仁左衛門日記

The Diary of Nizaemon

影狩り / ほえろ大砲

2016年12月16日 | ムービー
『影狩り ほえろ大砲』(1972年/舛田利雄監督)を見た。
物語は、「徳川幕府が末期にさしかかった頃。財政破綻に悩む幕府は、"影"と称する隠密や忍者を各地に派遣して諸大名の落ち度を暴き、その領地を没収して窮乏から脱しようとした。狙われた大名は、"影狩り"を名乗る室戸十兵衛(石原裕次郎)、日光(内田良平)、月光(成田三樹夫)の3人組を雇い入れ、影をせん滅しようとした。3人を雇った豊後(ぶんご)の佐伯藩は、かつての大阪の戦で天守閣に大砲を撃ち込んだ功績を認められて以来150年、公儀より特に認められて"大筒・四海波"の所有を許されていた"大砲の伊勢守"という異名を持つ小藩だが、砲術方の独断で、もはや使い物にならない大砲を鋳潰し、禁じられている新しい大砲を作り始めていた」という内容。
これは、さいとうたかを原作による『影狩り』(1972年/舛田利雄監督)の続編で、基本的な設定は前作のままなのだが、老中・田沼意次役だった丹波哲郎は、影目付役に降格(!?)になっていた。
(^。^)
刀で斬り合う場面がとても多いのだが、殺陣によっては着物も切断され、大量の血のりが噴き出すような悲壮感あふれる演出があるかと思いきや、何とも適当な、ただ倒れるだけの場面もあったりする。
一番酷かったのは、日光が何人もの忍者を斬ったあと、何事もなかったかのように傘を射して行ってしまう場面。
斬られて倒れている役者が動き出してしまったのだ。
(^_^;)
あれは画面を見ていれば、気がつかないわけがないので(撮影中に気がついていれば撮り直したのだろうに)、知っていながらも編集できなかった場面なのだろう。
良くできた作品だっただけに、何とも残念な場面だった。
また、石原裕次郎といえば、昭和を代表するような格好良い俳優の一人だったのだろうと思うのだが、「死ねー、死ねー!!」と言いながら、逃げている忍者達を追いかけまわす演出には少しばかり驚いた。
大スターといえども自分のイメージに固執することなく、この登場人物(室戸十兵衛)の心情を大胆に演じていたわけだ。
芝辻道斉(加藤嘉)と芝辻美也(夏純子)は可哀想な登場人物だったが、これを演じた2人の役者さんのギラギラした演技もとても良かった。
(^_^)
同じ配役で第3作目が作られなかったのが、少しばかり残念だ。

影狩り

2016年09月17日 | ムービー
『影狩り』(1972年/舛田利雄監督)を見た。
物語は、「江戸時代の中期。老中の田沼意次(丹波哲郎)は、日本各地に潜ませている"影"こと公儀隠密を使い、各藩の小さな落ち度さえも見逃さず報告させていたが、但馬国出石藩(現兵庫県北部)が金鉱山の開発に成功したとの情報を得た。難癖をつけて出石(いずし)藩を取り潰しに追い込み、領地を取り上げようと企んだ田沼だったが、出石藩はかつての大阪の戦での功績により外様ながら譜代の扱いとなっており、さらに出石藩家老・牧野図書(辰巳柳太郎)の元には、かつて東照神君・徳川家康公より下された"永代本領安堵のお墨付き"が存在することが分かって、どうにもできずにいたのだった。一方、家老・牧野は、藩内に潜んでいる"影"に対抗すべく、"影狩り"と呼ばれる殺し屋・室戸十兵衛(石原裕次郎)、日光(内田良平)、月光(成田三樹夫)の3人を雇い、幕府に対抗しようとしたのだが・・・」という内容。
胆馬国出石藩は5万8000石の貧乏藩なのだそうで、老中・田沼と公儀隠密の頭領・陣馬仙十郎(草薙幸二郎)は「藩士といえどもひえやあわを食している」などと馬鹿にして笑っていた。
そのような貧乏な小藩から折角開発した金山を取り上げようなどと企むとは何て酷い奴らだ。
地方の小藩が自衛手段として"影狩り"を雇うのは必死の自衛手段だったのかもしれない。
また、影狩りの3人にしても、藩を幕府によって取り潰されたか、脱藩せざるを得ない状況に追い込まれ、流浪の身となってしまった怒りと怨念を晴らすことができるわけだから、双方の利益がぴったりと合ったわけだ。
おまけに十兵衛などは元許嫁の千登世(浅丘ルリ子)からも命を狙われてしまうのだから踏んだり蹴ったりだ。
(^_^;)
それにしても、主役の石原裕次郎の顔が汚かった。
真っ黒だ。
眉を描いたり、影を描いたり、あそこまでのメイクは必要なのだろうか。
どうにも不自然に見えた。
(^。^)

アラブの嵐

2016年07月31日 | ムービー
『アラブの嵐』(1961年/中平康監督)を見た。
物語は、「大日本物産社長・宗方達之助(千田是也)が亡くなった。会社の重役達も政子(山岡久乃)をはじめとする宗方家の縁戚一同も孫の堅太郎(石原裕次郎)の相続を快く思わず、パリの支社に彼を転勤させようと企てた。策略にはまり、客船でフランスに向かった堅太郎。重役や縁戚達は厄介払いが成功した安心感から芸者をあげて一席設けたものの、なんと堅太郎が舞い戻り、5,000ドルの餞別も懐に入れられたままとなってしまう。堅太郎が銀座のバーでホステスに囲まれながら祝杯をあげていると、かつて、彼のいい加減な仕事で生じた莫大な損失の責任を押し付けられ会社を解雇されたという木村(葉山良二)に出くわした。偉そうなことを言いながらも結局は祖父が作った温室の中でしか生きられない人間だと指摘された堅太郎は・・・」という内容。
冒頭で、"この映画はパンアメリカン航空の後援で製作されました"と画面いっぱいに表示されていたので、「どうして船なんかでフランスに行くんだろう?」と思ったのだが、これは布石だった。
出港後すぐにちゃっかり下船して戻ってきているし、2度目の出発はちゃんとパンアメリカンの飛行機だった。
(^。^)
機内で知り合った白鳥ゆり子(芦川いづみ)には英語やアラビア語で助けられ、ベイルートの空港では鞄をすり替えられ、カイロでは日本人と見るやいきなり近づいて来たいかにも怪しい中川孝次(小高雄二)に大金を狙われる。
もう少し考えろよと思うのだが、そこがおぼっちゃまたる所以なのだろう。
(^_^;)
亡くなった達之助は遺影のみの登場なのだが、目だけで存在感を示すのが面白い。
また、達之助が堅太郎に残した遺書の「狭き日本を出て、広き世界に生きよ」、「挑まれた戦いに背を向けること勿れ」などといった助言の仕掛けは要所要所で生きてくるし、他国の独立抗争に巻き込まれたあげくの5番目の助言が素晴らしいのだった。
(^_^)
カイロでロケをした作品とあって、微妙な名所巡りの場面も出てきたが、1961(昭和36)年当時はエジプトロケだなんて画期的なことだったに違いない。

幕末太陽傳

2016年07月07日 | ムービー
『幕末太陽傳』(1957年/川島雄三監督)を見た。
物語は、「幕末。文久2(1862)年の品川宿。遊郭旅籠"相模屋"に男数人を引き連れた佐平次(フランキー堺)がやって来たが、この男は無一文。当初からすっかり居残りを決め込んでの豪遊だった。すっからかんの懐具合を打ち明けると、主・伝兵衛(金子信雄)と女房・お辰(山岡久乃)によって行灯部屋に移されるものの、元々海が近くて環境が良い品川宿での養生が目的だった佐平次は、要領よく相模屋で勝手に働き始める。何事にも器用に立ち回ることもあって、番頭の善八や若衆の喜助(岡田真澄)らには疎まれるが、遊女のおそめ(左幸子)やこはる(南田洋子)らに重宝がられては、その度に御祝儀を頂戴し、懐を温めるのだった。また、こはるの部屋に居座る尊王攘夷に燃える長州藩士・高杉晋作(石原裕次郎)、志道聞多(二谷英明)、久坂玄瑞(小林旭)らとも交流を持ち・・・」という内容。
この作品が劇場公開されたのは1957(昭和32)年7月14日とのことだったらしいが、同年4月1日に施行された"売春防止法"が翌年に完全実施されたことにより、かつては「北の吉原、南の品川」とも称された旧品川宿の遊郭から続いたその辺り(品川橋通り?)の354年にも及ぶ歴史は、"城南の楽天地 北品川カフェー街と呼ばれる16軒の特飲店"を最後に姿を消したようである。
作品冒頭のナレーションで昭和のその辺りの様子が紹介された後に、本編へと繋がっていくのは面白い演出だった。
(^_^)
主人公の佐平次という男は"お調子者"というか"適当"というか、何事にもへこたれない超前向きな思考の持ち主のようで、行灯部屋に押し込められても「蜘蛛の巣の張り具合がいい具合だねぇ」と、めげる様子が一切ないのには笑ってしまった。
また、女中おひさ(芦川いづみ)に惚れた相模屋の息子・徳三郎(梅野泰靖)から仲の橋渡しを頼まれて手数料を取って引受けるなど儲け放題だ。
(^。^)
落語の演目『居残り佐平次』を元ネタにして作られた物語とのことだが、他にも、遊女のおそめや貸本屋の金造(小沢昭一)といった『品川心中』の登場人物も取り上げられている。
テンポも良く、ナカナカに面白い(モノクロ)作品だった。

石狩挽歌

2006年12月17日 | エンタメ
テレビで『知るを楽しむ/人生の歩き方…死こそわが友/作家なかにし礼」という番組を見たのだが、この人はなかなか壮絶な人生を歩んできた人のようだった。
父が満州で酒造会社を経営していたことから何不自由の無い裕福な暮らしをしていたものの、対ソ連戦が始まったこと(1945年)を契機に人生が一変。
1年余りの逃避行を経て小樽の父の実家で過ごしたが、兄が増毛でのニシン漁(投機)に失敗してその地も追われ・・・というような話だった。
各地を転々として、その後に過ごした青森ではいじめにあっていたそうで、もしかしたら自分に落ち度があるのかもしれないと真剣に考えたが、そこまで思いつめてもなぜ自分がいじめられなければならなかったのか一切理由が解らなかったという。
これは4回シリーズだったが、一番面白かったのは、そういった話が出た第2回と第3回だったか。
東京でシャンソンと出会って訳詞を始めた話、石原裕次郎との出会いの話。
何より、この人は真面目な人なのだろうということが推測できて、そこが一番興味深かった。
また、なかにし氏が作詞した歌謡曲『石狩挽歌』は、家族の増毛での体験を元にした歌だそうで、そのキッカケというのがまた面白い。
直木賞作家で有名人だから番組で取り上げられ、それをたまたま目にし耳にできた話であって、他にも大勢こういった悲惨な体験をした人はいるのかもしれない。
しかし、人生の中の僅かなチャンスを逃すことなく大成した人の話というのは、それなりに学ぶところがあるものだ。
面白いシリーズだった。