パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2020年3月15日

2020-03-15 22:08:52 | 日曜礼拝
聖書箇所:マタイ10章24節~33節
説教題:恐れずに福音を語りなさい
(説教題をクリックするとTwitCastingで説教音声をお聞きいただけます)

導入)
イエス・キリストは弟子たちを宣教に送り出す前に指示を与えていました。直前の部分では、弟子たちに迫害や殉教の可能性が有ることを示して、神との深い関係と純粋の信仰と信頼の生きるようにと訓示しました。(16節の理解です。)17節から23節には、弟子たちが経験することになる迫害の例が列記されていますから、弟子たちの中には気持ちが沈んでしまう者もいたかもしれません。そこで、イエス・キリストは、「恐れるな」というメッセージを三度繰り返して彼らに伝えます。福音を伝える時に、彼らに恐れて欲しくなかったのです。

本論)
最初の恐れるなというメッセージは、26節にあります。先に24-25節にその理由が示され、26-27節に補足説明が加えられています。先ず、イエスと弟子の関係を、三通りの関係に例えています。師と弟子、主人としもべ、家長と家の者たちという近しい関係だとしています。ユダヤ人の指導者たちは、イエスをベルゼブル、すなわち悪魔と呼ぶのだから、近しい関係の弟子たちのことも悪く言うのは当然だということを指摘しています。そういうことは、起こるべくして起きるだけのことだというのです。だから恐れる必要は無いとうことです。恐れないとどうなるのでしょうか。イエスのご命令通り福音宣教をすることになるのです。それが26-27節の補足の意味するところです。26節の繰り返し表現は、福音は必ず知られるようになるのだということを表しています。ひいては、福音は霊的に盲目の人々には隠されているが、その正しかったことは、最後の審判の日には明らかになるということも示していると思われます。(これから弟子たちが伝えようとしている神の国の福音に関する表現で、一般的原則の表現ではありません。)明らかになるのが福音であることは、27節の表現でわかります。これは、当時の師が弟子たちを教える様子を表しています。個人的に建物の中で教える時が有り、時には近しく耳元に語り掛けるように教えることが有ったということです。それを公に語って言い広めなさいというのです。イエスが弟子たちに教えたことは、神の国の福音です。それを宣べ伝えなさいといるのです。良い知らせは伝えずにはいられないものであり、公になってしまうのが自明の理です。そういうことを語るのだから、恐れるなということになります。これから伝道旅行に使わすために注意をしていることを再確認させているようです。

二つ目の恐れるなというメッセージは、28節にあります。迫害や殉教とうことを聞けば、心が沈んだりするのは人間として自然なことです。だからこそ、このような説明と励ましが必要なのでしょう。イエスはここで、弟子たちが地上の命にばかり目を留めないようにと警告しているのです。へブル9章27節にあるように、私たちは皆死ぬことが決まっており、また、神の裁きに合うことが決まっているのです。肉体の死が終わりではありません。魂は永遠に生きるのです。弟子たちを迫害したり殺したりする人たちは、彼らの肉体を傷つけたり破壊したりすることはできても、魂まで滅ぼす能力は持ち合わせていません。弟子たちはむしろ永遠の命と、魂を滅ぼす権限と力を持っておられる全能の神に目を止める必要があるのです。ヨハネ5章24節は、イエスの言葉とイエスを遣わした神を信じる者は永遠の命を持ち、裁きにあうことがなく、死から命に移っていると述べています。我々の肉体の死は神が保証される天国への入り口に過ぎないのです。だから恐れる必要は無いのです。

三つ目の恐れるなというメッセージは、31節にあります。その理由は先行する29-30節にあります。ここでは、雀と髪の毛は価値の低いもの、人が注意を払わないものを示しています。アサリオンというのは、当時の貨幣で一番価値が小さい銅貨でした。そんな程度の銅貨でも雀は二羽買えたというのです。それだけ雀の市場価値は低かったということです。雀は貧しい人の食物でした。髪の毛は、抜けてもあまり気にされず、さっとはいて捨てられてしまうようなものです。しかし、どちらも神のみ手の中にあり、雀も神の許しがなければ地に落ちることはないし、髪の毛もみな数えられているというのです。それならば、ましてや弟子たちのことを神様は確実に気にかけてくださっているということです。私たちを救うために、神はみ子イエス・キリストを十字架に掛けられたのです。神の目には私たちは価値が有るのです。だから恐れる必要は無いのです。翻って、私たちはイエス・キリストを尊んでいるでしょうか。イエス・キリストを敬っているでしょうか。弟子たちはイエスの証人として召し出され、これから宣教に派遣されるのですから、人々の前でイエスを救い主であると認める人物でなければいけませんでした。同様に、私たちも、機会が有る度に、イエスを救い主と認めていることを表していく必要が有ります。逆に、公にイエスを知らない、自分の救い主であると認めないと表明する者は、裁きの日に、イエスに拒絶されるのです。

まとめ)
弟子たちが宣教に出ていくにあたって、恐れてはならない理由を確認してみましょう。

1)救い主イエスでさえ不当な扱いを受けたのだから、恐れるな
  この世は神に反抗するものです。もし私たちが神の家族であるならば、私たちはこの世に憎まれるのです。それは驚き怪しむべきことではありません。(1ペテロ4:12-14参照)

2)全能の神が私たちの魂を救われるのだから、恐れるな
  迫害者は私たちの体は殺せても、魂を殺すことはできません。神だけが、私たちの魂を滅ぼすことができる存在です。しかし、その神が私たちの神であり、イエス・キリストの贖いの業を通して、私たちの魂を救い、生かしてくださる方なのです。(ヨハネ3:16)

3)神が私たちを心にかけてくださるのだから、恐れるな
  雀を心にかけてくださる神は、私たちにもっと価値を見出してくださっています。(イザヤ43:4-5参照)一人子イエス・キリストを、私たちの罪の代価として差し出してくださる程に私たちに価値を見出してくださいました。
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