平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

賛美と正義の外套をまとわせる主(2021.12.9 祈り会)

2021-12-10 07:48:09 | 祈り会メッセージ
2021年12月9日祈り会メッセージ
『賛美と正義の外套をまとわせる主』
【イザヤ61:1~3、10~11】

イザヤ61:1 である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
2 の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。
3 シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、の植木と呼ばれる。
10 私はにあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
11 地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、である主が、正義と賛美をすべての国々の前に芽生えさせるからだ。

 今年のアドベントの期間中の木曜夜の祈り会ではイザヤ書を開くことにしています。先週は9章を開き、今週は61章です。

 イエス・キリストがおよそ30歳で宣教を開始したばかりの頃、ナザレの会堂で巻物を渡されて、この箇所を読んだことがルカの福音書4章に記されています。この10月と11月に行われた藤本満先生のeラーニング「ウェスレーを学ぶ・ざっくり・ガッツリ」では、ウェスレーが初めて野外説教を行った時の説教箇所がここであったことを学びました。炭鉱の町ブリストルで、およそ三千人の炭鉱夫たちが目を輝かせてウェスレーの説教に聴き入ったそうです。ブリストルはロンドンから西に約170kmの位置にありますから、ちょうど静岡と東京の距離と同じくらいですね。

 さてルカ4章によれば、イエス様はこのイザヤ61章を朗読した後で、このようにおっしゃいました。

ルカ4:21 「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

 つまり、このイザヤ61章の主に油を注がれて遣わされた者とは自分のことであると、イエス様はおっしゃいました。イエス様は貧しい人に良い知らせを伝えるため、また心の傷ついた者を癒すために、地上に遣わされて、ヨセフとマリアの子としてお生まれになり、およそ30歳になった時に、宣教を開始しました。

 きょうは、このイザヤ書61章を共に味わいたいと願っていますが、時間が限られていますから、特に3節にある「賛美の外套」ということばと、10節にある「正義の外套」ということばに注目したいと思います。イエス様は私たちに「賛美の外套」、そして「正義の外套」を着けてまとわせて下さるお方です。では、「賛美の外套」、「正義の外套」とは、一体どんな外套なんでしょうか?(実は「賛美の外套」は新改訳2017の訳で、聖書協会共同訳では「賛美の衣」となっています。「外套」と「衣」では少し印象が異なりますが、「外套」ということばが私の目に留まりましたから、きょうは「外套」のイメージで話をして行きます。)

 3節を見ましょう。3節に「シオンの嘆き悲しむ者たちに」とあります。これは私たちのことでもあります。イエス様は私たち嘆き悲しむ者たちに灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに「賛美の外套」を着けさせるために油注がれて遣わされました。

 救われる前の人は闇の中にいます。光の届かない闇の中で人の心は寒さで凍えて固く閉じています。その凍えている人を主は光で照らして「賛美の外套」を着けて下さいます。そうして温めて下さいます。この「賛美の外套」ということばから、私は初めて韓国人の教会に連れて行ってもらった時に聖歌隊の賛美に心が癒されて温められたことを想い出しました。このことは既に何度も証ししていますが、私が教会に続けて通うようになった最初のきっかけは父が死んだすぐ後に連れて行ってもらった教会で聖歌隊の賛美歌によって心が癒されて温められたからでした。

 音楽の力は本当に大きいと思います。英和のハンドベル演奏会を広いホールで地元の自治会の主催・共催で開催したら大勢の参加者があったことからも音楽の力の大きさを感じます。教会の葬儀では賛美歌を歌いますから、多くの方々が良い印象を持って下さいます。1995年の阪神淡路大震災の時には、テント生活をしている人たちがいる公園で森祐理さんが歌った賛美歌を聞いてクリスチャンになった方もいたそうです。私自身も含めて、音楽がきっかけでイエス様を信じることにつながった方は数多くいます。

 「賛美の外套」は先ず、闇の中で寒さに凍える人を優しくおおってくれます。すると、体温によって外套の中が温まって来ます。温まるなら、それまで神様に心を閉ざしていた心が開いて来ます。そうして神様に心を閉ざしていた罪に気付いて悔い改めへと導かれます。そのようにして自分の罪を認めるなら神様はそれを義(正しいこと)として下さり、その人に「正義の外套」をまとわせて下さいます。それはつまり救われるということであり、同時に「救いの衣」が着せられるということです。

 人にはもともと温かい体温が神様によって与えられているのですね。しかし、闇の中に裸でいると体温が奪われてしまいます。そうして凍えている者に主は「賛美の外套」を着せて下さいます。

 すると、この「賛美の外套」とは、ウェスレーが説いた「先行的恵み」とも言えるのではないでしょうか。先行的な恵みの「賛美の外套」によって心が温められて神様に心を開くなら「救いの衣」を着せられて、さらに「正義の外套」でもっとぽかぽかと心が温められるなら、本格的な救いの確証が得られることでしょう。この順番はウェスレーが説く「救いの確証」の順番とも一致します。ウェスレーは「御霊の証し(Ⅰ)」というタイトルの説教で(『ジョン・ウェスレー説教53』説教10)、ローマ人への手紙8章16節を引用しながら救いの確証がどのようにして得られるかについて語っています。

ローマ8:16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

 このパウロのことばを引用しながらウェスレーは次のように説いています。まず御霊ご自身が十字架の赦しの愛によって証しして下さり、その愛によって私たちの内に御霊の実が結ぶようになり、神の子どもであることが証しされます。この御霊の実が私たちの内で結ばれることが、私たちの霊の証しです。御霊の実とは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)です。まず神様の側が愛を示して下さり、その愛によって私たちもまた互いに愛し合うことができるようになり、御霊の実が結ばれて、自分が神の子どもとされていることの確証が得られます。つまり救いの確証が得られます。

 この説教の準備をしていて、ふと「放蕩息子の帰郷」(ルカ15章)の物語を思い出しました。放蕩息子の父親は、弟息子に財産の半分を与えるという大きな愛を示しました。弟息子はこの父親の愛に気付くことはありませんでしたが、すべてを失った時に我に返って父親の方を向きました。この時点でもまだ父親の愛には気付いてはいなかったのでしょうが、それでも父親を目指して家に帰りました。そうして帰郷した弟息子に父親は駆け寄って彼の首を抱き、口づけして、しもべたちに言いました。

ルカ15:22 「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。」

 この一番良い衣を着せられた時、弟息子は自分が父親の子どもであることを実感したことでしょう。この時の弟息子の気持ちは書かれていませんが、弟息子の心は、父の子とされていることの喜びに溢れていたに違いないと、今日の聖書箇所のイザヤ61:10を読んで思いました。イザヤ61章10節の「私」は、まさに神の子どもとされていることの確証を得て喜びに満ち溢れているのだと思います。

イザヤ61:10 私はにあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉(ほうぎょく)で飾ってくださるからだ。

 このイザヤ61:10には、救いの衣を着せてもらい、指輪をはめてもらった放蕩息子の喜びが表されていると感じます。主の民は長らく父の家を離れていましたが、御子が遣わされたことで父の家に帰ることができました。

 きょうはイザヤ書61章3節の「賛美の外套」と10節の「正義の外套」に注目して、さらに10節の「救いの衣」にも目を留めて、放蕩息子に着せられた「一番良い衣」にも思いを巡らしました。それで、ふと創世記3章で主がアダムとエバに「皮の衣」を作って彼らに着せたことを思い起こしました。

 神様はアダムとエバを憐れんで、エデンの園から追放する前に「皮の衣」を彼らに着せました。この神様の憐れみによる「皮の衣」で心が温められて、二人は神様にささげ物をするようになったのだなと思いました。その、主にささげ物をする信仰がカインとアベルの兄弟にも受け継がれて行きましたが、やがて「皮の衣」が失われて、ノアの時代には人々の心はすっかり神様から離れてしまったということではないでしょうか。

 この失われた「衣」を「救いの衣」として再び私たちに着せるために、天の父は御子イエス様はこの世に遣わされました。この衣が着せられることで、私たちの心が温められて、神の子どもとされていることの確証をいただくことができます。このことを、心一杯感謝したいと思います。お祈りいたします。

イザヤ61:10 私はにあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
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