ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

三位一体の舞…『杜若』(その3)

2024-05-16 02:18:43 | 能楽
地謡「在原の。跡な隔てそ杜若。跡な隔てそ杜若。沢辺の水の浅からず。契りし人も八橋の蜘蛛手に物ぞ思はるゝ。今とても旅人に。昔を語る今日の暮やがて馴れぬる。心かなやがて馴れぬる心かな。

地謡の初同上歌のシテの所作は定型で、「沢辺の水の」と右ウケしてから正面に出てヒラキ。唐織の着流しの姿なので動作はごく控え目です。「今とても旅人に」とワキへ向き、それから左に小さく廻りシテ柱にて正面へヒラキ。少々型が忙しく雰囲気が壊れそうなので ぬえはこのヒラキはしないつもり。上歌のトメにすぐワキへの言葉がありますので地謡の終わりにワキに向きます。

シテ「いかに申すべき事の候。
ワキ「何事にて候ぞ。
シテ「見苦しく候へども。わらはが庵にて一夜を御明し候へ。
ワキ「心得申し候。


能「江口」では世捨て人である西行に遊女が宿を貸さなかったことから人の六根が作る罪のために輪廻に迷うところにまで話が及び、遊女がじつは普賢菩薩であった、と逆転的な昇華を遂げるという、哲学的で壮大な物語に展開するのに比べて、「杜若」では あっさりと若い女性が僧を宿に誘い、僧も屈託なく承知しますね。なんだか違和感が残る問答なのではありますが、シテが人間の女性ではなく草木の精だから宿を貸すこともあまり問題にならないのかもしれません。

ここでシテは後見座にクツロギ「物着」となります。唐織を脱ぎ(ヌードにしないように、先に長絹を羽織らせてその下から唐織を引き抜きます)、長絹を羽織り、初冠を着けるという手順で、普通ならばそれほど難易度は高くありませんが、小書「恋之舞」になるとさらに初冠に「日陰之糸」を着け眞之太刀を刷くので大変になります。いずれにせよ物着のあとは長絹の下に縫箔を腰巻に着るので、これは最初から唐織の下に着込んでいます。なお「物着」の間、大小鼓と笛がアシライを打って(吹いて)くださいますが、これはシテが女性の役の場合に限ります。男性の役の「物着」ではアシライがないので無音で着替えをするわけで、後見にとってはお客さまの注目を浴びやすい分だけやりにくいかも。

物着が出来上がってシテは立ち上がり再びシテ柱先まで出ると大小鼓は「ヲキ」を打ってアシライを止め、その間にシテはワキに向いて「ヲキ」を聞いて謡い出します。

シテ「なうなうこの冠唐衣御覧候へ。

二度目の「なうなう」。これが二度あるのは珍しいですが「杜若」に限ったことでもありません。もちろん二度の「なうなう」はおのずと意味合いやシテのキャラクターが異なることになり、「杜若」では豪華な衣裳を誇るように光り輝くように謡うのが似つかわしいですね。シテは謡いながら衣裳をワキに見せるように両袖をあしらう「ヨセイ」という型をします。

ワキ「不思議やな賎しき賎の臥処より。色も輝く衣を着。透額の冠を着し。これを見よと承るは。何と言ひたる事やらん。
シテ「これこそこの歌に詠まれたる唐衣。高子の后の御衣にて候へ。またこの冠は業平の。豊の明の五節の舞の冠なれば。形見の冠唐衣。身に添へ持ちて候なり。


当然のごときワキ僧の疑問に対してシテの答えは二条の后と呼ばれた藤原高子(本来の読みは たかいこ)の衣裳であり、業平の冠であり、それぞれを形見として持っているのだ、と答えます。怪しい。

能「杜若」はこの物着まではごく自然な展開で、むしろ大きな事件や伏線もなく素直な能だと言えると思いますが、物着のあとは現代人からすると『伊勢物語』の理解が根本から覆されるような不思議な世界が次から次へと展開されて目が回りそう。

まずはこの「形見の冠唐衣」に続くシテの主張を読んでみましょう。

ワキ「冠唐衣はまづまづ措きぬ。さてさて御身は如何なる人ぞ。
シテ「まことは我は杜若の精なり。植ゑおきし昔の宿の杜若と。詠みしも女の杜若になりし謂れの言葉なり。また業平は極楽の。歌舞の菩薩の化現なれば。詠みおく和歌の言の葉までも。皆法身説法の妙文なれば。草木までも露の恵みの。仏果の縁を弔ふなり。


シテは自分のことを「杜若の精」とはっきり名乗っています。それは当然『伊勢物語』の9段の「唐衣着つゝ馴れにし」の歌に詠まれた杜若であり、その花が今人間の姿を借りて現れたのは、業平その人かあるいは彼が詠んだこの歌との関係が原因なのだろうと推測はできますね。

ところが ぬえにとって疑問なのは、その業平と杜若の関係はいわば一期一会の出会いのはずであって、とても彼から「形見」として冠をもらうほどの深い関係。。恋人のようなものではないはずだ、ということです。

考えてみればこの「杜若」のシテの扮装は、能「井筒」とまったく同じ出で立ちで、それは能の愛好者としては見慣れている姿でありながら、じつは女性の役でありながら男性の衣裳を着ている、というかなり異形の扮装です。しかし「井筒」のシテは業平の妻(とされている)紀有常の娘であり、彼女が「夫」の形見を持っているのは当然であり、彼女が男の扮装をするのもまた、愛する男との生活を懐かしんで、男の形見を身に着けることで一体化しようとした、と理解することが十分に可能です。

これは類例の「松風」「富士太鼓」「梅枝」でもまったく同じで、これらの能で女性のシテが男装をするのは、すべて失った恋人や夫が残した形見なのであり、それを身に着けるのはその愛する人と一体になりたい、という強い思慕のために他なりません。

これに対して「杜若」のシテと冠の持ち主である業平との関係は、たまたまある日に業平が詠んだ和歌のモチーフとなったに過ぎず、彼女は業平の恋人ではありません。そもそも人間でさえないのだから。

その上「井筒」ほかの上掲の能と「杜若」と決定的に違う点は、冠は業平の形見でありながら衣裳はまったく別の人間。。二条の后と呼ばれた藤原高子のそれなのであり、それは業平の恋人とされ、「唐衣」の歌で彼が思慕した相手のものだ、と言うのです。杜若の精であるシテにとって高子は面識さえないはずであり、唯一の接点は「唐衣」の歌で杜若がモチーフになり、その歌が高子を思って詠まれた、という一点だけなのです。杜若の精が遠く離れた都に住んでいた高子の衣裳を「形見」として賜る理由はありません。

これら、「杜若」のシテの性格およびその扮装には大いに疑問が生じますが、その疑問を解消するために、次にシテが語る業平の「本性」について注目する必要がありそうです。         (続く)

三位一体の舞…『杜若』(その2)

2024-05-13 22:09:49 | 能楽
シテ「なうなう御僧。何しにその沢には休らひ給ひ候ぞ。

「呼び掛け」というシテの登場の場面は、長い橋掛りを備えた能舞台の特色を最大限に利用した素晴らしい演出ですね。そしてこの独特の登場はシテが幽霊や神など人間ではない役のときに最大の効果を生みます。幕内から呼び掛けるシテの姿はまだ観客からは見えておらず、シテの役者はワキに呼び掛ける謡だけで観客の想像力を掻き立てられなければなりません。神秘的に謡えれば観客にやがて現れるシテの姿に期待を持って頂くことができます。

ワキ「さん候これなる沢の杜若に。眺め入りて休らひ候。さてこゝをばいづくと申し候ぞ。
シテ「これこそ三河の国八橋とて。杜若の名所にて候へ。さすがにこの杜若は。名におふ花の名所なれば。色も一しほ濃紫のなべての花のゆかりとも。思ひなぞらへ給はずして。取りわき眺め給へかし。あら心なの旅人やな。


実際に幕内のシテとワキの距離は20mほどもあるのではないでしょうか。遠く呼びかけたシテはワキと会話を交わしながら橋掛りを歩み、だんだんとワキに近づいてきます。その間ずっとシテは観客に横顔しか見せないわけで、よりシテの神秘性を増します。一歩間違えればホラーですが(笑)。「杜若」の場合は後にシテが花の精だとわかるわけですから、可憐な感じで謡えれば良いですかね。なお橋掛りを歩むシテは重要な言葉を言うときや独白がある場合にはいったん立ち止まって正面に向きます。ここで観客ははじめてシテの面。。すなわち顔を見ることになり、文言の内容やシテのキャラクターを印象づける場面となります。

「なべての花のゆかりとも。思ひなぞらへ給はずして。取りわき眺め給へかし」のあたりは意味が通じにくいかもしれません。「この名所の杜若はその花の紫色も一層深く、すべての花のゆかりともお思いにならないのですね。特別な花と思ってご覧頂きたいのに。なんて心無い旅人でしょう」

杜若の花の色の紫は(他にもまれに白があるそうですが)、古来高貴な色で「枕草子」で絶賛されていますね。あるいは紫雲のように神秘的な色とされてきましたが、古来は「紫」という字をそのまま「ゆかり」と読むこともありました。いずれにせよ「縁」に結び付けられる色といえるのですが、能「杜若」のこの部分では ぬえはズバリ「私を女王様とお呼び!」と言っているのだと解釈しています。「取りわき眺め給へかし。あら心なの旅人やな」はまさに漫然と美しさを愛でる僧にさらに尊敬の念を持て、と言っているわけですが、これはじつは高慢から言っているのではなくて、この能のその後の展開から仏の教えによって昇華される運命を持った花なのだ、という意味だと捉えています。

ワキ「げにげにこの八橋の杜若は。古歌にも詠まれけるとなりさりながら。いづれの歌人の言の葉やらん承りたくこそ候へ。
シテ「伊勢物語にいはく。こゝを八橋といひけるは。水行く川の蜘蛛手なれば橋を八つ渡せるなり。その沢に杜若のいと面白く咲き乱れたるを。ある人かきつばたといふ五文字を句の上に置きて。旅の心を詠めと言ひければ。唐衣着つゝ馴れにし妻しあれば。はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ。これ在原の業平の。この杜若を詠みし歌なり。


いよいよ核心の「伊勢物語」の登場です。有名な9段の物語で、同じ章段には能「隅田川」に出てくる「都鳥」の歌も載っていて、同じく能「井筒」の典拠になっている23段と並んで教科書にも取り上げられてよく人口に膾炙しているお話でしょう。

ワキ「あら面白やさてはこの。東の果ての国々までも。業平は下り給ひけるか。
シテ「こと新しき問ひ事かな。この八橋のこゝのみか。猶しも心の奥深き名所々々の道すがら。
ワキ「国々ところは多けれども。とりわき心の末かけて。
シテ「思ひ渡りし八橋の。
ワキ「三河の沢の杜若。
シテ「遙々来ぬる旅をしぞ。
ワキ「思ひの色を世に残して。
シテ「主は昔になり平なれども。
ワキ「形見の花は。シテ「今こゝに。


じつはワキ僧は「伊勢物語」を読んだことがありません。これがシテが僧を呼び止めた理由かも。能「杜若」に描かれる内容はかなり難解なのですけれども、それ以上にこのシテは何の目的を持ってワキ僧の前に現れたのだろうか、とずっと考えていました。神通力を持ったシテがワキ僧が「伊勢物語」を知らないと気づいていたならば、「伊勢物語」の真実を伝えようとした、と解釈できるのです。このへんはまたこのブログでの考察の中で考えていきたいと思っています。

業平はこの八橋ばかりではなく国々の名所まで下ったのだが、とりわけ心を掛けたのがこの八橋なのだ、と語るシテ。遥々と旅をした業平だけれどもそれは遠い昔のこと。しかしその「思ひの色」は今でも残っていて、それを象徴するのが昔と変わらず咲き誇るこの杜若の花なのであり、それは今に残る業平の形見なのだ、とシテは言います。

能「杜若」では後に現代人とは到底異なる「伊勢物語」理解が語られるのですが、よく読み返してみるとこのシテの言葉がすでに伏線になっているように思えます。             (続く)

三位一体の舞…『杜若』(その1)

2024-05-06 15:34:19 | 能楽
さて毎度 ぬえが勤める能の曲について鑑賞のための見どころと、舞台進行の解説をさせて頂いております。今回の「杜若」は「鬘物」と呼ばれる女性が主人公の能ですが、その中でも草花をシテとする一群の能の中に位置しています。「井筒」「隅田川」などと同じく『伊勢物語』を典拠として、いわゆる人気曲として上演頻度も高い曲なのですが、じつはこの曲は現代人が『伊勢物語』を読んで思う印象とはずいぶんかけ離れた内容を持っています。これは鎌倉時代~室町時代あたりの中世の人々は『伊勢物語』を現代人とはまったく違う視点で捉えていたためで、能「杜若」はそういう中世の人の『伊勢物語』理解のうえに書かれた能なのです。その意味で現代人から見ると理解が難しい部分もあり、また難解な能とも言えるでしょう。これを
現代の役者が現代の舞台の上で、そして現代人の観客の前で上演するのにはどうすれば良いのか。そんなことも考えながら上演の準備を進めております。

さてでは実際の舞台の進行を見てゆきましょう。舞台に囃子方と地謡が着座すると、すぐにワキが幕を上げて橋掛りに登場します。同時に笛が「名宣笛」というソロ演奏をはじめ、また大小鼓は床几に腰かけます。ワキは所謂「着流し僧」で一人きりでの登場。身分の高い高僧ではなく諸国をめぐりながら見識を深める修行僧といった趣です。

橋掛リから舞台に入ったワキが足を止めると笛も吹き止め、ワキは名ノリと呼ばれる自己紹介を謡います。

ワキ「これは都方より出でたる僧にて候。我いまだ東国を見ず候程に。ただ今思ひ立ち東国修行と心ざし候。

この「名ノリ」の最後に「立拝」とも「掻き合わせ」とも呼ばれる両手を胸の前で合わせる型をして、これよりワキは紀行文である「道行」を謡います。

ワキ「夕べ夕べの仮枕。夕べ夕べの仮枕。宿はあまたに変はれども。同じ憂き寝の美濃尾張。三河の国に着きにけり 三河の国に着きにけり。

「宿」とは言っていますが修行僧であれば宿屋などに泊まるわけではなく、野宿したり廃屋に泊まるような漂泊の旅という感じでしょう。そのためかこの「道行」には具体的な行路が想像できるような景物が出てきません。じつは「道行」ではかなり具体的な行路を記してあることが多くて興味深く、作者の意図がこめられていることも多いのですが、この旅の目的地は歌枕や高名な名所などがある関西や九州などではなく東国。当時はまだまだ未開の地であり、それだけワキの修行の旅はある程度の危険も伴うかもしれない未知の世界への旅だったでしょうし、そのワキの不安が具体的な地名をほとんど登場させないこの「道行」に込められているようにも思いますし、この不安定さが、彼が後に不思議な里女と邂逅する心情的な伏線にもなっていると思います。

ワキ「急ぎ候程に。これははや三河の国に着きて候。又これなる沢の杜若。今を盛りと見えて候程に。立ち寄り眺めばやと思ひ候。

とは言ったものの、ワキ僧が行きついた先は沢に咲き乱れる見事な杜若の群落でした。これにより観客は季節が初夏であることを知り、同時に「道行」の不安から解消されることになります。
ここで大小鼓が「アシライ」という伴奏を始めるとワキは舞台の真ん中あたりに行って正面を向き杜若を愛でる言葉を謡います。観客には、実際には見えないけれどもワキ僧と自分たち観客との間に杜若の群生地があり、観客はその杜若の中に座っているような印象となります。

ワキ「げにや光陰とゞまらず春過ぎ夏も来て。草木心なしとは申せども。時を忘れぬ花の色。かほよ花とも申すやらん。あら美しの杜若やな。

「かほよ花」とは「顔貌花」という字を充てるらしく、女性の美貌に擬えて花を褒めた美称でしょう。そして杜若を愛でる僧の後ろから里の女が声をかけます。             (続く)

梅若研能会 6月公演

2024-05-03 14:03:50 | 能楽
来る6月9日、師家の月例会「梅若研能会6月公演」にて ぬえは能「杜若(かきつばた)」を勤めさせて頂きます。鬘物の能の中でも草木の精がシテの一群の曲がありますが、「杜若」は独特の味わいのある曲で、いわゆる人気曲として上演頻度も高い曲だと思います。しかしながら。。この曲は ぬえがこれまで勤めて参りましたどの曲よりも難解な曲ではないかと思います。

シテは可憐な花の精であり、技術的にもそれほど至難なところはない。。強いて言えばシテが謡う分量がかあり多いという問題はありますが。。、また深い悲しみやシテが負う業のような暗さもない。。表面的に見れば素直な作りのように見えますが、それは表面的なことであって、じつはこの能の内容はかなり奥深いものがあります。今回も例によって上演の参考となるよう舞台経過をご紹介しながら、そういったこの曲の難解さについて考察をしてみようと思います。

諸国一見の僧(ワキ)が都から東国行脚に向かう途次、三河の国八橋を訪れるとちょうど沢辺に杜若が花盛りなのを愛でます。すると里女(シテ)が現れ、この杜若は特別なのだと言、『伊勢物語』によって業平がこの花を詠んだ謂れを語ります。いつしか杜若を通じて懇意になった僧を里女は自分の庵を宿に貸すことになりますが、その夜女は高子の后の御衣と業平の冠を着け、自分は杜若の精であること、業平は歌舞の菩薩の化身であり衆生を救うためにこの世に現れたのだ、と語り、さらには『伊勢物語』に描かれた業平の恋物語も菩薩としての業平の行動なのだと語ります。やがてシテは業平その人となって舞を見せ、杜若の精も純白の明け方の世界の中に成仏の相を見せて消えてゆきます。

「杜若」のほか草木の精が主人公となる曲には「藤」「六浦」「遊行柳」「西行桜」「芭蕉」などがありますが、いずれも鬘能あるいはそれに準ずる曲で、また「芭蕉」以外はすべてシテが太鼓入りの序之舞を舞う特徴があります。植物の精であれば動作も緩やかに優雅であり、また女性、または閑寂な翁の姿がふさわしいと古人の作者が考えたのは自然なことであったでしょう。

が、上記のあらすじでもわかるように能「杜若」は業平が菩薩の化身、と主張するわけで、現代人が『伊勢物語』に読む王朝貴族の恋物語、という印象とはかなり違った視点を持って作られていることがわかります。総じて能の中で上掲の草木の精が主人公である曲は、なべて「草木国土悉皆成仏」という仏教の視点に支えられてはじめてシテが舞台に登場できるわけで、おのずから仏教の世界観の中で描かれることになります。それにしても「杜若」でシテが言う業平が菩薩の化身、という主張は現代から見ればかなり異質で、違和感は免れないでしょう。

じつはこの曲は中世の人々が『伊勢物語』を読む「ある種の常識」であったようです。ぬえはずっとこれは一部の中世の知識階級だけが持つ特別な読み方なのだと思っていたのですが、まさにこの「杜若」という能の存在そのものや、この能がずっと人気曲として演じ続けられてきた事実が、一部の特権階級だけにとどまらず、ある程度広範に人々に膾炙した中世の人々の「常識」であったのではないかという疑いを持っております。

かつて能「源氏供養」を勤めたとき、同じような大きな「違和感」。。シテ紫式部が烏帽子をかぶって舞う、という設定。。にの解釈に苦しみましたが、今回の「杜若」はさらにその上を行く難解さ。
すでに稽古の中でこれは消化していまして、現代人としてこの中世の作品の感覚を違和感なく上演する方策の目途は立てているのではありますが、やはりシテを舞う以上、作者をはじめとする中世の人々がどのような思いをこの曲に込めたのかは理解しておく必要があり、舞台の実演とは別にこのブログで微力ながらも考察してみようと思います。

どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 6月公演

【日時】 2024年6月9日(日・午後1時開演)
【会場】 観世能楽堂 <東京・銀座>

 仕舞 氷 室     伊藤 嘉章
    巻 絹 キリ  梅若 泰志
    山 姥 キリ  中村 政裕

能  頼 政(よりまさ)
前シテ(尉)/後シテ(源頼政) 青木 一郎
ワキ(旅僧)宝生常三/間狂言(里人)小梶直人
笛 槻宅聡/小鼓 久田舜一郎/大鼓 佃良勝
後見 中村 裕ほか/地謡 加藤眞悟ほか

狂言 千 鳥(ちどり)
     シテ(酒屋)   大藏彌太郎
     アド(太郎冠者) 大藏 章照
     アド(主人) 高木 謙成

   ~~~休憩 20分~~~

能  杜 若(かきつばた)
シテ(里女/杜若の精) ぬ え
ワキ(旅僧)大日方寛
笛 一噌隆之/小鼓 幸正昭/大鼓 佃良太郎/太鼓 小寺真佐人
後見 加藤眞悟ほか/地謡 伊藤嘉章ほか

                     (終演予定午後4時45分頃)



【入場料】 指定席A 7,000円 指定席B 6,000円 学生各席3,000円引き
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

※【能「頼政」「杜若どころ講座】
5月25日(土) 13:00~14:30
於:梅若万三郎家能舞台(代々木上原)
受講料:1,000円(研能会入場券購入者は無料)
講師:青木一郎/ぬえ

震災13年・石巻

2024-03-10 21:05:24 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ご無沙汰しております、ぬえです。

今年も東日本大震災の起こった日、3月11日が近づいてきました。去年が犠牲になった方の13回忌となる12年目で今年が13年目になります。

ぬえたち「能楽の心と癒やしプロジェクト」は震災3か月後から避難所や仮設住宅、仮設商店街、復興住宅などで能楽の慰問上演を続けて参り、上演回数は140回を超えておりますが、い仮設住宅も仮設商店街も解消された現在ではもっぱら3.11の日に奉納上演をさせて頂いております。

思えば3.11の日は追悼のためにある日で、追悼式以外のイベントには向いていない日と思いますが、幸いに現地の皆様には能楽に対して理解を頂くことができ、これまでの12年間では必ず3.11の追悼行事に参加を許して頂くことができました。

今年は宮城県石巻市にある「がんばろう!石巻」の大看板の前で初めて奉納上演をさせて頂きます。

「がんばろう!石巻」大看板は津波が襲った地区に震災直後に住民さんの手によって建てられたもので、ぬえたちは震災直後からずっとこの看板を見守り続けてきました。これまで各地の震災遺構の前で奉納上演をしてきたプロジェクトにとってもこの大看板の前での奉納は以前から考えていたのですが、報道などで広く知られていわば石巻の被災地を象徴するような物になってしまい、とくに3.11の日にはこの前では多くの行事が行われるので難しい様子でした。

実際、今回も石巻市民の友人に伺ったところ、やはりスケジュールがタイトで難しいのではないか、というご意見もあったのですが、以前この大看板と同じ地区の門脇町内会の追悼行事に参加させて頂いた関係からお願いしたところ、ご親切にも関係者の方から快く受け入れをお許し頂きました。

我々プロジェクトにとってもこの場所での奉納上演は「悲願」でしたので、関係者のご厚志に大変感謝しており、明日は心を込めて勤めさせて頂きます。

下の画像はプロジェクトの活動の原点となった石巻市立湊小学校。当時避難所だったこの場所で震災3か月後から活動をはじめ、何度となく泊まり込んで石巻市内の仮設住宅での慰問活動の拠点とさせて頂きました。もう13年も前のことになるのか。。





今回は発災時刻の14:46の直後、15:00頃に「かわまち交流センター」で、また16:30に「がんばろう!石巻」大看板前で奉納上演させて頂きます。

大看板の前での行事は以下の「がんばろう!石巻の会」様のサイトにて14:00からオンライン配信されるそうです。よろしければご覧戴ければありがたく存じます。

https://gannbarouishinomaki.jimdofree.com/

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その11)

2023-04-19 20:07:18 | 能楽
「弓流し」のエピソードが義経の豪胆さの証明となり、「平家物語」では「つまはじき」だったものが能では見事に家来の武士一同の「感涙」と昇華したところで作者の筆も一段と勢いを得て進んでいきます。

シテ「知者は惑はず。
地謡「勇者は恐れずの。彌武心の梓弓。敵には取り伝へじと。惜しむは名のため惜まぬは。一命なれば。身を捨てゝこそ後記にも。佳名を留むべき弓筆の跡なるべけれ。


もう完全に凱旋する勇者の言葉ですね。能「屋島」の作者はまさにこの文言を書きたいためにこの曲を作ったのだと ぬえは考えています。

名誉を尊びそのためには命を惜しまない、という武人の勇ましさは、前シテが予言したように暁近くになって義経を追ってきた修羅道に対しても対決する姿勢です。

シテ「また修羅道の鬨の声。地謡「矢叫びの音。震動せり。 翔(かけり)
シテ「今日の修羅の敵は誰そ。なに能登の守教経とや。あら物々しや手並みは知りぬ。思ひぞ出づる壇の浦の。
地謡「その船軍今ははや。その船軍今ははや。閻浮に帰る生死の。海山一同に。震動して。船よりは鬨の声。
シテ「陸には波の楯。地謡「月に白むは。シテ「剣の光。
地謡「潮に映るは。シテ「兜の。星の影。
地謡「水や空空ゆくもまた雲の波の。打ち合ひ刺し違ふる。船軍の懸引。浮き沈むとせし程に。春の夜の波より明けて。敵と見えしは群れゐる鴎。鬨の声と。聞えしは。浦風なりけり高松の浦風なりけり。高松の朝嵐とぞなりにける。


かくしてシテは僧に救済を求めるでもなく、暁とともに消え失せるだけで、義経は源平合戦のライバルである平教経と死後も永久に闘争を続けているわけですが、能「屋島」はもっぱら義経が合戦で奮戦した有様を生き生きと描写し、凱歌を上げる英雄としての義経像が描かれていて、それが作者の目的なのだと思われます。

ちょっと気になるのが能の舞台は讃岐の屋島であるのに、いつの間にか長門の「壇ノ浦」に言及されていることですが、じつは讃岐の屋島の近くにも同じように「壇ノ浦」という地名があるのです。現在は本土と陸続きになっている屋島は高松港の東側に、小豆島や倉敷がある北の方角に岬のように突き出しているのですが、その東側の合引川の河口に、公園の名称にわずかに往時の名前を残しています。

だから「屋島」のこの場面でシテが「思ひぞ出づる」と回想するのは屋島の壇ノ浦なのか、とも思いますが、ぬえは、やはりここは長門の壇ノ浦の源平の決戦の場だと考えたいと思います。理由としては単純に義経が教経と「船軍さ」を行ったのは屋島ではなく壇ノ浦だからということもあります。船軍、つまり海上戦が繰り広げられたのはこの屋島ではなく壇ノ浦の合戦なのです。

そして考えるのは、じつは屋島合戦は義経が本当に光り輝いていた人生の頂点だったのか、ということです。ここでの義経の勲功はじつは皆無で、屋島合戦で高名を馳せたのは扇の的を射た那須与一や錣引きの景清、戦死した佐藤継信らなのです。

いやむしろここでの義経は、奇襲攻撃に成功して結果的に平家を駆逐することは出来たものの、まず四国への船出で梶原景時と口論して同士討ちになりかかったり、教経の矢先に率先して進んで身代わりになった佐藤継信を死に追いやったり、あげくは海に乗り入れて弓を落とすミスを犯して危険を冒しながら取り返したり。。と、軍の大将としては軽率と言われても仕方のない行動が目立ちます。

となれば、やはり能の作者が最も光り輝いていた義経を描くのであれば、それはやはり「八艘飛び」など実際に彼の活躍した「壇ノ浦」での合戦であるべきだとも思えます。

が、それは無理かもしれません。「壇ノ浦」の合戦はもちろん源平の合戦の最終地点で決戦であったわけですが、ここでの出来事は見事に戦勝を飾った源氏の姿よりも、安徳天皇や二位尼、建礼門院や知盛など、追い詰められて次々に自ら命を絶ってゆく哀れな平家の末期がどうしてもクローズアップされてしまう合戦ですから。。

こうして能の作者は義経の活躍を舞台化する題材をあえて「屋島合戦」に求め、その最後に「思ひぞ出づる」と霊魂の記憶が屋島に留まらず遠く壇ノ浦にまで飛翔することで、この能の世界に広がりを持たせたのだと ぬえは考えています。

最後に、義経は平家を滅亡させた功績にも関わらず、その後は兄・頼朝に謀反を疑われ、自分が追い落とした平家のあとをたどるように西海に逃げることになり、あげくは東北・平泉で頼った藤原氏からも攻められて悲壮な最後を遂げたのは誰もが知っていることです。

能「屋島」はあえて義経の「その後」を描かず、彼の人生の頂点だけに焦点を当てているのも、これも誰もが気づくことでしょう。この作品が義経への能の作者からの限りないオマージュであることは論を待たないと思います。

で、もう一つだけ ぬえが考えていることがありまして。

この能の前シテは老人で、修羅能や脇能では典型的な化身像なのですが、よく考えてみると、義経は「老人になれなかった」のですよね。彼の享年は31歳。ぬえは、ここまで義経を英雄に描こうとした作者なのですから、能の舞台の上でだけでも、せめて平和に釣りをしながら老後を送る彼の姿を作ってあげたのかもしれないな、と考えております。

【この項 了】

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その10)

2023-04-18 18:49:07 | 能楽
この修羅物独特の型のあとは、これまた押し並べてシテ柱に廻り、そこから小回りしてワキに向かってヒラキ、というのが恒例の型なのですが、しばしばそのヒラキと同時にワキに向かって合掌することも。しかし「屋島」ではそこで地謡が謡う文句が「夢物語申すなり 夢物語申すなり」ですし、ちょっと合掌はしにくいところですね。そういえばこのシテはワキに向かって一度も合掌しないし、「跡弔ひて賜び給へ」というような救済を求める言葉も発しませんね。

地謡クリ「忘れぬものを閻浮の故郷に。去つて久しき年波の。夜の夢路に通ひ来て。修羅道の有様あらはすなり。
シテサシ「思ひぞ出づる昔の春。月も今宵に冴えかへり。
地謡「元の渚はこゝなれや。源平互ひに矢先を揃へ。船を組み駒を並べて打ち入れ/\足並みにくつばみを浸して攻め戦ふ。


ここでシテは大小前から中へ出て床几に掛かります。前シテと同じ場所で同じく軍語りをするので、おそらく「屋島」の作者は前シテと姿が重なることを意識して作っていると ぬえは感じています。

で、ここから例の屋島合戦の「弓流し」の場面になるのですが、この場面、「屋島」はほかの修羅能とも、いやそれどころかほかの能の曲とも異なる不思議な展開を遂げるのです。

シテ「その時何とかしたりけん。判官弓を取り落し。浪に揺られて流れしに。
地謡「その折しもは引く汐にて。遥かに遠く流れ行くを。
シテ「敵に弓を取られじと。駒を波間に泳がせて。敵船近くなりし程に。
地謡「敵はこれを見しよりも。船を寄せ熊手にかけて。すでに危ふく見え給ひしに。
シテ「されども熊手を切り払ひ。つひに弓を取り返し。元の渚に打ち上れば。


何が不思議なのかと申しますと、この部分を囃子方が打ち止めることです。わかりにくいかもしれませんが、じつは地謡が謡っているときに囃子が打っていないのは本当に例が少ないのです。それほど地謡はお囃子方と仲良し、というか切っても切れない縁で結ばれているのです。

これは地謡がシテの心情や状況の説明を8名前後の大人数で迫力をこめて謡うので、その音量には囃子との共演がふさわしいですし何より効果的。いやむしろ、シテとワキなどほかの登場人物との問答の中で話題が盛り上がりを見せたときに その話題を地謡が引き取って、役者ひとりでは到底出しえない声量で心情描写を行うことによって劇としての能がより立体的に見えるので、能ではそのような方法論を取っていることが多いのだと思います。囃子方も場面の世界を構築するのに絶大な力を持っていますし、その演奏の多くの部分が登場人物の感情を表現しているので、同じ方法論によって地謡とともに強力に能のクライマックスの場面を作っていくことになります。

また囃子の演奏は異界から来た人物の神秘性をよく表現できるので、幽霊にせよ鬼神にせよ、後シテが本性を現した際にはずっと演奏が続く場合が多いのです。こういう役柄のシテの場合は、ワキの待謡から後シテの登場を経て、最後までずっと囃子が打ちっぱなし、という事もよくあって、お囃子方は大変な労力を必要とします。

ところが異界から来た後シテの演技の途中で、囃子が打ち止める場合が、ごく少数ながらあるのです。まさしく「屋島」がそのひとつなわけですが、ほかには「実盛」「杜若」「求塚」などがあります。これらで囃子が打ち止めるのはほぼシテの独白部分で、悲しい場面のシテの語りを引き立てるためだと思われます。
「実盛」がその好例で、同じくシテの語りがありながら勇壮な内容の「頼政」や「忠度」では囃子は打ち止めません。「杜若」はシテとワキの問答部分ですが、これは中入がなく物着でシテの姿が変身するので前シテとの間に間隙がなく、ある種前シテの延長のように作られているからでしょう。唯一? 後シテの激しい語りで囃子が打ち止めるのが「求塚」ですが、ぬえが書生時代に小鼓の修行に通った先生から頂いた手付には囃子の手組が書かれていて、「本来は打つのだがシテ謡を活かすために最近は打たない」と注記がされていました。「求塚」は現代の復曲なので、伝統的に演じ続けられてきた曲とはまた同一に考えられない事情もあるでしょう。

しかしながらここに挙げた曲でも地謡が謡うところは必ず囃子が入るので、「屋島」はかなり例外的な作例と言えると思います(思いつく限りでは唯一の例ですが、ぬえが気づかないだけで他にも例があるかも)。

なぜ「屋島」のこの部分に囃子が入らないのかは分かりませんが、「屋島」が小書「弓流」「素働」の演出で演じられる場合と関係するのかもしれません。いわく「弓流」の時は「その時何とかしたりけん。判官弓を取り落し」以降も囃子が打ち続けてイロエになり、シテは立ち上がって舞台の前方で囃子の特殊な手組に合わせて扇を落とし、義経が弓を取り落とした様子を再現します。

小書が「弓流」だけのときはこのあと囃子は打ち止めますが「素働」がつくとさらに打ち続けて二度目のイロエになり、大小鼓は流シになってシテが取り落とした弓を取り上げる様を演じたり、ぬえの師家では「されども熊手を切り払ひ」と太刀を抜いて敵の熊手を切り払う所作をしたり、と写実的な型もあります。

小書がつかない「屋島」を考えるとき、この小書との関係性を考慮する必要はあるでしょう。小書というものは「~之伝」とかの名称がつくなど、一見 古い伝承を伝えているように見えますが、実際には江戸期に工夫された演出を保全した小書も多いのです。「屋島」の「弓流」「素働」も後世の工夫かもしれませんが、案外こちらが本来の演出であって、難易度が高いこの演技を小書として別扱いにし、この部分を演じないでやや難易度を下げた上演の形が小書なしのスタンダードな演出とし、特殊な手組を打つ必要がなくなったためにこの部分の囃子そのものを割愛した、ということも考えられるかもしれません。

さて舞台ではこのあと囃子が再び打ちはじめてクセから翔、キリへと続いてゆきます。

地謡「その時兼房申すやう。口惜しの御振舞やな。渡辺にて景時が申しゝも。これにてこそ候へ。たとひ千金を延べたる御弓なりとも。御命には代へ給ふべきかと。涙を流し申しければ。判官これを聞しめし。いやとよ弓を惜しむにあらず。
クセ「義経源平に。弓矢を取つて私なし。然れども。佳名は未だ半ばならず。さればこの弓を。敵に取られ義経は。小兵なりと言はれんは。無念の次第なるべし。よしそれ故に討たれんは。力なし義経が。運の極めと思ふべし。さらずは敵に渡さじとて波に引かるゝ弓取の。名は末代にあらずやと。語り給へば兼房さてその外の。人までも皆感涙を流しけり。


ここも問題のところで。。
そもそも「兼房」って誰でしょう。義経の腹心の部下であるかのようにここでは描かれていますが、じつは「平家物語」に「兼房」なる人物は登場しないのです。

「平家物語」では弓流しの場面で義経を諫めたのは「おとな共」「兵ども」で、おとな共は富倉徳次郎氏の「全注釈」では「老武者たち」と解説されています。多くの部下が諫めたのであり、「平家物語」の本によっては「つまはじきをして」と明らかに不快感をあらわにして非難していますね。

つまり「平家物語」では弓流しは猪突猛進型の義経の性格の一端を見せている場面で、彼のこの性格はほかの場面でもしばしば描かれているところです。能「屋島」の作者はそれをなじる部下の言葉を義経の身を案じた忠臣の言葉にすり替えたわけで、それは「渡辺にて景時が申しゝも。これにてこそ候へ」と対比するためでしょう。梶原景時は石橋山の合戦で敗走する頼朝を救け、後にその腹心となった人物で、能「箙」のシテ源太景季の父でもあります。「渡辺にて景時が申しゝ」というのはこの屋島合戦のために暴風の中に船出しようとした義経と口論となった有名な「逆櫓」の論争のことで、このとき景時は義経を「猪武者」と罵倒してあわや同士討ちになる寸前までいったとのこと。

この事件を念頭に置いて能「屋島」では義経の身を心配する部下に慕われていた義経像を描こうとしたのでしょうが、それにしても兼房とは。。

兼房と聞けば能楽では「二人静」に出てくる「十郎権頭兼房」がすぐに連想されるわけですが、これは「義経記」だけに登場する人物で、義経の北の方の幼少時からの乳母(守り役)であり、義経が平泉で自害して果たときはこの北の方と若君・姫君を刺殺して自分も館に火を放って敵将の弟を小脇にはさんで炎に飛び入って壮絶な最後を遂げました。

ところがこの十郎権頭兼房が義経とはじめて出会ったのは平家滅亡後、兄の頼朝に追われて都を落ちる際に北の方に従ったときで、当然 屋島合戦には参加していません。能「屋島」では「義経記」に描かれた十郎権頭兼房の壮絶な最期を義経に従う忠臣の代表と見て、彼をこの場面に登場させ、梶原景時と対比させることによって家来に慕われていた義経像を作り上げようとしたのかもしれません。

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その9)

2023-04-17 18:12:23 | 能楽
後シテの登場に演奏される囃子は前シテと同じ「一声」です。能ではあらゆる面で重複を避ける傾向が強いのですが、それに反するようにシテの出が前後とも「一声」というのは例が多いと思います。それほど「一声」は登場囃子として柔軟であることを意味し、「屋島」でも化身であり老体の前シテの登場の場合と霊体ながら勇ましい名将の後シテのそれとは、同じ「一声」でもかなり印象が違うと感じられると思います。

後シテ一声「落花枝に帰らず。破鏡再び照らさず。然れどもなほ妄執の瞋恚とて。鬼神魂魄の境界に帰り。我とこの身を苦しめて。修羅の巷に寄り来る波の。浅からざりし。業因かな。

登場した後シテ。。源義経の扮装は、いかにも勇猛な武人といった感じ。
面は「平太」を黒垂、梨打烏帽子、白鉢巻の上にかけ、紅入りの厚板の着付けに半切を穿き、その上には右肩を脱いで袷法被を着、勝修羅扇を持ち太刀を佩いています。

鎧兜の代わりに能装束でそれを表すのですが、たしかに右肩を脱ぎ白鉢巻をつけた姿は不思議に鎧を連想させますね。古人の工夫には本当に驚かされることが多いのですが、この修羅能の出で立ちはその中でも秀逸だと思います。さらに言えば、シテが敗死する運命の平家の公達の場合は扮装は「屋島」と同一でありながら、面を化粧して鉄漿をつけた「十六」や「中将」に替え、装束も強い法被ではなく薄衣の長絹を着、半切の代わりに白大口を着るなど面装束の種類や素材を替えるだけで見事に貴族化して文化的でか弱く脆弱な、およそ戦場に似つかわしくない平家の儚さを表現することにも成功している。先人の知恵には敬服します。

ところで「屋島」のほかにこれと同じ面装束を着る曲に「田村」「箙」の2曲があり、この3番を平家の負け修羅に対して勝ち修羅と称します。面「平太」はまさに日焼けした坂東の荒くれ武者といった感じですが、3番の勝ち修羅の主人公の中では「屋島」のシテの源義経だけが皇族出身で臣籍降下した源氏の子孫であり、ちょっと赤黒い「平太」の面にはやや違和感を感じます。

そこで能面の中にはあえて「白平太」と呼ばれて顔色が白い平太の面があるのです。表情は「平太」のまま、顔色だけで気品を感じます。これは専ら「屋島」に似つかわしい面だと思います。

ワキ「不思議やなはや暁にもなるやらんと。思ふ寝覚の枕より。甲冑を帯し見え給ふは。もし判官にてましますか。
シテ詞「われ義経の幽霊なるが。瞋恚に引かるゝ妄執にて。なほ西海の浪に漂ひ。生死の海に沈淪せり。
ワキ「愚かやな心からこそ生死の。海とも見ゆれ真如の月の。
シテ「春の夜なれど曇りなき。心も澄める今宵の空。
ワキ「昔を今に思ひ出づる。
シテ「船と陸との合戦の道。
ワキ「所からとて。シテ「忘れえぬ。
地謡「武士の。屋島に射るや槻弓の。屋島に射るや槻弓の。元の身ながら又こゝに。弓箭の道は迷はぬに。迷ひけるぞや。生死の。海山を離れやらで。帰る屋島の恨めしや。とにかくに執心の。残りの海の深き夜に。夢物語申すなり夢物語申すなり。


登場したシテは、生前に合戦で闘争した罪によって成仏できずさまよっている、と語ります。修羅能の定まりで、シテは地獄の修羅道に堕ちて永久に戦闘を続けなければならないと描かれるので、「屋島」のこのシテの言動もそれと同じ意味で、これに応答したワキは、人の心の持ちようによって見方も変わるのだ、と説き煩悩を捨てて成仏することを勧めます。

。。と言いたいところですが、はたしてその通りでしょうか。
たしかに「屋島」のシテは「落花枝に帰らず。破鏡再び照らさず」と自分の生前の行為を後悔したり、その結果として「我とこの身を苦しめて」「生死の海に沈淪せり」と苦しむ様子を吐露してはいるのですが、どうもその苦しみは表面的なものに思えます。

というのもこの場面ではシテは「なほ西海の浪に漂ひ。生死の海に沈淪せり」と述べてはいますが、ワキがその煩悩をたしなめて姿を刻々と変えても元の満月に戻ることで仏法の教えの象徴となる月を話題に持ち出すと、シテは「春の夜なれど曇りなき。心も澄める今宵の空」と応じながらも、すぐにその春の景観から「昔を今に思ひ出づる。船と陸との合戦の道。」と屋島合戦の思い出へと連想を転じていて、それは地謡が引き取って謡い続ける中でより詳細な物語と変わっていくのです。

たしかにシテが合戦の体験を語ることはワキ僧に対して懺悔して仏の救済を頼むという意味があり、「屋島」でも屋島合戦の昔を回想することを「恨めしい」と言っているのですが、「屋島」ではその後詳細に語られる合戦譚を語るシテの姿は懺悔する、というよりもむしろ自分の勲功を誇らしげに語るように見えます。

これが「屋島」の最大の特徴で、ほかの修羅能と一線を画している部分だと思います。そもそも修羅能に限らず広く いわゆる「複式夢幻能」と呼ばれる能では、化身として現れた前シテはワキ僧と出会うことで自分の救済を求めて、後半では実際の姿で現れて懺悔のために過去の出来事を語る、ということになっているのですが、「屋島」ではどうもワキ僧に救済を期待している様子が希薄なのです。

そういえばワキ僧も間狂言との問答の中で「ありがたき御経を読誦し、重ねて奇特を見うずるにて候」と発言していますが、待謡の中に「御経を読誦し」に当たる文句は見当たらないですね。謡曲には間狂言との問答は記載されておらず、現在でも開演前にワキと間狂言は問答のやり取りを必ず確認しておられますから、あるいはワキと間狂言との問答は古来固定されていたものではない可能性があり、そうだとすれば「屋島」の作者は意図的にワキに「御経を読誦」する行為をさせなかったのかもしれません。

なお余談ですが、地謡が謡う「武士の。。」以下の場面ではシテは左袖を出してワキの前まで進み、そこで袖を返すと左足を引き半身になって右手をワキの方へ出して決める型があります。これは修羅物の能の後シテ。。というか「経正」のように一場しかない能もありますから源平の武将の霊が本性で現れた場合、というのが正しいでしょうが、その場面で必ずシテが行う型です(女武者であり、小袖の装束を着ている「巴」ではさすがにこの型はありませんが)。ちょっと面白い約束事ですね。

義経への限りないオマージュ…『屋島』(その8)

2023-04-15 17:27:45 | 能楽
ロンギの中で「修羅の時になるべし その時は我が名や名のらん」とワキに向いて決めたシテは「たとひ名のらずとも名のるとも」と正へ向いて立ち上がり、シテ柱に行くと「夢ばし覚まし給ふなよ」とワキへ向いて念を押すようにヒラキ、返シで右へトリ橋掛りに向かい、幕へ中入します。

ついで屋島の浦人(間狂言)が登場。ワキがシテに宿を許された塩屋の本当の持ち主です。

間「かやうに候者は 讃岐の国屋島の浦に住まひする者にて候。この間 塩屋を見舞ひ申さず候間、今日は塩屋を見舞ひ、浜をならさせ塩を焼かばやと存ずる。」進みながらシカジカ
「いや、あら不思議や。塩屋の戸が開いてある。見れば人の出入りしたる跡もあり」ワキを見つけて
「いや、これなるお僧は何とて人の塩屋へ案内なしに入りては御座候ぞ」
ワキ「これは主に借りて候」
間「いやいや、左様にては候まじ。主はそれがしにて候。総じてこの所の大法にて。人の塩屋をば我が存ぜず、わが塩屋をば人に知らせぬ大法にて候が。我らはいまだ貸し申さぬに、さてはお僧は妄語ばし仰せ候か」
ワキ「いやいや妄語は申さず候。それにつき尋ねたき事の候。まづ近う御入り候へ」
間「心得申し候」
(ワキ方と狂言方の流儀によりセリフに多少の異同があります。以下同じ)

こうしてワキの所望により屋島合戦の物語をする間狂言。いわゆる複式夢幻能の常套の演出で、この語りのあとワキにより前シテとの遭遇を知った間狂言はその老人こそ義経の霊であろう、と推察し、ワキも同意して義経の改めての登場を観客とともに期待することになります。

間「まづ我らの承りたるはかくの如くにて候が、只今のお尋ね不審に存じ候」
ワキ「懇ろに御物語候ものかな。尋ね申すも余の儀にあらず、御身以前に老人と若き男の主の体にて来たられ候程に すなはち宿を借り泊りて候。源平両家の合戦の様体懇ろに語り、よしつねの世の夢心覚まさで待てと言ひもあへず、そのまま姿を見失うて候よ」
間「これは言語道断、奇特なる事を承り候ものかな。それは疑ふ所もなく義経の御亡心にて御座あらうずると存じ候。さやうに思し召さば、しばらくこの所に御逗留なされ、重ねて奇特を御覧あれかしと存じ候」
ワキ「しばらく逗留致し、ありがたき御経を読誦し、重ねて奇特を見うずるにて候」
間「御逗留にて候らはば。大法を破ってこの塩屋を貸し申さうずるにて候」
ワキ「頼み候べし」間「心得申し候」


ほかの曲にも同じ状況でほぼ同文のワキと間狂言とのやりとりがありますが、シテに宿を借りたが そのシテは本性をほのめかして姿を消し、のちに実際の小屋の持ち主が登場することによってシテが現実の世界の人間ではないことが判明する、というのは自然で効果的な演出ではないかと思います。

あ、シテは自分の物でもない塩屋を「さらばお宿を貸し申さん」などと わがもの顔に貸したのね。まあ、屋島合戦の際も義経は自分の軍勢を大勢に見せるために高松の民家を焼き払ったりしているから、他人の小屋を勝手に貸すくらいのことは当たり前か。

さて間狂言が語る肝心の屋島合戦の内容についてなのですが、前述のように屋島合戦には「扇の的」「錣引き」「弓流し」という3つの有名なエピソードがあるのですが、このうち「弓流し」は後シテが語ることになるためか間狂言では語られず、間狂言は通常は「錣引き」を語ります(和泉流では替えとして「継信の語り」として佐藤継信の戦死の有様の語があるようです)。

そして残されたのが「扇の的」ですが、これは皆さんもよくご存じと思われる「那須語」あるいは「奈須與市語」と呼ばれる特別な替えの語りがあります。これは通常の語りとは違い間狂言が仕方話として型を伴い、それも与一と義経、さらに扇の的を射る兵として与一を推薦した後藤兵衛実基の三者を激しく、目まぐるしく演じ分けるという大変なもので、狂言方の重い習いになっています。能「屋島」に小書「弓流」「素働」がついて重厚な演出となった場合は、間狂言もバランスを取ってこの替えの語りとなることがほぼ常態となっているように思います。

さて間狂言が退くとワキとワキツレによる「待謡」となり、やがて「一声」の囃子に乗って後シテの源義経が登場します。

ワキ「不思議や今の老人の。その名を尋ねし答へにも。よし常の世の夢心。覚まさで待てと聞えつる。
待謡「声も更け行く浦風の。声も更け行く浦風の。松が根枕そばだてゝ。思ひを延ぶる苔筵。重ねて夢を待ちゐたり 重ねて夢を待ちゐたり


義経への限りないオマージュ…『屋島』(その7)

2023-04-12 01:08:44 | 能楽
シテの戦語りの最初に義経が名乗る場面がありますが、それに続いてツレが「言葉戦いこと終わり」と、大将の名乗りと同じく「言葉」による争いがあった事が語られます。

源平合戦当時の戦乱は現代のような指揮官の命令のもとでの秩序だった作戦による行動ではなくて乱戦でした。誰が一番に手柄を立てるかを競ったのです。そんな合戦でもいきなり乱戦から始まるのではなく、一応の「作法」というものがありました。

それがこの「矢合わせ」や「言葉戦い」で、矢合わせは敵味方の大将同士が合戦の前に「鏑矢(かぶらや)」を射あうもので宣戦布告のような感じです。「鏑矢」とは穴の開いた木製の矢じりがついた矢で殺傷能力はなく、矢が飛ぶ際に矢じりの穴に空気が通る事で長い音を発します。戦闘に使われる「征矢」(そや=とがり矢)とは違いまさに儀礼的に使われる矢ですが、なんと「扇の的」の那須与一はこの鏑矢で扇を射た、と「平家物語」に描かれています。重心が前重りになる上 飛距離も稼げない鏑矢を、まさに失敗が許されない場面でどうして使ったのか。。 と思いますが、「平家物語」によれば「扇の的」のエピソードは初日の合戦が一段落して一時休戦になった場面でのこと。すなわち戦闘ではなく翌日の合戦の再開に向けた儀礼的な意味合いが強いわけで、与一もそれに応えたのでしょう。

一方「言葉戦い」は両軍が接近していざ開戦という場面で相手の戦意をくじくために自軍の正統性を主張したり攻めてくる相手の不当性をなじる、などを行うものですが、それぞれ名乗った相手の出自の卑しさを罵りあったり、「矢合わせ」と比べるとちょっと低レベルな感じですが、相手の士気をくじき、自軍の勢いを高めるために有効であるならば実戦的ではありますね。

さてシテの戦語りが過去の思い出となり、シテは再びワキの前に着座すると、それまでシテの様子を見ていたワキは抱いてきた不審をシテに問います。

ロンギ地謡「不思議なりとよ海士人の。あまり委しき物語。その名を名のり給へや。
シテ「我が名を何と夕波の。引くや夜汐も朝倉や。木の丸殿にあらばこそ名のりをしても行かまし。
地「げにや言葉を聞くからに。その名ゆかしき老人の。
シテ「昔を語る小忌衣。
地「頃しも今は。シテ「春の夜の。
地「潮の落つる暁ならば修羅の時になるべしその時は。我が名や名のらんたとひ名のらずとも名のるとも。よし常の浮世の夢ばし覚まし給ふなよ夢ばし覚まし給ふなよ。


「木の丸殿にあらばこそ名のりをしても行かまし」はちょっと難解ですね。本歌は「新古今集」の天智天皇の「朝倉や木の丸殿にわが居れば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」に依ります。「木の丸殿」は皮のついたままの丸木で作った粗末な御殿で、これは天智天皇が中大兄皇子の時代に母の斉明天皇に従って九州に下ったときに詠んだ歌なのですが、能「屋島」ではこの御殿の警備のために出入りの人は氏名を名乗らなければならなかった、という後半の部分を使っています。「行かまし」の「まし」は古文の中でもいろいろな使われ方があって難しい品詞ですが、ここでは「反実仮想」の用法で「木の丸殿であったならば、名のって行くのだろうが(そういう由来もないので名乗らない)」という感じです。掛詞が重層的に使われているので難解さに拍車が掛かりますが、丁寧に訳せばこういう感じ。

「我が名を何と言うべきだろうか。この夕方に引いてゆく夜の汐の浅みを見るとそれに連想される朝倉の、新古今の歌に例えてみるならば、その主人公の木の丸殿であるならば名乗りもしようが。。(そうでないから名乗らない)」

「昔を語る小忌衣」も難解で、小忌衣は祭事に装束の上に着重ねる白地の浄衣ですが、ここではその前の「その名ゆかしき老人の」の「老い」と その後の「頃しも今は」の「頃」の音をつなげている程度で「老いの身が着る衣」程度の軽い意味ですが、屋島合戦の語りからただ者ではないはずとの確信を得てワキ僧から「その名ゆかしき老人」と言われたシテが、あえて名乗らないながらその実像は神に近い崇高な存在であることを想像させる効果があるのではないかと思います。

「潮の落つる暁ならば修羅の時になるべし」。。「落つる」は引き潮のことで、そんな暁ならば修羅道がこの現世に再現されるであろう、そのときは(いやでも自分の素性が分かるはずだから)名乗ろう、という意味に解しましたが、残念ながら ぬえは(引き潮の)暁に必ず修羅道が現世に再現される、という根拠を知りません。ほかの修羅能では同じように現世に立ち戻ってきたシテがしばしの懐旧に安んじていたが、やがて地獄から修羅道からの追っ手が現れて宿命的な闘争の世界に立ち戻ってしまう、と描かれているので、ここは単純に、このまま安寧な時間が過ぎるのではなく暁の頃には修羅道が立ち現れることになるだろう、と経験的に予言しているに過ぎないのかもしれません。

「たとひ名のらずとも名のるとも。よし常の浮世の夢ばし覚まし給ふなよ」のところ、師匠からは「よし」常の」と分けて謡うように習ったところで、「よし常の」、の言葉の中に「義経」という言葉が隠されていて、シテが自分の本名をほのめかすのですね。「よし」は「もしも」の意味ですから「もしもあなたが私と出会ったこの体験が永遠に続くと思って安閑として過ごしているこの浮世のままだと思うならば、そのまま夢の中にいておきなさい(その夢の中に私は現れるから)」という意味。