平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

海をおおう水のように聖霊に満たされる(2020.7.19 礼拝)

2020-07-20 07:51:49 | 礼拝メッセージ
2020年7月19日礼拝メッセージ
『海をおおう水のように聖霊に満たされる』
【イザヤ書11:1~9】

はじめに
 この教会の2階の応接室には本田弘慈先生が毛筆で書いた「霊に燃え、主に仕えよ」という色紙が額に入れて掲げてありますね。この本田先生の「霊に燃え、主に仕えよ」の書額はあちこちのインマヌエルの教会で見たことがあります。インマヌエルの本部があるお茶の水のOCCビルの玄関ロビーには確か大きなサイズの書額が掲げてあったと思います。

 この「霊に燃え、主に仕えよ」のみことばは今日の招きのことばにあるローマ12:11の「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」から取ったものですね。きょうは「霊に燃え、主に仕える」を出発点にして、聖霊に満たされたいと思います。メッセージの最後では、人知を遥かに超えたキリストの愛の大きさに思いを巡らして、この会堂が聖霊に満たされることを願っています。きょうは次の四つのパートで話を進めます(週報p.2)。

 ①霊に燃えて主に仕えた松村導男牧師
 ②主を知ることが「霊に燃える」ことの第一歩
 ③「究極の平和」の実現を目指している主
 ④聖霊の深海でキリストの愛の広さ・長さ・高さ・深さを知る

①霊に燃えて主に仕えた松村導男牧師
 きょうの招きのことばをもう一度、お読みします。

12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
12:12 望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。

 このみことばは、松村導男先生が天に召された時に行なわれた教団葬の告別式で、当時の総理の朝比奈寛先生が説教で引用した聖句でもあります。この説教で朝比奈先生は松村導男先生の生涯は正にこのみことばの通りであったと語っています。

 この朝比奈総理の説教は導男先生の追悼文集の「燃えて輝く燈火」の中に収録されています。この追悼集は、2階の応接室の書棚にもありますが、これは沼津教会の信徒の方に、私が沼津にいた時にいただいたものです。この文集の前半は、朝比奈総理による告別式の説教、伊作先生による前夜式の説教、教団幹部や横山五朗勧士などによる追憶の辞が収録されています。そして後半には静岡教会の会員の皆さんの追憶のことばなどが集められていますが、その教会員による追憶の筆頭に載っているのが萩原周兄のことばです。萩原兄は朝比奈総理が告別式で引いたローマ12章11節と12節を再び引用して、導男先生のご生涯は本当にその通りであったと書き、ご自身もまたそのようにありたいと書いています。萩原兄も、正にその通りのご生涯を歩んだのだと思います。

 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えることは本当に大切なことです。しかし単に勤勉なだけで霊に燃えることがないなら、それは律法主義的になってしまいます。霊に燃えることなく単にまじめに礼拝に出席したとしても、あまり意味がないでしょう。教会に通い始めの頃は、もちろん霊に燃えていなくても構いません。霊的なことがまだ分かりませんから、霊に燃えるのは難しいでしょう。しかし洗礼を受けて、何年か信仰生活を送るようになったなら、霊に燃えるようになりたいと思います。繰り返しますが、霊に燃えずにただ勤勉なだけなら律法主義的になってしまいます。律法主義的な人というのは、イエスさまが批判したパリサイ人たちのような人たちです。パリサイ人たちは規則を厳格に守ることばかりに囚われて、隣人を愛することを忘れてしまっていました。

 例えばパリサイ人たちは、イエスさまが安息日に病人を癒したことを咎めました。律法では、安息日には働いてはいけないことになっているからです。しかし、そのような人々にイエスさまはおっしゃいました。

マルコ3:4 「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」

 霊に燃えないで形式だけを重んじるなら、パリサイ人たちのような律法主義者になってしまいます。

 ですから私たちは、霊に燃え、主に仕える者たちになりたいと思います。そして牧師が語る礼拝メッセージは、私たち皆が霊に燃えるようになるものでありたいと思います。

②主を知ることが「霊に燃える」ことの第一歩
 では、どうしたら私たちは霊に燃えることができるのでしょうか。そのことに思いを巡らしていた時に示されたのが、きょうの聖書箇所のイザヤ書11章です。この箇所は先週、静岡の他の教会の牧師先生と話をしていて、その先生がその日の朝のディボーションで読んで恵まれたと話していた箇所でした。それで、その日の次の朝に私も読んだところ、霊に燃やされて来ることを感じましたから、きょうの聖書箇所にさせていただきました。

 イザヤ書11章9節の後半には「を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである」とありますね。やはり「主を知る」ことが「霊に燃える」ことの第一歩なのだろうと思います。主を知らなければ、霊に燃えて主に仕えることはできませんね。このイザヤ書11章には「主を知る」ことのヒントがたくさん隠されているような気がします。1節から見て行きます。

11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。

 エッサイはダビデの父親です。そのダビデの家系からイエスさまが生まれましたから、この1節の若枝とはイエスさまのことですね。続いて2節、

11:2 その上にの霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、を恐れる、知識の霊である。

 イエスさまがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた時、聖霊が天から降りましたから、やはりこれはイエスさまのことですね。続いて3節から5節、

11:3 この方はを恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
11:4 正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。
11:5 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。

 ここには裁きのことが書かれています。イエスさまはヨハネ5章の27節と30節で、次のようにおっしゃっています(週報p.2)。

5:27 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。
5:30 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。

 イエスさまは天の父から聞いたとおりに裁きますから、正義と公正をもって裁くことができます。このようにイエスさまは天の父と一つのお方です。ですからイエスさまを知れば天の父を知ることができますし、逆もまた然りで、天の父を知ればイエスさまをもっと知ることができます。

③「究極の平和」の実現を目指している主
 イザヤ書11章の6節から9節までを読むと、主は「究極の平和」を目指しておられるのだな、ということをしみじみと感じます。6節、

11:6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。

 狼も豹も肉食の猛獣です。しかし、ここには猛獣が子羊と子やぎを襲うことなく共に住む平和な世界のことがここには書かれています。若獅子、つまり若いライオンもここにいますが、やはり小さな子どもを襲うことなく平和に暮らしています。11節、

11:7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。

 熊もライオンも草食動物のように草をはみ、藁を食べて、弱い者たちを襲うことはありません。肉食動物のライオンが藁を食べて生きていけるのか、などと余計なことを考える必要はありません。草食動物も肉食動物もすべて創造主である神様がお造りになりました。ですから、主は肉食動物を草や藁で養うこともできます。主に不可能なことは一つもありません。

 主を知ることの第一歩は、主はすべてをお造りになった全能の創造主であり、不可能なことは何一つないことを知ることかもしれませんね。続いて8節、

11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。

 コブラもまむしも猛毒を持つ恐ろしい蛇ですが、幼子たちを襲うことはありません。とても分かりやすい平和な光景の描写ではないでしょうか。人間同士が争わないという描写ではなく、肉食の猛獣や猛毒を持つ蛇が子供を襲わないという描写のほうが、平和な光景をもっと生き生きと描いていると感じます。9節、

11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。

 猛獣も蛇も子羊や子やぎ、幼子たちに害を加えることはありません。それは、主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである、とイザヤは預言しています。主は一切の争いごとを望んではおられません。主は「究極の平和」を望んでおられます。そのことを猛獣や蛇でさえも知るほどに、主を知ることが地に満ちる時が来ます。その時には主を知ることが海水のように地に満ちます。

 その時には、すべての生き物が聖霊の深い海にどっぷりと浸かり、神様の大きな愛に包まれます。何と素晴らしいことでしょうか。

④聖霊の深海でキリストの愛の広さ・長さ・高さ・深さを知る
 先週の礼拝メッセージでは、ルカが書いたルカの福音書と使徒の働きが互いに重なり合っていることを話しました。二つの書は、とても良く似た形で進行して行きます。ルカの福音書は「テオフィロ様」で始まり、イエスさまが聖霊を受けて、歩けない人を立たせ、百人隊長の信仰をほめます。そしてイエスさまはエルサレムで逮捕されます。使徒の働きも「テオフィロ様」で始まり、弟子たちが聖霊を受けて、ペテロが歩けない人を立たせ、百人隊長のコルネリウスたちがイエスさまを信じて聖霊を受けます。そしてパウロがエルサレムで逮捕されます。

 このルカの福音書と使徒の働きは川の流れのように横につながっているのではなく、海の水のように縦に重なっていて聖霊の深い海を造っています。ルカの福音書だけでは浅い海ですが、使徒の働きが縦方向に積み重なることで聖霊の深い海ができます。そうして私たちはこの聖霊の深い海にどっぷりと浸かって聖霊に満たされることができます。

 同じようにイザヤ書は旧約聖書と新約聖書が縦に積み重なっていることを教えてくれています。有名なイザヤ書53章のしもべが苦しむ場面には新約聖書のイエスさまの十字架の場面が積み重なっています。いまご一緒に読んだイザヤ書11章には新約聖書の黙示録の「究極の平和」が実現した時の光景が積み重なっています。猛獣も蛇も幼子たちを襲わない光景は黙示録21章4節(週報p.4)の光景に重なります。

21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 子供が猛獣に襲われたら、親は泣き叫びます。しかし、終わりの時には、そのような光景は見られなくなり、究極の平和が訪れます。

 このように旧約聖書と新約聖書は重なっていて、そこには神の愛が満たされていて、聖霊が深い海のようになっています。私たちはその聖霊の深い海にどっぷりと浸かって神の愛で満たされたいと思います。それがイザヤ書11章9節の、「主を知ることが海をおおう水のように地に満ちるからである」の意味するところではないでしょうか。

 それはまた、エペソ書3章でパウロが書いた、人知を遥かに超えたキリストの愛の大きさを知ることにもつながります。パウロはエペソ人への手紙3章の16節から19節で御父に祈りましたね(週報p.2)。

3:16 どうか御父が…御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 御霊、すなわち聖霊を受けると私たちの心のうちにキリストが住んで下さいます。そのことでキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さが少しずつ分かるようになります。そして主を知れば知るほど、そのキリストの愛の大きさが分かるようになり、それは人知を遥かに超えていることが段々と分かるようになって来ます。そうしてキリストの愛の深さ広さが分かれば分かるほど、神の満ち溢れる豊かさに満たされるようになります。これは素晴らしい恵みです。主を知れば知るほど、私たちはこの恵みの大きさが分かるようになります。何と素晴らしいことでしょうか。

 私たちは聖霊の深い海にどっぷりと浸かり、人知を遥かに超えたキリストの大きな愛に包まれたいと思います。ることができるようになりたいと思います。そして、この素晴らしい恵みを多くの方々にお伝えできるようになりたいと思います。

 それが「霊に燃え、主に仕える」ということではないでしょうか。主を知り、主の深い愛に包まれ、そうして霊に燃え、主に仕える私たちでありたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒に、お祈りしましょう。

11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。
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