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「7人の侍」とウクライナ戦争

2022-10-14 21:59:26 | マスメディア
 古い映画だか「7人の侍」を改めて見た。黒澤明監督の世界的に有名な作品である。米国ではこのリメイク版として「荒野の7人」が制作された。あらすじはほぼ同一である。繰り返される盗賊の襲撃に悩む、貧しい村の百姓たちが侍(米国版ではガンマン)たちを雇い、盗賊団に立ち向かう話である。侍のリーダーは百姓たちの願いを聞き入れ、仲間を募集するが、報酬はその期間の食事だけである(米国版では報酬は20ドルだけ)。名誉も出世もない。やがてリーダーの人柄などに惹かれ、6人の侍が応じる。いずれも腕に覚えのある浪人たちである。

 7人は村人たちの住む村に行き、40人の盗賊の攻撃に備える。村人たちにも竹槍などの武器を使う訓練をし、防御作戦を練り上げる。そしていよいよ盗賊が襲いかかる日がやってくる。7人と村人は奮戦し、頭領はじめほとんどの盗賊を倒してしまう。勝利である。しかし7人のうち4人は死に、3人だけが残る。村を後にする道中で、「勝ったのは村人だ」と、リーダーがつぶやく(この部分は米国版と同じ)。

 この映画は様々な見どころがあるが、暴力的な侵略者に対して武力で立ち向かうことの意味を問うている。村の平和と引き換えに、村民の一部とともに半数以上の侍が死んでしまう。提起される問題は、共同体の平和のために一部が犠牲になることの是非である。ここでは逆に抵抗しない場合に起きる隷属の過酷さとの対比も考慮しなければならない。

 「人命は地球より重い」と言って赤軍の要求を入れ、身代金と9名の仲間の釈放した(後に国際的な非難を浴びる)福田赳夫元首相の考えでは、一部が犠牲になる選択などできない。人命は、すべて重く等しいと考えた場合、身代金には応じるほかない。そして犯罪者たちを抑止する秩序が失われる。ウクライナのように侵略を受けた場合、選択は抵抗か降伏の二つしかない。元大阪市長の意見のように、人命を優先して降伏・隷従を選んだとしてもウクライナのブチャのような悲劇が起きる可能性がある。相手が紳士的な国ならいいがそんな国なら侵略などしないだろう。

 現在、侵略の可能性のある国、ロシアや中国は紳士ではない。ブチャやウィグルを見ればわかる。米国による日本占領は例外的に寛容なものであったとされている。現在、ウクライナ国民は結束してロシアと戦う選択をした。この問題を黒澤明は半世紀前に提起している。いつの時代にでも起こり得る問題なのである。条件にもよるが、抵抗こそが現実的な選択なのである。身代金を払ったり降伏したりすれば侵略行為を許すことになり秩序の破壊にもつながる。

 犠牲を覚悟した上の抵抗は楽な方法ではない。抵抗に成功し、侵略者を排除したとしても犠牲になった者たちは浮かばれない。ただ犠牲的行為に賛辞が送られるのみである。だが死んでから賛辞を送られても本人には伝わらない。しかし我々の心は犠牲的行為にひどく感情を動かされるようにできている。そうした心が共同体の結束・維持に役立ってきたと思う。人命が第一だとして降伏や隷従を選ぶ共同体に明るい未来が待っている可能性は小さいと思う。残念なことだが、犠牲なしに難局を超えられない事態もあるのである。ロシアや中国のおかげであるが、今もこのような選択を強いられることがある。

 米国版「荒野の7人」にはなく、「7人の侍」だけにあるエピソードがある。盗賊をできるだけ減らしておくために盗賊の拠点に少人数で夜襲をかける。村人の利吉は案内役を買って出る。忍び寄って盗賊のアジトに火をつけ、あわてで飛び出してくる賊を出口で斬っていく。最後に美しい女が戸口に立ち、しばらく利吉と見つめあった後、炎の中に戻ってしまう。女は盗賊に奪われた利吉の女房であった。ひどく残酷なエピソードであるが、隷属下では起き得ることである。

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