goo blog サービス終了のお知らせ 
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

本能寺の変と明治維新

2014年01月22日 | 日本国内
●本能寺の変の不思議 消えた織田信長と明智光秀

6月2日明け方

 本能寺を明智光秀軍が包囲。(明智秀満隊と斎藤利三隊が二手に分かれて本能寺に侵入)このとき、光秀自身がどこにいたのかは不明。
織田信長は安土から連れてきていた小姓20~30人ほど(100名ほどの兵がいた可能性も考えられる?)と一緒に応戦するが、館に火をつけ自刃。信長、享年49。
本能寺の焼け跡からは、遺体どころか、それとおぼしき骨さえも発見されなかったという。(信長が確かに本能寺にいたという証言を、逃げ出してきた女から秀満が聞き出し、信長死亡の確認とした。という話もある)
このことから、信長が子女に紛れて逃げおおせたのではないかという推測が出てくるのだが、焼け跡から遺骨を探し出す技術(または時間)がなかっただけだと言う意見もある。

信長の遺体は特定できなかったが、

◇「たしかに本能寺におりました」という待女の証言
◇完全なる包囲網の中を逃げ出すことは不可能
 この二点から、信長は本能寺とともに焼失したと思われる。瓦礫の中からそれだと特定できる遺体は見つからなかったが、信長が本能寺で死んだことは確実。

という報告を秀満から受けたとする。
あなたが光秀ならどうする?

 「なにがなんでも信長の遺体を持ってこい!特定できなくてもそれらしい遺体を持ってこい」
 とは、ならないだろうか?
信長を討ちました。以上終了~解散~というふうになるほど、光秀はおめでたいヤツだろうか?

 信長の遺体を京の町に晒して、討たれてしかるべきという大義名分を掲げる。そうすることによって、保身にもなり、信長の後釜に座る道も見えてくる。その場合の大義名分は、「天皇に取って代わろうとした不忠者を討った」とか、「自ら神を名乗ろうとしている不届き者を討った」とか、なんでも良い。
そのためには、なんとしても信長の首は(たとえ骨になってしまっていたとしても)必要だったはずだ。
信長の嫡男-信忠の場合も同じで、二条城で自害しているというのに首級は不明だったという。
 「どれが信忠の遺体なのかわからないなら、適当にその辺の死体から信忠っぽい首をもってこい!」
 とは、ならなかったのだろうか?


○信長の遺体が発見されていない。
○信忠の遺体も発見されていない。
○光秀は、それらしい首級を晒しあげる偽装行為さえしていない。

 どう考えても変だ。
的である信長と信忠の首を押さえられなかった。
もしかしたら、光秀の謀反そのものが嘘だったのではないか?と、疑いたくなるほどの間抜けぶりである。
考えれば考えるほどありえない。
http://kingfoolishdream.yokochou.com/Q-01.htm



●光秀=天海説

明智光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れた後、敗走中、土民の竹槍で突かれて死んだとされていますが、実は死なずに落ちのび、生き残り、比叡山でしばらく過ごした後、南公坊天海として歴史の舞台に舞い戻ったという、非常に興味深い説でありますので、色々と調べてみることにしました。
南公坊天海とは「南公坊天海智楽院(なんこうぼうちらくいん)」と称した天台宗の僧であります。当時の仏教界においてはかなりの人物であった上に、密教・神道・道教・陰陽道・風水学にも精通していたといいます。そしてそれらの知識を活用して豊臣家崩壊作戦の火蓋を切り、家康の宗教政策を一手に担い、江戸の霊的防衛網を完成させた人物でもあります。秀忠・家光はもちろんのこと、家康でさえその意に従い「黒衣の将軍」とまで言われました。

しかし彼の素性についてはまったく明らかにされていません。
そのことが天海をよりミステリアスにしている点でもあると言えます。
生年もはっきりわからず、没年についても102、118、132、134、135説があり、驚くべき長寿であります。一般的には108歳入寂説が妥当とされています。

もし光秀の後身が天海であるとするとすれば、天海の出自が明らかでないという説明もつきますし、年齢的にも光秀が死去したのが55歳ですから、この当時の天海が47歳であったことからさほど違わないと言えます。

『天海=明智光秀』説の根拠として、光秀の木像と位牌のある慈眼寺の寺号と、天海の諡名が同じ「慈眼」であることを挙げています。
さらに、比叡山・松禅寺には、光秀寄進の石灯籠が現在でもあります。寄進日は慶長20年(1615年)つまり光秀はすでに死んでしまってるはずの年代です。これは光秀が慶長20年(1615年)まで生きていたことの明らかな物証であります。
また、日光東照宮の近くの中禅寺湖や華厳の滝が見える平らな場所を明知平といい、天海が命名しています。さらに日光東照宮の陽明門の入り口の脇にある二対の大礼服の随身の座像は二対とも着物に明智家の桔梗紋があります。
他にも限りない証拠が数々あるのですが、特に注目すべきは「春日の局」の存在です。それに関しておもしろい記事がありましたのでそのまま抜粋します。

お福登用の謎

江戸幕府初期の謎に、春日の局(お福)の存在がある。この謎も、光秀=天海という真相をとおしてみるとするりととけてしまうのだ。
お福が生まれたのは本能寺の変の三年前、天正7年(1579)のこと。父斉藤利三が秀吉に処刑された後は辛酸をなめ、13歳の時、三条西実条に奉公する前,叡山にいた光秀に養女として育てられていたに違いない。
後述するが、、慶長5年(1600)の関ケ原合戦のとき、光秀はお福の夫稲葉正成に、その主君小早川秀秋の西軍裏切りを工作させた。そしてそれこそが東軍勝利の鍵であり、江戸幕府開府の最大の功となった。

この関ヶ原合戦の功と本能寺での違約のため、家康は徳川天下取りの最大の功労者「天海」と稲葉正成の妻お福を重用し、その子である正勝を老中にまで登用、その異父弟家光を家康の真の後継者とするのである。

定説ではお福は公募という如何にも怪しげな方法で、慶長9年(1604)に登用された三大将軍家光の乳母である。しかし乳母として以上に家康に重用され、息子稲葉正勝は老中となり、養子の堀田家も代々幕府中枢を占めた。

このお福偏重の謎は、その父が光秀の甥であると共に重臣であり、本能寺の変で全軍の指揮を執った斉藤利三の娘であるという事実を考えれば、簡単に読み解ける。

家光の母とされたお江(信長の妹お市の娘)にとって、お福は伯父の敵の娘に当たる。一般的な心情としても、世継ぎを生んだ母親の責任としても、敵の娘にその養育を任せるとは思えない。ここに、天海こと光秀と家康の作為があるのである。
実は家光はお江の子ではなく、お福の子であり、その父は秀忠ではなく家康なのだ。家光の名が家康の家と光秀の光から名づけられているのがその証拠といえる。本能寺の変の違約の補償として、また関ヶ原の戦功に対して、家康はお福に家光を生ませ、後継者としたのだろう。将軍家に明智の血を入れることにより、光秀に対し具体的な礼をしたのだといえる。
--------------------------------------------------------------------------------
文:佐宗邦皇(歴史研究家) 学研 俊英・明智光秀より抜粋
http://bsi.fc2web.com/mitsuhide/tenkai.htm







●明智光秀の謎・其の5


明智光秀の謎の5つ目には、南光坊天海説が挙げられる。

南光坊天海という人物は、『黒衣の宰相』、『徳川の知恵袋』などと呼ばれ、家康から家光までの徳川3代に参謀として仕え、政治面から戦に至るまで絶大な影響力を持ち、徳川政権の基盤を作り、108歳まで生きたとされている。



光秀=天海説と言われる所以

・比叡山の松禅院に「奉寄進 願主光秀 慶長二十年二月十七日」と刻まれた石灯籠がある

→こんな石灯籠があるということは、この年まで光秀は生きていたからである。もう1つの光秀生存伝説(岐阜県山県郡美山町)では、この時に光秀は亡くなっていることになっているため、天海説につながる



・秩父神社や日光東照宮に、(土岐)明智家の家紋である桔梗紋が多数ある

→これも、光秀がこの時代にまで生きていて、それぞれを建てたり何らかの影響を及ぼしたから



・天海につけられた、死んだ後につけられる名前の諡号(しごう)は慈眼大師だったが、京都には慈眼寺という寺があり、光秀の木像と光秀の位牌が祀られている

→これは、天海の諡号を名付けた人間が、天海は光秀であったことを示している



・天海に関する正確な情報として、歴史の表舞台に出てくるのは、光秀の死後になってからである

→光秀は天海と同一人物だったから、光秀が歴史の表舞台から消えた後に出てきたのではないか?



・天海が徳川家に仕えてから、豊臣家を滅ぼすのに容赦ない策をとった

→自分(光秀)を歴史の表舞台から抹殺しただけでなく、悪者扱いにした秀吉が憎かったから、もしくは本能寺の変は光秀が秀吉にハメられたから



・天海は、光秀の領地であった、滋賀県の近江・坂本の復興に尽力した

→光秀は坂本を愛していた(妻や仲間の墓が坂本にある)ので、天海と称した後も、坂本を大切にしていた



・光秀の家臣だった斎藤利三の娘であるお福(春日局)が、天海による口添えにより、大奥の女帝の地位を得られるまでになった

→山崎の合戦で敗れた後、本能寺にて胴体とともに晒し首にあった家臣への無念を晴らすため、利三の娘・お福を新しい時代(江戸)で不自由のない暮らしを与えた



・家康の墓(天海が作った)がある日光の見晴らしの良い場所を『明智平』と、天海が名付けた

→天海が明智光秀であるから、明智平という名前をつけた



・徳川の歴代将軍に、光秀の名前の一部やや光秀の父や一族の名前を付けた

→秀忠の『秀』と家光の『光』を合わせると光秀になるので、光秀の名前から由来している



・天海は、自分の弟子に自分の出自や生年についてを語らなかったと言われている

→それは、過去の自分が明智光秀だということがバレてしまうからではないのか?



などなど

天海は、光秀と同じく謎の多い人物で、その前半生についてはよく分かっておらず、出自や生年などについても定かになっていない。



もちろん、これらの光秀=天海説には否定的な意見も少なくない。

ちなみに、このブログの管理人である@明智光秀も光秀=天海説には否定的で、また別の機会に否定的な意見と共に書く予定。
http://blog.livedoor.jp/akechi10bemituhide/archives/50974901.html





●Japan On the Globe(154) 国際派日本人養成講座 地球史探訪:キリシタン宣教師の野望
キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とすることを、神への奉仕と考えた。 H12.09.03 27,253部

■1.日本布教は最も重要な事業のひとつ■

 イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは日本に3年近く滞在した後、1582年12月14日付けでマカオからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のような手紙を出した。

 私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言することができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ有能にして、理性によく従うからである。

 尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。

 しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。
[1,p83]

 「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、スペイン国王によるシナの植民地化である。日本は豊かでなく、強すぎるので征服の対象としては不向きだが、その武力はシナ征服に使えるから、キリスト教の日本布教を重視する必要がある、というのである。

■2.シナ征服の6つの利益■

 スペインの勢力はアメリカ大陸を経て、16世紀半ばには太平洋を横断してフィリピンに達し、そこを足場にしてシナを始めとする極東各地に対し、積極的な貿易と布教を行っていた。

 宣教師達はその後もスペイン国王にシナ征服の献策を続ける。1570年から81年まで、10年以上も日本に留まってイエズス会日本布教長を努めたフランシスコ・カブラルは、1584年6月27日付けで、スペイン国王あてに、シナ征服には次の6つの利益があると説いている。

 第1に、シナ人全体をキリスト教徒に改宗させる事は、主への大きな奉仕であり、第2にそれによって全世界的に陛下の名誉が高揚される。第3に、シナとの自由な貿易により王国に多額の利益がもたらされ、第4にその関税により王室への莫大な収入をあげることができる。第5に、シナの厖大な財宝を手に入れる事ができ、第6にそれを用いて、すべての敵をうち破り短期間で世界の帝王となることができよう、と。

 このようにスペイン帝国主義と、イエズス会の布教活動とは、車の両輪として聖俗両面での世界征服をめざしていた。

■3.日本人キリスト教徒の「ご奉公」■

 さらにカブラルはシナ人が逸楽にふけり、臆病であるので征服は容易であると述べ、その例証に、13人の日本人がマカオに渡来した時に、2~3千人のシナ人に包囲されたが、その囲みを破り、シナ人の船を奪って脱出した事件があり、その際に多数のシナ人が殺されたが、日本人は一人も殺されなかった事件をあげている。

 私の考えでは、この政府事業を行うのに、最初は7千乃至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。[1,p95]

 日本に10年以上も滞在したイエズス会日本布教長は、日本人を傭兵の如くに見ていたのである。

■4.人類の救済者■

 宣教師は教会のほか、学校や病院、孤児院を立てた。地球が球形であることを伝え、一夫一妻制を守りるよう説いた。これらにより、キリスト教の信者が西日本を中心に増えた。この当時、キリスト教とその信者をキリシタンといった。[2,p117]

 中学歴史教科書の一節である。同じページにはザビエルの肖像画があり、そこに記されたIHSという文字について、「イエズス会の標識で『耶蘇、人類の救済者』の略字」と説明される。キリシタン宣教師達は、まさに未開の民に科学と道徳を教え、社会事業を進める「救済者」として描かれている。

 数ページ後には家康によるキリシタン弾圧が次のように描かれている。

 家康は貿易のために、はじめキリシタンを黙認していたが、やがて禁教の方針をとった。信者に信仰を捨てるように命じ、従わない者は死刑にした。[1,p130]

 さらに家光が、「キリシタンを密告した者に賞金を出すなどして、キリシタンを完全になくさせようとした」事を述べ、厳しいキリシタン取り締まりに島原・天草で約4万人の農民が一揆を起こして、「全滅」した事を述べている。

 この教科書を読んだ中学生は、「救済者」達に対するなんと野蛮な宗教弾圧かと思うであろう。しかし、なぜ家康は黙認から禁教へと方針を変えたのか、については一言も説明がない。秀吉も同様に、初めのうちはキリシタンを奨励していたのに、急に宣教師追放令を出している。いずれもキリシタン勢力から国の独立を守ろうとする秀吉や家康の防衛政策なのである。

■5.日本準管区長コエリョの秀吉への申し出■

 キリシタン宣教師の中で、イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョは、最も行動的であった。当時の日本は準管区であったので、コエリョはイエズス会の日本での活動の最高責任者にあたる。

 天正13(1585)年、コエリョは当時キリシタンに好意的であった豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めた。その際に、大友宗麟、有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方させようと約束した。さらに秀吉が「日本を平定した後は、シナに渡るつもりだ」と述べると、その時には2艘の船を提供しよう、と申し出た。当時、日本には外航用の大艦を作る技術はなかったのである。

 秀吉は、表面はコエリョの申し出に満足したように見せかけながらも、イエズス会がそれほどの力を持っているなら、メキシコやフィリピンのように、我が国を侵略する野望を持っているのではないかと疑い始めた。

■6.コエリョの画策とバテレン追放令■

 翌々年、天正15年(1587)に秀吉が九州平定のために博多に下ると、コエリョは自ら作らせた平底の軍艦に乗って、大提督のような格好をして出迎えた。日本にはまったくない軍艦なので、秀吉の軍をおおいに驚かせたという。

 その前に秀吉は九州を一巡し、キリシタン大名によって無数の神社やお寺が焼かれているのを見て激怒していた。秀吉は軍事力を誇示するコエリョに、キリシタンの野望が事実であると確信し、その日のうちに宣教師追放令を出した。

 コエリョはただちに、有馬晴信のもとに走り、キリシタン大名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。そして自分は金と武器弾薬を提供すると約束し、軍需品を準備した。しかし、この企ては有馬晴信が応じずに実現されなかった。

 コエリョは次の策として、2,3百人のスペイン兵の派兵があれば、要塞を築いて、秀吉の武力から教界を守れるとフィリピンに要請したが、その能力がないと断られた。コエリョの集めた武器弾薬は秘密裏に売却され、これらの企ては秀吉に知られずに済んだ。[1,p109-114]

■7.秀吉のキリシタンとの対決■

 秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あるが、最近では、スペインやポルトガルのシナ征服への対抗策であったという説が出されている。スペインがメキシコやフィリピンのように明を征服したら、その武力と大陸の経済力が結びついて、次は元寇の時を上回る強力な大艦隊で日本を侵略してくるだろう。

 そこで、はじめはコエリョの提案のように、スペインに船を出させ、共同で明を征服して機先を制しよう、と考えた。しかし、コエリョが逆に秀吉を恫喝するような態度に出たので、独力での大陸征服に乗り出した。その際、シナ海を一気に渡る大船がないので、朝鮮半島経由で行かざるをえなかったのである。

 文禄3(1593)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに手紙を送り、日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と脅している。[3,p372]

 慶長2(1597)年、秀吉は追放令に従わずに京都で布教活動を行っていたフランシスコ会の宣教師と日本人信徒26名をわざわざ長崎に連れて行って処刑した。これはキリシタン勢力に対するデモンストレーションであった。一方、イエズス会とマニラ総督府も、すかさずこの26人を聖人にする、という対抗手段をとった。丁々発止の外交戦である。

■8.天草をスペイン艦隊の基地に■

 全国統一をほぼ完成した秀吉との対立が決定的になると、キリシタン勢力の中では、布教を成功させるためには軍事力に頼るべきだという意見が強く訴えられるようになった。1590年から1605年頃まで、15年間も日本にいたペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けで次のような手紙を、イエズス会総会長に出している。要点のみを記すと、

 日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。そこでもしも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことが出来よう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち下(JOG注:九州のこと)又は四国を包囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るであろう。・・・

 このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。・・・

(日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設することの利点について)日本人は、教俗(教会と政治と)共にキリスト教的な統治を経験することになる。・・・多くの日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、子弟をスペイン人の間で育てることになるだろう。・・・

 スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべきシナ征服のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日本から調達することが出来る。[1,p147-150]

 キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、そこを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。

 また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地をイエズス会に寄進しており、ここにスペインの艦隊が入るだけでクルスの計画は実現する。秀吉はこの前年に亡くなっており、キリシタンとの戦いは、徳川家康に引き継がれた。

■9.国家の独立を守る戦い■

家康が何よりも恐れていたのは、秀吉の遺児秀頼が大のキリシタンびいきで、大阪城にこもって、スペインの支援を受けて徳川と戦うという事態であった。当時の大阪城内には、宣教師までいた。大阪攻めに先立って、家康はキリシタン禁令を出し、キリシタン大名の中心人物の高山右近をフィリピンに追放している。

1624年には江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じ、さらに1637~38年のキリシタン勢力による島原の乱をようやく平定した翌39年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。これは鎖国と言うより、朝鮮やオランダとの通商はその後も続けられたので、正確にはキリシタン勢力との絶縁と言うべきである。[4]

キリシタン宣教師達にとっては、学校や病院、孤児院を立てることと、日本やシナを軍事征服し、神社仏閣を破壊して唯一絶対のキリスト教を広めることは、ともに「人類の救済者」としての疑いのない「善行」であった。その独善性を見破った秀吉や家康の反キリシタン政策は、国家の独立を守る戦いだった。これが成功したからこそ、我が国はメキシコやフィリピンのように、スペインの植民地とならずに済んだのである。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog154.html







●■■ Japan On the Globe(497)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■地球史探訪: 冷戦、信長 対 キリシタン(上)
~ 信長の危機感  信者を増やし、キリシタン大名を操る宣教師たちの動きに信長は危機感を抱いた。 ■ H19.05.20

■1.「盗賊にして何かを得んと欲するか」■

 天正8(1580)年、信長は安土城において、いつものように多数の家臣たちを同席させて、宣教師オルガンチーノとその弟子ロレンソ(琵琶法師から宣教師の弟子になった盲目の日本人)と3時間にわたって宗教論議を楽しんだ。

 その後、信長は二人を別室に招いた。そこには、以前、宣教師から献上された地球儀があった。信長はオルガンチーノに乞うて、ヨーロッパから日本に至る道程を地球儀の上で示させた上で、「此(これ)の如き旅行は大なる勇気と強き心ある者にあらざれば実行すること能(あた)わず」と称賛し、笑いながら、こう述べた。

 汝らが此の如く多数の危険と海洋を超えるは、或(あるい)は盗賊にして何かを得んと欲するか、或は説かんとする所重要なるに因(よ)れるか。

(あなた方がかくの如き多くの危険と海洋を超えて日本にやって来たのは、盗賊として何かを得ようとするためか、あるいは説こうとする教義がよほど重要であるからか。)

■5.長崎に誕生したキリスト教王国■

 ザビエルが日本での布教を開始して13年、永禄5(1562)年、肥前西部(長崎県)の大名・大村純忠は、宣教師トルレスの強い説得に応じて、自領内の横瀬浦を貿易港として開港し、港とその周囲半径10キロメートルの土地をイエズス会領として寄進した。またこの地に入港してくるポルトガル商人と、各地から集まってくる日本商人に対して、10年間、一切の税を免除する事を決定した。

 フロイスの『日本史』によれば、博多や山口、さらには京都からも大勢の日本商人が交易を求めてやってくるようになり、横瀬浦は貿易港として急速に発展した。

 大村純忠は、この地に仏教徒が住むことを禁止し、自らもキリスト教に入信して、トルレスから「ドン=バルトロメウ」という洗礼名を授けられた。以後、家臣や住民にも洗礼を受ける者が続出し、横瀬浦と純忠の本拠地・大村(長崎県大村市)の領地で12百余名のキリシタンが生まれた。純忠が戦いに臨む際には、陣羽織には「JESUS(イエス)」の文字を入れた地球が描かれ、首には十字架のついた数珠を掛け、「聖なる十字架」を描いた旗を高々と掲げた。まさに十字軍の騎士さながらの出で立ちであった。

純忠は同時に仏門にも入ったが、宣教師コエリヨはこれを強く非難し、神仏と決別する証として、領内からあらゆる偶像崇拝を根絶し、一人の異教徒も住ませないよう強く迫った。純忠はこれに従い、寺社の破壊焼失、僧侶を含む全住民への洗礼強制、抵抗する僧侶の殺害、その他反対者の国外追放を強行した。

この結果、領内では2万人の住民がキリスト教の洗礼を受け、仏像仏閣がすべて破壊され、その後に教会と十字架が建てられた。小さな子どもまでも仏像の破壊に加わり、その顔に唾を吐きかけたという。また『郷村記』は、猛り狂ったキリシタンたちによって純忠の養父・純前の墓が暴かれ、その骨は川に投げ捨てられた、と記している。

■6.キリシタン大名への軍事援助■

 キリシタン大名を得るための方策として、交易による利潤の他にもう一つの手段があった。軍事援助である。それを求めて、宣教師との結びつきを深めたのが、大友宗麟(そうりん)であった。

 宗麟は豊後(大分県南部)を治めていたが、日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルから直接、説教を受けており、キリシタン大名の中でも最も早くキリスト教に接した人物である。

 永禄2(1559)年、宗麟は豊後の他に、豊前(大分県北部)、筑前(福岡県北部)、筑後(同・南部)の4カ国の守護職となり、将軍・足利義輝から「九州探題」に任命されたため、宣教師たちの期待も高かった。

 宗麟はキリスト教の保護者を持って任じ、宣教師たちの布教活動を援助するとともに、その引き替えに軍事物資の提供を求めた。永禄10(1567)年、宗麟はマカオに滞在していた司教にあてて手紙を書き、中国地方を支配する毛利元就に打ち勝って、キリスト教を広げたいので、鉄砲の火薬の原料となる硝石の日本への輸入を禁止し、自分の領国にのみ販売するように依頼している。

■7.長崎と茂木の軍事要塞化■

 天正7(1579)年に、東洋地域全域を所管する巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日すると、その指導にとってキリシタン勢力が急伸した。

 大村純忠は、ヴァリニャーノの来日を機に、長崎(長崎港周辺部)と茂木(長崎市茂木町)をイエズス会の永久教会領として寄進した。

 ヴァリニャーノは翌天正8(1580)年に、この長崎と茂木の地を、ポルトガル人を中心として軍事要塞化するように指示した。これに従って数年後には、同地は大砲・鉄砲などにより武装され、軍艦も建造配備された。

 天正13(1585)年には、純忠の領土の全領民約6、7万人がキリシタンとなり、ここに完全なキリシタン王国が誕生したのである。

 大村純忠の縁戚で、島原を領有していた有馬晴信は、当時、肥前東部(佐賀県)の龍造寺氏から度々攻撃を受けて、窮地に陥っていた。晴信はヴァリニャーノから洗礼を受け、その見返りとして、食糧不足に苦しんでいた4つの城で、多量の糧食と金子(きんす)を受け取った。さらにマカオからやって来たポルトガルの交易船から、弾丸に使う鉛や火薬の原料となる硝石を送られた。こうした軍事援助で、晴信は龍造寺氏との戦いで危機を脱することができた。

 晴信はこの返礼として、ヴァリニャーノが自領に滞在していた3ヶ月の間に、領内にあった40を超える神社や仏閣をすべて破壊し、領民2万人を入信させた。さらに浦上(長崎市浦上)の地を、イエズス会の教会領として寄進した。

宣教師たちは、これらのキリシタン大名を経済的軍事的に支援する一方、毛利氏、龍造寺氏、島津氏など反キリスト教の大名とは交易関係すら結ばなかった。

■8.「十字軍騎士」となったキリシタン大名■

 ヴァリニャーノは、キリシタン大名との政治的・軍事的連携を強化する一方、布教体制の改革を進めた。セミナリオ(神学校)、ノビシアド(修練院)、コレジオ(学院)の3種類の教育機関を設け、日本人司祭の養成に努めた。

 天正10(1582)年頃には、西日本各地に設けられた教会堂の数は大小合わせて200カ所、神父・神弟(日本人の伝道師)は75人に上り、急速な布教が進められた。信者数は京都から中国地方に2万5千人、大友宗麟の治める豊後で1万人、大村純忠・有馬晴信が支配する大村・島原・長崎地域に11万5千人、合計15万人ほどにも急増した。

 この年1月には、それぞれの教育機関で育成した日本人子弟の中から優秀な4人の少年を選び出し、大村純忠・有馬晴信・大友宗麟の3キリシタン大名の使節として、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル連合国国王の許に派遣した。

翌年2月に少年使節たちはローマで教皇グレゴリオ13世に拝謁した。教皇が皇帝や国王を迎接する「帝王の間」で拝謁するという異例の栄誉を受け、3人のキリシタン大名からの親書を手渡した。

 こうした儀式を通じて、キリシタン大名たちは、ローマ教皇に忠誠を誓い、日本の「異教徒」と戦う「十字軍騎士」とされていったのである。

■9.「我一生の不覚也」■

信長が安土城で宣教師オルガンチーノと会見し、「盗賊にして何かを得んと欲するか」と聞いたのは、こういう状況下であった。

天下統一を目指す信長は、当時中国の毛利氏と戦っていたが、その背後から九州探題・大友宗麟も中国を狙っていた。九州から京都を目指すキリシタン勢力と、京都を押さえ中国・九州へと全国統一事業を進めつつあった信長とは、早晩対決が運命づけられていた。

『切支丹来朝實記』には、この頃の信長の心境をこう記している。

破天連方よりは便(たより)毎に今年は日本人何千人勤め、今年は何万人勤め入ると臺帳に記(か)きて、南蛮へ渡すとか。宣教師たちが貧民病者を慈しみ、尚(な)ほ此等(これら)の妻子眷属に一人前金一銭づつを與(あた)ふる等、弓矢を不用(もちいず)して日本を随(おと)さんとの謀事、然るに信長、南蛮寺の取沙汰、あやしき宗門の様子及聞(ききおよんで)、心の内には後悔しけり。

(日本に駐在している宣教師からの報告で、今年は日本人が何千人入信し、今年は何万人入信したかと、台帳に記して、本国のポルトガルに送っているとのうわさ。宣教師たちが貧しい者や病人を慈しみ哀れみ、それだけでなく妻子眷属に一人当たりの前金として一銭ずつ与えるなどして、弓矢を使わずに日本を征服しようと謀略を企んでいること。このため信長はキリストの教会内の活動や信者たちの怪しい所行について聞き及ぶ所があって、内心では後悔していたのである。[1,p8])

 さら『實記』が伝える所によれば、信長は前田徳善院玄以という仏僧に「自分は彼らの布教組織を破壊し、教会を打ち壊して宣教師たちを本国に返そうと思うが、どう思うか」と諮問したが、「もしそのようなことをすれば、たちまち一揆が起こることは間違いありません」と答えたので、信長は今まで宣教師たちを保護してきた政策について「我一生の不覚也」と漏らした。(続く)
(文責:伊勢雅臣)
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog497.html





●■■ Japan On the Globe(498)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 地球史探訪: 冷戦、信長 対 キリシタン(下)
~ 信長の反撃 信長の誇示する軍事力を見て、宣教師たちは日本の植民地化を諦めた。 H19.05.27


■6.信長の支那征服策■

フロイスの『日本史』によると、天正10(1582)年、

信長は、事実行われたように、都に赴(おもむ)くことを決め、同所から堺に前進し、毛利を平定し、日本66カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を派遣して支那を征服し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであった。

 ポルトガルはかねてよりマカオを拠点として、当時弱体化しつつあった明を植民地化する計画を持っていた。信長は、そのようなポルトガルの野望を見通していただろう。もし、ポルトガルが中国を征服したら、その富と人民を使って、次には日本を狙ってくる。座して第二の元寇を待つよりは、先手をとって明を征服してしまおう、というのは、軍事戦略としても合理的な発想である。

 交易面においても、当時はポルトガルやスペインの船がヨーロッパやアジアの物産を持ち込み、日本で漆器、刀剣、海産物、銀などと交換するという一方的なものであった。彼らはそこから上がる独占的な利益を使って、日本での布教活動を推進し、キリシタン大名への後押しを行い、最終的には日本の植民地化を狙っていた。

「楽市楽座」という優れた商工業振興策による税収で全国統一事業を進めていた信長である。日本から積極的に海外貿易に乗り出して、ポルトガル・スペインの利益独占を突き崩すことは、彼らの日本植民地化の野望を阻止することにもつながると考えたとしても不思議ではない。

 信長が宣教師たちに「支那征服」の意思をもらしたのは、ポルトガル・スペインに対して、いよいよ攻勢に出るぞ、という宣戦布告であった。

■7.「日本は征服が可能な国土ではない」■

 信長が支那征服の意思を表明した数ヶ月後、大村純忠・大友宗麟・有馬晴信の少年使節を率いて、マカオに滞在していた巡察使ヴァリニャーノは、スペインのフィリピン総督あての手紙で次のように記している。

 日本は何らかの服従事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、国民は非常に勇敢で、しかもたえず軍事訓練をつんでいるので、征服が可能な国土ではないからである。

 すでに占領したフィリピンやマカオとは違って、当時のヨーロッパよりはるかに進んだ銃砲や鉄製軍艦を誇示する信長軍の偉容に、武力では到底、この国を植民地化することはできない、とヴァリニャーノは判断せざるをえなかった。

 一時は、キリスト教の広がりに危機感を覚えて、今までのキリシタン保護政策を「我一生の不覚也」と後悔した信長であったが、富国強兵策を徹底し、強力な軍事力をアピールすることで、彼らとの冷戦に勝利したのである。

■8.豊臣、徳川に引き継がれた冷戦■

 この手紙には、次のような続きが述べられている。

 しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。

「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、スペイン国王による明の植民地化である。日本を植民地化する事は諦めるが、今度は支那征服のために、キリシタン大名の軍事力を使おう、というしたたかな戦略である。

 天正10(1582)年、信長が本能寺の変で倒れると、キリシタンとの冷戦は、秀吉に引き継がれた。秀吉はスペイン・ポルトガルの支那植民地化計画に対して、当初は日本から兵を送るから、共同で取り組もうと申し出たりしたが、相手側の警戒で実現しなかった。その結果、単独で支那征服に乗り出したのが、後の文禄・慶長の役での朝鮮出兵であった。

 さらに秀吉は九州平定の途上、宣教師たちがキリシタン大名を通じて、神社仏閣を破壊し、領民に信仰を強制し、かつその一部を奴隷として海外に売りさばいたりしている実態を知って激怒した。天正15(1587)年に中国・九州平定が完了すると、直ちに「宣教師追放令」を出し、軍事要塞化されつつあった長崎を直轄地とした。これによって、宣教師たちの40余年に及ぶ日本植民地化の工作は水泡に帰したのであった。[a]

 秀吉の後を継いだ徳川幕府も、寛永14(1637)年から翌年にかけてのキリシタン勢力による島原の乱[b]をようやく平定した後、寛永16(1639)年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。これは「鎖国体制」と言うより、キリスト教布教をテコとして植民地化を狙うポルトガル・スペイン勢力との絶縁、と言うべきだろう。宗教を押し売りしないオランダとの交易は続けていたのであるから。

■9.信長・秀吉・家康の功績■

 こうしてキリスト教布教をテコとして、日本の植民地化を狙ったポルトガルの野望は、信長・秀吉・家康の3人によって阻止された。この国家的危機に際して、これらの英邁な武将が国家統一事業を成し遂げた事は、まことに幸運であった。

 それ以前の戦国時代のように、群雄割拠のままであったら、宣教師から軍事的・経済的な後押しを得たキリシタン大名が天下統一を遂げた可能性もある。そうなると、彼らは自領で行ったように、日本全国で神社仏閣を破壊し、抵抗する神官僧侶を殺害し、キリスト教を全国民に強制したであろう。皇室も廃絶されていたろう。

 その結果、わが民族固有の言語も文化もほとんど忘れ去られていたであろう。メキシコやフィリピンのように。[c]
(文責:伊勢雅臣)
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog498.html







●偽史の最終兵器  落合莞爾の「堀川政略」史観 ♪ペリマリ♪

ともかく公認史実と異なる事実は、

  ①孝明帝は慶応二年には崩御されず、維新後も御生存。
  ②孝明帝の御子は、維新後も生きて堀川御所に住んだ。
  ③和宮は明治十年には薨去されず、その後も御生存。
  ④家茂も慶応二年には薨去していない。

以上が真相ということであるが、これには和宮の家茂への降嫁と東京遷都が深く関係しているらしい。

皇統の南北交代を目的とする政略の核心は、孝明天皇が崩御を装い皇太子睦仁親王や閑院宮皇統の一部と共に堀川御所に隠棲され、奇兵隊士・大室寅之祐が皇太子と入れ替って明治天皇として即位することであった(先月稿では「堀川戦略」と呼んだが、今後は「堀川政略」と呼ぶ)。「堀川政略」の立案者は孝明天皇以外にはあり得ず、近親閑院宮皇統と岩倉具視ら側近公卿がこれを輔翼したのである。
http://www.asyura2.com/12/cult10/msg/284.html






【私のコメント】

本能寺の変は謎が多い。なぜ明智光秀は主君織田信長を殺したのか?なぜ信長も光秀も死体が確認されていないのか?実は本能寺の変は茶番で、信長が死んだことにするための演出だったのではないかという仮説が浮かんでくる。また、光秀=南光坊天海という説も嘘とは言い切れない数々の状況証拠を有している。

私は最近、この本能寺の変と明智光秀の謎が落合莞爾の「堀川政略」史観と類似していることに気付いた。

私流の「堀川政略」史観とは以下の通りである。

公武合体で欧米に対抗する日本政府を作るという日本支配階層の戦略に対して国際金融資本が反対し、長州藩の匿う南朝末裔皇族である大室虎之助(後の奇兵隊天皇)を支援して日本を内戦に陥れることで乗っ取る事を狙った。欧米の海軍力に対抗できない日本は欧米の戦略に対抗するのではなく、欧米の戦略をそのまま実行すると見せかけながら内戦を回避する(自己が弱体な時は敵の力や戦略を利用して戦うという柔道の思想=日本の伝統的戦略思想)ことを狙った。家茂の薨去を捏造して公武合体を終了させ、孝明天皇と皇太子睦仁親王を伊藤博文などが暗殺して奇兵隊天皇と入れ替えることで皇室を自分の言いなりにする国際金融資本の戦略を実行すると見せかけて実際には孝明天皇と皇太子睦仁親王を殺さずに隠棲させ、奇兵隊天皇と徳川将軍の戦争で日本を弱体化させる戦略を実行すると見せかけて江戸城無血開城で内戦を回避し、奇兵隊天皇を中心とする強固な統一国家を作り出した。この戦略は実に見事である。ロシア高官との交渉に向かう伊藤博文を暗殺した安重根が裁判で「伊藤博文は明治天皇の父を殺した」と主張したのは、国際金融資本が安重根を使って日露の友好を阻止するとともに日本の国家機密を暴露して脅迫する意図であったのだと想像する。安重根は17才で洗礼を受け熱心なカトリック信者であった。恐らく当時の宣教師の多くは国際金融資本の工作員だったのだろう。

では、本能寺の変が「堀川政略」と同様の茶番であったとするならばその目的は何だろうか?その背景として重要なのは、宣教師を保護し宣教活動を容認しなければ彼らから硝石(火薬の原料)を輸入できず、鉄砲隊による日本の統一も困難になるが、宣教の結果として北部九州を中心にキリスト教の普及と神道・仏教寺院の破壊が進み長崎の様にローマ教皇領になる土地もできて日本の植民地化が進んでしまったと言う信長のジレンマである。国際派日本人養成講座では信長は今までのキリシタン保護政策を「我一生の不覚也」と後悔したという。宣教師との関係を悪化させても日本統一が可能になるめどが立った時点で宣教活動を禁止すべきという考えが信長周囲の日本支配階層(信長本人を含む可能性が高い)にあったであろうことは想像に難くない。そして実際に信長の後を1582年に継いだ秀吉は1587年に中国・九州平定が完了すると、直ちに「宣教師追放令」を出し、軍事要塞化されつつあった長崎を直轄地とした。残るキリシタンも家光の時代の天草の乱で全滅している。このキリスト教に対する政策転換を実現するには国家指導者の変更が必要であり、そのために信長は自分が死んだことにして秀吉に後を譲ったという仮説を私は提唱する。あるいは朝廷と家康らの武士(場合によっては秀吉も?)が相談して政策転換に躊躇する信長を殺したという可能性もあり得るだろう。

現在の日本ではキリスト教徒による神社・仏教寺院の破壊や僧侶神官の迫害は起きていない。従って国際金融資本の世界支配終焉後にキリシタン禁止令を出す必要は無いだろう。しかし、沖縄や首都圏を中心に日本国内各地に散らばる米軍の基地を接収することが急務であることは間違いない。安土桃山時代も明治維新以後も、日本の国際金融資本にとっての意義は中国等の東アジア内陸地域を占領し植民地化するための軍事基地が第一で第二はアジア侵略戦争の傭兵確保であった。戦後の日本の平和主義(日本社会党の非武装中立に代表される)は、南朝鮮の様に自国民をアジア侵略の傭兵として提供せよという国際金融資本の命令を拒否することが主目的であった。国際金融資本がアジアから撤退することが事実上確定した以上、日本が武人の伝統に戻って戦争の出来る普通の国(ただし実際の戦争は稀)に戻ろうとしていることは当然である。




↓↓↓ 一日一回クリックしていただくと更新の励みになります。
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 政治ブログ 国際政治・外交へにほんブログ村
コメント (259)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« モンゴルの鉄道計画とサハリ... | トップ | 百田尚樹NHK経営委員と森喜朗... »
最新の画像もっと見る

259 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2014-01-22 09:52:49
軍師プリンスは情報を武器に悪党共を討つ 。
返信する
Unknown (Unknown)
2014-01-22 10:13:45
いろいろな解釈があるからなぁ。
これはますます荒れるなぁ。
返信する
Unknown (わかり松。)
2014-01-22 11:02:21
.
>政策転換を実現するには国家指導者の変更が必要であり

この部分は賛成だね。手の平を返すにはそれなりの口実が必要ではある。

ただ、光秀のその後(仮)については引用されているが、

信長のその後は?
返信する
天海は光と闇で一つ (鉄雄)
2014-01-22 11:10:31
天海=光秀と秀満。(天海は二人いた)


ちなみに、サクラ大戦のラスボスは天海。

サクラ大戦 帝都崩壊と天海の宣戦布告
www.youtube.com/watch?v=hbZsWjUVhdg
天海がついに、結界を完成させて帝国政府に宣戦布告をする。
返信する
一方・・・信長は・・・ (Unknown)
2014-01-22 11:34:10
『VS 信長』
www.youtube.com/watch?v=f6m7d_kuopM
返信する
Unknown (Unknown)
2014-01-22 12:23:33
マスコミソフィア会の会員が電通社長に  1973年外・西卒の石井直氏(59)
http://cumsophia.blog106.fc2.com/blog-entry-
69.html

電通博報堂ADKすべての社長がカトリックで
「ソフィア会」に加入してる
返信する
Unknown (Unknown)
2014-01-22 12:32:05
>落合莞爾の「堀川政略」史観

孝明天皇は生きていた説には一票
明治政府には旧幕臣もいれば公家もいる
どうしても殺したとは思えない
京都での暗殺の噂は情報操作でしょう
そのあと台湾出兵で北白川宮が戦死して薨去
その時も新聞に暗殺説が出たらしい
新聞に出るということは暗殺されてないのかもしれない
返信する
誰がなってもそもそも都知事如きに脱原発の権限があるわけないのにね。 (通りがけ)
2014-01-22 12:34:30
「宇都宮氏は都知事選で不正選挙実行犯を内乱罪現行犯逮捕せよ」

「北朝鮮デビル夫人、世界のアイドル」http://richardkoshimizu.at.webry.info/201401/article_109.html#comment
>朝からデビル・スカトロ夫人は食欲落ちる(´Д`;)
>噂タクさん2014/01/21 08:27

テレビを捨てればこういう醜い魑魅魍魎の姿も声も見ず聞かずで済んでこどもが本を読んで賢くなるよ。

大和魂のご先祖様は外来夷敵鬼畜外道に佛国日本の土を踏ませぬため己の一番大切な命さえ捨てて戦い武士道攘夷菩薩となった。
その大和魂をご先祖様から受け継ぐわれわれ日本人がなんでご先祖の仇ユダ金戦争屋が作る白痴化洗脳電波発信装置テレビごとき惜しんで捨てられぬことがあろうか。
ご先祖様を供養礼拝尊崇する躾正しき日本人は全員ただちにテレビを捨てよ。これが日本悠久の伝統の大和魂であり日本人の証明である。

まーテレビを見ている時点ですでに佛敵ユダ金拝金戦争カルトスパイ伊藤博文田布施人脈棄民テロ贋政府の先制攻撃が奏功していると言うことだね。

靖国の攘夷大和魂菩薩ご先祖さまはすべての世俗の欲も楽も捨てて不惜身命ユダ金と戦った。ユダ金カルト手先拝金政府といまこの地球上で至上の気高い大和魂で戦うもののふは、まさに靖国の仏心英霊を受け継ぐ者である。不惜身命を受け継ぐ日本人が、なんぞテレビ如き仏敵拝金カルトの集金装置ぽっち不燃ゴミ廃棄場へ即座に叩き捨てないでおくべきか。

>大将、小沢さん支持はやめちゃったんですか?
>それとも小泉が一緒だから却下?
>ふくろうさん2014/01/21 14:20

ちょっとしらじらしいかなw
別に政治家なんぞに期待する何ものもないが今度の都知事選は2012.12.16と違って単独選挙だからユダ金スパイ総務省選管NHK共犯の不正選挙がボロ出しまくって公務員選挙違反の憲法99条違反内乱罪の動かぬ現行犯証拠がユダ金が嫌がる宇都宮氏を応援することで山盛り捕まえることができるから、選挙の勝敗に関係なく宇都宮氏を応援してるだけである。少し前のエントリー読まなかったのかな、それともただの独立党員撹乱のためかねw

要は不正選挙の証拠をつかんで選管とNHKをぶっつぶして両犯罪組織の所轄省庁総務省を内乱罪で検挙投獄して跡形も残さずぶっつぶす。

今回都知事選で誰が当選しても選挙無効であり、前回1216都知事選の猪瀬当選も無効になる。そうすれば自然に前回次点の宇都宮氏が猪瀬逮捕当選無効を受けて都知事に就任するのさw

同時に1216当選国会議員全員憲法99条違反内乱罪逮捕。安倍ももちろん逮捕。憲法70条総理罷免懲戒免職安倍内閣即日総辞職即日国会解散衆参全議員逮捕してすべて新しい立候補者から両院の全議席に就くべき新しい国会議員を日本国憲法前文「正当な選挙」で選出する。これが立憲法治政治である。

すなわち勝敗に関係なく都知事選で宇都宮氏を応援する。これが大和魂もののふの兵法である。

よって、宇都宮氏は直ちに自分自身で全国の学生生徒に呼びかけて「全国都道府県学生生徒動員社会科実習都知事選挙監視団」を緊急結成せよ。
それが、「天は自ら助くる者を助く」ゆえに「人事を尽くして天命を待つ」ことである。
宇都宮氏が自ら助くるためにこの都知事選に不惜身命人事を尽くさなければ、天も人も宇都宮氏を助けること決して能わず。すなわち宇都宮氏にカンボジアで「公明正大な正当な選挙」実現のために命を捨てて尽くした故中田厚仁くんと同じ不惜身命勇猛心大和魂があるかないかの問題である。
大和魂菩薩の佛教国日本では、選挙は地位や生まれではなく清らかな行いで作り上げられた崇高な人格で選ぶのである。

釈尊の言葉http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c149
 「道を行きて、己よりも勝れたる者、または、己に等しき人に逢わずんば、むしろ、独り行きて誤るな。愚かなる者の友となるなかれ。」
 「あらゆる生物にたいして暴力や悩みを与えてはならない。独り、サイの角のように歩め。実に欲望はいろとりどりで甘美である。心を楽しませてくれ、満たしてくれる。しかし、欲望の対償には、憂いがあることをみて、サイの角のように、ただ独り歩め。」


渋沢敬三宮本常一師弟が創学した日本常民民俗学を学問する民俗学者と学生は、ただちに宇都宮氏に全面協力して「全国学徒動員社会科実習都知事選挙不正防止監視団」結成と運用に全員結集参加せよ。
返信する
Unknown (Unknown)
2014-01-22 12:42:15
 茶道、千利休とカトリックも是非!
・京都のミッション系の同志社大学は
 茶道とも縁が深い
・茶道はカトリックの影響を受けている
・日本のカトリック化を目指すスペイン
・南欧勢からの自立を目指す織田
・伊賀忍者/利休/イエズス会VS織田
→天正伊賀の乱→翌年、本能寺の変
・秀吉が政権を取ると利休は堺貿易の実務から
遠ざけられる
・朝鮮出兵で秀吉と対立
・利休切腹
幕末もそうだが戦国時代を理解するには同時代
の世界史、特に覇権国スペインとその王室ハプ
スブルグへの理解が必要
また、利休の子孫である千家がカトリックと現在
も縁が深いことに注目すべきだろう
返信する
Unknown (Unknown)
2014-01-22 13:12:39
光秀や秀吉、家康には、信長の外交ポリシーが理解を超えていたのではないですか。
信長は、光秀が思っていた以上にイエズス会に対して対立的だったことが、安土城に入ってようやく理解出来たのでしょう。
反朝廷的で、キリスト教布教を推進する信長の本意を家康まで含めてあの時代に理解することは容易ではありません。
光秀は、安土入城後全く判断力を失っています。安土城の最上階に表現されたものなどを見て勘違いしたと気づいたんでしょう。信長は、自分の戦略をいちいち周囲に説明する人ではないですから。
信長は自身がキリシタン大名でないことは分かっていても疑っていた。なにを考えている方なのか分からなかった。
骨は探したと思いますよ。死ぬ程。
信長が生き延びていたと誰もが疑い恐れたから、家康は織田家の血筋のお江を家中に入れたのでしょう。あの信長の凄まじい死に方は、誰にとっても予想外だったんでしょう。
私の意見は政策転換ではなく、勘違いしたです。
明治維新に関しては、安重根が意味深長に孝明天皇の暗殺の事実を暴露したのは、本当に暗殺されてるから国際金融資本側もカードになると自信を持っている証拠。やはり明治天皇即位には、裏があるのでしょう。
ただ暗殺がフェイクなら、関西に天皇が再引越ししたあと、北朝側が血筋を元に戻す動きをするでしょうから今後の動きに注目ですね。この場合国際金融資本は、日本のエスタブリッシュメントに騙されたことになります。でもちょっとウイッシュトーキングかな。
返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。