平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

霊想(ディボーション)で聖霊を感じる幸い(2019.6.9 ペンテコステ礼拝)

2019-06-10 10:16:49 | 礼拝メッセージ
2019年6月9日ペンテコステ礼拝メッセージ
『霊想(ディボーション)で聖霊を感じる幸い』
【マルコ1:35】

はじめに
 きょうはペンテコステの日です。聖書交読でご一緒に読んだ使徒の働き2章に記されているように、この日、イエスさまの弟子たちは天から降(くだ)った聖霊を受けました。

 これは1世紀のことだけではありません。21世紀の私たちもまた、「イエスは神の子キリストである」(ヨハネ20:31←ブログ用の引照)と信じるなら聖霊を受けます。つまり、信仰者はみな聖霊をうけています。

 さてしかし、聖霊は目に見えませんし、私たちの場合には聖霊が激しく降ったわけではありません。交読した使徒2章には「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った」(使徒2:2)とあります。私たちにもこれぐらい激しく聖霊が降っていれば気付くことができると思いますが、多くの場合はソフトに降ります。すると、イエスさまを信じて聖霊を受けている筈であっても、自分は本当に聖霊を受けているのだろうか?と疑問に思うこともあるでしょう。

 私もかつては自分が本当に聖霊を受けているのか、自分の中で確信を持てていない時期がありました。しかし今は100%の確信を持っています。それは私が神様との良い交わりの時を持つようになったからです。神様との交わりを通して私は自分が聖霊を受けているという確信を持ちました。きょうはまず、その私の体験談を話して、次いで皆さんにお勧めしたいことを話して行くことにします。

静かな環境で神様との交わりの時を持つ幸い
 自分は聖霊を受けていると私が確信できるようになったのは、神学生の時でした。3年間を過ごした横浜のBTC(聖宣神学院)も、インターン実習生として過ごした姫路の教会も、共に静かな環境の中にありました。特に姫路教会で過ごした経験が大きかったと思います。BTCも良い環境の中にありましたが団体生活を送っていましたから、心を乱されることもよくありました。そういう団体生活での学びも、もちろん貴重なものでした。しかし姫路では静かな環境の中で一人暮らしをしていましたから、本当に神様との良い交わりの時を持つことができたと思います。

 きょうの聖書箇所のマルコ1章35節には、イエスさまが寂しい場所に行って祈ったことが書かれています。

マルコ1:35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 姫路教会はこのような所にある、と言うと言い過ぎかもしれませんが、教会の目の前には広大な田んぼが広がっていて、とても静かな環境の中にあります。姫路市自体は静岡市と同じように新幹線のひかり号が止まる都会ですが、教会は姫路駅から北の方向にバスで20分以上掛かる場所にあります。

 静岡市内で言えば池ヶ谷の北の麻機小学校の校区や、池ヶ谷の東の竜南小学校の校区に広がる田園地帯のような感じです。麻機や竜南の地域も昔と比べるとだいぶ田んぼが少なくなりましたが、まだまだのどかな感じが残っていると思います。姫路教会もそのような、のどかな地域にあります。

 今、姫路教会にはインターン実習生の竹内神学生が派遣されています。彼は私と同じ高津教会の出身です。竹内神学生も、姫路教会の静かな環境の中で、霊的に恵まれた学びの時を持つことができることと思います。

 さて、私はこの姫路教会の恵まれた環境の中で毎朝早くに起きて、神様との良い交わりの時を持つことができました。そして、このことで、自分には確かに聖霊が注がれているという確信を持つことができました。きょうは、この体験を基にして皆さんにお勧めしたいことを三つのパートに分けて、話します。三つのパートは週報のp.2に載せましたから、ご覧下さい。

 ①最上の時間帯を神様にささげる幸い
 ②霊想(ディボーション)のすすめ
 ③霊想書『エマオの道で』の紹介

 先週と同じ様にパートとパートの変わり目では一呼吸置いて、変わり目をお伝えするようにしますから、仮に途中で話に付いて行くことができなくなっても大丈夫です。パートの変わり目ではまた一緒になることができます。そうして、皆さんと離れ離れにならないように気を付けたいと思います。
 
①最上の時間帯を神様にささげる幸い
 まず1番目にお勧めしたいのは、神様との交わりの時を持つ時間帯は自分にとっての最上の時間帯にするということです。

 創世記にはアダムとエバの息子のアベルが、自分の羊の初子、すなわちメスの羊が初めて産んだ子どもの中から、肥えたものを主にささげたと記されています(創世記4:4)。新改訳の第3版では「最上のもの」となっています。カインも穀物のささげ物をしますが、それが初物であったとも最上のものであったとも記されていません。問題は動物だろうが収穫物であろうが、もっとも良い物をささげたいという「真実な心」の問題であったことがわかります。

 ちなみにマラキ書には最上のものをささげないイスラエルの人々を批判する主のことばがあります。

 ですから神様との交わりの時を持つ時間帯も、最上でありたいと思います。私の場合は朝ごはんを食べる前の時間帯が、何をするにも一番集中できて、何でも効率良くできる時間帯です。この時間帯に仕事をすれば、ものすごくはかどりますから、ついつい仕事をしたくなります。しかし、そこをぐっとこらえて、神様に最上の時間帯をささげるなら、本当に恵まれます。やはり、神様は最上のものをささげることを喜んで下さるのですね。

 どの時間帯に一番集中できるかは、人それぞれだと思います。夜が最上の時間という方もいるでしょう。皆さんお忙しいことと思いますが、ぜひ最上の時間帯を神様との交わりの時に当てることをお勧めしたいと思います。そうすれば神様からの恵みをたくさん受けて、自分が聖霊を受けていることを実感できるようになることと思います。

 この神様との交わりの時を、私はまずお祈りから始めて、次いで聖書通読、そしてディボーションの順番で行っています。この順番も人それぞれで良いと思いますが、この三つのこと、すなわち神に祈る、神に聞く、そして聴いたことを思い巡らすことを、ぜひ行うことをお勧めしたいと思います。

 この三つうち、祈りについては今週の祈祷会からシリーズでご一緒に考えることにしたいと思います。祈りについて私自身が示されていること、或いは祈りについての本に書かれていることで皆さんに紹介したいことなど、祈祷会では祈りについてシリーズで共に思いを巡らす時を持ちたく願っています。

 また、礼拝メッセージでは次の聖日から聖書通読の重要性について、シリーズで共に学ぶことにしたいと思います。聖書を読む時、私たちはその箇所だけの狭い範囲で読みがちです。もちろん、そのような読み方もありますが、神様との交わりを感じ、聖霊を感じるには、もっと大きな範囲で読めるようになると良いと思います。
 例えば、先週の礼拝ではヨハネの福音書を開きました。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」(ヨハネ7:37~38)

 先週話したことは、まずは私たちが礼拝で聖霊に満たされるなら、私たちの内から聖霊が溢れ出し、この礼拝堂が聖霊で満たされるようになるということでした。すると、この礼拝に訪れた方が霊的に目覚めやすくなり、新しいクリスチャンが誕生する希望もまた溢れるようになります。さらに願わくば、この礼拝堂から聖霊が溢れ出して近隣一帯に生ける水の川が流れ出るなら、近隣の方々の渇いた心を潤すようにもなるでしょう。この教会の礼拝堂がその生ける水の川の水源になることができたら本当に素晴らしいことだと思います。
 このように聖霊に満たされるようになるには、まず私たちの心の内がきっちりと整えられる必要があります。そのために先週はもう一ヵ節、出エジプトを引用しました。

「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」(出エジプト25:8)

 私たちの内に聖霊に住んでいただくようになるためには、旧約の時代の人々が幕屋をきっちりと造ったように、私たちの内もきっちりと整える必要があります。そのためには礼拝の前に心を整えることはもちろん、毎日、心を神様に向けると良いでしょう。日々、祈りと聖書通読、そしてディボーションの時を持って、毎日を神様に整えていただきながら過ごすことができれば良いと思います。

②霊想(ディボーション)のすすめ
 次に2番目のパートの「霊想(ディボーション)のすすめ」に移ります。

 いまさっき話したように次の祈祷会からはシリーズで祈りについて学び、礼拝では聖書通読について学ぶ予定ですが、ディボーションについては今日の1回で終わる予定です。

 ディボーションという英語の動詞はdevoteです。devoteを英和辞典で調べると「ささげる」とあります。ディボーションの時というのは、まさに私たちの心を神様にささげる時ですね。ですから、自分にとっての最上の時間帯をディボーションの時としたいと思います。何でも効率良くできる最上の時間帯には、自分のことに時間を使いたくなるかもしれませんが、神様との交わりのために、時間を使いたいと思います。

 日曜日の礼拝も同じですね。日曜日が仕事の日という方もいますが、大半の人は日曜日には仕事がありません。ですから自分のことに時間を使うことができます。教会に通う習慣が無い日本人の目にはクリスチャンはとても奇妙に映ることでしょう。どうしてクリスチャンはゆっくり休める日曜日に、或いは自分のしたいことができる日曜日に、教会に通うのか不思議に思うことでしょう。

 休日の日曜日は私たちが自由に使える最上の曜日です。だからこそ、私たちはこの最上の曜日に礼拝をささげることで、この曜日を神様にささげたいと思います。そうすれば神様は喜んで下さり、私たちを豊かに祝福して下さるでしょう。

 さてディボーションの方法には、特に決まった仕方はないと思いますが、何か信仰書を1ページか2ページぐらい読んで、その内容に思いを巡らすと良いと思います。信仰歴が長い方は、いろいろな信仰書をお持ちでしょうから、過去にディボーションで使った本を再び使ってみるのも良いだろうと思います。後で紹介しますが、私も静岡に来てから、姫路で使っていたディボーションの本を再び使っています。そうして姫路時代に恵まれていたことを思い出しました。そのことが今日のメッセージにつながっています。

 ディボーションに用いる信仰書はどんな書でも良いとは思いますが、やはり1月1日から12月31日までの日付が入っているものが使いやすいだろうと思います。私が姫路時代に使っていて、いま静岡で再び使っているデニス・キンローの『エマオの道で』とロイドジョンズの『一日一言』はこのタイプです。河村従彦先生が翻訳したジョン・シーモンズの『新しい朝に』と『主を仰ぐ朝』もこの日付が入っているタイプで、お勧めできる良書だと思います。これらの中で、きょうは『エマオの道で』を紹介したいと思います。

③霊想書『エマオの道で』の紹介
 毎日のディボーションに用いる書として、デニス・キンローの『エマオの道で』は、とてもお勧めの書です。まず何と言ってもキンロー先生の文章の内容がとても深いです。あとで6月9日の記事を紹介しますが、毎日このキンロー先生の深い文章を味わうことで、自然と信仰が深められて行くように感じます。

 私は沼津にいた6年間は、この『エマオの道で』をほとんど開いたことがありませんでした。けれども、いま静岡で再び『エマオの道で』を読み返しながら、私が沼津教会の説教で語っていた信仰の骨格は、姫路時代に『エマオの道で』を読むことで培われたものであったと改めて感じています。

 お勧めの理由の二つめとして、その日に読むべき聖書の箇所が聖書全体からランダムに引かれていることを挙げたいと思います。特定の箇所に偏らずに、翌日は前日とぜんぜん違う聖書箇所が引かれます。すると、ふだん自分があまり親しんでいない箇所が突然出て来ます。私で言えば雅歌やヤコブ書などです。そうすると、自分がそこをあまり読んでいないことを示されて読むことになりますから、自分の足りないところを補うことができます。そうして、何ヶ月か読み進むうちに聖書全体を概観できる力も自然と身に付いて行くように思います。

 お勧めの理由の三つめは、電子書籍のKindle版が発売されていることです。紙の本は絶版になっていますが、Kindle版は今でも1200円で購入可能です。電子版は3ヶ月ごとの4つに分かれていますから、とりあえず300円で購入して読んでみて、気に入ったらまた次の3ヶ月分を買うことにしても良いでしょう。Kindleは専用の機器を買わなくてもスマホ、タブレット、パソコンにアプリをダウンロードして利用することも可能です。

 ここで、6月9日の記事を紹介します。
(メッセージを聞きやすいものにするために、説教では表現を変えて、全体をもっとスリムにして紹介しました。聖書訳も元の本は口語訳ですが、新改訳2017年版に改めました。さらにヨハネの手紙第一1:7の引用は省略しました。ブログ掲載に当っては、元の本の通りのものを引用して掲載します。)

○6月9日「受け入れること 従うこと」
 聖書箇所:ヨハネの福音書1章35~51節

 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。(ヨハネ1:43、口語訳)

 キリストを受け入れなさい、と私たちはよく言います。しかしイエスのことばは「私に従ってきなさい」でした。この二つの表現は意味が違います。「受け入れなさい」とは、私たちのうちにある空虚さ、罪責間、喪失感を前提にしています。主体は人間の側にあり、キリストが私たちの必要をどう満たすかということを表しています。

 「私に従ってきなさい」となると、また違ってきます。焦点はキリストにあり、私たちにはありません。自分とその欠陥に埋もれた人生ではなく、キリストとその召しに注目した上で、自分の人生に改めて焦点をあてることを意味しています。従うということは私たち自身が主導権を神に明け渡していくことです。突然私たちの視野の中に十字架が見えるようになります。これがイエスがピリポに言われた時に指し示していた場所です。

 キリストを受け入れなさいと人々に勧めることは間違いではありません。なぜならキリストなしでは満たされるべきところが空しいままであり、負う必要のない重荷を背負っているからです。しかし私たちは人々をその状態のままで留めておくわけにはいきません。もし人々がキリストのうちに見いだしたことを保とうとするなら、「私に従って来なさい」という第二の言葉にも耳を傾けなければなりません。

 受け入れることだけを語り、従うことを語らない福音には警戒しましょう。救いは受け入れた時だけの経験ではありません。それはキリストのうちに留まることです。私たちは救いの力を体験したなら、キリストと共に歩まなければなりません。救いとはキリストの臨在によってもたらされるものです。

 「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩むならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(第一ヨハネ1:7、口語訳)。
(引用はここまで)

おわりに
 きょうのペンテコステ礼拝のメッセージでは、自分が聖霊を受けていることが確信できるようになるために、どうしたら良いだろうかということをお話ししています。聖霊を豊かに感じるためには、今のキンロー先生の文章にあったように、単にイエスさまを受け入れるだけでなくてイエスさまに従う者へと変えられることが必要でしょう。単に受け入れるだけでは、心の中はまだまだ自分中心です。最上の時間帯は自分のために使いたいとまだまだ強く思うことでしょう。

 しかしイエスさまに従い、心をイエスさまに明け渡して行くなら、心の中がイエスさまに占められるようになって聖霊を豊かに感じることができるようになります。すると最上の時間帯を神様にささげることも抵抗なくできるようになります。

 一朝一夕にはそのような者には変えられませんが、日々、最上の時間帯を神様にささげ、神様との交わりの時を持つようにするなら、いつの間にか聖霊を豊かに感じることができる者へと変えられているでしょう。

 ぜひ、日々ディボーションの時を持つことをお勧めしたいと思います。

 最後に、マルコ1:35をもう一度、ご一緒に読みましょう。

1:35 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 お祈りいたしましょう。
コメント    この記事についてブログを書く
« 聖書を広く思い巡らせるよう... | トップ | 次の記事へ »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

礼拝メッセージ」カテゴリの最新記事