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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

9月6日・ジョン・ドルトンの固執

2017-09-06 | 科学
9月6日は、米国の社会事業家ジェーン・アダムズが生まれた日(1860年)だが、近代科学の父、ジョン・ドルトンの誕生日でもある。

ジョン・ドルトンは、1766年9月6日、英国イングランドのカンバーランド州イーグルスフィールド村で生まれた。貧しいクェーカー教徒(友会徒)の一家で、ジョンの父親は、畑を耕し、手織り機で織物を織る半農半工の農夫だった。
産業革命期の英国の田舎に生まれたジョンは成績優秀で、12歳のときにはみずから教師・校長となり、村の子どもたちを教える学校を自宅で開いた。しかし、寒村の子息が払える月謝はわずかで、苦しい経営を2年ほど続けた後、学校を閉め、父親の農作業を手伝いだした。当時の田舎では、学問があるより農作業ができるほうがずっとえらかった。
間もなく彼は農具を放り出し、今度は、70キロメートルほど行ったケンダルという町で、従兄が経営していたクェーカー教徒の小学校の教師助手になった。そこで彼は、英語、ラテン語、ギリシャ語、フランス語、数学、簿記、幾何学、航海術、測量法、地理、光学、力学、気体学、水力学などの授業を担当した。
26歳のとき、ジョンは産業革命で急成長していた町、マンチェスターへ引っ越していき、長老派教会がつくったマンチェスター学院の教師の職についた。この学院でドルトンは、数学、力学、幾何学、簿記、物理学、化学などを教えるかたわら、これまでの気象学の研究をまとめ、論文集を出版した。
気象学や色覚の論文を書いたドルトンは33歳になる年に一念発起し、学院を退職し、個人教授一本で生計を立てることにした。そうやって研究用の時間を捻出し、研究を続けた。
35歳になる年に、「ドルトンの法則」とも呼ばれる分圧の法則を発見。
そして、39歳の年に、原子量を計算した原子量表を発表した。彼の原子記号は、円のなかに記号や図形が描かれたもので、現代では使われないし、彼が求めた原子量や分子構造は、現代人が理解しているものとはだいぶ異なる。しかし、後世の修正も、ドルトンの一歩あったからこそで、ドルトンをもって、人類ははじめて化学的変化を、原子の結合と分離の結果として理解するようになった。
ドルトンは生涯を独身で通し、クェーカー教徒らしい質素な生活を送り、毎日気象の記録を欠かさず、時間を決めた、判で押したような規則正しい生活を送った。彼は20歳からつけはじめた気象観測データを、脳梗塞で倒れ亡くなる直前までこまめに記録し続けた。
1844年7月27日の朝、家政婦が、自室で意識不明でいるドルトンを発見した。あわてて呼んだ医者が到着する前に、ドルトンは息をひきとった。享年77歳だった。

ドルトンは語っている。
「もしも私が、私の周囲の多くの人々よりも成功したとするならば、それは主として──いや、ほとんどまったく、といってよいだろう──たゆまない勉励のおかげであった。ある人々が他の人々よりもはるかに卓越してしまうのは、その人が他の人よりもすぐれた天才であるためよりもむしろ、勉強への専心と、目的の固執とのためである。」(原光雄『近代科学の父──ジョン・ドールトン──』岩波新書)
(2017年9月6日)


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