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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2月20日・志賀直哉の肉体

2017-02-20 | 文学
2月20日は、野球の「ミスター」長嶋茂雄が生まれた日(1936年)だが、小説家、志賀直哉の誕生日でもある。

志賀直哉は、1883年、宮城県石巻町に生まれた。父親は銀行マンで、後、高校や鉄道会社などに勤務した。直哉は2歳のとき東京へ引っ越し、祖父母のもとで育った。小学校から高校まで学習院に通った。スポーツと歌舞伎、女義太夫にいれこみ、東大の英文科に入学したが、大学にはほとんど行かず、小説を書き、遊び、旅をしてすごし、退学した。
志賀は武者小路実篤、里見弴、有島武郎らと、同人誌「白樺」を創刊し『網走まで』『剃刀』『老人』『濁った頭』などを書き短編の名手とうたわれた。さらに『城の崎にて』『和解』『焚火』、唯一の長編である『暗夜行路』を書き「小説の神様」と呼ばれた。
日本ペンクラブ会長を務め、文化勲章を受賞した後、1971年に没した。88歳だった。

志賀直哉の作品に「沓掛(くつかけ)にて」という短い文章がある。これは、長野県の沓掛にいたときに、芥川龍之介が自殺した報せを聞いて書いたもので、「芥川君のこと」という副題がついている。生前の芥川龍之介と会って話した思い出を、志賀らしい簡潔で、力のこもった文体でつづったものだけれど、心打たれる名文である。
川端康成は、この文章を読むと、芥川のことを思って涙する、と言った。
志賀自身も、べつのところで、「沓掛にて」を書いたときは、そうとうに強い気持ちがあった、と書いていた。噴きだしてきそうになる情緒的なものを、あえて押し殺し、強い気持ちで書いた、そういう文章で、紙から立ち上がって読者の胸を突き刺してくる、そういう気合いのようなものこもった志賀の文章の典型的な例である。

志賀直哉にはまた、「泉鏡花の思い出」という随筆がある。こちらは、生前の泉鏡花に会ったときの記憶を書いたもので、そのなかに、訪ねていった泉鏡花の自宅で、将棋をさしたときの様子が書いてあって、それはこんな風である。
「将棋をされるといふので、私はあまりうまくなかつたが、駒を並べ、さて始めようとすると、こつちの飛車と向ふの飛車と、こつちの角と向ふの角とが向ひ合つてゐた。注意するのは何となく悪いやうな気がして拘泥したが、そのままでは指せないので、遠慮しながら、注意した。泉さんはあわてて飛車と角とを置きかへられた。ところが、やつてみるとどうもへんなので、よく見ると間違つてゐたのは私の方だつた。これには、自分ながら驚いた」(「泉鏡花の思い出」『志賀直哉全集9』岩波書店)
泉鏡花は志賀の大先輩だが、たがいにその才能を認め、尊敬の念をもち合っている作家同士で、その二人の性質がよく出ている場面である。

ともに短編小説の名手である芥川龍之介と、志賀直哉。二人のちがいについて、谷崎潤一郎はこう述べている。
「同じ短編作家でも芥川君と志賀君との相違は、肉体的力量の感じの有無にある。深き呼吸、逞しき腕、ネバリ強き腰、――短編であつても、優れたものには何かさう云ふ感じがある」(谷崎潤一郎「饒舌録」『谷崎潤一郎全集 第二十巻』中央公論社)
「肉体的力量の感じ」がある文章。こんな文章を書く人は、古代から現代までを通して、日本には志賀以外にいなかった。
(2017年2月20日)



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