パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2023年3月19日

2023-03-21 13:08:08 | 日曜礼拝
礼拝音声

聖書朗読:マタイ21:12-17
説教題:イエスのメシアとしての主張

導入)
  直前のエピソードでは、イエスがゼカリヤの預言を成就するために、小ロバに乗ってエルサレムに入りました。今回の朗読箇所は、その続きとして、イエスがエルサレムの神殿でした行動についての記録です。その意味を確認してみましょう。

本論)
12節 神殿の境内に売り買いをする者たちがいたことが記されています。祭司たちがその商売を牛耳っていました。神殿で捧げる犠牲の動物は、自分で用意することができたのですが、大抵は祭司達が難癖をつけて、犠牲の動物として相応しくないと言い、彼らが用意した犠牲の動物を高い値段で買わせていました。また、両替人がいたのは、外国からの巡礼者が多くいたからだけではなく、神殿での購入はフェニキヤの貨幣で行われなければならないと決められていたからだそうです。フェニキヤの貨幣が強かったからだったと思われます。また、両替のレートも不当なものであったようです。そういうわけで、イエスはその人たちを追い出したのです。

13節 イエスの言葉は、旧約聖書の引用です。マタイはユダヤ人に向けて福音書を書きました。ユダヤ人たちは、このような旧約聖書の言葉に通じていましたから、その言葉が示唆する事柄がよくわかったと思われます。
  先ず、直接の引用部分は、イザヤ書56章に出て来ます。56章全体を確認するとわかることが二つあります。一つ目は、神は異邦人に対する心配りをしているということです。56章3節や6節には、外国人への神からの心配りがうかがえる表現が有ります。二つ目は、イザヤの時代の指導者たちは、私利私欲のために行動していたことが示されていて、それが、神殿の売り買いを牛耳っている祭司達に重なるということです。
  次に、強盗の巣という表現は、エレミヤ書7章からの引用と考えられます。当時の堕落したユダヤ人たちは、偶像礼拝、姦淫、殺人などをしていても、神殿に来て犠牲を捧げて礼拝し、自分達は救われている、安泰だとという態度だったということです。そういうユダヤ人が集まって礼拝する神殿はまるで強盗の巣のようだというのです。イエスの目には、この時の神殿も同様に見えていたということです。この強盗という表現は、エゼキエル書7章22節では、エルサレムを破壊して人々を捕囚に取ったバビロンの兵士たちを指して用いられています。イエスには、当時の祭司達が、悪辣なバビロンの兵士たちと同様に見えたということと、この後、エルサレムが神の裁きによってローマに破壊されることなどが考えに有ったのではないかと思われます。

14節 イエスは念を押すかのように、もう一度ここで自分が旧約聖書に預言されたメシアであることを示します。目の見えない人や足の萎えた人を癒しました。これは、イザヤ書35章5節、6節の成就と言えます。そして、目の見えない人を癒す奇跡は、メシアによってしか行われていないのです。死者をよみがえらせる奇跡を行ったエリヤやエリシャでさえ、盲人の目を癒したという記録は無いのです。

15節 このような奇跡を目にして、人々はイエスをたたえ、子どもたちは「ダビデの子にホサナ」と叫んでいました。この子供たちのように、人々は単純にイエスがメシアであるしるしとしての奇跡を受け入れました。ところが、祭司長や律法学者たちは、イエスを拒絶し、腹を立てました。腹を立てるという動詞は、大変不愉快に思う、大変怒るという意味が有ります。ヘロデ大王が2歳以下の男児を殺すように命じた時の怒りと同じ語です。また、このことは、弟のアベルを殺したカインの怒りと同じ定義になります。まさしく、彼らは、数日後にイエスを十字架にかけて殺す人たちでした。

16節 祭司長たちの質問の意味は何でしょうか。ダビデの子にホサナという賛美の言葉を、人間であるイエスに向けてかけるのは、神への冒涜ではないか、止めさせないのかということです。イエスの回答の意味は、私は神だからその賛美に相応しいのだ、ということなのです。イエスが引用したのは、詩編8編2節です。その詩編は、主なる神への賛美の詩編なのです。こうして、イエスは祭司長達にも、もう一度明白に自分がメシアであり、神なのだと主張したことになります。祭司長達は、このようなイエスの発言を冒涜として逮捕することができたはずですが、それをしなかったのは、癒された人たちがいて、イエスを預言者と認める人たちが周囲に大勢いたからだと思われます。

17節 マタイが、イエスがこの後ベタニヤに向かったという記録を残したのは、単なる事実の記録ではないように思われます。ベタニヤは、エルサレムから8キロほど離れた町で、徒歩で2時間程の距離にあります。特筆するべきなことは、それが、イエスを受け入れ、もてなしたマルタ、マリア、ラザロ、そして、シモンの住む町だったということです。

まとめ)
  マタイがこの記録によって伝え、明確にしようとしたことを次のように考えることができると思います。

1)イエスは公に自分がメシアであると主張した
  ―神殿に関する権限を行使することによって。
  ―盲人を癒すことによって。
  ―子供の賛美を受け入れることによって。
  ―詩編8編を引用することによって。
それだけではありません。イザヤ書の引用は、イエスが異邦人のための救い主であることも示しています。イエスこそ、神殿の権威であり、礼拝の中心となるべき方です。

2)イエスは拒絶されてはならない
  祭司長たちは旧約聖書に通じていました。メシア預言もよく知っていました。にもかかわらず、彼らは明確なメシアのしるしを無視し、イエスを拒絶しました。その結果が、神の裁きとしての70年のローマによるエルサレム破壊と言えると思います。私たちは、これを反面教師としなければなりません。

3)イエスは復活を信じる者に臨在をあらわされる
  イエスはどこにでも宿を取ることはできたはずです。にもかかわらず、イエスはベタニヤに宿泊することにしました。ベタニヤでイエスを歓迎した人たちの中には、ベタニヤのマリアがいました。ヨハネによる福音書12章では、マリヤが埋葬の準備のために高価な香油をイエスに注いだという記録が有ります。その時のことと考えられるマタイによる福音書26章13節で、福音の語られるところではどこででも、マリヤのことも記念として語られるとイエスは言っています。どうしてでしょうか。それは、マリヤがイエスの復活を信じていたからだと考えられます。十字架にかかられる前に、イエスはそういう信仰を持っている人たちと交流をもたれようとしたのではないでしょうか。今日でも、イエスは、復活を信じるわたしたちと、親しい交流を持っていてくださる方です。
コメント
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