NHKの番組で武内陶子さんの司会でNHKの番組に出演する人にインタビューする「スタジオパークからこんにちは]と言う番組みがある。
若いゲスト出演者の時に殆ど見ないが、ベテランの人達の言動には参考になることが多いのでなるべく見るようにしている。
特に昨日の96歳でなお現役の映画監督、脚本家として活躍している新藤兼人さん の日常生活とその話には大変印象に残った。
[新藤さんの日常生活]
新藤さんは、監督デビュー作品の「愛妻物語」で主演した乙羽信子と結婚したが、乙羽さんの死後も共に住んでいた、アパートに一人暮らしを続けている。
5時に起床後直ぐに乙羽さんの仏前に立つ、6時からNHKの英語講座を勉強、朝食はお手伝いさんが準備していた、若者顔負けの私なら2回分以上の食事量を時間を掛けながらゆっくりと取る。
それから脚本書き、夕食後は広島カープスをテレビで応援、就寝。
私は正直言って、もし家内が先立ったとして(その時になって見なければ判らないが)死後十数年も続けてかがさず、家内の仏前に立つかと言われれば自信がないような気がする。
新藤さんはその作品は全て家族とは、友人とは、隣人とは、教師とはなど人間を描くことを中心だと言っていたが、乙羽さんへの愛情、人間関係を大切にする彼の人柄なのだろう。
私の英語も若いときは20年近く通勤電車で英語の小説を読んだが、今は週1回の英語輪読会に出かけるだけで、家ではブログをエントリーするとき稀にネット上の英字新聞を読むだけだ。
食事の量も山登りの経験から、食べただけしかエネルギーは出ないと思っているが、年をとるほど小食になり、当然のように何をやるにも根気が続かないのを嘆いている。
[貧乏はよいことだ]
新藤さんは「貧乏は良い事だ」と思いがけないことを言った。
新藤さんのお父さんが破産、14歳のときに一家は離散したそうだが、今考えるとその辛い経験が彼にとって財産になっていると思っての発言だったのだろう。
私の父も今で言う正規従業員と非正規従業員の間の立場で親子7人の暮らしを支えていたので、私の友達のなかでは最低クラスの生活を送っていた。
今でも覚えているが、弁当のおかずは醤油をかけたかつおの削り節に、コンブの佃煮が定番だった。
それでも毎日朝から晩まで身を粉にして働いている母の背中を見て、子供でも出来る手伝いは喜んでした。
私は当時小学生だった姉から、母親がわりに世話して貰った記憶が残り今でも彼女に頭が上がらない。
近所や学校の友達も素直な子が多かったのは、私の家ほど貧乏ではなくても、洗濯機も、ガスも炊飯器も電子レンジもなくて、全て手作業で働いていた母親をみていたからだろう。
ほかに娯楽が無いので、私は目に触れた本を片っ端から読みあさったことが、私の想像力や判断力などを養成したと思っている。。
そのほかにも、我慢すること、今のように遊ぶものな少ない→自分で遊ぶ方法考える→自分で考える力や習慣、兄弟姉妹の思いやりなど多くのことを学んだし、私のようなのんびり屋でなく、負けん気の強い子供にはハングリー精神も自然に生れたのではないだろうか。
[あり余り過ぎて日本が痩せて来る]
そうかと言って現在のような豊かの暮らしを批判する気もないし、いまさら貧乏な暮らしに戻る訳に行かないのは当然だが、少なくとも貧乏暮らし(それと子沢山)の良い点も何とか取り入れる工夫はないのだろうか。
参照:貧乏人の子沢山有用論
[平凡でも一生懸命な先生]
新藤さんの最新作の「石内尋常高等小学校 花は散れども」は彼が郷里の小学校で教えを受けた先生のことを描いたものだそうだ。
新藤さんは言う「その先生は今考えると平凡な先生で、何時も言う言葉も「嘘を言うな」と言う平凡な言葉だった。」
「然し際立っているのは何事も一生懸命にやる先生で、今の私に大きな影響を与えてくれたし、「嘘を言うな」の平凡な言葉が何かにつけて生きている」
良く考えるとその新藤さんへの先生の影響力が大きかったと言う事は、彼は言わなかったが、新藤さんが特に感受性が優れていたことは勿論、それを受け取る方の他の生徒たちが皆素直だったことことが、平凡な先生でも一生懸命にやる姿や平凡な言葉から大きな影響を受けたのだと思う。
一部とは思うが、家庭の躾けの行き届いてない生徒、甘やかされた生徒、テレビ、携帯、インターネットなどで多くの情報を持ったこましゃくれた生徒は、新藤さんの先生のような「ただ一生懸命が取り柄の平凡な先生」を受け入れるだろうか。
そうした生徒を育てた、親は子供のときどのようにして育ち教育を受けたのだろうか。
教師たちは、世の中の経済成長で避けられない核家族化、女性の社会進出などの社会の変化に即応した教育をして来たのだろうか。
そして先生自身がどのように育てられどのように教育された来たのだろうか。
戦後の民主主義に加えて、日本古来の美風の軽視または無視、急速の拡がった社会・共産主義の思想を取り入れた、権利の重視とそれに伴う義務・責任の軽視、悪平等、他人の迷惑も考えない限度無視の個性の尊重など、社会の変化に超然として、戦後以来変わらない教育を続けてきたのではないだろうか。
現在、多くの先生は子供の為に一生懸命にやっていると思うが、一部の先生の中には今でも文科省、教育委員会、校長は管理者、教師は労働者と位置づけて、一生懸命なのは生徒より自分自身のため、酷いのは平和のためにと言って、自分の思想を子供たちに植えつけるような過去の遺物のような教師がまだいるのではないか。
[働くことは楽しい]
新藤さんは96歳の今でも脚本を書くのを楽しみにし、「生き甲斐」にしており、それが彼の体を支えていると言う。
然し私の住む団地の高齢者のごく一部は週に1度か2度カラオケ、俳句、踊りなどののグループで楽しんでいるが、それが「生き甲斐」とまで思っているのだろうか。
そのような人達は未だ良い方で、多くの老人たちは、せいぜい女性は家事、男は庭いじりで過ごし、後はテレビを観ながら時間を過ごす人が多いようだ。
新藤さんはインタビュー中に人の批判や理屈など言わなかったが、生き甲斐について言えば、「自分のしている事が人の為になること」自分で感じて始めて「生き甲斐」を感じるのだと思う。
そして人の為になることをすることでその事自身の楽しさ以外に、また違った楽しさを感じるのだろう。
生き甲斐ある老後の暮らしのために
然しその様な老後の楽しみや「生き甲斐」を持つには私の経験から言えば若い時からの準備がいると思う。
新藤さんの場合は映画監督や脚本家としての長い蓄積が今でも生きている。
私の場合は英語と海外技術支援の経験を活かして、退職後80歳までボランティア活動をして来た。
それ以後は(先頭に立つのは苦手なので)英語のクラブでは助言役(と自分で思っている)、クラシックギターは伴奏専門、川柳は上部団体に提出する句会の句の清書などほんの気持ちだけだが会の運営にお役に立っている(と自分で思っている)。
これは私の「生き甲斐」と言うより、老人になって何かと人様に迷惑を掛けながらも生き長らえていることの「自己弁護」だ。
今ころになって気付いたのだが、これらの小さな社会奉仕が出来ているのは、(性格のいい加減さそのままに、暇つぶしでやって来たため進歩は殆ど無いが)英語、ギター、川柳の約15~50年の経験が活かされているのだ。
私たちは定年後2~30年は生きて行かねばならない。
それを楽しくしかも出来るだけ「生き甲斐」を持って過ごすには、その場になって慌てないように、現役のときから取り組むか、少なくとも心の準備だけはしておいた方が良いと思う。
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