いあったんだけど、自分の授業の人気って政治への期待と反比例するらしいんですよ(笑)。
――本当ですかそれ(笑)? 「授業」というのは、本書のもとになった…。
與那覇 まぁ、別に学問的に分析したわけじゃないんで、本当に当たってるかは分からないですけど、現にいちばん受講者が少なかったのが、2009年の鳩山内閣発足直後の冬学期で、なんとたった2人。
――2人って、講義録が出る授業がですか(笑)?
與那覇 そうです(笑)。逆に、その後半年経って民主党政権がグダグダになってきて、次の夏学期が始まる4月になると、普天間問題で誰の目にもぐちゃぐちゃになってたじゃないですか。そうしたら途端に今度は教室が満員になって、ただの選択科目なのに過半数が受講する学年まで出てきちゃった。しかも、明らかに教室の空気が一変したんですね。それまでも受講生の態度が悪かったわけじゃないけど、明らかにみんなが積極的というか、表情が真剣というか。今年も菅直人さんのおかげかどうかはわからないけど(笑)、やっぱりそういう雰囲気が続いています。
西洋化とは全く違う「大きな物語」
――それはどうしてなんですか?
與那覇 たぶん、「政権交代をすれば日本はよくなる」っていうのが、*日本に残っていた最後の「大きな物語」 だったと思うんです。私たちは「西洋化」というよりよい道を歩いてきていて、自民党という邪魔者がそれに立ち塞がっているけれども、それさえ打ち壊せばなんとかなるんだ、っていう。そういう「すでにインプットされている、一見なんでもそれで説明できそうなストーリー」――学者の用語で言うと「マスター・ナラティヴ」とか、「パラダイム」になりますが――が機能している状態だと、実は日本は西洋化じゃなくて中国化してるんだ、なんていう「マイナーなストーリー」を喋ったって、普通は耳に入っていかないわけで。
――なるほど。逆に、これまでの「大きな物語」のウソがバレたから、これはちょっと、違う物語で説明してもらわないと、もうわけがわからないぞと。
與那覇 そういうことだと思うんです。実際、印象深かったのは、その受講者が一気に増えた2010年の夏休みに、まさしく日本人の中国イメージって一変するわけじゃないですか、尖閣沖漁船衝突事件。自分は最初、これで「ああ、冬学期は学生減って元の木阿弥だな」と思ってたんですよ。それまでも中国化だなんていうと、「中国は嫌いだから興味ありません」とか、「あんな遅れた国に日本がなっていくなんて意味不明」みたいな反応が絶対にあったし、北京五輪と関連してチベット問題がお茶の間のニュースになった頃から、やっぱり中国語の履修者がガクンと減ったっていう先生の話も聞いたことがあったんで。ところが、まさに尖閣問題沸騰のさなかに教室に出ていったら、ほとんど減ってない。「ムカツク中国の話なんて聞きたくない」じゃないんですよ。むしろ「どうなってるんだ、説明してくれ」という意欲の方が強かった。
――随所で従来の右翼/左翼の歴史観をバッサリやっているのもそのためですか。学者が書いたカタめの参考文献を数多く紹介する一方で、時事ネタに引きつけたべらんめえ調の政治談議が豊富なのも、本書の珍しいところですよね。
與那覇 マスメディアに載る歴史のニュースや一般向けの歴史の本に、「右の歴史と左の歴史、さぁ正しいのはどっち?」的な煽り方のものが多いせいで、学生さんも含めて勘違いしてしまう人が多いんですけど、それって今や学問的な歴史の議論とは、完全な別物なんですよ。そもそもこれまでの右翼/左翼って、大雑把にいえば人類がみんな「西洋化」していくというウソの物語に乗っかった上で、「日本も『もう十分に西洋化した』と威張っていいのか?」とか、ちまちましたことを争ってきただけで。あるいは、「西洋化の結果として、われわれ日本固有の伝統を失っていいのか?」みたいな議論もあったけど、でも、現に西洋化うんぬん以前に中国化しかしてないんだったら、決定的にピントがズレてるわけですね。本当に面白い歴史はそっちじゃないよ、と伝えたいから、アカデミックな歴史の専門研究の紹介と、ベタな左右の論説の全否定とを、どっちも一冊でやっています(笑)。
――ひょっとすると本書を買っている人も、これまでの歴史観の賞味期限が切れたことにうすうす気づいて、新しい「大きな物語」を求めているんでしょうか。「西洋化」していたはずの日本のいきづまりと、逆に「近代化」の劣等生だったはずの中国の不気味な台頭を、分かりやすく説明してくれるストーリーを…。
與那覇 もしそうだったら、すごく嬉しいですね。いま「大きな物語」っていうのは色んなところで評判が悪くて、たとえば歴史学者だったら「実証性がなく大雑把すぎる。細かい事例の具体的な分析に基づいていない」という批判は当然あると思うし、評論の世界でも「これだけ『個人』が分裂し多様化した時代に、いまさら『国家』や『文明』みたいな単位で物語なんか語れるのか」って言われても仕方がない。あるいは3.11の原発事故や震災復興とか、もしくはそれ以前から格差問題や反貧困とかの現場にいる人なら「まさにいま目の前にこんな問題があるのに、1000年分振り返ってみましょうだなんて悠長なことを言ってる場合なのか」という印象を持たれるかもしれない。ただ、自分は日本社会が大きな曲がり角にあるいまだからこそ、これまでのもの(西洋化)とは全く違う「大きな物語」(中国化)を立てて、いっぺん考えてみる必要があると思ってる。大げさに言うと、それを通じて日本の針路を示せるかどうかに、「歴史」というものに今もまだ意味があるのかどうかが、懸かってると思うんです。
――ありがとうございました。
http://hon.bunshun.jp/articles/-/445
●脱・肩書き社会~僕らは名刺なしで生きられるか?|永田公彦 パリ発・ニッポンに一言!|ダイヤモンド・オンライン
確実に進む「脱・肩書き社会」に備え
名刺をしまってみよう
世界は、日々猛烈なスピードで激変しています。「昨日の経験・知識・技術・モデルは、明日にはもう使えなくなる」と言っても過言ではありません。このグローバルな市場環境の変化に素早く対応できない国や企業は、その規模に関係なく、瞬く間に破綻の運命をたどります。今や、「安定雇用の大企業」「クビにならない公務員」というこれまでの定説は、日本も含め世界的に崩れてだしています。
ここで、こうした破綻を避けるための基本的な2大インフラは、「スピード」と「創造」ですが、果たして肩書きは、この2大インフラ整備に必要でしょうか?
答えは「いいえ、むしろ足かせ」です。幾重もの肩書きは、環境変化への対応を遅らせます。また、自由な環境が必要な創造活動には、肩書きは何の関係もなく、むしろ創造の芽を摘むリスクがあります。
こうした中で日本も、スピードと創造を求め「脱・肩書き」に向かうグローバル社会に深く組み込まれています。その結果、戦後のNYKを頂点にした肩書きピラミッドの崩壊も進み、今後も「脱・肩書き」が急激に進むと予測されます。
今からでも遅くありません。僕も含め、私たちは、肩書きと名刺を一旦引き出しにしまってみましょう。そして、個人(名前、人格・価値観・実績・能力・意志)として、充実した仕事や生活をするには、何が必要なのかをじっくり考える時が来ているのではないでしょうか。
http://diamond.jp/articles/-/15427?page=5
●日本は社会主義国家を目指すのか? : アゴラ - ライブドアブログ
http://agora-web.jp/archives/1412823.html
●Amazon.co.jp: 城 繁幸:作品一覧、著者略歴
http://www.amazon.co.jp/城-繁幸/e/B004LULZWC/
【私のコメント】
「中国化する日本」を読んだ。この本は、明治維新以来の日本人の意識転換を迫るものである。この本では、宋が貴族制を打破して科挙官僚を通じた皇帝の権力強化に踏み切ったことと貴族の荘園から農民が解放されて居住や職業選択の自由が実現したことを重視し、宋が世界で最も早く近世に移行した国であると説く。そして、近代の欧州の躍進は宋の哲学の影響を受けたものであり、逆に欧州の様な後進地域が世界の最先進地域に躍進できたことが最大の謎であると主張している。また、源平の争いは宋銭を大量に輸入して日本も宋の経済圏に参入しようとする平家と従来の農業主体の経済に固執する源氏の対立であり、源氏の勝利の結果日本は長い武家政治の期間中経済の停滞を経験、対照的に宋や清では経済が発展し人口も急増したと指摘している。著者の主張は多くの引用文献で裏付けられたおり、既に歴史学の定説になりつつある様だ。
1970年代末から中国と米英の三カ国で開始された新自由主義も宋の改革理念を実行したものであり特に中国で大成功を収めたとの認識の元に、著者は日本も中国的な社会に移行していく運命にあると予測している。一見欧米化している様に見えても、欧米の変化のお手本が中国である以上、それは中国化なのだという。
現在の日本では終身雇用制が崩壊し始めている。終身雇用制では多数の正社員に安定し上昇し続ける年功給を支払い続ける義務があるが、現在の様な低成長で競争が厳しく先行きが見通せない時代にはそのような雇用システムには無理がある。また、IT化の進行と貿易の拡大で、モジュール化された製品を賃金の安い途上国で生産し組み立てて先進国に輸出するというビジネスモデルが大成功を収めており、非モジュール化製品に強みを持っていた日本の製造業は苦境にある。この現状で終身雇用にこだわる日本の企業は少数の若手社員が膨大な雑用に追いまくられ、仕事に見合わない高給を得る多数の中高年社員を支えるという不合理な状況になっている。また、海外に留学した大学生・社会人や文系院卒、出産した女性などの「大卒一括採用終身雇用」システムから一度離脱した人々が能力とは無関係に雇用の機会を失っているという現実がある。城 繁幸などの多数の論者が指摘するとおり、終身雇用の崩壊は避けられないだろう。そして、工業高校卒業者を中心とする工場の技能職などの長期雇用での技術継承が期待できる分野以外では、従来型の年功序列給与システムから欧米型の職務給に移行するしかないだろう。
終身雇用システムは鎌倉時代から江戸時代に至る武家政治の強い影響を受けている。家来は殿様に忠誠心を持ち一生奉公し続ける。殿様はそれを評価しご恩を与える。別の殿様に乗り換えるのは許されない不忠な行為である。家来は職業選択の自由がないために、必死で働くしかない。同様に日本企業でも転職の道が閉ざされているために社員はサービス残業を続け滅私奉公し続けるのだ。まさに社畜と呼ぶに相応しい。
しかし、日本でもそのような終身雇用システムではなく、転職が容易で職務給で人が評価される分野がある。医者(ただし大学教授を目指す研究者は除く)はその筆頭だ。弁護士や会計士などの資格職も同様だろう。このような職では、各個人は自己の能力の伸張や給与の上昇、やりがいなどを目的に転職を繰り返していくという欧米に近い労働環境が既に実現している。彼らはサービス残業は基本的に行わない。滅私奉公的な勤務を要求する病院には容赦なく辞表を叩き付けて去って行く。そして、臨床医師、特に勤務医は患者が急変すれば病院に駆けつけることを当たり前と考えており、高いモラルも維持されている。このような現状を考えれば、日本人の賃金労働者の多くが職務給に移行しても日本に大きな不利益は出ない様に思われる。
では、日本の大企業はなぜ終身雇用制に固執するのだろうか?それは中高年が既得権を維持したいというのも一つの理由だろう。横並びを好む日本企業では誰かが口火を切らない限り職務給への移行は不可能というのも考えられる。しかし、大企業が終身雇用制の維持が有益だと考えているから、という理由もあり得る。終身雇用制は転職という退路を断たれた社員たちが滅私奉公で働くので会社には有益なのだ。今後日本企業が大挙して職務給に移行するならば、社員たちは自己の利益と顧客の利益を最優先し、企業の利益は考慮しなくなる。その時に日本企業がどうなるかが問題だろう。
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●『中国化する日本』 與那覇潤著 : 書評 : (2011年12月12日 読売新聞)
評・椹木野衣(美術批評家・多摩美大教授)
未曽有の試練への指南
副題に「一千年史」の文字が躍る。わずか三百頁(ページ)あまりで一千年史を語れるものか。そう思われても仕方があるまい。少なくとも、あの三月十一日までは。
数百年に一度と呼ばれる大災害が起こったいま、千年と聞いて驚く者はもういない。なぜ、我々はかくも無防備だったのか。一千年単位の歴史を語れずにいたからだ。たかだか戦後の日米関係や、明治の欧化だけで近代に仲間入りを果たしたと過信していた。端的に言って、思考の尺が短かすぎた。ではどうするか。
本書ではまず、世界史において近代化とは宋の中国に始まったと語られる。身分制を排し、科挙制度を導入して中央集権を徹底。印刷メディアを駆使して価値観をあまねく統一。民には自由な市場を開いた。これらを一方的に西洋の達成とするのがいかに早とちりであったか。歴史学の最新の知見を随所にちりばめ、ときに強烈な皮肉さえ交え、著者は読者を説得していく。
そもそも、いま躍進する中国の原動力はなにか。宋代の徹底した近代化が、国家という概念さえ溶解しつつある現在の世界情勢に、前もって完璧に適合していたからだ。つまり、遅れた中国が西洋=近代化しているのではない。逆に、世界の方がいま、やっと中華=近代化を余儀なくされつつあるのだ。
これにもっとも遠い道を歩んで来たのが我が国に他ならない。日本は宋と疎遠になることで貴族や武家が特権を得、中央集権が崩れて諸大名が跋扈(ばっこ)し、最終的に江戸=鎖国化で安定した。その後、明治維新を迎えるが、気がつくといつも、政治、経済はおろか科学さえ「江戸」的なイエ(家族)、ムラ(会社)に引き戻されてきた。
近代以後の日本を支えたのが、実のところ、このような江戸時代的なシステムの継続にすぎなかったのだとしたら、両者が劇的に失われつつある現在、日本もまた中華=近代化するしかない。それこそ本当の意味で未曾有(みぞう)の試練だろう。本書は、そのための指南の書でもある。
◇よなは・じゅん=1979年生まれ。愛知県立大准教授・日本近現代史。
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20111212-OYT8T00287.htm
●『中国化する日本』 (與那覇潤 著) | 著者インタビュー 「西洋化」に代わる物語を - 本の話WEB 2011.12.14 08:00
発売後1週間で増刷が決まるなど、『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(11月刊)が好調である。著者の與那覇潤さんは弱冠32歳の大学准教授。本書は著者のふだんの講義内容をまるでライブ録音そのままに、会話体で書き下ろしたものだというが、タイトルにある「一千年史」のとおり、院政の開幕/源平合戦から政権交代/ポスト3.11まで、1000年超の日本史すべてを斬新な視点で論じ切る内容が話題になっている。その狙いや執筆の舞台裏を、與那覇さんに語っていただいた。
(注・文中の「*」印のあるURLは外部リンクです)
――與那覇さんの本来の専門は明治時代の沖縄問題(*『翻訳の政治学』 岩波書店 2009)で、前著で扱っているのは昭和の戦争(*『帝国の残影』 NTT出版 2011)と、これまで近現代史の分野で研究をしてこられました。それが今回はそもそも、どうして一人で1000年分も書こうと思ったんですか?
與那覇 普通じゃないですよね(笑)。ただ、従来からよきにつけ悪しきにつけ、日本の近代化って「特殊」だ、といつも言われてきた。「よき」の方は「アジアで唯一の列強入り」や「奇跡の戦後復興」であり、「悪しき」の方は「歪んだ軍国主義」とか、「民主主義の不成熟」とか。でも、そういうこと言うならじゃあ、日本の近代化の歩みはいつどこで「歪められた」のか。その「特殊さ」の起源をつきつめて考えていくと、結局そこまで遡らないといけないことに気づいたんです。
――遡るといっても、普通の本なら明治かせいぜい幕末までで、日本が「欧米列強」と比べていかに「特殊」かを説明してゆくわけですよね。ところがこの本だと、なんと源平合戦まで戻っちゃうから、比較の対象も欧米ではなく中国に。
與那覇 はい。たとえば先日の*TPP論争でも「開国」や「黒船」にたとえられて、「どうして日本人はグローバル化がヘタなのか」とか、逆に「そもそもロクなもんじゃないグローバリズムに日本が合わせる必要があるのか」とか、議論されてましたよね。でも実はこれって、今に始まった話じゃないんですよ。中世の昔から日本は「グローバル・スタンダードに合わせるのか、日本独自の道をゆくのか」で揺れてきて、源平合戦も南北朝の動乱もある意味、全部それをめぐる争い。ただし、当時はヨーロッパなんて後進地域だったので、その「グローバル・スタンダード」は「中国標準」のことだった。
――それがタイトルの『中国化する日本』の由来なわけですね。
與那覇 そうです。第1章(※期間限定で無料ダウンロード実施中。2012年1月5日まで)に書いたことなんですけど、実際、日本史でいうと中世の年代に当たる宋朝以降の中国の国内秩序と、現在賛否両論の「グローバリズム」の国際秩序は、すごく似ていて。よく言えば徹底的な競争社会、悪く言うと弱肉強食の格差社会で、形式的には「平等」な条件で自由競争していることになってるにもかかわらず、実態としては猛烈な権力の「一極化」や富の偏在が起きている。そういう中国=グローバル社会のあり方を受け入れるか否か、で国論が二分されたから、日本は中世のあいだはものすごい内戦状態だったんだけど、結局、「受け入れない」という結論を出したおかげで、近世にはピタリと平和になって…。
中華文明・日本文明、1000年の構図
――江戸時代の「徳川文明」ができたと。いわゆる「国民性」とか「日本らしさ」のようなものはこの時、「中国化」の影響力を脱することで初めてできたんだ、という点を本書は強調していますよね。そして、それがあまりにも日本人にとっては居心地がよかったので…。
與那覇 心のふるさとになってしまって、疲れるといつもそこに帰りたがる(笑)。自分の本では「再江戸時代化」という言葉で表現している部分です。明治維新で産業革命をやってガバッと競争社会にしたけど、「昭和維新」では農本主義で農村を救えとか、ブロック経済で雇用を守れとかで、ガチガチの国家統制に戻しちゃう。戦後も高度成長でガンガン人口が都市に出てきて根無し草になると、田中角栄の国土の均衡ある発展とか、竹下登のふるさと創生事業とかで、やっぱり『古き良き地方社会』のイメージを守ろうとする。小泉改革であれだけ規制緩和だ自由競争だと言ってたのに、彼が首相を辞めたらあれよあれよという間に昭和ブームが起きちゃって、「やっぱり、ちょっとくらい不自由でも我慢しあって生きてくのが日本人だよ」みたいな(笑)。これは結局、中世の頃に「中華文明」を取り入れかけたんだけど、結局それについていけなくて別の道を選んだ、*日本文明というものの体質の表れなんです、よくも悪くも。
――サブタイトルにある『日中「文明の衝突」一千年史』というのも、そういう含みがあるわけですね。元寇や日中戦争のような、両国が直接「軍事衝突」した事例だけではなくて、中華文明と日本文明という二つの文明が、東アジアでパフォーマンスを競い合った1000年間という構図で描かれている。
與那覇 その通りです。逆にいうと、今日のグローバリゼーションの核にあるとされる「西洋文明」というのは、新参者として後から日中に割り込んできたわけ。しかもコイツが曲者で、ある面では中華文明に似てるのだけど、他の面では日本文明に近い。その結果として、20世紀の半ばまでは日本文明のほうが相対的にうまく適応していたのですが、冷戦が終わる頃から、昨今かまびすしい「停滞する日本」と「台頭する中国」という構図が出てきちゃった。江戸時代って基本的には農耕文明で、そのムラ社会を護送船団方式や日本的経営に改装することで、工業化にも適合させて「延長」してたのが昭和期の「再江戸時代化」だったんですけど、資本主義が金融化・情報化・サービス産業化していくと遂についていけなくなった。最初は「COOL JAPANで世界市場を席巻だ!」とか言ってたはずが、今や「韓流やK-POPに国内市場を盗られる」とかいう話になってるでしょう(笑)。西洋文明のうち中華文明に近い方の側面がグローバル化で前面に出てきたから、中国・韓国の方がうまく乗っかっちゃってるわけですね。
――そして『中国化する日本』ということは、1000年間の戦いを経て、最後の勝利者は中国に…?
與那覇 いえ、そうは断定していないんです、よく誤解されてるみたいですけど(笑)。むしろこれまで長いこと、「西洋化」とか「グローバル化」とか言われると、あたかも自明に「いいもの」だとか、「欧米先進国に並ぶためにやらなくちゃいけないこと」みたいに見えちゃってたわけじゃないですか。でも、「それ、実は中国化かもよ」って言われたら、ちょっとギョッとなるというか、少なくとも、「いったいその内実が何で、どんなメリットとデメリットがあるのか、きちんと判断してから考えよう」とは思いますよね。それこそが今の日本で必要な態度だと思うし、実際、近代以降「西洋化」してきたと言われてる日本だって、実のところは「中国化」しかして来なかったんじゃないかとも言えるので…。
政治に失望すると授業が人気に?
――本当ですか!? たとえばどんな…?
與那覇 今の政治なんか典型じゃないですか。本書が出て1週間後に、ダブル選挙で大阪維新の会が勝ちましたけど、これってもう政党どうしの争いではなくて、橋下徹さんというカリスマ個人への期待ですよね。複数の国政政党が、全国レベルで日本をどうしたいかというマニフェストを出し合って、その一環で地方の首長選挙があるわけじゃなくて、まずは橋下さんという「トップ」一人だけを地域の住民みんなで担いで、後はその人気や権勢にぶら下がりたい人たちが議員としてついてくればOKと。もちろんそれを見て「民主主義の危機だ」って騒ぐ人たちもいるけど、ある意味これって中国的な「民主主義」なんですよ。皇帝一人を推戴して、その人が既得権益者をバッサバッサとなぎ倒すのをみんなで応援しようと。だから伝統中国で「選挙」といえば、一人一票で議会の議員を選ぶ投票じゃなくて、皇帝の手足になるスタッフを試験で選抜する科挙のことなわけです。
――つまり、日本が「西洋化」してきたと思っているから混乱するけど、「中国化」してきたんだと思えば、しごく当然の帰結であるということですか。
與那覇 そうそう。国政レベルだってそうですよね、盛り上がるのは「誰を次の総理に」でトップのクビをすげ替えるときだけで、替える理由もよく分からない。政策を転換するために交替させるっていうよりも、支持率が落ちてきて「人徳がないから」とかなんかそんな感じ(笑)。国会の審議や政治報道だって、与野党間で政策を競うよりもスキャンダルをつつきあう方が注目が集まるから、ゴシップ記事みたいな話ばっかりじゃないですか。要するに「政策的にとるべき選択肢は何か」の議論と、「道徳的に優れた統治者は誰か」の議論を区別できてないわけで、近代西洋型の合理主義というよりも、儒教の道徳原理に支えられた伝統中国の徳治主義のほうに近い。
――これまで自民党の長期政権が続いてきたあいだは、日本の民主主義は政権交代がないから「特殊」でダメなものだと言われてきて、だから2009年に民主党政権ができた時には一見、「これでヨーロッパに追いついた」となった。しかし、実際の日本は「西洋化」するどころか「中国化」していたので、今日の体たらくに…。
與那覇 それがまさに本書の隠れモチーフですね。実は、この前も学生さんと笑いあったんだけど、自分の授業の人気って政治への期待と反比例するらしいんですよ(笑)。
――本当ですかそれ(笑)? 「授業」というのは、本書のもとになった…。
與那覇 まぁ、別に学問的に分析したわけじゃないんで、本当に当たってるかは分からないですけど、現にいちばん受講者が少なかったのが、2009年の鳩山内閣発足直後の冬学期で、なんとたった2人。
――2人って、講義録が出る授業がですか(笑)?
與那覇 そうです(笑)。逆に、その後半年経って民主党政権がグダグダになってきて、次の夏学期が始まる4月になると、普天間問題で誰の目にもぐちゃぐちゃになってたじゃないですか。そうしたら途端に今度は教室が満員になって、ただの選択科目なのに過半数が受講する学年まで出てきちゃった。しかも、明らかに教室の空気が一変したんですね。それまでも受講生の態度が悪かったわけじゃないけど、明らかにみんなが積極的というか、表情が真剣というか。今年も菅直人さんのおかげかどうかはわからないけど(笑)、やっぱりそういう雰囲気が続いています。
西洋化とは全く違う「大きな物語」
――それはどうしてなんですか?
與那覇 たぶん、「政権交代をすれば日本はよくなる」っていうのが、*日本に残っていた最後の「大きな物語」 だったと思うんです。私たちは「西洋化」というよりよい道を歩いてきていて、自民党という邪魔者がそれに立ち塞がっているけれども、それさえ打ち壊せばなんとかなるんだ、っていう。そういう「すでにインプットされている、一見なんでもそれで説明できそうなストーリー」――学者の用語で言うと「マスター・ナラティヴ」とか、「パラダイム」になりますが――が機能している状態だと、実は日本は西洋化じゃなくて中国化してるんだ、なんていう「マイナーなストーリー」を喋ったって、普通は耳に入っていかないわけで。
――なるほど。逆に、これまでの「大きな物語」のウソがバレたから、これはちょっと、違う物語で説明してもらわないと、もうわけがわからないぞと。
與那覇 そういうことだと思うんです。実際、印象深かったのは、その受講者が一気に増えた2010年の夏休みに、まさしく日本人の中国イメージって一変するわけじゃないですか、尖閣沖漁船衝突事件。自分は最初、これで「ああ、冬学期は学生減って元の木阿弥だな」と思ってたんですよ。それまでも中国化だなんていうと、「中国は嫌いだから興味ありません」とか、「あんな遅れた国に日本がなっていくなんて意味不明」みたいな反応が絶対にあったし、北京五輪と関連してチベット問題がお茶の間のニュースになった頃から、やっぱり中国語の履修者がガクンと減ったっていう先生の話も聞いたことがあったんで。ところが、まさに尖閣問題沸騰のさなかに教室に出ていったら、ほとんど減ってない。「ムカツク中国の話なんて聞きたくない」じゃないんですよ。むしろ「どうなってるんだ、説明してくれ」という意欲の方が強かった。
――随所で従来の右翼/左翼の歴史観をバッサリやっているのもそのためですか。学者が書いたカタめの参考文献を数多く紹介する一方で、時事ネタに引きつけたべらんめえ調の政治談議が豊富なのも、本書の珍しいところですよね。
與那覇 マスメディアに載る歴史のニュースや一般向けの歴史の本に、「右の歴史と左の歴史、さぁ正しいのはどっち?」的な煽り方のものが多いせいで、学生さんも含めて勘違いしてしまう人が多いんですけど、それって今や学問的な歴史の議論とは、完全な別物なんですよ。そもそもこれまでの右翼/左翼って、大雑把にいえば人類がみんな「西洋化」していくというウソの物語に乗っかった上で、「日本も『もう十分に西洋化した』と威張っていいのか?」とか、ちまちましたことを争ってきただけで。あるいは、「西洋化の結果として、われわれ日本固有の伝統を失っていいのか?」みたいな議論もあったけど、でも、現に西洋化うんぬん以前に中国化しかしてないんだったら、決定的にピントがズレてるわけですね。本当に面白い歴史はそっちじゃないよ、と伝えたいから、アカデミックな歴史の専門研究の紹介と、ベタな左右の論説の全否定とを、どっちも一冊でやっています(笑)。
――ひょっとすると本書を買っている人も、これまでの歴史観の賞味期限が切れたことにうすうす気づいて、新しい「大きな物語」を求めているんでしょうか。「西洋化」していたはずの日本のいきづまりと、逆に「近代化」の劣等生だったはずの中国の不気味な台頭を、分かりやすく説明してくれるストーリーを…。
與那覇 もしそうだったら、すごく嬉しいですね。いま「大きな物語」っていうのは色んなところで評判が悪くて、たとえば歴史学者だったら「実証性がなく大雑把すぎる。細かい事例の具体的な分析に基づいていない」という批判は当然あると思うし、評論の世界でも「これだけ『個人』が分裂し多様化した時代に、いまさら『国家』や『文明』みたいな単位で物語なんか語れるのか」って言われても仕方がない。あるいは3.11の原発事故や震災復興とか、もしくはそれ以前から格差問題や反貧困とかの現場にいる人なら「まさにいま目の前にこんな問題があるのに、1000年分振り返ってみましょうだなんて悠長なことを言ってる場合なのか」という印象を持たれるかもしれない。ただ、自分は日本社会が大きな曲がり角にあるいまだからこそ、これまでのもの(西洋化)とは全く違う「大きな物語」(中国化)を立てて、いっぺん考えてみる必要があると思ってる。大げさに言うと、それを通じて日本の針路を示せるかどうかに、「歴史」というものに今もまだ意味があるのかどうかが、懸かってると思うんです。
――ありがとうございました。
http://hon.bunshun.jp/articles/-/445
●脱・肩書き社会~僕らは名刺なしで生きられるか?|永田公彦 パリ発・ニッポンに一言!|ダイヤモンド・オンライン
確実に進む「脱・肩書き社会」に備え
名刺をしまってみよう
世界は、日々猛烈なスピードで激変しています。「昨日の経験・知識・技術・モデルは、明日にはもう使えなくなる」と言っても過言ではありません。このグローバルな市場環境の変化に素早く対応できない国や企業は、その規模に関係なく、瞬く間に破綻の運命をたどります。今や、「安定雇用の大企業」「クビにならない公務員」というこれまでの定説は、日本も含め世界的に崩れてだしています。
ここで、こうした破綻を避けるための基本的な2大インフラは、「スピード」と「創造」ですが、果たして肩書きは、この2大インフラ整備に必要でしょうか?
答えは「いいえ、むしろ足かせ」です。幾重もの肩書きは、環境変化への対応を遅らせます。また、自由な環境が必要な創造活動には、肩書きは何の関係もなく、むしろ創造の芽を摘むリスクがあります。
こうした中で日本も、スピードと創造を求め「脱・肩書き」に向かうグローバル社会に深く組み込まれています。その結果、戦後のNYKを頂点にした肩書きピラミッドの崩壊も進み、今後も「脱・肩書き」が急激に進むと予測されます。
今からでも遅くありません。僕も含め、私たちは、肩書きと名刺を一旦引き出しにしまってみましょう。そして、個人(名前、人格・価値観・実績・能力・意志)として、充実した仕事や生活をするには、何が必要なのかをじっくり考える時が来ているのではないでしょうか。
http://diamond.jp/articles/-/15427?page=5
●日本は社会主義国家を目指すのか? : アゴラ - ライブドアブログ
http://agora-web.jp/archives/1412823.html
●Amazon.co.jp: 城 繁幸:作品一覧、著者略歴
http://www.amazon.co.jp/城-繁幸/e/B004LULZWC/
【私のコメント】
「中国化する日本」を読んだ。この本は、明治維新以来の日本人の意識転換を迫るものである。この本では、宋が貴族制を打破して科挙官僚を通じた皇帝の権力強化に踏み切ったことと貴族の荘園から農民が解放されて居住や職業選択の自由が実現したことを重視し、宋が世界で最も早く近世に移行した国であると説く。そして、近代の欧州の躍進は宋の哲学の影響を受けたものであり、逆に欧州の様な後進地域が世界の最先進地域に躍進できたことが最大の謎であると主張している。また、源平の争いは宋銭を大量に輸入して日本も宋の経済圏に参入しようとする平家と従来の農業主体の経済に固執する源氏の対立であり、源氏の勝利の結果日本は長い武家政治の期間中経済の停滞を経験、対照的に宋や清では経済が発展し人口も急増したと指摘している。著者の主張は多くの引用文献で裏付けられたおり、既に歴史学の定説になりつつある様だ。
1970年代末から中国と米英の三カ国で開始された新自由主義も宋の改革理念を実行したものであり特に中国で大成功を収めたとの認識の元に、著者は日本も中国的な社会に移行していく運命にあると予測している。一見欧米化している様に見えても、欧米の変化のお手本が中国である以上、それは中国化なのだという。
現在の日本では終身雇用制が崩壊し始めている。終身雇用制では多数の正社員に安定し上昇し続ける年功給を支払い続ける義務があるが、現在の様な低成長で競争が厳しく先行きが見通せない時代にはそのような雇用システムには無理がある。また、IT化の進行と貿易の拡大で、モジュール化された製品を賃金の安い途上国で生産し組み立てて先進国に輸出するというビジネスモデルが大成功を収めており、非モジュール化製品に強みを持っていた日本の製造業は苦境にある。この現状で終身雇用にこだわる日本の企業は少数の若手社員が膨大な雑用に追いまくられ、仕事に見合わない高給を得る多数の中高年社員を支えるという不合理な状況になっている。また、海外に留学した大学生・社会人や文系院卒、出産した女性などの「大卒一括採用終身雇用」システムから一度離脱した人々が能力とは無関係に雇用の機会を失っているという現実がある。城 繁幸などの多数の論者が指摘するとおり、終身雇用の崩壊は避けられないだろう。そして、工業高校卒業者を中心とする工場の技能職などの長期雇用での技術継承が期待できる分野以外では、従来型の年功序列給与システムから欧米型の職務給に移行するしかないだろう。
終身雇用システムは鎌倉時代から江戸時代に至る武家政治の強い影響を受けている。家来は殿様に忠誠心を持ち一生奉公し続ける。殿様はそれを評価しご恩を与える。別の殿様に乗り換えるのは許されない不忠な行為である。家来は職業選択の自由がないために、必死で働くしかない。同様に日本企業でも転職の道が閉ざされているために社員はサービス残業を続け滅私奉公し続けるのだ。まさに社畜と呼ぶに相応しい。
しかし、日本でもそのような終身雇用システムではなく、転職が容易で職務給で人が評価される分野がある。医者(ただし大学教授を目指す研究者は除く)はその筆頭だ。弁護士や会計士などの資格職も同様だろう。このような職では、各個人は自己の能力の伸張や給与の上昇、やりがいなどを目的に転職を繰り返していくという欧米に近い労働環境が既に実現している。彼らはサービス残業は基本的に行わない。滅私奉公的な勤務を要求する病院には容赦なく辞表を叩き付けて去って行く。そして、臨床医師、特に勤務医は患者が急変すれば病院に駆けつけることを当たり前と考えており、高いモラルも維持されている。このような現状を考えれば、日本人の賃金労働者の多くが職務給に移行しても日本に大きな不利益は出ない様に思われる。
では、日本の大企業はなぜ終身雇用制に固執するのだろうか?それは中高年が既得権を維持したいというのも一つの理由だろう。横並びを好む日本企業では誰かが口火を切らない限り職務給への移行は不可能というのも考えられる。しかし、大企業が終身雇用制の維持が有益だと考えているから、という理由もあり得る。終身雇用制は転職という退路を断たれた社員たちが滅私奉公で働くので会社には有益なのだ。今後日本企業が大挙して職務給に移行するならば、社員たちは自己の利益と顧客の利益を最優先し、企業の利益は考慮しなくなる。その時に日本企業がどうなるかが問題だろう。
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ある意図のもと数が増えすぎて
メシの食える状態が続くのでしょうか?
http://renzan.org/2011/12/post-218.html
日本のハイテク技術、アジア圏に大量流出が始まったようですね。
この外国通貨らに対する円高傾向は、 日本の 可能的な 売り手 供給 余力 に対する、 外国人投資家らの高い評価 や 期待 に 基づくものでもあります。
それも、
ただの 供給余力 ではなく 、
ドイツ や スイス といった 、
極少ない国々しか実現し得ずに来た、 世界一の高い品質のものらの供給余力に対する、高い期待や評価に立脚した所のある事象なので、 日本に、
そういった品質の極度に高いものらの供給余力が一定以上にある、と観測され得ている間は、
デフレ・ギャップに相応して、大きなものに成っている、 日本の実質金利を目当てとして、 現実に、外国通貨らで日本円を買い進めては、名目的な金利のほとんど付かない日本国債などを買い保持し増して来た、 海外の中央銀行らの投資担当者たちのような、 玄人筋の外国人投資家たちが、 円高を促進し易い、円への買い姿勢を変える事は、 世界経済において、米国政府やその他各国の政府による、公共事業の実施から生ずる、買い手勢の明らかな増大による、好景気化でも無い限りは、 無い わけです。
例えば、
百万円の同一品質の車一台が、半年で、90万円に値下がりし、更に半年で、 80万円に値下がりする、 といったように、
同一金額での、 円の購買力が、段々と大きく成ってゆくので、
日本社会一般の 名目金利 が 、
0 % に成った、としても、
実質金利は、 高く成って行きます。
金利 は、
ある通貨の同一金額を持っているだけで、
一定期間後 や 一定期間中に、
同一品質の物 や サービスらを どれ位 多く買えるように成るか、
あるいは、 同一数量の物 や サービスらについて、 どれ程 質を高めたものらを 買える ように成るか、
といった事によって、その実質の大きさを量り観られ得る、という事です。
デフレ下では、
実質金利は、高く成って行くので、
企業ら大勢が、
銀行らから 借金 をして、 仕事らと仕事上の所得らとを得られる働き手たちを増やす事に成る、 投資 をした、としても 、
投資 収益 : リターン が 、
実質での金利の負担を上回って、
実質での 儲け を得られる、 可能性 が、低下してゆく 事を 意味しています。
儲けの見込める、有望な仕事らが減ってゆく不況が続く、 デフレ下で、
投資の見返り利益が、実質の金利負担さえ下回る、という場合には、
民間の企業ら大勢の投資らが増える筈は無く、 実際に、 大筋では減りっ放しです。
そしてまた、
このデフレ存続下での 実質 金利 の 高まり が 、
海外の中央銀行ら等の玄人筋の投資家らが、日本円を買い進めて、円高を推す主因です