田熊みうま会 尾道市因島から発信中

昭和40年度生まれで 田熊小学校・田熊中学校に通った人のブログ

出来屋重太の話(田熊村直訴事件)

2020年02月24日 | 令和2年因島・田熊・仲間の話題

田熊村を飢餓から救った義人、出来屋重太(できやのじゅうた)のお話。(やや長編)
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江戸時代、飢饉が田熊の村を襲いました。窮状をみた広島藩はお助け米(御救米)を庄屋に届けましたが、庄屋がお助け米を出し惜しんで配らないので、村民の窮状はますますひどくなりました。そこで奮起したのが長沢(現在の中区)に住んでいた出来屋重太です。17歳の重太は「よし、ワシが藩に直訴してやる」と決意し、浄土寺の住職に頼んで直訴状をしたためてもらい、田熊の浜(現在の中央区奥浜付近)から、単身船を漕いで出発しました。
驚いたのは庄屋です。なにしろ直訴は重罪です。もちろん庄屋にもお咎めが及びます。庄屋は慌てて重太の船を陸伝いに追いかけました。ようやく追いついたのが村のはずれ(現在の竹長区・因島南インターバス停付近)てした。
庄屋は重太に向かって「おい重太、直訴は重罪なるぞ。思いとどまるなら、お前に米を"八石"やろう」と叫びました。
しかし、重太は「今更なにを言うか」と言い残し北へ船を漕ぎ続け、とうとう藩への直訴に成功しました。
おかげで無事に米が配られ、村民は飢餓を脱することができました。庄屋は交代させられました。
そして厳しい沙汰を覚悟した村民と重太に届いたお達しは
「かくかくしかじか、いついつまでに、身支度整え出頭せい」という内容でした。
そこで村民は考えました。
そもそも厳しい御沙汰を下すなら、直訴の際に捕らえられたはず。それを一旦村に戻してからのお達しは、「所払いで許してやろう」という藩の恩情ではないか? と考え、村民は重太にしっかりとした旅支度をさせて盛大に島を送り出しました。
その後の重太がどうなったか誰もわかりませんが、時が流れ「重太も今頃は60歳くらいだろう。どこか異国の地で既に亡くなっているかもしれん」と重太を弔う機運が高まり、浄土寺に墓が建立され法要が営まれました。以来、田熊の檀家では全国でも珍しい六十回忌法要の風習が定着しました。庄屋が重太に追いついた村はずれの浜は、竹長区字"八石(はちこく)"として現在も残っています。

◆直訴事件の考証
管理人が幼いころ祖母から聞いた話と文献を元にお話にしてみました。管理人の記憶と資料とで違いがありますが、長年伝えられていくうちに、変遷していった部分もあるでしょう。
しかし、浄土寺に重太の墓が残されていること、前述の田熊独特の六十回忌法要や字"八石"の存在から、直訴事件があったことは確かだと思います。

では、いったい事件発生はいつだったのでしょうか。
重太の墓の正面には"清光了雲信士 安永四年三月十四日"とあり、左側面に"義人 出来屋重太之墓"と刻まれています。普通に考えれば、この"安永四年(1775年)"が重太が"一応六十歳で亡くなった"とされ法要が営まれた年でしょう。ということは、重太が事件発生時17歳だったということを正とすると、享保十七年(1732年)ころということになります。この年7月には「享保の大飢饉」が西日本を襲い、「広島県史」によると、翌春までに広島藩8644人、福山藩731人が餓死、11月と翌年5月には広島藩から救援米が支給され、12月には囲米戒めの通達が出ています。
なんとなく真実味が増してきた感じがありますね。管理人は「享保の大飢饉」説を採用したいと思います。因みにこの時の8代将軍徳川吉宗は飢饉の影響を考慮して東国米の西国輸送を認めています。

「いんのしまの民話と伝説(因島ジャーナル社)」では「天明の大飢饉」(天明2年~8年・1782年~1788年)の頃の出来事と記載されています。「広島県史」によると天明5年~6年に被害が大きかったようで、天明6年には福山藩で一揆も起きていますが、墓に刻まれた内容とは整合性に欠ける感じがします。

また、「田熊の文化財第17巻(田熊町文化財協会)」では、宝暦三年(1753年)と五年(1755年)に備後地区(福山藩)で窮民蜂起の記録があることから、状況は広島藩の因島でも同様ではなかったかということで、事件はこの時期ではなかったかと推測しています。となるとやはり墓碑命日との整合性が気になりますが、時の流れが緩やかな時代ですから、事件から20年ほど経って適当なところで法要を営んだということかも知れませんね。

それから、藩からお咎めを受け交代した庄屋も気になります。
寛文年間(1661年頃)に田熊村上氏の祖である村上四郎左衛門に代わって、分家筋の大田熊(おだくま)が6代に渡って庄屋を務めていますが、その6代目の庄左衛門が亡くなったのが安永六年(1777年)で、既に安永三年(1774年)時点での田熊の庄屋は宮地源蔵との記録が残っています。5代目の瑠右衛門は延享三年(1746年)に亡くなっていますから、事件の発生が管理人が唱える「享保の大飢饉」(1732年)でも文化財協会が掲載している宝暦三年(1753年)又は五年(1755年)でも、事件時の庄屋は6代目庄左衛門と考えて妥当でしょう。
事件に連座して交代(罷免)させられた庄左衛門は、失意のうち永眠。しかし晩年の庄左衛門は悔悟の念から重太法要の音頭をとった、とするシナリオは出来すぎでしょうか。出来屋重太の物語だけに。。。

いまさら真実にたどり着くことは不可能ですが、身近な郷土の歴史ロマンに想いを寄せてみました。。。

参考文献
「田熊の文化財1・5・17・19・24巻(田熊町文化財協会)」
「いんのしまの民話と伝説(因島ジャーナル社)」
「広島県史(広島県)」


田熊町竹長区八石から生口橋を望む

重太が暮らしていた中区長沢への入り口(旧田熊中学校近くから)

進んでいくと右手に上ります

イノシシ除けの柵がしてありました。子供の頃には行けたのにね。。この先に金毘羅大権現が祀られておりその辺りに暮らしていたようです。

※令和2年3月19日 加筆修正しました。
※令和2年4月8日 加筆修正しました。
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ちょっとランチ会

2020年02月02日 | 令和2年因島・田熊・仲間の話題
ちよりちゃんのお店でランチ会。
渾身の(?)自慢の(?)工夫満載の(?)、創作料理がズラリ。
食事を楽しみながら会話も弾み、あっという間に3時間以上の長居となってしまいました。
いろんな食材と料理のラインナップをレポートできれば良かったのですが、おしゃべりに夢中で。。。。
ご馳走様でした♪
素顔はコチラからパスワードを入力してご覧ください。




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