ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設8周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

無色の能…『六浦』(その10)…番外編「称名寺探訪記」

2016-11-17 00:34:07 | 能楽
前述しましたが ぬえは今年の6月に六浦の称名寺に参詣して参りました。能の舞台となった名所旧跡は関東には数えるほどしかなく、東京からすぐに行けるのは『隅田川』とかこの『六浦』とか。。あ、『放下僧』は『六浦』の近所なんですよね。

そんなわけで ぬえも自分が能を勤める前に その舞台となった場所に行って感慨にふける、なんてことは ほとんどした事がありません。ああ、京都の能楽師がうらやましいなー

で『六浦』の舞台となった称名寺ですが、神奈川県横浜市金沢区金沢町にあります。京急本線の「金沢文庫駅」か金沢シーサイドラインの「海の公園柴口駅」が最寄り駅になりますが、今回は車で行ったので駅からどれくらいの距離かわかんにゃい。。 歩くとちょっとありそうです。
また京急本線も金沢シーサイドラインも乗ったことがほとんどなく、どの駅から連絡してるのかさえ よく知らないです。地理的には「海の公園」「八景島シーパラダイス」の近く。あ、この方がわかりやすいや。

で、その称名寺ですが、住宅街の中にあって最初の山門に到るまでの道がなかなかわかりづらかったです。



ところが いざ山門をくぐってみると、広大な境内。。というよりもう付近がすべて境内で、裏山の一帯は「称名寺市民の森」という公園のようになっていました。



山門には北条家の三ツ鱗の紋あり。

そして第二の山門~仁王門は閉鎖されていたので ぐるっと生け垣に沿って右側に廻り込むと、いきなり本堂の前に出ました。



まずは広大な池にびっくり。能『六浦』に「東の山里の人も通わぬ古寺の庭」というのとはかけ離れた大伽藍です。そして称名寺という寺号といい、どう見ても浄土庭園の池といい、これは浄土系のお寺なのかと思いきや、ここは真言律宗の寺でした(あとでわかったことですが、創建は不明ながら金沢北条氏の持仏堂が起源とされ、その持仏堂は「阿弥陀堂」と呼ばれていたそうですから、やはり当初は浄土系のお寺だったのかも)。



反橋が架けられた広大な池、仁王門から入ればこの反橋を越えてたどりつく壮大な本堂、その傍らには茅葺きの禅宗様の釈迦堂、鐘楼。







そして池の前に問題の青葉の楓がありました。



これ、楓?





そこにたまたま竹箒など清掃の道具を満載したリアカーを引いて作務衣姿のご老人が現れました。たぶんご住職でしょう。そこで ぬえはご老人に楓について尋ねてみました。

うん、ここは能であれば楓の来歴を延々と語り、じつは私は楓の木を守る神、とか言って消え失せるのでしょうが。

「あ、楓? これは市が植えたんだよ。もう何代目かになるけどね」

んー。。大変 風流なお答えでした。。
青葉の楓が紅葉しちゃ困るから、紅葉しない品種を植えたのかなあ。

ところで有名な「金沢文庫」はこの称名寺に隣接してあります。というか称名寺の寺宝を納めているのが金沢文庫で、その起源は古く、鎌倉時代に金沢北条氏が収集した書籍・典籍類を納めた私設文庫に端を発します。鎌倉幕府とともに北条氏が滅びると文庫は称名寺に移管されましたが、多くの収蔵品は徳川家康らの有力者に持ち出されてしまい、現在の金沢文庫は神奈川県立の博物館として昭和初期に復興されたものですが、称名寺所蔵の多くの国宝の典籍類が納められています。


                                   【この項 了】
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無色の能…『六浦』(その9)

2016-11-16 22:01:49 | 能楽
シテ「秋の夜の。千夜を一夜に。重ねても。 と上扇 地謡「言葉残りて。鳥や鳴かまし。 と 中左右、打込、ヒラキ

こちらも舞のあとの定型の型です。これは『伊勢物語』の第22段に出てくる歌(小異はあり)ですね。「鳥や」の「や」は通常は疑問形の係助詞として使われますが、ここは推量の助動詞「まし」の補助的な意味で間投助詞的に使われているのでしょう。「鳥が鳴いてしまうだろう」という意味で、全体的な意味は「秋の長い夜を千夜集めてこの一夜にしても、(その美しさは)言葉にはとても尽くせず、時を告げる鶏が鳴いて暁になってしまうだろう」という感じです。

シテ「八声の鳥も。数々に。地謡「八声の鳥も。数々に。鐘も聞ゆる。 と右ウケ面伏せ聞き シテ「明方の空の。 と脇座の方へ向き雲ノ扇 地謡「所は六浦の浦風山風。 とシテ柱へ行き乍扇左手に持ち 吹きしをり吹きしをり とハネ扇にて正先へ出 散るもみぢ葉の。 と右ウケ乍扇折り返しヒラキ 月に照り添ひてからくれなゐの庭の面。 と大小前よりサシて正へ出右ウケヒラキ乍見廻し 明けなば恥かし。 とワキヘ向き下居面伏せ 暇申して。帰る山路に行くかと思へば木の間の月の。 と角から脇座へ行きシテ柱へサシツメ 行くかと思へば木の間の月の。 とカザシ扇 かげろふ姿と。なりにけり。 とヒラキ、右ウケ左袖返しトメ拍子

「八声の鳥」は暁に数を尽くして何度も鳴く鳥、という意味で、やはり鶏のこと。
「吹きしをり」は「吹きなびいて」という程度の意味ですが、「しをる」には植物が萎れる、という意味も含ませてあって、紅葉が散る様子を表しているのだと思います。

この場面、型は本当に忙しいのです。派手な型がわざわざつけられていますね。このあたりは『芭蕉』にも大変よく似ている。。閑寂な世界を描く場面でありながら、型は派手で忙しい。。それはすなわち、バタバタとあわてて舞うことにならず、静寂の雰囲気を持続させて舞うべき、という作者の演者への挑戦と ぬえは捉えています。

さて、この終盤の場面に至って ぬえは思うのですが、ここでは シテは「紅葉した木々の葉」を愛でていますね。「散るもみぢ葉の月に照り添ひて 唐紅の庭の面」。。歌を詠んでもらった栄誉に紅葉を止めてしまった楓の心境の変化は何に基づいているのでしょう。

思うに、これは やはり仏の教えに導かれて成仏の道に赴くシテの心の投影ではないかと思います。考えてみれば藤原為相に歌を詠まれた栄誉はどこまで行っても現世のもので、いま僧の弔いを受けて「草木国土悉皆成仏」の教えを受けたシテには、もっと高次元に目指すものがあるのです。ここに至って、為相によって受けた栄誉を誇りとし、それに執着することなく紅葉を止めた楓は、それがまだ現世への執着の範囲を出ないことに気づいたのではなかろうかと思います。もとより二度と紅葉しなくなった楓の高潔さは、そのまま僧の教えによって、さらに高い世界を目指すことに無理なく移行することができたはずです。

ここからは ぬえの妄想ですが、ここに至って楓は、二度と紅葉することを止めた自分の思いにさえ執着を感じたのではないか、と感じています。つまり。。ぬえはここでシテはほかの楓と同様に、ついに紅葉したのではないかと思っています。それが自然の摂理に逆らわない自然な生き方ですし、現世への執着を捨てる行為でもあるから。。

そうして最後の場面では楓の精は僧に暇を告げて去ります。「帰る山路に行くかと思へば木の間の月のかげろふ姿となりにけり」。。山道に行くかと思って見ていると、その姿は木の間から見え隠れする残月の光の中に薄れて消えてしまった。能の文句はそのように書かれていますけれども、ぬえには、今は紅葉した楓の精が、ほかの多くの紅葉の中に紛れて行く姿が想像されます。

そうして、その姿は月の光の中に薄れてゆく。。どうも彼女の姿は地上からふわっと浮き上がって、木々の梢の中に紛れて行ったようにも読める文章です。うがって考えれば成仏を成し遂げて浄土への道へ飛翔していった、とも捉えられるでしょうが、まあ、そこまで飛躍して考えなくても、現世からさらに高い世界へ導かれてゆく姿、という印象は充分に舞台から感じられると思います。

うん、名曲ですね。最初は「能に習熟した作者があまり力を入れずに作った」と思った ぬえでしたが、シテを中年女性に配する渋さ。。これ、やはり『芭蕉』が念頭にあるのだと感じますが。。が、それを敢えてコンパクトに作り、じつは秋の紅葉もちゃんと愛でている。いわば作者の自然賛歌でもありましょうし、また仏の教えを難解にならずに自然体で受け止めて舞台面に美的に再現した、仏への賛歌の曲でもある、と ぬえは考えています。

今回の上演にあたっては、装束を途中で替えるわけにはいかないけれども、最後の場面で紅葉する楓、そして現世を離れて月の光の中に姿が薄れてゆくイメージを舞台に出せるように少しく工夫も加えてみました。成功すればよいのですが。。
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無色の能…『六浦』(その8)

2016-11-15 01:33:44 | 能楽
シテ「さるにても。東の奥の山里に。 と上扇
地謡「あからさまなる都人の。
 と大左右 あはれも深き言の葉の露の情に引かれつつ。 と正先へ打込 姿をまみえ数々に。 とシテ柱へ行き正面へ向きサシ 言葉を交はす値遇の縁。 とカザシ扇 深き御法を授けつゝ。仏果を得しめ給へや。 と大小前にて左右、ワキへ向き
シテ「更け行く月の。夜遊をなし。 と正へ向き謡い 地謡「色なき袖をや。返さまし。 と扇をたたみながらシテ柱へ行き これより序ノ舞

上端から先の型もごく簡単な型の連続で、型を追うだけなら初心者の稽古の課題曲になるほどですね。もちろん、中年の女性の姿をした草木の精の役を表現するのは簡単なことではないと思いますが。

クリから始まってクセの前半までは四季折々の花々。。梅・桜・卯の花がそれぞれに咲き誇る美しさを讃えていて、言うなれば自然の賛歌のような文言ですが、さてここに至って、シテがワキ僧の前に姿を現した理由がようやく明らかになります。

「あからさま」は「短い時間」「かりそめ」を表す語で、「都人」は為相のこと。たまたまここを訪れた為相と、先立って紅葉した楓の木との偶然の出会いがあり、そこで詠まれた風情のある歌の縁によって、いまここであなた(僧)と出会い、言葉を交わすことが出来た。どうか深遠な仏の教えを授け、成仏の道へ導いてください、というような意味です。

『六浦』の楓の精は、みずから山に先立って紅葉したおかげで為相の感動を呼び、歌を詠まれるという栄誉を得ました。そうしてその後は、それを誇るでもなく老子の教えに従って紅葉を止めてしまいます。が、歌に詠まれた見事な紅葉を毎年見せるのではなくても、明らかに楓は歌を詠まれたことを誇りにしていますね。

そのような、いわば成功者は能のシテとしては珍しく、この世に未練や恨みを残していない分、僧に回向を頼むために現れたり、恨みを晴らしたいという執着を持って登場する動機がない、つまり戯曲として成立しにくい性格のシテであろうと思います。

ところが、能『六浦』は、楓と人間との出会いを、為相だけでなく僧と結びつけたところに作者の新しい視点があると思います。

すなわち、為相の歌によって現世の栄誉を手に入れた楓ではありましたが、和歌の機縁によって、楓はいま再び僧との出会いに遇うことになりました。これは現世の喜びを超えて仏の教えに触れ、成仏という永遠性のある衆生の最大の望みを得ることになったのです。

ここまで読んで、ようやく観客も気づくことになります。なぜワキが日蓮あるいは日蓮宗の僧として描かれているのか。なぜ為相のことを聞いたワキが彼と同じように楓に歌を手向けたのか。。

ワキが後シテに語りかける文言の中にも「草木国土悉皆成仏の。この妙文を疑ひ給はで。なほなほ昔を語り給へ。」と言っている如く、日蓮宗が奉戴する法華経による「山川草木悉皆成仏」の思想によってシテの楓の精は成仏の機会を得るのであり、そのきっかけとなる楓と僧の機縁こそ、為相の歌に触発されてワキが歌を手向けたことによるのです。日蓮宗の僧らしきワキの設定といい、その僧が歌を手向ける破格の展開といい、じつは作者によって綿密に計算された仕掛けだったのです。(注)

そのうえこのときワキが詠んだ歌「古り果つるこの一本の跡を見て。袖の時雨ぞ山に先だつ」(下掛では初句が「朽ち残る」)ですが、これは古歌ではなく『六浦』の作者によって新作された歌。『六浦』の作者は ぬえが最初に想像していた「能に習熟した作者があまり力を入れずに書いた」のではなくて、ある種の強い思い入れをもってこの作品を書いたのだということがここで はっきりすると思います。

となれば、このクセのあとに舞われる序之舞は、僧の読経によって法味を得た楓の精の喜びの舞であり、また同時に僧への報謝の舞なのですね。

う~ん、しかしながら『六浦』では、どうも喜んで軽やかに舞っている、という感じには舞いにくい序之舞ではありますが。。

これは想像にしか過ぎませんが、ぬえはこの序之舞はシテが感謝を表したり、成仏の喜びを表現している、というよりは、法悦の境地にシテが恍惚として遊んでいる、という感じではないのかと思っています。

戯曲のうえでは、ワキに「なほなほ昔を語り給へ」と乞われたシテは、四季折々の自然の中で咲き誇る草花の美しさを愛でながら、さて秋の季節に話が及んだとき、為相の歌が機縁になって いまみずからが仏の教えに触れることを喜び。。さてここで眼目といえるシテの舞を入れるのが能の常套手段であり、その通りに『六浦』も書かれています。

が、仏果を得たシテが「喜びの舞」を軽やかに舞うのは、まず無紅のシテの装束からして無理があります。

そこで能の作者が用意したのが舞に導入する 次のような詞章です。

シテ「更け行く月の。夜遊をなし。地謡「色なき袖をや。返さまし。

もう ぬえはこの一文の美しさに本当に感激しておりまして。。

「色なき袖をや。返さまし」。。「や」が疑問の係助詞で「まし」は特殊な助動詞で、決断できない様子を表して「返すべきだろうか。。」と言っています。

「色なき袖」。。美しい言葉ですね。能の常套とすれば色(紅)が入っていない装束、という意味になるのですが、それは想定しつつ、無色透明な境地にシテが到達し、恐る恐る舞の一歩を踏み出したということをこの文言は暗示させる。。作者の非凡が見事に表現された一句だと思います。

(注)
もっとも、能では「草木国土悉皆成仏」という文言が多用され、これが『法華経』に書かれた釈迦の教えだということが常識のように描かれていますが、実際には『法華経』には「草木国土悉皆成仏」などという記載はありません。一番近いのは「一切衆生 悉有仏性」という、これは『涅槃経』の文言なのだそうですが、「仏性」と「成仏」じゃエライ違いです。どうやら「草木国土悉皆成仏」という言葉は観念として日本で独自に発展していった思想のようですが、そのうえその文言が能では常識のように描かれながら実際には『法華経』にない、となると。。意外に往古の先人たちもすべからく仏典に長じていた、という訳ではないようで、その点 現代人ともそれほど遠くない。。なんだか親近感を持ってしまいました。
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無色の能…『六浦』(その7)

2016-11-14 09:15:05 | 能楽
間狂言の物語を聞いて前に会った女は楓の精であることを確信したワキは読経して重ねての奇跡を待ちます。

ワキ/ワキツレ「所から。心に叶ふ称名の。心に叶ふ称名の。御法の声も松風もはや更け過ぐる秋の夜の。月澄み渡る庭の面。寝られんものか面白や。寝られんものか面白や。

ふうむ。。「待謡」と呼ばれる、これまた定型のワキの謡ですが、ぬえは この場面でも大変違和感を感じるのですが。。
その違和感は後シテの存在意義に関わる重要な問題だと思いますし、この違和感は、本当のことを言わせてもらえば、ぬえは前シテの場面からも感じていることで、つまり能全体に通底するものなのです。
が、そのことについては後に詳しく書きたいと思います。まずは舞台経過の続きを。。

「待謡」を受けて笛が鋭く「ヒシギ」と呼ばれる高音を奏でて、大小鼓が「一声」と呼ばれる登場音楽を奏し、やがて後シテが登場し、舞台に入って謡い出します。

後シテの装束は、面は前と同じ「深井」を掛け、無紅の長絹、大口に無紅鬘扇を持つ、という姿。紅葉しない楓の精を中年の女性の姿で現すのが一番の特徴で、すぐさま思うのは同じ趣向の能『芭蕉』との相似ですね。作品の成立の前後はわかりませんが、能『六浦』が『芭蕉』を意識して作られた、あるいはこの二つの能の作者に関係があるのは容易に想像でき、その可能性は高いのではないかと思います。

後シテ「あらありがたの御弔ひやな。妙なる値遇の縁に引かれて。二度此処に来りたり。夢ばし覚まし給ふなよ。 とワキヘ向きヒラキ
ワキ「不思議やな月澄み渡る庭の面に。ありつる女人とおぼしくて。影の如くに見え給ふぞや。草木国土悉皆成仏の。この妙文を疑ひ給はで。なほなほ昔を語り給へ。
シテ「それ四季をりをりの草木。おのれおのれの時を得て。地謡「花葉様々のその姿を。心なしとは誰か言ふ。
 と大小前へ行き正面へ向き

ああ、違和感がありすぎです。

まず、このシテはなぜ登場したのでしょう。そもそも前シテからして、なぜ僧に声を掛けたのか。
自分の身に悩みや恨みのような感情があって、僧に弔いを求めているのでしょうか? いや、この楓の木はかつてひとつ自分だけが山の紅葉に先立って色づいたことを藤原為相に愛でられて歌を詠んでもらう栄誉を得ました。それどころか、そこから達観して老子の言葉に従い、以後紅葉を止めてしまった、という、いうなれば誇りのようなものを持っている木ですから それもないでしょう。

ここで気になるのが「妙なる値遇の縁に引かれて。二度此処に来りたり」というシテの言葉です。前シテも自分が現れた理由を「お僧尊くまします故に。只今現れ来りたり」と まことにあっさりと表現していますが、この場面でも登場の理由としては同じように やや曖昧な印象を持ちますが、それでも「お僧尊くまします故」というよりは「妙なる値遇の縁に引かれて」という後シテの言葉の方が、前シテのそれよりは一歩踏み込んだ表現ではあろうと思います。

ぬえはこの『六浦』という曲の中で脚本の構想がうまく整合されていない箇所があまりに多すぎることに疑問を抱いていることは前述しましたが、一方 能『六浦』の作者が能の台本を書く、あるいは実際の能の上演に精通している人であったろう、とも考えています。この矛盾はどこから来るものなのか。。ぬえが感じる台本の疑問や不整合は大体このあたりまでに出尽くしていると思うので、改めて列挙しておくと。。

・ワキが日蓮、あるいは日蓮宗の僧と考えられるのに訪れた寺が「称名寺」(しかも真言律宗)●
・鎌倉に土地勘がない◆
・まして称名寺の伽藍規模を知らない(前シテが「人も通わぬ古寺」という)◆
・ワキが前シテの素性を尋ねず、シテも化身としての身分を言わない▲
・ワキが紅葉しない楓について事情を聞く前に楓の木に歌を詠む異例の展開●
・地謡がはじめて登場するのは中入の場面で、それもたった4行だけ▲
・待謡でワキが称名(念仏)を行う◆
・待謡でワキが「寝られんものか面白や」と言うのに後シテは「夢ばし覚まし給ふなよ」と言う◆
・ワキに「なほなほ昔を語り給へ」と促された後シテは、楓が紅葉しなくなった自分の昔語りではなく、まったく違う物語を語る●

ぬえは、あるいは、『六浦』の作者には失礼だけれども、この曲は能に習熟した作者があまり力を入れずに作ったのか、とも最初は思ったのですが。。

が、曲を読み進めていくうちに、作者の意図も読めてきました。
たしかに。。鎌倉に土地勘がなく、微妙に能全体の整合性を壊す箇所(上記◆の箇所)もないわけではないですが、能を冗漫にしないために敢えて能の定型の段取りを短縮しようとした箇所(同▲)があり、まして、一見疑問を抱かせる展開ながら、じつは能『六浦』の重要なテーマに欠かせない、計算された場面(同●)もあります。この作者の意図。。能『六浦』のテーマが、これ以後の場面で徐々に明らかになってゆきます。

シテ「まづ青陽の春の始め。地謡「色香妙なる梅が枝の。かつ咲きそめて諸人の。心や春になりぬらん。
シテ「又は桜の花盛り。地謡「たゞ雲とのみ三吉野の。千本の花に若くはなし。
 と扇を開きユウケン扇
地謡「月日経て。移れば変る眺めかな。桜は散りし庭の面に。 と右ウケ 咲きつゞく卯の花の。垣根や雪に紛ふらん。 と正面に向き左足拍子 時うつり夏暮れ秋もなかばになりぬれば。 と角トリ 空定めなき村時雨。 と右上を見上げ 昨日は薄きもみぢ葉も。露時雨もる山は。 と中にてサシ込ヒラキ 下葉残らぬ色とかや。 と左右打込 扇開き

クセからシテは舞い始めますが、これも簡素な型の連続ですね。

注意しなければいけないのは、ワキに促された「昔を語り給へ」という言葉とは違って、このクセ(の前半)では四季折々の草花の盛りを春・夏・秋と順を追って数え上げ、自然の賛歌のような文言であることです。これが「上端」と呼ばれる、長大なクセの文言のちょうど中央あたりに位置して、シテが謡う部分から様相が一変してゆきます。
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無色の能…『六浦』(その6)

2016-11-08 17:09:40 | 能楽
間狂言が語る文言から能『六浦』の成立時期の話に、少々話題が飛躍しすぎた感もありますが、それにはちょっとした理由があります。というのも、この能が成立した時代背景、よりも、ぬえは この能がどこで誰によって作られたか、が気になっていまして。

能の作者はハッキリと観阿弥・世阿弥のように作者がわかっている曲もありますが、じつは多くは作者不明で、現行曲の中にも もうひとつ台本が練られていないように感じる曲もあったりします。その点、前述したように ぬえは能『六浦』の作者は能の台本を書くことに精通している人物だと思っていて、あるいは能を実際に上演していた能役者であろうと考えています。もっとも観阿弥や世阿弥をはじめ、現在判明している多くの能の作者はそのまま能役者であることの方が一般的ではありますが。。

また一方、『六浦』の舞台が都から遠く離れた相模国であることも、ぬえの興味を大きく引きつけています。

京都や近畿ではない、地方が舞台となっている能は少なからずあるのですが、『安宅』や『小袖曽我』のように、有名な歴史的事件があって、その事件を能に作る場合には現地を舞台に設定するのは至極当然なのでそれは例外として、越中国が舞台となっている能『藤』などのように、どうもその土地に関係した人物が作った、言うなれば「ご当地ソング」として作られた能もあります。

同じ草木の精が主人公の能『六浦』は『藤』と同類で相模国の人が作った能なのかもしれない、と当初 ぬえは漠然と考えていたのですが、どうやらそれはなさそうです。

これが端的にわかるのがワキの「道行」の文章で、『藤』ではこんな感じ。

ワキ/ワキツレ「雪消ゆる。白山風も長閑にて。白山風も長閑にて。日影長江の里も過ぎ。さゝぬ刀奈美の関越えて。青葉に見ゆる紅葉川。そなたとばかり白雲の。氷見の江行けば名に聞きし。多枯の浦にも着きにけり。多枯の浦にも着きにけり。

「白山」「長江の里」「刀奈美の関」「紅葉川」「氷見の江」。。歌枕などで都の人にも知られている地名もあるかもしれませんが、現実的には現地の人でなければワキの旅行の行程をイメージすることはできないでしょう。

ところが『六浦』の「道行」はこんな文章です。

ワキ/ワキツレ「逢坂の。関の杉村過ぎがてに。関の杉村過ぎがてに。行方も遠き湖の。舟路を渡り山を越え。幾夜な夜なの草枕。明け行く空も星月夜。鎌倉山を越え過ぎて。六浦の里に着きにけり。六浦の里に着きにけり。

「星月夜」は鎌倉を導く枕詞のような語で、「鎌倉山」は万葉集にも登場する当時からの名所。これを除けば「逢坂の関」これに続く「湖」は当然 琵琶湖のことで、どちらも都の人には親しんでいる地名です。つまり『六浦』の「道行」には琵琶湖~鎌倉山までの間の景物がそっくり脱落してしまっていることになる。。すなわち能『六浦』の作者は関東の地理には詳しくない人物であり、この能は『藤』のような相模国の「ご当地ソング」ではなく、~多くの能と同じように~都や南都など当時の中央で活躍した能役者かその周辺で作られた能の可能性が高い、ということです。

ではなぜ そのような都の近くで活躍していたであろう作者が、わざわざ地理もわからない東国の相模国を舞台に選んで『六浦』を書いたのでしょうか。

そこがこの能の最も面白いところで、この作者の興味深い人物像に ぬえは思いを馳せています。もっとも、まだ ぬえには作者の姿がハッキリと見えているわけではなく、また資料の乏しいこの能で作者像まで迫ることはかなり難しいと思われますが。。

が、たとえばワキを日蓮、あるいは日蓮宗の僧であると思わせるように設定してあること、能の定型をよく知っていて、あえて(?)そこから脱却しようとして書かれたかのような台本、紅葉しない楓を若い女性ではなく中年として描く特殊性、そして都から遠く離れた相模国を舞台に設定するエキゾチシズム。

これだけでもこの作者の非凡がよく伝わってくると思いますが、もうひとつ つけ加えるなら前述の「道行」のあとに続くワキの独白の一文ですかね。

ワキ「千里の行も一歩より起るとかや。遥々と思ひ候へども。日を重ねて急ぎ候程に。これははや相模の国六浦の里に着きて候。

ここに現れる「千里の行も一歩より起る」という言葉は『老子』に見える言葉で、

九層之臺 起於累土、千里之行 始於足下。(64章)

(九層の台は累土に起こり、千里の行は足下に始まる。

これ、まさしく『六浦』のテーマともいえる文言「功成り名遂げて身退くは。これ天の道なりといふ古き言葉」も同じ老子の第9章から採られた言葉なのです。

富貴而驕 自遺其咎。功遂身退 天之道。
(富貴にして驕るは自ら其の咎を遺す。功遂げ身退くは天の道なり。)

老子の熱烈な支持者でもある能『六浦』の作者。伝書や記録類にその名前はいくつか記載されているものの、信頼性に欠けて もうひとつ確証が得られないこの作者に ぬえの興味も尽きません。

が。まずは引き続いて能『六浦』の舞台経過の説明に戻りたいと思います。
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無色の能…『六浦』(その5)

2016-11-07 01:07:30 | 能楽
シテが「行方も知らずなりにけり」とシテ柱で正面に向いてヒラキをすると、その姿は消え失せた体になります。静かに橋掛リを歩んで中入するシテの横顔は、能独特の風情ですね。このとき笛方の流儀により「送り笛」といって笛の独奏でシテが橋掛リを歩むのを彩ってくれることがあります。

シテが中入すると、それ以前に目立たぬように登場して橋掛リ一之松の裏欄干前の「狂言座」に控えていた間狂言がおももむろに立ち上がります。間狂言は六浦の里の里人の役で、舞台に入るとワキを見つけた体で言葉を交わし、ワキに促されるままに称名寺の不思議な楓について 所の言い伝えを物語ります。

間「かやうに候者は。六浦の里に住まひする者にて候。今日は志す日に当たりて候間。称名寺へ参らばやと存ずる。まことに称名寺は。隠れなき御寺にてあるに。近くに住みながら。再々参らぬは。近頃疎かなることにて候。いや、これに見慣れ申さぬお僧の御座候が。何処より何方へ御通りなされ候ひて。この所には休らうて御座候ぞ。
ワキ「これは都方より出でたる僧にて候。御身はこのあたりの人にて渡り候か
間狂言「なかなかこの辺りの者にて候
ワキ「左様に候はば。まず近う御入り候へ。尋ねたき事の候
間狂言「心得申して候。さて御尋ねありたきとは。如何やうなる御用にて候ぞ
ワキ「思ひもひも寄らぬ申し事にて候へども。山々の紅葉。今を盛りと見えて候に。これなる楓に限り。未だ紅葉せず。たゞ夏木立の如くに候。それにつき様々子細ありげに候。ご存知においては語って御聞かせ候へ
間狂言「これは思いも寄らぬ事をお尋ねなされ候ものかな。我らもこの所には住み候へども。左様の事詳しくは存ぜず候さりながら。凡そ承り及びたる通り。物語申さうずるにて候。
ワキ「近頃にて候
間狂言「さる程に。鎌倉の御事は天下に隠れましまさねば申すに及ばず。それにつきこのあたりを六浦の金沢と申して。此処もとにては名所にて候。すなはちこの寺は金沢の称名寺と申し候。またこれなる御庭の楓は隠れもなき名木にて候。その子細は。いにしへ鎌倉の中納言為相の卿と申す御方。この所へ御下りなされ候。その折節はいまだ秋も半ばにて。山々の楓ひと葉も紅葉仕らず。青葉ばかりなるに。これなる御庭の楓は色美しく照り添ひ。今を盛りと紅葉仕りて候間。為相の卿不審に思し召し。御歌を詠ませられたると申す。その御歌は。如何にしてこのひともとに時雨けん。山に先立つ庭のもみぢ葉と。かやうに詠ませられければ。まことに草木心なしとは申せども。また心も御座ありけるか。その次の年より。この木に限りひと葉も紅葉仕らず。年々青葉ばかりにて暮れ申す程に。見る人毎に不審をなさるゝ御事にて候。これと申すもさすがに為相の卿の御歌に詠み給ひて候へば。この後紅葉仕りても詮なしと存じ。年々青葉ばかりにて暮らすと見えたり。それを如何にと申すに。功成り名遂げて身退くはこれ天の道と申す事の候へば。あっぱれこの言葉を以て紅葉致さぬ物にてあらうずると。仰せらるゝ御方も御座候。これは御尤もなる御事にて候。
間狂言「まず我らの承りたるはかくの如くにて候が。ただいまのお尋ね不審に存じ候。
ワキ「懇ろに御物語候ものかな。尋ね申すも余の儀にあらず御身以前に。何処ともなく女性一人来たられ。楓の謂はれ懇ろに語り。まことは楓の精なりと言ひもあへず。そのまゝ姿を見失ふて候よ
間狂言「これは言語道断。不思議なることを仰せ候ものかな。それは疑う所もなく。これなる楓の精にて御座あらうずると存じ候。それを如何にと申すに。草木心なしとは申せども。四季折々の時を違へず。花咲き実成り候へば。心の御座あるは必定にて候。左様に思し召さば。暫くこのところに御逗留なされ。ありがたき御経をも御読誦あって。重ねて奇特をご覧あれかしと存じ候。
ワキ「近頃不思議なる事にて候ほどに。暫く逗留申し。ありがたき御経を読誦し。重ねて奇特を見やうずるにて候
間狂言「御用の事候はば。重ねて仰せ候へ。
ワキ「頼み候べし
間狂言「心得申して候


まことに。。能の定型にきっちりと嵌ったような やりとりですね。

間狂言が物語る内容には考察すべき問題が多く、その能が作られたよりもずっと後世に間狂言の文言だけ新作されたと思われる場合もあり、また能の台本と密接に結びついていて、能の成立時から間狂言の文言や動作が想定されているのが明らかなものもあり。

能『六浦』の間狂言は「語り間」と呼ばれる形式です。間狂言としては最も多用される演出だと思いますが、これは前シテが後シテの化身として登場し、後場でその本性を現す。。いわゆる「複式夢幻能」と呼ばれる能の場合に多く使われる間狂言の形式です。

登場した前シテを里の者と思いこんだワキが、シテの言動や、ふいに消え失せてしまったことに不審を抱いたところに、折良く現れた現実の所の住民が間狂言です。彼と問答をする中で、ワキは前シテがじつは人間ではなく幽霊や草木の精など超自然的な存在であったのだと確信し、その者のためにワキが弔いをする「待謡」などの場面に繋げ、これが後シテの登場の直接の動機となる、という定型的な演出効果があります。観客にとっては後場の前にシテの素性や、かつてシテをめぐって起きた事件を再確認することになり、シテはその間に楽屋で扮装を改めるという作業ができるわけです。

が、この「語り間」が物語る文言はシテ方の演技とはとは直接の関係が深くないため、能が作られた当初の文言からの改変が容易に行われる可能性があります。

語り間の中には、『鵺』や『船橋』などに前シテが語らなかったシテに関する謂われを物語るものがあり、言うなれば前シテが物語った物語をさらに補強して、後シテが登場する前に、その性格を明確にする語り間もあります。こういう場合は能が作られた当初から間狂言の文言も規定されて、それがそのまま伝わっている可能性が高いと思われますが、上掲の『六浦』の語り間の文言のように、前シテが語った内容をほとんどそのまま なぞっている場合もあって、この場合は間狂言の文言の成立と能の成立とが時期を同じくしているのかどうかの判定は難しくなります。

結論から申せば『六浦』の間の文言が能の成立と同時期に作られたものか、後世に改変されたのかは、詞章だけを見てはわからない、ということになってしまいます。さらに言えば、『六浦』という能が持つ独特の舞台設定が、間狂言の文言の成立時期の判定を より難しくしている面もありますが。
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無色の能…『六浦』(その4)

2016-11-02 01:17:05 | 能楽の心と癒しプロジェクト

為相の歌「いかにしてこの一本にしぐれけん」にも、ワキの歌「袖の時雨ぞ山に先だつ」にも「時雨」が登場しますが、これは 古人は紅葉というものは時雨によって染められる、と考えていたからで、それも楓の木の下の方の葉から上に向かって順に染まっていくと考えられていました。

能『紅葉狩』に「下紅葉、夜の間の露や染めつらん」と見えるのがその証左の好例です。この場合紅葉を染めるのは時雨でなく露ですが、いずれ湿気が紅葉を染めると考えているわけです。

シテ「げに御不審は御理。前の詠歌に預かりし時。この木心に思ふやう。かゝる東の山里の。人も通はぬ古寺の庭に。われ先立ちて紅葉せずは。いかで妙なる御詠歌にも預かるべき。功成り名遂げて身退くは。これ天の道なりといふ古き言葉を深く信じ。今に紅葉をとゞめつつ。ただ常磐木の如くなり。

前に能『六浦』ではワキがシテの素性を尋ねない、と書きましたが、その場面で書き忘れていたのですが、 ぬえにはちょっと気になる表現がありまして、それはこの場面でも現れるのです。それはシテが言う「今に紅葉をとゞめ」る、という表現なのですが、これは山の木々に先立って色づいた楓が、その故に為相の感動を呼び、自分のために歌を詠んでもらって以来、かえって紅葉することを止めてしまった、という意味。こちらの場面ではそこから一歩踏み込んで、シテは「功成り名遂げては身退くはこれ天の道」という言葉に従って、楓はなお美しい紅葉を誇るのではなく、ほかの木々に譲って自分は紅葉することを止めてしまった、と楓の心をワキに説明しています。

が、ここの「今に紅葉をとゞめ」る、という言葉は、この能を見る観客に「楓が紅葉を止めた」と聞こえるだろうか? という素朴な疑問が ぬえにはあるのです。「とゞめ」る、という語は、単純に考えて「現在に至るまで紅葉の状態でいる」と聞こえるのが普通ではないか、と思えるのですよね。

たしかに古語では「とゞむ」には「止める」という意味合いが強く、「その状態のまま」には「保つ」という語があるわけですが、「止める」には「止む」という語もあり、あえて「中止」を意味するために「とゞむ」を選んだ作者の意図が、もうひとつ ぬえには分からないのです。現代人だからそう思うのかなあ。

こうした いくつかの点から言って、ぬえには『六浦』の作者は、相当に能を作ることに習熟している人なのではないかな、と思えています。能の台本に精通しているからこそ、定型のシテとワキの問答を冗漫と感じて つい省いたのじゃないかしら。

ワキ「これは不思議の御事かな。この木の心をかほどまで。知ろし召したる御身はさて。如何なる人にてましますぞ。
シテ「今は何をかつゝむべき。我はこの木の精なるが。お僧尊くまします故に。只今現れ来りたり。今宵は此処に旅居して。夜もすがら御法を説き給はゞ。重ねて姿を見え申さんと。
地謡「夕べの空も冷ましく。この古寺の庭の面。霧の籬の露深き。千草の花をかき分けて。行方も知らずなりにけり。行方も知らずなりにけり。


こうしてシテは中入するのですが、これまた破格です。ほとんどの能では前シテにある程度の比重を置いて、後シテの登場の必然を演出し、また情趣を深めるために ひとつふたつの地謡が謡う箇所があるものですが、能『六浦』では初めての地謡の活躍場面がこの中入の箇所のみ。それも たった数句で終わりです。まことにあっさりとしていると言うか。。

そのうえ、シテが自分の本性を明かすのに、彼女が現れた理由というのが「お僧尊くまします故に」と、非常にあっさりとしていますね。聖職者だからそれを尊敬して現れたのでしょうか。

。。こう書くと、ぬえは『六浦』の作者が怠慢で、まるで能を作るのに手抜きをしている、また舌足らずで文言を精査したり使う語句を選ぶことに無頓着と言っているように思われるでしょうが、じつは反対で、ぬえはじつは『六浦』の作者は かなり考え抜いてこの能を作っていると感じています。
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無色の能…『六浦』(その3)

2016-10-30 09:46:32 | 能楽
「鎌倉の中納言為相の卿」とは鎌倉時代の公卿・藤原為相(冷泉為相 1263-1328)のことで、為相は定家の孫で冷泉家の祖、また『十六夜日記』の作者として有名な阿仏尼(1222?-1283)の子です。『十六夜日記』は所領紛争のための訴訟を起こすために鎌倉へ下った作者の紀行日記ですが、全体は短いものながら多くの歌を収めていて、日記というよりは私歌集と言ってよいほど。そしてこの『十六夜日記』で描かれた鎌倉旅行の目的である幕府への訴訟こそが我が子為相のために行われたものでした。

阿仏尼は僧籍にありながら俗世との交わりを続け、為相の父・藤原為家の側室となりました。為家の没後、その所領の相続について正妻の子・為氏(御子左家の当主1222-1286)と争いになり、阿仏尼は我が子・為相のために鎌倉幕府に訴えるために、50歳代にして鎌倉への旅行を決意したのでした。当時為相は10歳代で、訴訟相手の為氏は為相よりもずっと年上。。阿仏尼と同年代の人ですから、未熟な為相の助力をするために老齢にむち打って鎌倉訴訟を決意したのでしょう。

為相も母を訪ねてしばしば鎌倉を訪れていて、歌人として阿仏尼とともに鎌倉歌壇で重要な役割を持っていたようです。鎌倉での訴訟は為相側の勝訴に終わりましたが、母・阿仏尼の晩年はよくわからず、勝訴を見届けないまま没したのだとか。ちなみにこの相続争いが元になって御子左家は分裂し、嫡流の二条家・京極家・冷泉家に分かれることになりました。為相は現在に続く冷泉家の祖となりましたが、この為相は晩年は鎌倉に住してそこで没しています。もっとも能『六浦』で為相は「鎌倉の中納言」と呼ばれてはいますが、彼が中納言になったのはこの鎌倉訴訟よりずっと後のことです。

能『六浦』の中心をなす歌「いかにしてこの一本にしぐれけん。山に先だつ庭のもみぢ葉」は為相の私家集『藤谷集』に納められていて、この歌集は為相が鎌倉・藤谷(ふじがやつ=「やつ」は「谷」の鎌倉での独特の呼び方)に住んだことから名付けられたもの。鎌倉在住時代の為相が詠んだ歌であれば、なるほど鎌倉からほど近い金沢の六浦へ紅葉狩に出かけた為相が称名寺に立ち寄って詠んだという可能性は高そうですが、実際には『藤谷集』にはそのような詞書きはないそうで、称名寺の楓を詠んだ歌かどうかはわからないようです。

ではなぜ能『六浦』の舞台が称名寺とされているのかが問題になります。結論から言ってしまえばその理由はわからない、という事になってしまうのですが、称名寺を実際に訪れた ぬえは、いろいろ思うところはあります。

称名寺は住宅街の中に忽然と現れた、という印象がぴったりの大伽藍で、まさかこんなところに、と思わせる広大な境内を持ち、その中心をなすのはこれまた大きな池でした。

称名寺という山号といい、浄土庭園をすぐに想起させる池を中心にした伽藍配置といい、やはり浄土宗の寺院かと思えば、なんとこの寺は真言律宗でした。この寺を創建した北條実時(御成敗式目で有名な三代執権の北條泰時の甥1224-1276)の時代からそうだったようで、鎌倉で起こった新仏教と源平争乱での荒廃から復興の道を歩んできた南都仏教との勢力関係をよく知りませんが、真言律といえば忍性が鎌倉に開いた極楽寺がありますから、忍性の影響によって最初から真言律の寺として建立されたのでしょう。

すいません ぬえも不勉強で、浄土系の寺でなくても「称名寺」と称することは普通なのか、あるいは「称名」という言葉は必ずしも阿弥陀仏を唱えることに限らないのか、よくわからないのです。さらには称名寺の庭園に浄土庭園の印象を持つ ぬえが間違っているのか、いや、むしろ ぬえは称名寺の庭園に、寝殿造りの邸宅を寺に改装したのか、とさえ思ったのですが、鎌倉時代に? 鎌倉の地に寝殿造り? それはあり得ないですね。。 そうして能『六浦』では、こんな称名寺に日蓮宗を思わせる僧が訪れる。。じつは『六浦』は、ナゾだらけの能なのです。

ともあれ、舞台に話を戻して、シテは「山々の紅葉未だなりしに。この木一本に限り紅葉色深く類ひなかりしかば。為相の卿。。(中略)。。と詠じ給ひしより。今に紅葉をとゞめて候。」と説明していて、これが能『六浦』の異色なテーマとなっています。

このあとがまた異色で、

ワキ「面白の御詠歌やな。われ数ならぬ身なれども。手向のために斯くばかり。古り果つるこの一本の跡を見て。袖の時雨ぞ山に先だつ。
シテ「あらありがたの御手向やな。いよいよこの木の面目にてこそ候へ。
とシテは舞台に入りワキへ向き
ワキ「さてさて前に為相の卿の御詠歌より。今に紅葉をとゞめたる。謂はれは如何なる事やらん。


このワキは自分のことは「さん候これは都より始めてこの所一見の者にて候が」とシテに自己紹介していますが、シテの素性を尋ねませんね。他にも例があるとは思いますが、初対面同士のシテとワキであってみれば、ワキが「御身は如何なる人にて候ぞ」とシテに尋ね、シテも「これはこの辺りに住まひする者にて候が。。」などと自分の身分を(実際には化身である本性は隠して)名乗ることが多いと思うのです。能『六浦』ではそのやりとりが省かれているばかりか、ワキはシテから聞いた為相の歌に興味を示して、みずからもこの不思議な楓に対して歌を手向ける、という異色の構成になっています。

これについて、ぬえは観世流大成版謡本の前付けにも紹介されている尭恵(1430-?)の『北国紀行』にある

同じ比六浦金澤をみるに。亂山かさなりて嶋となり。靑嶂そばだちて海をかくす。神靈絶妙の勝地なり。金澤にいたりて稱名寺といへる律の寺あり。むかし爲相卿。「いかにして此一もとに時雨けむ山に先たつ庭の紅葉葉」と侍りしより後は。此木靑はかは玄冬まで侍るよし聞ゆる楓樹くち殘て佛殿の軒に侍り。
  さきたゝは此一もとも殘らしとかたみの時雨靑葉にそふる


との関連を連想します。文明18年(1486)2月の記で、その時代は為相より200年後の室町時代のことではありますが、このように為相が称名寺の楓を歌に詠んだことはこの頃には人口に膾炙していたわけで、成立の過程も作者ももうひとつはっきりしない能『六浦』ではありますが、この能の作者が青葉の楓への興味を抱いてこの能の成立に到ったとき、ワキ僧から楓に対して改めて自作の歌を手向ける、という趣向と『北国紀行』との関連は一考する余地はあるのではないかと思います。
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無色の能…『六浦』(その2)

2016-10-29 00:46:54 | 能楽の心と癒しプロジェクト
相模国六浦に到着したワキ一行は、この能の舞台となる称名寺に出かけることになります。

「着きぜりふ」などと呼ばれている部分で、「道行」である地点に到着したワキが、そのことを見所に宣言し、この地で休らうとか、何か不審な物を見つけて確かめようとするとか、次のアクションを起こし、多くはそれがキッカケとなってシテが登場する場面に繋がるところです。

能『六浦』ではこのところ、ワキのお流儀により大きく演出が異なるところです。このブログでは便宜的に ぬえが属する観世流の謡本に載る詞章を掲載していますが、これは かつて観世座の座付き流儀であった福王流の詞章に ほぼ依っているようです(小異はあることがありますが)。

この詞章によれば

ワキ「千里の行も一歩より起るとかや。遥々と思ひ候へども。日を重ねて急ぎ候程に。これははや相模の国六浦の里に着きて候。この渡りをして安房の清澄へ参らうずるにて候。又あれに由ありげなる寺の候を人に問へば。六浦の称名寺とかや申し候程に。立ち寄り一見せばやと思ひ候。とワキは舞台中央に行き、ワキツレは地謡の前に着座して
ワキ「なうなう御覧候へ。山々の紅葉今を盛りと見えて。さながら錦を晒せる如くにて候。都にもかやうの紅葉の候べきか。又これなる本堂の庭に楓の候が。木立余の木に勝れ。ただ夏木立の如くにて一葉も紅葉せず候。いかさま謂はれのなき事は候まじ。人来りて候はゞ尋ねばやと思ひ候。

となっています。ところがこの部分、東京では最も勢力のある下掛宝生流ワキ方の詞章では次のようになっています。

ワキ「急ぎ候ほどに。これははや相模の国。六浦の称名寺とかや申し候。山々の紅葉今を盛りと見えて候に。これなる庭の楓ひと葉も紅葉せず。ただ夏木立の如くに候。謂われのなきことは候まじ。人に尋ねばやと思い候。
ワキツレ「尤もにて候。


いずれの場合も このあとワキは(下掛宝生流ではワキツレも)脇座の方へ歩み行き、その頃シテも幕を上げてワキを呼び止めることになります。「呼び掛け」と呼ばれるシテの登場の典型のひとつです。

この詞章を読み比べてみると、下掛宝生流の詞章はやや あっさりしているのに対して、やはり全体の詞章も長く、ワキが一人で舞台の中央に立って青葉のままの楓を発見する福王流の演出の方が少しく情趣という面では優れているかもしれませんね。

ところで、ぬえはじつは、この『六浦』という能の詞章には たくさんの不審を持っているのですが、この「着きぜりふ」にもそれを思います。これは福王流の詞章の場合だけですが、これによればワキは「これははや相模の国六浦の里に着きて候。この渡りをして安房の清澄へ参らうずるにて候。」と述べていて、どうもこれは日蓮本人か、日蓮宗の僧であることがイメージされているように思います。

話は脱線しますが、能には『鵜飼』『現在七面』などワキが日蓮であることが想定されている曲があります。「想定」と ぬえが言うのは、それらの能の中でワキが「自分は日蓮である」と名乗る曲がなぜかひとつもないからなのです。これが不思議なところで、これらの曲ではワキは「安房の清澄より出でたる僧にて候」などと名乗っていて、清澄とは日蓮が出家し、また日蓮宗を興した「清澄寺」であることは明白。そしてこの「清澄より出でたる僧」が登場する能は法華経を賛美する趣向で作られており、『現在七面』の話は身延山における日蓮の有名な事績がそのまま題材になっています。

能『六浦』のワキの役柄が日蓮だというのには証拠が乏しいとはいえ、福王流の詞章ではワキが すくなくとも日蓮宗の僧であると想定されていると考えるべきでしょう。

となると、このワキが「又あれに由ありげなる寺の候を人に問へば。六浦の称名寺とかや申し候程に。立ち寄り一見せばやと思ひ候。」と言うのがやや不審ではあります。「称名」寺という以上、この寺が浄土宗であることが想定されるからで、日蓮宗と浄土宗は往時には対立関係にありましたから(これについては実際に ぬえが称名寺に参詣したときに、さらに新たな発見がありました。これについては後日ご紹介したいと思っています)

さて話題を再び能『六浦』に戻して、シテがワキを呼び止めます。

シテ「なうなう御僧は何事を仰せ候ぞ。

「呼び掛け」の定型の型で、シテは幕を上げるとワキの方へ向いて、脇座に行きかかるワキを呼び止めます。能ではシテの登場場面でよく用いられる「呼び掛け」なので、ぬえも何度もこのブログで説明していると思いますが、まことに能舞台の構造を活かした素晴らしい演出であると思います。

見所に突き出た本舞台にいるワキ一行に対して、これを呼び止めるシテははるか左後方の幕の中から声を掛けます。細長く楽屋に伸びる橋掛リをうまく活かして、ワキとシテとの距離感を。。遠くの方から ふと呼び止める感じがまずよろしいです。そうしてシテの姿がこの場面では見所に見えていないというのが また良いですね。ただシテの声だけが先に登場して、その姿はまだ見えない。そのうえ「呼び掛け」で登場するシテは、しばしば幽霊や神仏の化身であって、生身の人間ではないのですよね。そこで演者はあるいは神秘的に、または不気味に、おどろおどろしく、などシテのキャラクターを見所に想像させるように工夫を凝らして発声しています。この一句が能の成否を大きく左右する、と言っても誇張ではないと思います。

シテに呼び止められたワキは足を止め、シテの方へ振り返って応答します。

ワキ「さん候これは都より始めてこの所一見の者にて候が。山々の紅葉今を盛りと見えて候に。これなる楓の一葉も紅葉せず候程に。不審をなし候。
シテ「げによく御覧じとがめて候。いにしへ鎌倉の中納言為相の卿と申しゝ人。紅葉を見んとてこの所に来り給ひし時。山々の紅葉未だなりしに。この木一本に限り紅葉色深く類ひなかりしかば。為相の卿とりあへず。いかにしてこの一本にしぐれけん。山に先だつ庭のもみぢ葉と詠じ給ひしより。今に紅葉をとゞめて候。
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無色の能…『六浦』(その1)

2016-10-26 10:19:31 | 能楽
さて毎度 ぬえがシテを勤めさせて頂く際に行っております上演曲についての考察ですが、今回もちょっとスタートが遅れてしまいましたが、例によって舞台の進行を見ながら進めてゆきたいと考えております。しばしのお付き合いを~

お囃子方の「お調べ」が済み、お囃子方と地謡が舞台に登場、所定の位置に着座すると、すぐに大小鼓は床几に腰を掛け、「次第」の演奏が始まります。「次第」は「名宣笛」と並ぶ、ワキの登場の際に奏せられる代表的な登場音楽で、「名宣笛」がワキの登場に限って用いられる登場音楽であるのに対して、「次第」はシテやツレの登場場面にも広く用いられます。同じく登場音楽の一つである「一声」と並んで、能の冒頭場面で最も多く聞く機会がある登場音楽ですね。

同じく多用される登場音楽としては「出端」がありますが、「名宣笛」が笛の独奏、「次第」「一声」が笛と大小鼓によって奏されるのと比べて、「出端」は太鼓が入るのが大きな特徴です。ご存じの通り、能の曲には太鼓が参加する曲と、太鼓は参加せず笛・大小鼓だけで上演される曲とがありまして、当然ながら「出端」は太鼓が入る曲でのみ演奏されます。また太鼓は、それが参加する曲であっても、能の中で演奏する場面は限定されています。笛や大小鼓が能の中で比較的多くの場面で演奏されるのと違って、太鼓は ここぞという場面で演奏に参加する、という感じです。

太鼓という楽器の能の中での役割を考えてみると、大ざっぱに、乱暴に言えば「勇壮」「荘重」な場面、また「軽快」「神性」などを表現するために用いられるように思います。これの対極。。つまり太鼓が参加しない曲には「閑寂」「静謐」の情感が込められている場合が多いように思います。

さらに言えば太鼓の有無はシテのキャラクターにも大きく影響されています。神仏や草木の精の役がシテの曲にはほとんど太鼓が入り、シテが直面で登場する、武士など現実の人間の役である場合などはほとんど太鼓が入りません。もちろん例外はたくさんあって、草木の精が主人公である『芭蕉』には太鼓が入りませんし、静謐な能である『姨捨』には太鼓が入ります。

こうして能『六浦』を見てみると、シテが楓の精である能の通例の通り太鼓が参加します。が、太鼓が演奏されるのは後シテ。。つまり草木の精たるシテがその本性を現してからなのであり、しかもその後シテの登場には太鼓が入る「出端」ではなく、大小鼓による「一声」が演奏されます。こういうところにシテの演者は作者の意図を感じるわけです。すなわち『六浦』では後シテの登場ではまだ三番目物能らしい情趣があるべきなのであり、クセのあと太鼓が入って奏される「序之舞」からは草木の精としての軽やかさが現れるのでしょうし、そうした演出の意図を、音楽面だけではなく、これが若い女性ではなく落ちついた中年女性の姿とどうマッチングさせるのか、というところを演者が工夫して作り上げてゆくものだと思います。


さて話はワキの登場に戻って、早速 詞章を見てゆきましょう。

「次第」の演奏にのって登場した僧(ワキ)とそれに付き従う僧(ワキツレ=通常2名)は、舞台に入ると向き合って謡い出します。

ワキ/ワキツレ「思ひやるさへ遥かなる。思ひやるさへ遥かなる。東の旅に出でうよ。

この謡の部分も小段として「次第」と呼んでいますが、この「次第」が謡われる場合の通例として、「地取り」と言って、地謡が同じ文句を低音で復唱します。この「地取り」の間にワキは正面に向き直り名乗ります。

ワキ「これは洛陽の辺より出でたる僧にて候。我いまだ東国を見ず候程に。この秋思ひ立ち陸奥の果までも修行せばやと思ひ候。

「名宣リ」の終わりにワキは両手を胸の前で合わせる型。。「掻キ合セ」とも「立拝」とも呼ばれる型をし、続いてワキとワキツレは再び向き合い、「道行」と呼ばれる紀行文を謡います。

ワキ/ワキツレ「逢坂の。関の杉村過ぎがてに。関の杉村過ぎがてに。行方も遠き湖の。舟路を渡り山を越え。幾夜な夜なの草枕。明け行く空も星月夜。鎌倉山を越え過ぎて。六浦の里に着きにけり。六浦の里に着きにけり。

「道行」の途中でワキは正面に向き直り、数歩前へ出て またもとの位置に立ち返ります。この数歩でワキが旅行したことを表す能の特徴的な技法で、『六浦』では京都から遥々相模国の三浦半島まで移動したことになります。

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