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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

11月2日・マリー・アントワネットのエレガンス

2021-11-02 | 歴史と人生
11月2日は、映画のルキノ・ヴィスコンティ監督が生まれた日(1906年)だが、フランス王妃マリー・アントワネットの誕生日でもある。

マリー・アントワネットこと、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンは、1755年に、現在のオーストリアのウィーンで生まれた。その名の通り血縁によってヨーロッパをほぼ征服した名門ハプスブルク家の皇女で、女帝マリア・テレジアの第11女だった。
マリア・アントーニアは7歳のとき、宮廷へ演奏にやってきたひとつ年下のモーツァルトが転んだのに手を差し伸べ、感激したモーツァルトからプロポーズされた。彼女は読書嫌いで、オペラやバレエ、ピクニックを好む娘だった。
母マリア・テレジアが率いる神聖ローマ帝国は、当時勢力を強めていたプロシア(ドイツ)に対抗するため、フランスと同盟関係を結ぶことを目論み、娘マリア・アントーニアを政略結婚させた。彼女は1770年5月、フランスへ渡り、国王ルイ15世の息子の王太子とヴェルサイユ宮殿で結婚式を挙げた。こうしてフランス名のマリー・アントワネットとなった彼女はまだ14歳だった。結婚はしたものの、夫は包茎で、アントワネットは22歳のころまで処女妻だったと言われる。暇を持て余した彼女は夜ごと舞踏会で踊りあかし、ギャンブルにふけった。やがて夫が即位してルイ16世となり、彼女は19歳で王妃になった。
そして22歳のとき、夫が包茎の手術をし、夜の生活が可能となった。マリー・アントワネットは23歳から31歳までに2人の男の子と2人の女の子を産んで王妃の大役を果たした。
彼女はようやく自分の立場に目覚めたが、時すでに遅く、彼女が34歳になる1789年、フランス革命が勃発し、敵対する貴族や民衆からの憎悪を一身に引き受けることになった。
36歳のとき、彼女は家族全員で革命勢力一色となったパリを脱出する計画を立て、愛人に協力させて実行したが、ドレスが届くまで出発を延ばせとか、もっと大きな馬車を用意せよなどとわがままを言い、のんびり逃げたため、途中でつかまり、パリへ連れもどされてしまった。王が国を捨てて逃亡をはかったこのヴァレンヌ事件によって、革命勢力内のそれまで親国王派だった人々にも見捨てられ、ルイ16世は1793年1月に処刑された。マリー・アントワネットは、息子と近親相姦をしたというでっちあげの冤罪により死刑判決を受け、同年の1793年10月、ギロチンにかけられて処刑された。37歳だった。

飢えたフランスの民衆が「パンを」と叫んだのに対し、マリー・アントワネットが、
「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」
と言い放ったという伝説があるが、あれは別の王族女性が言ったものらしい。

欧州一の王家に生まれたお姫さまが14歳で輿入れしたら、贅沢でわがままになるのは当然かもしれない。彼女はおそらく額に汗して働く人など見たことがなかったろうし、心を正直に打ち明け諫言してくれる人にも出あわなかったろう。王族生まれは大変である。

断頭台に上がり、これからギロチンにかけられるというとき、マリー・アントワネットは死刑執行任の足を踏んでしまい、
「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった」
と声をかけた。幼いモーツァルトを助け起こしたエレガンスは生涯を貫いていた。
(2021年11月2日)



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