噛みつき評論 ブログ版

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スポーツという虚像

2021-06-27 18:06:20 | マスメディア
 オリンピックはじめスポーツは明確に様式化された勝負の世界である。最低限のルールしかない戦争との違いであるが、他はよく似ている。とくに勝負には勝者と敗者がつきものである点はその基本部分であり、両者に共通している。人間の闘争本能が関係していることも同様であろう。

 オリンピックは最大のスポーツの祭典と言われる。世界中の人々を惹きつける輝かしい舞台である。メディアの報道では、オリンピックの舞台には輝かしい勝者ばかりで、悲嘆にくれる敗者はほとんど登場しない。長年の努力が実って見事勝利を得た話といった、似たような成功談が繰り返される。反面、悲嘆にくれる敗者の話はほとんどない。スポーツでメシが食える人間はごく少数である。勝負に敗れ、スポーツの世界を去らざるを得ない若者は勝者の何倍もいるだろう。さらに生計を立てることさえできなくなる者もいるだろう。しかしメディアは多数の敗者に関心を示さない。

 メディアでオリンピックを観るものはオリンピックの輝かしい方の半面しか見ないことになる。オリンピックのイメージはこうして作られたものである。しかしオリンピックの輝かしさの裏側には勝者の何百倍、何千倍の敗者の悲嘆・絶望が存在するのである。

 戦争にも勝者と敗者がある。もしメディアが輝かしい勝者や勝利だけを取り上げて報道したらどうなるだろう。かつての、戦時中の大本営発表や朝日などの新聞報道はまさにそれであった。この半面報道は国の進路を誤らせるという実害をもたらすことになった。

 それではオリンピック報道はどうか。戦争報道ほどの実害はないので目くじらを立てることもないが、輝かしいスポーツ選手という夢を与えられた多くの若者が絶望への道を歩む手助けをしているという側面は否定できないと思う。高額の賞金を掲げる宝くじに射幸心を煽られて、合理的に考えれば損することが明らかな宝くじを買ってしまうのに似ている。勝手に夢を持った方が悪いのだというだろうが、毎回確実に収益を出す構造は無知につけ込んだ詐欺に近い。それが分かっているから国は民間には許可しない。

 それでもオリンピックは視聴率が増し、規模が大きくなるほど産業として成り立つようになる。放送業界は潤うし、IOC貴族の成立も可能となる。このような構造が出来上がっている以上、国民の半数が反対したくらいでは止まらない。彼らには利権を失う問題なのである。

 戦争報道とオリンピック報道、どちらもメディアの全力を傾けた報道であるが、事実の反面しか報道しない。メディアとは本来事実を伝えるものの筈である。すべてを伝えることは無理としてもここまでの恣意的な編集はやはりおかしい。

ホテル殺人、実名報道と匿名報道が逆

2021-06-05 11:45:13 | マスメディア
 東京都立川市曙町のホテルで男女2人が刺されて死傷した事件で、加害者の少年は実名が報道されなかった。一方、被害者の派遣型風俗店に勤務する31歳の女性は一部で実名報道された。他の報道機関は女性の実名を避ける配慮を見せたが、NHKなど数社は実名報道した。一部でも報道されるとネット上ではすぐに広まってしまう。

 派遣型風俗店に勤務する女性と言えばどういう仕事をしているか、誰もがわかる。一般に言って、決して名誉あるものではない。きっと本人が自ら望んだ仕事ではないだろう。恐らく、その仕事を選ばざるを得ない事情があったのではないか。そんな背景に配慮することなく、仕事と実名を世に公表するメディアの軽率さと無思慮に憤りを覚える。さらに被害者のご遺族にとっては家族を失った衝撃に加え、報道がむごい仕打ちとなる。なんともやりきれない。日頃の正義面は偽善にしか見えない。

 一方、匿名報道された加害者は被害者の体を約70回も刺したと言われる。動機について「ネットで人を殺す動画を見て殺人に興味を持った」という。想像だが、被害者はすぐに絶命したのではなく、意識のある中で何度も刺され、激しい恐怖と苦痛を味わったものと考えられる。意識がなくなるまで、まさに地獄の苦しみであったろう。加害者の残忍さ、冷酷さに胸が悪くなる。人の形をした悪魔の仕業である。

 このような加害者は我々が通常考えている人間という概念からは想像しにくい。姿は人間でも精神構造が通常の人間とは認められないほどの乖離がある。多様性を尊重する人がいるが、これほどまでの多様性は困る。一定の枠内にあるべきであろう。

 一世紀以上も前の話だが、イタリアの精神科医で犯罪学の父とも呼ばれるチェーザレ・ロンブローゾはこのような問題に興味を持った一人である。彼は生来的犯罪人説を唱え、犯罪者の35~40%は先天的に犯罪者となるよう宿命づけられた人間であると考えた。さらに彼は一部の犯罪者を人類の亜種とした。現代ではこのような説は概ね否定されている。しかしこのような事件が起きるたびにロンブローゾを思い出す。ごく少数の特別の犯罪者に対してはロンブローゾ説は一定の有効性があるのではないか、とも思う。

 実名報道を避ける報道に見られるように、この悪魔のような人間に対して人権を認めるべきかということが問題になる。自分の快楽のために、罪のない弱い女性を残酷な方法で殺す人間に人権もクソもないと思うが、そう考えない人間もいるようである。光市で起きた残酷な母子殺人事件では死刑判決を避けるための大弁護団が結成された。各弁護士会は次々と死刑制度反対の決議をしている。死刑廃止の北欧のある国では50人を殺害した犯人が終身刑となり、生涯、社会が彼の面倒を見ることになった。美しいことだが、バカらしいことでもある。

 人権は当然守られるべきである。しかしその場合、人権は一般の、通常の人間を対象にしていると思う。人間という枠を外れたもの、規格外のものに対して適用することはないと思う。人間という定義はどういうものか知らないが、法の世界では人間の女の体から生まれたものはすべて人間として扱うようだ。意識のない、植物状態の人間も、悪魔のような人間も、天使のような人間も、等しく人として扱われる。いささか粗雑で乱暴と思う。あらゆるものを定義することは法体系に必要なことであるが、定義は複雑な事象が単純化されるため完全とは限らない。しかし法に携わる人間が法と同様に単純思考では困るのである。報道に携わる者もルールさえ守ったらよいという単純思考が多いのも困ったことである。