ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設6周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます〜

気仙沼弾丸ツアー(その2=ネットワークオレンジさんでの上演)

2012-05-05 01:59:44 | 能楽の心と癒しプロジェクト

あは。ご報告2回目ではすでに東京に帰って来ているという。。(^◇^;) さすが弾丸ツアー。
もう。。気仙沼の人々、大島の人々にやられっぱなしです。気仙沼最高、大島大好き。

さて翌5月3日は朝から大雨でした。東北地方での活動で雨が降ったのは初めてではないかしらん。
この日はなんと1日で3公演の予定です。3.11追悼集会で湊小で3回の上演はしたけれど、島内とはいいながら移動しながらの3回公演は初めてではないかしらん。しかも今回は移動の足がなく、地元の方にご迷惑をお掛けしながらの上演でもあります。。

旅館で朝食を済ませてから、NPO法人ネットワークオレンジさんの事務所である「三日町オレンジ」へ。事務所の中には会場となる作業所兼談話スペースである「チャの木」がありますが、まず入口に積み上げられた駄菓子の数々が目を引きます。まるで近所の駄菓子屋さんの風情で、いつも子どもたちで賑わっているのだそうです。ちょうど ぬえらが公演をする翌日にはこちらで「縁日」を開くのだそうで、そういえば天井には大きな鯉のぼりがいくつも吊されてありました。

それから、ここがこちらの団体の活動の大きな部分でありますが、知的障害児の支援活動をずっと行っています。この日にも手作りの紙バッグが販売されていたのですが、これは包装紙を利用して障害児が描いた絵をそこに小さなデザインとして印刷して仙台のデザイナーが仕上げたものなのだそうです。ちょうど ぬえたちが到着したその前日には子どもたちは大船渡で行われている「恐竜展」に遊びに行ったそうで、スタッフの方の話では展示はちょいと拍子抜け、という感じだったらしいですが子どもたちは大喜びで、気仙沼に帰って早速みんなで恐竜の絵を描いたそうです。これもまた紙バッグになる日も近いのでしょうね〜

さて公演準備をしている間にネットワークオレンジのスタッフの方々ともお話をさせて頂きましたが、日本から世界に向けて発信するところは多い、子どもたちの可能性を信じる、と強い意志を持った活動には頭が下がる思いです。それなのに事務所では笑いが絶えない、元気なみなさんの様子にこちらまで勇気づけられました。

公演は11時から『菊慈童』を上演しましたが、うを座の方々も駆けつけてくださいました。上演時刻の頃はもう嵐のような風雨でしたが、お客さまは大勢さんお出ましになって頂きました! じつは翌日、ぬえは大島での公演を終えて東京に帰る途中にこの会場「チャの木」に立ち寄って挨拶しましたが、この日に予定されていたピアノ&ボーカルコンサートも満員盛況でした。こちらの団体が地元に信頼されているからでしょうね〜

上演を終えてから、まずは笛の体験レッスン。あれあれ? いつもこのコーナーでは誰も音を出すことが出来ずに終わってしまうのですが、このときは ほとんど全員、苦戦しながらであっても音が出ましたよ? あとで思ったことですが、こういう意味も含めて、気仙沼という街は文化レベルの高い街なのかもしれませんね〜。







続いて恒例の装束着付け体験でモデルさんに名乗りを上げてくださったのは、うを座の塾生のサヤべ〜(この日は新体操部の部活を早引けして公演に駆けつけてくれました!)の(きれいな)ママで、解説をしながら『羽衣』の装束を着付けていったのですが、モデルが良いからこりゃ映えるだべっちゃ。









終了後、気がついてみれば予定時間を大幅に超過して、装束を片づけてネットワークオレンジのSさんに大島に渡るフェリー乗り場「エースポート」に送って頂いた頃はもう14:30分の乗船時間ぎりぎり。笛のTさんと二人だけで2時間も上演していた計算です。。

仮設商店街のコンビニでなんとか弁当を買い込んで乗り場へ。この風雨で欠航を恐れましたが無事にチケットをゲットできました。大島へ渡るフェリー乗り場は、本来はもっと気仙沼港の先にあるのですが、津波で壊滅。港内の一番奥にあたる「エースポート」からの乗船になっています。でも、こちらも桟橋はいまだに崩れて半分海中に没したままですね〜。被害が甚大だった港の先端部はだいぶ片づいて、ほとんど更地に近い状態になっていたのは2月に見ていたのですが、それだけに町の中心地に近い港の奥には破壊されたビルがいまだに無惨な姿を晒しているのが目に付きます。

さて定刻通りに船が出航。海側から気仙沼の港地区を見るのはこれが初めてですが、先端部はまだまだ片づけが途中であることがよくわかりました。。なんにせよ とんでもない事がここで起こった。悪魔の所行のようなその爪痕は、まだまだ消え去るのには時間がかかるのかもしれません。

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気仙沼弾丸ツアー(その1)

2012-05-03 08:18:42 | 能楽の心と癒しプロジェクト
とか言っているうちにGWを利用して気仙沼にやって参りました〜

今回は弾丸ツアーで、東京での催しの申合と当日の間を縫っての訪問です。そうして今回は年末に釜石市での活動をご一緒させて頂いた横浜の「海をつくる会」による海底清掃活動に同伴する形での参加で、気仙沼の離島・大島が主な活動場所になります。今回は何と言ってもGW渋滞が最大のネックで、これを恐れて新幹線と在来線を乗り継いで鉄路気仙沼に入りました。そのうえ「海をつくる会」によって交通と宿泊をご用意頂きました。プロジェクトとしても今後は活動資金も節約しなければならないと思っていたので、これは大変ありがたいことでした。

いや〜、10ヶ月も東北に通っているのに、電車で来たのは今回が初めて! 車窓から見る景色は ただただ美しい。。ずいぶん以前、盛夏に秋田の大館で催しがあって、その翌日に ぬえはレンタカーを借りて一人で十和田湖から青森まで走ってみたのですが、東北地方の美しさに驚嘆したのを思い出しました。今回は東京では2週間も前に終わっている桜がこちらではちょうど満開でした。ちょっと天気が悪いのが残念ですが。

ただ、車でなく鉄路での移動は、装束などの荷物の運搬がとんでもなく大変でした。。次回はやっぱり車でなきゃ無理ですね〜

さて昼頃東京を出発して、気仙沼に到着したのは夕方。Facebookでウワサを聞いていた「ハモニカ飯」…これはメカジキの背びれの付け根の肉を使った駅弁らしいのですが、これを駅前で探してみたけど見つからない。。キヨスクで聞いてみたら「ああ。。震災以来製造がまだ復活していないんですよ」。。ええ〜っ。。 時折限定版が東京などのアンテナショップで売られることがある程度らしい。

さて今回は大島での活動なのですが、ぬえの活動可能なスケジュールと「海をつくる会」のスケジュールが微妙にズレていまして、海底清掃のグループとは別に 笛のTさんと二人で1日早く気仙沼に入りました。じつはこのスケジュールのズレを利用して、大島に渡る前の5月3日(つまり今日)に、気仙沼で知的障害者を支援しているNPO法人「ネットワークオレンジ」さんの事務所でひとつの公演を行う予定にしたのでした。

ネットワークオレンジさんでの公演は、年末と2月に気仙沼での活動をサポートしてくださった当地の児童劇団「うを座」のメンバーの方がこちらのNPO法人法人のメンバーだったこともあって、2月に訪問公演のオファーを頂いたのでした。ありがたいお話ではありましたが、日程や活動資金の面で実現の日は将来的に決める。。という程度しかお答えができず。。そこに「海をつくる会」による大島の海底清掃活動への同伴のお話がTさんからもたらされ、一気に実現へと話が進みました!

NPO法人ネットワークオレンジ

申し訳ないことにネットワークオレンジさんでは ぬえらのために旅館の宿泊をご用意して頂いてしまいまして。。m(__)m
昨夜はこの旅館の向かいにある居酒屋さんで飲みました〜

ところで話は戻りますが、3月の震災1年目の追悼集会などでの活動のあと、東北道を走って東京に帰る途中のサービスエリアで夕食をかねて休憩していたところ、なんと「チーム神戸」のみなさんと偶然に再会!!.。ooO(゜ペ/)/ひゃ

ついこの前日、湊小での追悼集会が終わってから、これで石巻での1年間に渡る活動に区切りをつける「チーム神戸」と涙のお別れをしたばっかりだというのに、ここでは大爆笑になってしまいました。今回の震災のために組まれた混成チームだった「チーム神戸」はひとまず解散となり、スタッフもそれぞれの街に帰ってゆくのですが、リーダーの金田真須美さんは定期的に石巻を訪れて支援活動を続けられるそうです。その強いリーダーシップから反発を受けることも多かった金田さんですが、ぬえは彼女からいろいろな事を学ばせて頂きましたし、道は違えど、同じプロとして尊敬しています。また石巻でお会いできるといいなあ。
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震災から1年〜追悼集会に参加(その15=東松島・矢本運動公園仮設住宅公演)その2

2012-05-02 00:16:01 | 能楽の心と癒しプロジェクト
木村さんは趣味で面打ちを楽しまれている方で、それも「般若」ばかりを打ち続けておられるのだそうで。。人生の中で何か思うところがあるのでしょうか。。(×_×;)

それが震災でお嬢さんとお孫さんを合わせて3人も亡くされてしまいました。木村さんのお宅に泊めて頂いた ぬえは、そのお宅の場所=赤井地区=が三陸自動車道の「石巻港」インターのすぐそばなのを見て、ここならば津波の被害はなかっただろうと思ったのですが、実際はお宅のすぐ前を通る道をはさんで海側までかなりひどい浸水の被害を受けたのだそうです。あとで知ったことですが、このあたりは定川という川が石巻港に向けて注ぎ込んでいる地域で、今回の震災の被害は川に沿って遡上した水が内陸部まで被害を及ぼした例がよく言われています。

そういえば壊滅的な被害を受けた野蒜地区にも東名運河があって、この運河沿いの家屋はもう大変な状況でしたが。。この赤井から海に近づいた地域が。。木村さんが親族を亡くされた大曲という地区になります。仙台の荒浜や若林、閖上もそうでしょうが、海から平坦な地形が続く地域で、割と山がちな石巻とはまた風情を異にしています。大曲には定川のほかにさらに北上運河が東北から南西にかけて通されていて、こうした地形が浸水被害を拡大させたのかもしれません。

この北上運河はそのまま大街道、蛇田という石巻の中心的な地域を貫いて石巻専修大の付近で北上川に接続しています。本来は北上川から運河を通って石巻港に流れる水が、震災のときには逆に津波が北東に向けて遡上しました。しかし大街道の付近は、6月に ぬえが訪れた際にはきれいだったし、すでに店舗も通常のように営業していたように思います。そうして今でも相変わらずの交通渋滞の中心地。ところが震災のとき、この大街道はめちゃくちゃに壊されてしまっていたのだそうです。石巻にとっては大動脈のような場所だから、迅速に復旧の作業が行われたのかも。でも、考えてみれば大街道を通っていれば気づかないのですが、その一歩南側。。日本製紙工場の北端から行くと目の前にあたる大街道南・築山といった町はもう大変な有様だったので、海と運河に挟まれた地区は被害が大きかったといえるのでしょう。考えてみれば石巻は水が豊富な町ですね。海も川も、そして運河さえもある。東松島は印象としてはそれ以上に水路が行き渡った町のように ぬえには思えました。これが災いとなってしまったとは。。

木村さんは震災後何も考えられないほど消沈してしまったそうですが、ある日彫りかけの面を見て、亡くなったお嬢さんが元気づけて元のように面を打ってほしいと言っているように思えたとのこと。そこからお嬢さんのご家族が引っ越しを決定していた東京での個展にまで繋げたのだから、強い精神力だと思います。その出品の勉強のために石巻での ぬえの公演にお出でになり、こうして ぬえらと一緒に東松島で活動することもできるようになりました。お嬢さんも喜んでおられるでしょう。。そういえば ぬえがこの前日に泊めて頂いたのは作業場のような部屋でしたが、そこにはお父さん(木村さん)に宛てたお嬢さんからの「感謝状」が何枚も飾られていました。。

この日、こんな木村さんに着付けた『葵上』の装束がこちら!





ん〜、面はまだ もうちょっと品がないと困るんですが、上達を期待するし、ご本人もやる気です。いつの日か彼の打った面を掛けて東松島で『葵上』を演じてみる、という希望も ぬえは持っています。

おっとこの日の ぬえは伊豆の子ども能のユニフォームの「能T」を着てるぢゃないかぁ。

こうして夕暮れになり、ぬえらプロジェクトの6回目になる支援公演も終わりました。帰りがけに東松島のボラセンに当たる「生活復興支援センター」に顔を出して、今回の東松島市での ぬえらの活動をコーディネートしてくださったOさんを訪ねたのですが、残念ながら不在でした。

そうこうして3月の活動の報告がようやく終わり、これから活動報告書と決算報告書を公開しなければならないのですが、すでに次の支援活動はどんどん進んでおりまして。。

じつは明日(もう、今日ですか。。)から弾丸ツアーで気仙沼・大島へ支援活動に行って参ります。その間にも、6月中旬に石巻・東松島で活動する予定で、こちらも大体形が整ってきました。6月には、先日大崎市のプラネタリウムで行った「星と能楽の夕べ」を。。これはずっと小さな規模になるでしょうが、石巻で再現する計画で、すでに現地でコラボするピアニストの方もご紹介頂いて、今日はじめてお電話でお話をさせて頂きました。なんと湊地区で毎月活動をされておられるそうで、ぬえは全然知らなかった。。 なんだか楽しみになってきましたよ〜?

まずは明日からの気仙沼。初めて訪れる大島に期待をふくらませております!
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震災から1年〜追悼集会に参加(その14=東松島・矢本運動公園仮設住宅公演)

2012-04-30 12:38:55 | 能楽の心と癒しプロジェクト
「みなし仮設」というのは、地方自治体が建設したプレハブの仮設住宅ではなくて、民間の賃貸住宅に入居した被災者を支援するために、その住宅を仮設住宅とみなして賃料を自治体が負担する制度なのだそうです。Oさんの場合、まだ小さいお子さんがいらっしゃるご家庭だそうなので、なるほど、仮設住宅ではちょっと酷ではありますね。一律にプレハブ住宅に住むことを強要しない柔軟な制度に拍手。ぬえは仮設住宅のしつらえについてあまり良い印象を持っていないので。。

ちなみに通常は2年間で仮設住宅も撤去になります。この住居が自立支援のために造られたものだから。それでも年齢等の事情によっては仮設住宅が解消されれば 深刻な事態に陥る方もいるわけで、不幸にして、しかし現実でもあるそういう世帯のために、神戸では「復興住宅」というものが建てられました。ここは2年間で自立できなかった被災者が無期限で住み続ける事ができる住居なのですが。。実態を教えて頂いた ぬえはまたまた絶句。。2年間の間に雇用を確保して生活を再建するのは急務だと思います。

先日、静岡県・三島の友人(昨年4月から自費で支援活動を敢行。彼らの活躍なくして今の ぬえはありません)とこの問題を話していて、いわく「今回の震災は阪神淡路の時と比べられない。神戸は大都会であり、近くに大阪もあった。東北はもともと過疎化・高齢化が進み、シャッター通り商店街も目立っていた。石巻はまだ都会だけれど、市街から離れ、産業基盤さえ失われた小さな漁村の高齢の被災者に、復興のために立ち上がれ、と言うのも酷な話で、広い地域で産業・生活の再編成が必要ではないか」。。とのこと。

この時はなるほどもっともな話で、ぬえも首肯したのです。そうして それまでに ぬえが聞いた仮設住宅の自治会長さん。。多くは高齢の、ぬえらの活動の受け入れもしてくださった方々が語られる現地の現状もそれを裏打ちするようなものでした。

ただ、高齢化や過疎という問題はあっても、あれだけの災害に遭った古里の復興の何もしないわけにはいかないのではないか。。今の ぬえはそんな事も考えています。震災から1年が経って、再建の努力が。。そりゃ最大限努力している方も多いと思いますが、もう少し強くこちらに伝わってきても良いんじゃないかな。。とも思うこともあります。デリケートな問題なので誤解や言い過ぎも恐れますが、災害の不幸の時点で止まっているわけにはいかないです。全国からの支援に対して、いつか胸を張って「こんなに立派な町になりました!」と言って頂きたい。そのとき、はじめて全国のボランティア戦士も自分たちの活動を誇りに思えるでしょう。そんな日が来ることを願っています。

そんな折もおり、宮城県では仮設住宅の設置期間を2年ではなく3年に延長した、というニュースが飛び込んできました。英断です! ぬえも出来るだけ長く支援活動を続けて行きたいと思っています。ぬえらが出来る事といったら住民さんに楽しんで頂くことぐらいしか出来ませんけれどもね〜

さて東松島市・矢本の運動公園に建てられた広大な仮設住宅群。ここの集会所が今回の訪問の最後の公演地になります。

木村健人さんが打った「般若」面。。あまりに膨大なその面を展示するスペースを作り、ぬえらも扇などの展示品を飾って、まずは公演準備に入ります。やがて住民さんも集まって来られて、この日は能『菊慈童』を上演しました。









その後、囃子の体験コーナーがあって、それからいつもならば住民さんに装束を着る体験をして頂いたり、囃子の体験をして頂くのですが、今回はこの矢本では木村さんに能装束を着付けてみることにしていました。

矢本は木村さんの地元で、知人もお出でになっているだろうこの公演で木村さんに装束を着て頂くのは良いことだと思いまして。石巻まの仮設商店街での公演にわざわざ来て頂き、ぬえに声を掛けてくれたところから、あれよあれよという間にこの日の公演に至りました。東松島での活動の足がかりを築いてくれた木村さんに、せめてもご恩返しですね。
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震災から1年〜追悼集会に参加(その13=東松島・矢本運動公園仮設住宅へ)

2012-04-29 02:35:52 | 能楽の心と癒しプロジェクト
馬っ子山を下りて、すぐに開成仮設に向かい、年末年始にお世話になったF氏を訪問するもお目に掛かれず。開成(の一部)にはちょっと難しい問題もあるようで、前回公演をした ぬえにとってはつらい気持ちです。でもいつかまたここで公演をしたいな。そうしてここで出会った子どもたち。彼らはどうしているだろう。。コトネ。。(・_・、)

気を取り直して石巻駅前の「立町(たちまち)復興ふれあい商店街」へ。じつは2月にこちらで公演させて頂いたときに商店街の方々からいろいろとお土産を頂いてしまいまして。その中でも「戸田海産物店」さんから頂いた「こんぶ」が、びっくりするぐらい美味しかったのです! 出汁を取るんじゃなくて、肉厚のそれをみそ汁などの中に実として入れるの。うわあ、美味しいです〜 (#^.^#) そういえば2月には気仙沼の地福寺のご住職から「この時期においしいもの。。? こんぶやワカメだなあ」と言われて「??」となった ぬえでしたが、ご住職続けて「こちらでは こんぶを しゃぶしゃぶにして食べるんですよ。ちょっとお湯にくぐらせて。美味しいですよ〜」と。今にして思えばさもありなん。。



ところが! その戸田水産物店はこの日休業でした。。またしても空振り。。(×_×;) 。。でもご近所のお店で伺った休業の理由が。。「法事の贈答用に包装で忙しいらしいですよ」。。でした。ここにも震災1年目の影が。。

仕方なく駅前の観光協会へ。こちらはぬえらが今回の活動期間中ずっと泊めて頂いている佐藤さんの奥様がお勤めで、お土産店も併設されていますので、奥様にご挨拶してからこちらで こんぶをゲットしました。

ちなみに戸田水産物店さんのサイトがありました!

戸田水産物店

ぬえも通販お願いしようかなあ!

さあさ、そうこうしているうちに次の公演の準備のために楽屋入りするべき時刻が迫っています。急いで東松島市に戻り、矢本運動公園仮設住宅の「東集会所」へ。

東松島は運動公園が整備されていますね。もともと矢本は東松島では中心的な地域ですが、広大な運動公園に巨大な仮設住宅がありました。じつは ぬえはこの2日前に下見に訪れていたのですが、広大な敷地に目指す集会所がなかなか見つからず苦戦しました。この日こんなに慌ただしくはじめてここに来ていたら集会所にたどりつけたかどうか。

早速自治会長さんにご挨拶して装束の準備。そうしてここでは、今回の訪問のもうひとつの大きな目的があったのでした。

それは、先ほどの根古仮設住宅での公演にも協力頂いた東松島市民の木村健人さん…大曲でお嬢さんとお孫さんあわせて3人の肉親を失いながら、般若面ばかりを打つ情熱を持ち続ける方。。に、そのお宅の近所であるこの矢本で ひとつのプレゼントをしてあげることでした。

以前も書きましたが、野蒜や宮戸島の惨状を6月から見ている ぬえは東松島での公演をなんとしても実現したい、という欲求がありました。これが実現したのが、2月に石巻の立町にある仮設商店街で行った催しに木村さんが訪ねてきてくださったお陰でした。この日も仮設の住民さんに ぬえは申しました。。「ここに来るまでに8ヶ月も掛かりました。。みなさんにお会いできて本当に嬉しく思っています。。」

そういえば、この場所での公演の実現にはもうひとつ、東松島市のボランティア・センターにあたる組織。。「生活復興支援支援センター」があちこちの仮設に問い合わせて頂き、受け入れ先を決めて頂いたご尽力も忘れてはなりませんね。突然電話を申し上げた ぬえに応対してくださった方。。あとで段々とわかってきた事なのですが、まだ若い女性の方のOさん。。は、じつはご自身も被災されて自宅は全壊。それもそのはず、ご自宅は宮戸島でした。これを聞いた ぬえは絶句。よくまあ、あの様子の地域におられながらご無事で。。(T.T) いまはOさんは松島の「みなし仮設」にお住まいとのことです。。
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震災から1年〜追悼集会に参加(その12=馬っ子山、登りました)

2012-04-25 01:42:43 | 能楽の心と癒しプロジェクト
午前中の根古仮設住宅での公演はとっても盛り上がりました〜。やってて良かった、と思う手応えがある催しはうれしい。そうして伊豆のお母さん方からの善意も予想以上に喜んで頂けたのは大変ありがたいことでした。

さて午後は同じ東松島市の矢本にある巨大仮設住宅での公演なのですが、この日に東京に帰る予定の ぬえたちは、まだ石巻でやり残したことがいくつか残っていて、ちょっと矢本の楽屋入りの時間が気がかりではありましたが、急いで石巻に戻りました。

やり残したこと、と言っても、いいえ〜、大したことじゃないんです。まずは「馬っ子山」に登ること。(^◇^;)

「馬っ子山」というのは石巻の北側。。地域で言うと開成か南境だと思いますが、そこにそびえる小高い山で、「馬っ子山」は通称でして、正しくは「トヤケ森山」というらしいです。石巻市民にとっても親しまれていて、小学校のピクニックなどでみんなで登るんですって。ま、それ以来大人になっても登ったことがない、という人ばかりのようでもありますが、それほど親しまれている山であるのに、この8ヶ月もの間石巻に通っている ぬえは登ったことがない。これはぜひ登ってみたいものだ、と、これは年末頃から切実に思い始めていたのでした。

もちろん毎度滞在スケジュールは厳しいので、なかなかその時間が取れませんし、まして登山なんかするのが目的で当地に来ているわけではないので、これまでは いつかは登ってみたい、と思う程度でした。ところがいろいろ調べてみると、どうも山頂付近まで車道が通じているらしい(!)。これは、というんで2月の訪問時に山頂に(車で)登ることを考えたのですが、さすがに2月の石巻の気候では難しかったか? このときも結局時間が許さずに断念したのでした。

今回もかなり危なっかしいスケジュール配分ではありましたが、思い立ったが吉日。石巻に戻るとすぐに馬っ子山を目指しました。年末年始にお邪魔した開成団地のすぐ脇に、本当に目立たないところに馬っ子山の山頂に通じる細い車道があります。目印もなにもないその道を入って行きましたが、道路は砂利だらけ。一部舗装がされていましたが、車で走るのは本当にしんどいほど路面は傷んでいました。

低い山。。というよりは小高い丘、といった風情の馬っ子山でしたが、悪路のせいか10分以上走ったような気が。。木立の中の道はぽっかりと開けて、山頂部分だけ草原の馬っ子山の山頂が突然目の前に現れました。車道はここで駐車スペースのように開けて終わりになり、あとは徒歩、ほんの2〜3分の行程で頂上に至ります。もう、開けた山頂からの絶景は疑いもないのですが、どうしても山頂から石巻を眺めてみたくて、あえて周りを見ないように、見ないように、と努めながら、足下ばかりを見て山頂に急ぎました。

山頂でくるりと振り返ると。。ああ、すごい。。

風は強かったけれど、見事なまでの光景が広がっていました。今まで通い続けた石巻がまったく違う姿を見せています。遠く霞むような日和大橋。そのすぐ下に石ノ森萬画館がうずくまるかのような中瀬。その左側には、白亜に輝く湊小。本当に、湊小のあの神々しいまでの白さは何なのでしょう。北上川を隔てて中央から門脇に至る道からも、湊小はすぐに目に入ります。津波被害を受けていまだに授業が再開されない。。どころか補修工事さえ始まっていないのに、その外壁の鮮やかな白はまばゆいばかり。校長先生の機転で大勢の命を救った、その命のゆりかごともなり、その後も避難所として大勢の住民さんの生活を支えた、その自負を、尊厳を誇っているかのようです。もう半年も無人のままだというのに。。



南に目を移せば門脇から南浜、東松島の大曲に至る広くて、がらんとした地域が広がります。その中で日本製紙の工場から立ち上る白煙が目を引きました。甚大な被害を受けながら撤退することなく操業を再開した日本製紙石巻工場から再び白煙が上ったとき、石巻の市民は復興の歩みが始まった事を実感したのだそうです。この白煙を遠く眺めるとき、なるほど、停滞の中からモノが生み出されていく有様が ぬえにさえ感じられます。



東側のすぐ眼の下には開成と南境の巨大な仮設住宅群。これも長屋のような造りの住宅であっても、日本製紙工場を見たあとでは新しいモノが生み出される工場にさえ見えてきます。西側の眼下には、震災時に驚異的な体力で診療に当たった医師たちの戦場となり、その労あって多くの命が救われた石巻赤十字病院の特徴的な黄色い建物がぽつんと見えています。年末には八面六臂の活躍をしてくれたゲストの能楽師、ワキ方のNくんに心から感謝して、ひと足先に東京に帰る彼をこの病院のすぐそばで見送ったなあ。




登ってよかった。。



閑話休題。

この記事を書いた今日、夕方に千葉方面での稽古を終えて帰宅途中の ぬえはNHK―FM(たぶん埼玉局)の放送を聴いて愕然としてしまいました。

これは児童養護施設に入所している子どもたちの厳しい現状のレポートで、ぬえの記憶によれば以下のようなものでした。

死別や育児放棄によって保護者を失った子どもを保護し、学業や生活、そして自立の支援をする児童擁護施設だが、原則として高校を卒業した時点で退所することになる。ところが退所後の子どもたちの進路を見ると、進学するのはわずか10%(全国平均では70%)。それも進学先はすべて専門学校や短大で四年生大学への進学は0%。。保護者に頼ることができず高額の学費と生活費の両方を自ら捻出するのが不可能なのが原因。こうしてほとんどの子どもが就職するのだが、高卒の学歴で就職した子どものうち30%以上が3年以内に離職し、中卒になるとその割合は実に100%近くに跳ね上がる。離職後は派遣職員やアルバイトなど不安定な非正規雇用に陥る傾向が強く、年収も100万円前後など厳しい生活にさらされている。。

車を停めた ぬえは自分の無力さにしばし動けなくなってしまった。こういう事。。考えてもみませんでした。これは埼玉県のひとつの例なのかもしれませんが、確実に起きている、これは現実なのですね。ましてやこれが基幹産業が壊滅した地方で同じ事が起きるとなると。。

ぬえは、住民さんに元気になってほしい、という一心で東北での活動を行っているのですが、そして、かえって住民さんの優しい心に触れて自分の方が癒されたりしているんですが、最近ちょっとしたジレンマにも陥っています。本当にみなさんの力になれているのかどうか。。2〜3ヶ月に1度しか訪問できない部外者のボランティアとしては知りようもない事ではありましょうが、実感としては現地の状況は厳しさを増しているように思えてならないんです。。でも、それは復興という大きな大きな問題の中で、ぬえには見えない規模や場所で、少しずつ、少しずつ進んでいっているのでしょうね。それを信じるより仕方ないです。ぬえの小さな活動は公演のあるその日、集まってくださった住民さんに楽しんで頂くことを目指すのみ。うん。
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震災から1年〜追悼集会に参加(その11=東松島市・根古仮設住宅にて)

2012-04-24 11:47:02 | 能楽の心と癒しプロジェクト
またまた更新が滞ってしまいました〜(×_×;)

それでも世間は動いております。ぬえも伊豆の子ども能の稽古に行ったり、師家の別会で仕舞「駒之段」を勤めたり、多忙にしておりました。梅子ちゃんも無事 女子医学専門学校に入学してめだい めでたい。(^◇^;)

え〜。。

これは遠い遠い昔の3月12日のご報告なのですが。

震災1年の追悼集会の翌日、ぬえらは念願の東松島市の仮設住宅2カ所にて公演を持つことができました。この日の午前中は「根古仮設住宅」。。ぬえが2日前に伊豆の子ども能の保護者から寄贈された大量の絵本とおもちゃを運び込んだ場所です。

根古地区は隣町の石巻でも地名を知られていない小さな集落のようでしたが、東松島在住の木村さんによれば、少し山に上ると広大な花畑を所有して公開している方があって、知る人ぞ知る地区なのだそうです。周囲はのどかな田園に囲まれ、ほんの小さな高台にその仮設住宅はあります。もともとここには「根古公民館」「根古地区センター」と呼ばれる小さな集会所があって、この前庭にあたる場所に運動公園のようなものがあって、その場所を利用して仮設住宅が40数戸建てられていました。



もともと戸数の少ない仮設住宅でもあり、また伊豆からの絵本やおもちゃを運び入れた際も「子どもはあまり多くないなあ。。」と自治会長さんもおっしゃっておられたので、支援物資や公演そのものが成立するのかどうか、…じつはちょっと ぬえは心配に思っていました。

ところがこの日、まあ近在の在宅の方も含めて20数名の方が集まってくださいまして、そのうえ小さなお子さんを抱っこした若いお母さんまで参加してくださいました!

開演前には木村さんが打った「般若」面の数々を展示して、同じ市民として住民さんと語り合って頂きます。こうした、市民と一緒の活動というものは ぬえらのこれまでの活動にはなかったものでした。震災後に木村さんがどのように過ごしてきたか、ぬえらと出会って、能を通してこのような支援活動を始めるに至った経緯。いずれも当地のみなさんにとってひとつの指標となればいいな、と思います。

さて上演曲目は『羽衣』のダイジェスト版で、いつも被災地では笛のTさんと二人で上演することばかりなのですが、この日は助っ人の太鼓のKくんも加わっているので布陣は強力! やっぱり太鼓が入ると俄然浮きやかな『羽衣』になりますね〜。

終演後、住民さんに装束の着付け体験をしてみたり、みなさんで一緒に記念撮影をしたり。。このあたりはもう恒例なのですが、なぜか今回は囃子の道具(楽器)を取り揃えて展示してみました。これがとっても住民さんには興味を持って頂けて、ちょっと鼓を構えて打って頂く、程度の体験をして頂きました。う〜んやっぱり音はなかなか出ないのだけれど、能を喜んで頂けたことがうれしいです。亡くなった ぬえの恩師、小鼓方の穂高光晴先生もお喜びになって頂けたかなあ。





それから伊豆からの支援物資の絵本やおもちゃ。自治会長さんから「これ、配ってもいいんですか?」とお尋ねがあったので、どうぞどうぞ、とは申し上げておいたのですが、仮設だけではなく近隣の在宅の方もお喜びになって持ち帰られました。ぬえらは当地での公演の様子をビデオ撮影していますが、公演終了後に後片づけをしている間に回り続けたビデオを後で見たら、このへんの様子が写っていました〜「カルタまであるのね〜」「仮面ライダーだ〜」。小さいお子さんを抱っこしたお母さんも「どれがいいの?」と我が子に選ばせておられたり、まわりの住民さんたちも「あんたこれ持って行ったら?」と声を掛けてあげたり。こういう人情の厚さに ぬえはヨワイです。いいなあ、東北の人たち。
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震災から1年〜追悼集会に参加(その10=東松島に泊まりました)

2012-04-20 01:36:30 | 能楽の心と癒しプロジェクト
まだ続く3.11のこと。

「チーム神戸」の事務所にて金田さんとのおそらくこれでお別れになるであろう挨拶をして、その夜は笛のTさんと太鼓のKくんとともにやきとり屋さんの「東助」にて祝杯をあげました。

「東助」は湊地区にあって津波で大きな被害を受け、ご主人と奥様は仮設住宅で生活しておられます。でも、この去年の真夏までは湊小学校避難所におられ、ぬえの能も何度もご覧になっておられるのでした。そうして避難所時代の湊小に京都から単独で来て自転車修理屋さんを開いていた「ちゅんさん」と仲良しになって、彼らの力でお店を修繕。ついに年末に営業再開に漕ぎつけたのでした。ご主人にとって恩人の ちゅんさんは、避難所が解消になってからはこの「東助」の2階に住んで、1階の奥の間で自転車修理屋を開いています。そうして最近、ボランティアとして出会った同士でついに結婚までされたようです。おめでと〜(#^.^#)

太鼓のKくんにこの1日の感想を聞いたところ。。「しんどかった」そうです。空気の重さに耐えきれず、ここに来たことを後悔もした由。そりゃそうでしょう、震災1年目のその当日に初めて被災地を訪れたのですから。どちらかというと ぬえは瓦礫もきれいに片づけられてきて、新たなスタートを切る日に見えていましたが。。でも彼はナイーヴな人で、1年前の震災直後にはテレビ報道などの映像を見て、津波の悪夢にさいなまれたそうです。そういう人は被災地に来ちゃダメじゃん!

…でも、そうではなくて、それほどのショックを受けた地に何か貢献したい、という情熱をずっと持っていたのです。それで ぬえらの活動を聞いて、ぜひ一度連れて行って欲しい、と。こういう気持ちは尊いです。来たくても来れない人だってたくさんいる。彼は幸せだと思います。大変だったろうけれども。。

さてこの夜、二人も能楽師が到着したために石巻の佐藤さんおお宅ひとつではちょっと面倒を見るのも大変で、ぬえだけは東松島の木村健人さんのお宅に泊めて頂くことになっていました。

東松島。。6月に初めて野蒜のあたりを見たときは言葉がなかったです。同じ松島湾に面していながら、松島の島々が大きな防波堤となって津波を押し返し、塩釜市や松島町は比較的軽微な被害で済んだのに対して、松島湾の東部から太平洋に面する野蒜や宮戸島のあたりは文字通り壊滅でした。これを見た時から、ぬえは東松島で能楽の上演をして住民さんにお元気になって頂きたい、という希望はずっと持っていました。しかし仙台や多賀城、塩竈、松島町と大きな町が続く中、石巻との間にぽっこりと沈み込んだかのように、東松島での活動にはツテもなく、訪問することはついに叶わずにいたのでした。

そんな中、2月に石巻の仮設商店街「石巻ふれあい復興商店街」で舞ったときに木村さんが声を掛けてくださいました。この話が絶句で。。

震災のとき、娘と孫4人を同じ東松島市内で失った。般若面ばかりを打つのは長い趣味だが、この震災以来意欲も失われていた。しかし打ちかけの面を見た時、これを仕上げるよう啓示を感じ、制作に邁進するようになった。この直後、娘一家が移住する計画だった東京で能面展を開く計画である。。石巻で能楽の活動があることを新聞報道で知って駆けつけてきた。東松島にはこういうイベントは誰もやって来ない。ぜひ東松島でも活動してほしい。。

こうして ぬえたちは3.11震災の日の追悼式の翌日、東松島市で活動をすることになったのでした。

この夜は木村さんのお宅にお邪魔して、制作した面を見せて頂いたり、翌日の公演の打合せなどをして就寝しました。
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震災から1年〜追悼集会に参加(その9=震災から1年。。その夜)

2012-04-18 02:14:26 | 能楽の心と癒しプロジェクト
そうこうしているうちに湊小の体育館には鍵が掛けられ、また。。人気のない真っ暗な校舎に戻ってしまいました。チーム中津川も去り、フランス人協会はこの日のうちに東京に帰らなければならないとのことで追悼集会の閉幕も見届けずに去り。

キャンドルの風情を味わい、この街はこれからどう変わっていくんだろう。。と思いを馳せ、ボランティアが去った石巻の様子は想像もできず。ぬえたちの活動もいつまで続けてゆけるのか、遠く漠然とした不安も頭をよぎり。。

こうして ぬえは「みなと荘」の追悼集会の場を離れて、チーム神戸の事務所「ふれあいサロン」に向かいました。こちらはこの日宿泊するのだろうボランティアさんが大勢おられ、長い1日のあと、さらに後片づけも済ませてからだというのに談笑の花。リーダーの金田真須美さんは、こちらも元気よく ぬえらを招き入れ、ねぎらって下さいました。

「どうする? これからみんなでファミレスで打ち上げでもしようかと思うんやけど」。これは年末くらいから、ですかね。石巻では居酒屋が満杯で、まず入れない状態が続いています。それやこれや、まだ仕事を残していることでもあり、ファミレスということになったのかな。ぬえは、この日夜行バスで到着した笛のTさんと、同じく夜行バスで到着し、しかもプロジェクトの活動に協力して被災地に初めてやってきた太鼓のKくんの労をねぎらう必要もあり、お名残惜しいですが湊町のやきとり屋さん。。ここも常連になりつつある「東助」に行くことにしました。

すると。。ぬえが金田さんとお会いする事も、もう当分ないでしょう。

震災直後から湊小避難所に泊まり込んで、避難所が解消になった今もこうして石巻に留まり続け、活動を続けている彼女も、震災から1年を経て、4月いっぱいでこの地を去ることになったそうです。「チーム神戸」は神戸のボランティア団体「すたあと長田」を中心とする混成チームで、事実上当地で活動しているのは金田さんただ一人。二人のスタッフは他のボランティア団体の一員として石巻にやって来てそのまま独自に活動を続けているうちに「チーム神戸」のスタッフとなった一人と、何か被災地の力になりたい、と東京から単身乗り込んで(ここまでは ぬえと一緒)、そのままスタッフとなった一人。彼らの「チーム神戸」もあと少しで解散になります。

一方 ぬえらの「能楽の心と癒やしプロジェクト」も東京でのスケジュールの都合から、次に東北地方を訪れるのはGW頃になる予想なのです。

。。6月下旬にチーム神戸とこの地で出会って、それから8ヶ月半、ぬえは金田さんにお世話になりっぱなしでした。怒鳴られたことも、諭されたことも、励まされたことも、日本の文化について30分以上話し合ったこともあります。30分なんて短いと思うでしょ? いや、彼らの仕事ぶりからしたら、この時間が取れたことは奇跡的だったのではないかと思います。逆に石巻の現状や震災からの復興についてのお話を伺った時間はこの数倍ありました。

最初はただの避難所の掃除夫だった ぬえも、その次の訪問では能楽師としての活動を当地で展開できたのは金田さんが ぬえを評価してくださり、慰問公演をコーディネートしてくださったお陰です。これがなければ今の ぬえもプロジェクトの活動もあり得ない。それもこれも、金田さんが ぬえをプロとして認めてくださったお陰でした。プロとして、出来る事は際限なくアイデアも浮かぶし思い入れもある。でも、思いだけでは当地では受け入れられない。そんな難しさにずっと苦しんできた ぬえも、金田さんだけは ぬえの思いを受け止めて、それを生かせる、最低限の道を切り開いてくれました。「連絡はしといた。あとは自分で交渉するんやで。」。。こうして石巻はもとより気仙沼にも、大崎にも、東松島にも、ぬえは自分たちの力で支援活動の場を拡げていくことができたのでした。

今夜は「東助」に行きますから、と伝えて「今日はありがとうございました〜」とご挨拶したとき。。 ぬえはこれらの長いおつきあいやこの被災地での濃い時間を考え、もう、金田さんと会うこともないんじゃないか、と考えたら涙があふれてきて。

そんなときに笛のTさんが撮ったのがタイトル画像です。iPadでとっさに写したらしい。よくまあ瞬時に。。

ぬえにとっては決してカッコ良い写真じゃないですけど、ぬえの、能楽師としての。。いや人間としての価値観の大転換を遂げた濃い8ヶ月半の思いを写して余りある画像だと思います。多謝。
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震災から1年〜追悼集会に参加(その8=みなと荘で3.11追悼の会)

2012-04-16 21:27:31 | 能楽の心と癒しプロジェクト
2:46の黙祷のあと、すぐに湊小の体育館では2度目の法要が行われました。さきほどまでの笑い声も消えて、厳粛な時間が流れてゆきます。ぬえには触ることのできない追体験を、ここでは何千人もの人がこの瞬間に受け止めているのですね。。ぬえはつらい気持ちで頭を垂れ続けていました。

やがて元の喧噪が戻り、体育館には絶えず人々が集い、ぬえも舞台を勤めて。。そうして午後5時。「石巻3.11市民追悼の会」は終了しました。最後の演目『羽衣』は上演時刻がこの集会の最後を飾らせて頂く場面で上演させて頂きました。もう、この直前に住民さんは三々五々家路につかれたようで、事務局の「チーム神戸」は ぬえらに気を遣って、住民さんがお帰りになるのに気を揉んでいたようでしたが、その足音は ぬえも装束を着付けられながら聞こえていました。

いや、むしろ最後の上演はこの湊小に集ったボランティアさんたちのために舞うつもりでしたから、それでよかったのです。そうそう、この日の上演では「チーム神戸」の代表・金田真須美さんの提案で、舞うスペースを体育館の真ん中に取ることになりました。真ん中?? これは金田さんのアイデアで、体育館のあちこちに来場された住民さんたちの談話のためにテーブルと椅子が用意されてあったのですが、その真ん中に広くスペースを取り、ぬえの舞う能は四方八方に向けて舞ってほしい、とおっしゃるのです。

なるほど、ぬえがどこか体育館の片隅とかステージで舞うとなると、住民さんの着席する場所はそれに向き合うような、要するに通常の客席のような座席になってしまう。これでは能楽鑑賞会になってしまって住民さんもお互いに話をしにくくなる。テーブルが散りばめられた中、それぞれの住民さんたちがテーブルに集ってこの1年の事を振り返ってお話をなさるような今回の配置の中で ぬえが片隅で舞うと、今度は 能の方がひどくみすぼらしく、かえって談話の邪魔にさえなってしまう。。そこで中央で舞う、というわけですね。これは ぬえにはとても考えつかないアイデアでした。

この申し出を引き受けた ぬえでしたが、さすがにこういう上演方法は経験がなく、混乱しないか不安でした。が、こういうのはあんまり事前に綿密に歩みを進める場所を決めておかない方が良いようです。実際には序之舞を舞いながら、型の区切りごとに正面を違う方向に取るのですが、やはり面を掛けている状態で1〜2分ごとに正面となるべき方向を変えながら演じるのは気持ちが混乱しそうになります。が、意外にもすぐに慣れるもので、とくに混乱はなく勤めることができました。こういうい事なら『石橋』で囃子方の面前に面と向かって下居して頭を振るんだった。(^◇^;)

集会は解散し、ボランティアスタッフは猛スピードで片づけに入ります。ぬえらはそれには加わらず、面装束などの片づけに没頭しましたが。終了後、チーム中津川は岐阜に帰るバスの前でミーティング。最後まですごい活躍。。それもほとんど裏方さんに徹していながら志気の衰えない行動力には ぬえは感心しまくりでした。やがて体育館に鍵が掛けられる頃。。ぬえはもう湊小とはしばらくお別れだなあ、と感慨もあります。次は校舎を修繕して学校機能が回復してから、子どもたちを相手に能楽教室を開きたいと期待しています。

さてそんな頃、湊小の向かいにある「みなと荘」の前庭ではキャンドルが点され始めていました。

「みなと荘」は正式には「石巻市総合福祉会館 みなと荘」という名称で、アパートのような名前ですが立派な建物の公共施設でした。1階には「湊幼稚園」がありましたが津波被害を受けて一時施設は閉鎖され、住吉幼稚園に間借りして活動を続けています。またこの建物は石巻市が10月11日にすべての避難所を閉鎖したさいに明友館のスタッフが拠点を移した場所でもあります。ぬえも2月にはこの明友館の事務所に泊めて頂きながら活動をしていました。ただ、ここも3月いっぱい、ということで市から事務所兼住宅として借りていた明友館は、現在の住所をリーダーの千葉恵弘さんが住む? 仮設住宅に移しています。

この日、3.11、このみなと荘では別個に追悼集会「3.11追悼の会」が開かれていまして、こちらも大勢の方が集っていました。湊小避難所で活動していたボランティアの人々の主催で、中学生ブラバンの演奏があったり二胡の演奏があったりと賑わっていたようですが、ぬえはついに見に行けず。。夜になり前庭でキャンドルを点して犠牲者の追悼と石巻の復興のために祈りが捧げられていました。

ぬえもようやくこちらの追悼行事に参加することができ、キャンドルの点火のお手伝いをして、これからの復興に祈りを捧げました。
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