平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 
清水寺の音羽の滝から寺の裏門を出て、清閑寺に通じる歌の中山を
しばらく行くと、紅葉に囲まれた六条天皇陵・高倉天皇陵が見えてきます。
古来から、歌の中山はここを訪れた文人歌人が詩歌を残した山道です。

高倉天皇陵内には小督の小さな宝篋印塔がありますが、
宮内庁管理の天皇陵のため立ち入ることはできません。
六条天皇は後白河法皇の孫にあたり、二条天皇の皇子で、
僅か2歳で即位し5歳で皇位を高倉天皇に譲り、
13歳で病を得て亡くなった薄幸の皇子です。

御陵右手の石段を上ると清閑寺山門があります。

歌の中山清閑寺は智積院に属する真言宗智山派の寺で、延暦21年(802)、
紹継法師が開基した音羽山(清水山)の中腹にある紅葉の名所です。

山門を入ると二基の供養塔が並んでいます。
左が小督、右は紹継法師の供養塔です。

石垣に囲まれた大きな石を要石といいます。
そこに立てば京都の街があたかも扇を開いたように広がり、
扇の要にあたることから「要石」とよばれています。
昔は山科・大津方面から京都へ入る際、この付近を通りましたが、
東の方からこの寺にたどりついて、はじめて京都の町が見えたので、
名所となっていたようです。           

要石から京都の町を見渡しました。

本尊十一面千手観音像を安置する本堂

鐘楼
高倉天皇は建春門院滋子(清盛の妻の妹)が後白河法皇との間に儲けた皇子です。
天皇の中宮は清盛の娘徳子で、二人の間の皇子が安徳天皇です。
高倉天皇は清盛と父後白河法皇の対立に心を痛め、わずか三歳の安徳天皇に譲位し、
病身をおして厳島神社へ参詣するなど父と清盛の融和に努めました。
しかし以仁王の謀反、福原遷都、南都焼討と心労が重なりわずか21歳で、

平頼盛の六波羅池殿で崩御、遺骸はその日のうちに遺言により清閑寺に移されました。

『平家物語』によると、小督は高倉天皇に寵愛され皇女範子(のりこ)内親王
(坊門院)を
生みましたが、娘徳子の皇子誕生を待ちわびる清盛の怒りにふれ、

ついに尼にされて嵯峨野に追いやられました。このことがあって
天皇の悩みは
いっそう深くなり間もなく亡くなられたという。
小督は清閑寺に入って尼になり、

その縁で天皇はこの寺への思いが深かったようです。
小督(琴きき橋跡碑・琴聴橋・小督塚) 
『アクセス』
「清閑寺」京都市東山区清閑寺山ノ内町11−1 清水寺裏門から徒歩約15分
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)俊々堂 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社
 「新定源平盛衰記」(第1巻)新人物往来社 梅原猛「京都発見(2)」新潮社         



 



 

 

 






 


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