噛みつき評論 ブログ版

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新自由主義の置き土産

2019-05-26 21:11:58 | マスメディア
 前回、携帯大手3社による寡占体制のために実質的な価格競争が起きず、料金が高止まりして消費者は高い料金を払わされてきた問題を取り上げた。3社は料金体系を極度に複雑化してユーザーが比較することを困難にするなどの手口を使って、実質的に価格競争を回避してきたわけである。それでも公正取引委員会は3社の販売方法にたびたび注意や行政指導を行ってきたが、それに対してメディアはあまり関心を示さなかった。公取だけが孤軍奮闘していたという印象は免れない。もし野党やメディアの後押しがあれば、より強力にできたかもしれないし、またより実効性のある法の改正も可能であったかもしれない。

 同時に半世紀前の話として八幡製鉄と富士製鉄が合併して新日本製鉄が誕生した際の大論争を紹介したが、この時代は私的独占に対して社会は敏感であった。公正取引委員会も経済学者らも熱心に議論に参加した。それがなぜこれほど変わってしまったのだろうか。

 それには恐らく新自由主義(市場原理主義)の流行が関係しているのではないかと思う。これは市場原理を尊重し、政府の規制を最小限にしようとする考えであり、独占に対して厳しい規制をかける方向とは相容れない。市場の機能を信頼し、自由放任まで主張する学者もいる。この新自由主義はサッチャー、レーガン、中曽根の時代の経済に大きな影響を残した。所得に対する強い累進課税は緩められ、所得格差に関して、社会は以前より寛容になったようだ。

 日本でも、少なからぬ経済学者がこの新自由主義の流行に飛び乗った。しかし流行は所詮、流行であり、時間経過と共にその勢いは衰えたように見える。服や家具、住宅に車など、世に流行は数多くある。これらの流行は実用面に関係したものもあるが、主として好き嫌いなど、感情・感性に関係しているものと思う。学問領域における流行はこれらのものと少し違う。それは学問が主として理の世界であって、少なくとも感性の世界ではないからである。

 学問の世界でも流行と見えるものもある。進化論などのようにパラダイム(枠組み)の大転換があったとき、流行のような現象が見られる。しかし新自由主義はそのような例ではないと思う。これは学説というより価値観を含んだ思想の面が強い。新自由主義は経済学説というより、共産主義や社会主義、さらにはナントカ教といった宗教に近いと思う。興味深いのは新自由主義に染まり、主導した人たちが学者であることである。本来、理の世界に住む人たちなのである。学者でも「軽快」に流行に乗る人がいるらしい。

 新自由主義は規制の緩和などを通じて経済の成長を促したかもしれないが、同時に所得格差の増大をもたらした。それをどこまで許容するかは価値観の問題でもあり、その国にふさわしいレベルを選択すればよい。しかし私的独占に対してまで寛容になるのはおかしい。独占は市場の機能の公正さを損なうものであり、市場経済がある限り必要なものであるからだ。流行に左右されるものではない。電話料金の値下げを政府が要求しなければならなかったことは法が十分に機能していないことを示している。携帯3社の寡占問題によって現在の独禁法の実効性の限界が天下に示されたわけである。

 政府が料金値下げ要求を行ったが、それは政府がこの問題を認識していたことを意味する。政府は値下げ要求と共に通信料金と端末代金の分離を義務づけることなどを盛り込んだ改正電気通信事業法で対応した。しかし反面、政府を監視するのが役割と自認しているマスメディアや野党、経済学者らはその認識さえなく、まるで役に立たないこともよく分かった。

独禁法の精神は忘れ去られたのか?

2019-05-19 21:41:05 | マスメディア
 昨年、菅義偉官房長官は「携帯電話料金は4割下げられる余地がある」、「OECDの調査によると(日本の料金は)OECD加盟国平均の2倍程度。他の主要国と比べても高い水準にある」と発言、これが契機になったのだと思うが、携帯大手3社はこのほど料金の引き下げに動いた。この携帯電話料金が高すぎるという指摘が野党でもメディアでも、また経済学者でもなかったことに注意していただきたい。そして菅発言の直後3社の株価は一時、値下がりし経営に与える影響が懸念された。

 ところが、ドコモが値下げを発表した4月以降、3社の株価は上昇に転じている。最大4割の値下げを謳っている会社もあり、4割値下げが実現するかという期待を持たせたが、次のデータをみるとそれがどうもイカサマ臭いのである。以下は19年3月と20年3月の決算予想である(会社四季報3月15日更新)。左側が19年度、右側が20年度。

       売上高 (億円)       営業利益 (億円)
 KDDI    51200 → 52000      10200 → 10400
 Softbank  37000 → 37600       7050 → 7150
 Docomo   48300 → 47500       9940 → 8940

 KDDIとソフトバンクは売上高、営業利益とも微増、ドコモだけは微減となっている。正直に料金を4割下げればこんな数字が出るわけがない。少なくとも増加なんてあり得ない。この予想が正しければKDDIとソフトバンクはより多くの金をユーザーから吸い取る算段であることが分かる。ドコモは少しマシだが、微減である。売上に対する営業利益率はそれぞれ20%、19%、18.8%であり超優良企業である。優良企業であることはよいことだが、それは公共的な事業でない場合である。来期の予想から3社とも身を切るような値下げは考えていないと思われる。政府の誘導だけでは限界があることを示している。ちなみに公共的な性格の強い中部電力の営業利益率は約4%、関西電力は約6%、大阪ガスは約4.6%である(2019年度予想)。

 携帯料金が高すぎる問題に対して、野党からもメディアからも、また経済学者からも指摘がなかった。また各社が高すぎたことを実質的に認めて値下げを発表してからも、寡占状態の弊害に対する指摘は誰からもなかった。携帯電話事業は極めて公共性の高い事業であり、3社の寡占による超過利潤は道義的にも問題である。またその額も3社合計で2兆7千億円と巨額であり、この額は秋の消費税増税による増収額の半分ほどになる。価格競争が働いていなかった事実はもっと重大に受け止める必要があると思われる。資本主義経済は自由競争が前提であり、独占の禁止はその根幹をなすものである。むろん独占禁止法があるが、それが十分に機能しなかった事例として認識しなければならない。携帯電話業界においては現行の独禁法はザル法なのである。

 例えばガソリンはどのスタンドで買っても同じ商品であるから、選択は価格が中心になる。大変わかりやすいので放っておいても価格競争になる。中には過当競争で共倒れという例さえある。ところが携帯電話は多くのプラン、多くの値引き、契約期間の制限など故意に複雑化して、ユーザーが他社との比較判断ができないようにしてある。そして極端な複雑化のため契約に何時間も要するようになり、また高齢者などは理解しないままに契約せざるを得ない状況を作り出す。3社は販売方法について2017年、2018年と毎年のように公取から行政指導や注意を受けている。違法スレスレの販売をやっているためであり、モラルが低い。

 もう半世紀も前のことだが、当時、八幡製鉄と富士製鉄が合併するという話が持ち上がり、これが大論争を引き起こした。公正取引委員会は独占禁止法に触れる恐れがあるとし、また一部の経済学者らも強く反対した。確かではないがメディアも参加していたように思う。何が言いたいかというと、当時は独占ということに世の中が敏感であったということである。

 いま、携帯電話業界の寡占問題に対して指摘をする経済学者を私は知らない。経済学者は株や金利の予想に忙し過ぎるのか、独占の問題には興味がないようである。野党とメディアに至っては、それが問題だと認識することさえないように思える。まあこの問題ひとつとってみても野党とメディアの見識の低さが分かる、つまりかなり無能ということが。だからこそモリカケ問題ごときに熱中するのだろうけれど。

バカのひとつ覚えは遺伝するか

2019-05-12 22:57:35 | マスメディア
バカのひとつ覚えも遺伝するか

 NHKスペシャル「人体」は去年くらいから放送しているが、内容はかなり目新しいものであるにもかかわらず「こんなに凄いのだ、どうだ驚いた」かといった前のめりの姿勢が気になって興味を削がれていた。番組の宣伝をしつこく聞かされているような感じである。しかしこの5月5日に放送されたNHKスペシャル「人体Ⅱ 遺伝子(1)」意外にも面白い番組であった。その面白さのほとんどは内容の斬新さによるものだが。

 簡単に言うと我々のもつDNAの内、2%は機能や役割がまあ判明していたが、残りの98%は機能や役割が不明でありジャンク(ゴミ)と呼ばれていたのが、最近になってその機能や役割がわかってきたと言うのである。驚いたのは、犯人が残した皮膚や体液などの残留物のDNAから犯人の顔が推定でき、すでに捜査に使われているという話である。顔の形に関係する遺伝子は1万以上あり、それらを調べることにより犯人の顔を描き出せるらしい。しかしなんでこんな面白い話がいままで報道されなかったのか、と気になる。犯人捜査に実用化されるまでには何年もかかったと思う。私だけが知らないのかもしれないが、こんな画期的な話なら繰り返し報道してもよい筈である。数多いテレビ局が毎日24時間も放送しているわけだが、あまり役に立たない。

 リンカーンは「40歳を過ぎたら男は自分の顔に責任を持たなくてもならない」と言い、大宅壮一は「男の顔は履歴書」と言った。顔の形が遺伝的に決まるということになれば、これらの言葉は間違いということになる。しかし若い顔は遺伝的に決定される度合いが大きいと思うが、歳を経ると環境要因の比重が高くなると考えられるので、間違いと決めるのは早計であろう。このあたりのことは一卵性双生児の研究で既に分かっていることと思う。

 ジャンクDNAの解読が進むにつれ、姿形だけでなく才能や性格までを決定づける遺伝子が見つかりつつあるという。ガン、アレルギー、アルツハイマーなど病気に対する抵抗性にも関係する遺伝子があるそうだ。今まで環境などにより後天的に決定されると考えられてきたさまざまのものが遺伝子で決定されているということになりそうである。

 従来は食生活や気候、家族などの人間関係など環境要因によって決まると考えられてきた身体や性格など人間の諸々の特性のうち、個々の遺伝子の機能と役割がこのように示されるようになれば、遺伝の重要性は大きくなると思われる。その分、環境要因の重要性が減ることになる。遺伝的に決まるものが多いほど、努力や学習などの意味が低下すると考えられることから、それを避けるため、この種の話は抑制的に伝えられることが多い。逆に努力すれば変えられるという話は誇張気味にされることが多い。運命論に陥らないための親切なのだろうけど。それにしても人間のさまざまな特性のうち、どれが遺伝の影響を受けるのか、どれが環境の影響を受けるのかということの解明はとても興味深いものになりそうである。

 詐欺グループが騙しやすい人を繰り返し標的にするのは、学習によっても変化しない性格があることを示唆する。激しやすい性格や楽天的な性格など、安定していて変わりにくいものは遺伝的の影響が支配的であるものかもしれない。前回「バカのひとつ覚え」で取り上げた、一旦思い込んだら信じ通す人、他人に耳を貸さない頑固な人の存在は社会の無用な分裂を招くこともある重要な要素である。この性格は遺伝的に決まるものか、大いに興味があるところであるが、私は遺伝が関与する部分が大きいように思う。もし遺伝的に決まるのなら解決はかなり困難となりそうである。

バカのひとつ覚え

2019-05-05 22:17:45 | マスメディア
 山道で、木の枝などに赤や黄のテープが巻きつけてあるのに気づかれたことがあるかも知れない。道を示す標識の役割をするもので、マイナーな山道や主要路でも迷いやすいところに設置してあることが多い。ほとんどのテープ標識はほぼ適切な場所にある。私もテープ標識に助けられることが少なくない。

 ところがこれをわざわざ剥がしていく人間がいるそうなのである。京都でそのような例を2カ所聞いている。話を総合すると、彼らはテープや標識が自然を壊すという理由で剥がしているらしい。自然保護が大切なのはわかるが、遭難を防ぐ方が重要だと思う。優先順位が異常なのである。またストックの使用が山道を壊すといって反対する人間も少なくない。ストックの使用は歩行の安全に役立つが、安全より山道の方が大事と考えるようだ。山道なんてちょっとした雨が降れば簡単に破壊される。その破壊の大きさはストックの比ではない。

 以前にも取り上げたが、ある環境保護団体は標高約1000mの比良山にあった鉄筋コンクリート3階建ての宿泊用建物を廃業に際して完全の原状回復するよう強硬に主張した。業者は仕方なく全部を破砕の上、半年かけてヘリで麓まで運んだが、多量の燃料を使い(ヘリは1時間で数百リットルのガソリンを食う)、約4億円かかったという。現地に埋める方法よりこの空輸が自然に優しいか、ちょっと考えればわかることである。「健康のためには死んでもいい」という言葉がある。優先順序を間違うことを揶揄(やゆ)する言葉である。

 誰しも短期間であれば、不合理な考えに取りつかれてしまうことはよくある。例えばあまり必要のない商品が魅力的に見えて、欲しくてたまらなくなることなど、時々経験するが、たいてい時間が経てば冷静さを取り戻す。しかし上に挙げた人々は時間が経っても、よく言えば初志貫徹、悪く言えば頑固・しつこいために不合理な考えに取りつかれたままの状態が続くようである。どうやら一部の人間はそういう構造の脳を持っているのではなかろうか。

 初志貫徹やしつこさもある程度の合理性が伴えば美点であろう。その特質のおかげで大きな仕事をする場合も少なくない。しかし合理性が欠ければそれはタダの頑固という欠点となる。憲法9条が平和をもたらしていると考えている人間がかなりの多数に上ることを考えれば、そのような人間が決して少数でないことがわかる。このような脳の持ち主がかなり存在することが世論の不統一、社会の不安定を招くと言ってもよい。

 立場の違いに由来する意見の対立はたいていは必然的であり仕方がない。けれど多くは妥協点を求めることで解決可能である。だが認識の違いに由来する対立は厄介である。同じ現象を見て異なる解釈をするのだから、意見の一致はほぼ不可能であり、妥協も極めて困難である。例えば誰かが重病にかかったとしよう。ある人は神の罰が当たっのだから加持祈祷が有効だと言う。別の人は感染によるものだから抗生剤が有効だと言う。この場合、両者に妥協点はあり得ない。認識が全く異なるからである。

 認識に違いによる対立は、ばかばかしいことだが、現実には大きな社会の不安定要因である。なぜ認識の違いが生じるのだろうかは、実に興味深い問題である。むろん理由はひとつではないだろう。教育や育った環境なども影響するに違いない。しかし人間の特定の性向、ひとつのことを信じればそれが脳の中で大きな位置を占めるといった特定の形質も影響しているかもしれない。ある家族はほぼ全員が信心深い、あるいは家族の多くが熱心な○○主義者である、などの例を見かける。親から子へと受け継がれる、DNAで決定される遺伝的形質の一つかもしれない。

 こんなことはむろん仮説に過ぎないが、社会の中の一定割合の人間は何かに頭を占領されやすい性質を持っていると考えてもよさそうだ。だったらどうすればよいのだ、と問われると困るが、現状の正しい認識が問題解決の基本であるから、無駄にはならないと思う。一度信じると他の考えには耳を貸さない人は昔から存在するようである。昔からある「バカのひとつ覚え」または「アホのひとつ覚え」という言葉はそれを示唆している。日本の野党は「護憲のひとつ覚え」で、いつまで経っても現実認識がまともにならないが、それは野党の構成員の頭の特性によるのかもしれない。