4月18日、寒い日・雨が続き、久しぶりに出かけた。
成田山に行く予定で、その前に少し佐倉に立ち寄ってと思った。
だがこれは失敗であった。
佐倉に国立歴史民俗博物館があることは知らなかった。
今回は中に入らず佐倉城跡だけを見て、しばらく散策してから成田山に行く予定であったのだが、
大幅に時間がかかってしまい、またも成田山は行くことが出来ず、JR佐倉に抜けて帰ってきた。

国立歴史民俗博物館・佐倉城趾~佐倉城跡に作られた立派な国立の博物館。

佐倉藩は、その所領は決して大きい大藩とは言えないが江戸の東に位置して江戸を守っていた。
また、藩主は譜代大名が勤め、老中などの幕府の要職を占めた。そのため失脚なども多く度々藩主が変わった。
馬出し空壕跡 本丸跡

城跡から"城下"・佐倉を臨む 幕末日米交渉をした老中・堀田とハリス 臼杵磨崖仏のレプリカ

(大分県臼杵市の石仏・大日如来)=博物館近く
重願寺 海隣寺(時宗)

勝全寺 嶺南寺

甚大寺(金毘羅尊)

堀田一族の墓(幕末老中の堀田正睦) 延覚寺

歴史生活資料館 教安寺

妙寺(金銅地蔵=1721年)

勝寿寺(曹洞宗)

妙経寺

三谷家住宅 松林寺(阿弥陀如来)

おはやし館 市立美術館(茶色の建物とその後ろ)

佐倉市武家屋敷{210円}

児玉源太郎旧宅

大聖院 周徳禅寺に行く途中の地蔵

周徳禅寺

さて、ここから帰るのだが、標識によるとJR佐倉駅までは500mとある、
また、京成線はかなり混むので佐倉から乗ると座れないことも予想されるので、
JR佐倉駅まで歩くことにした。
JR佐倉駅前は、広くゆったりしているのだが、店もなく人影もなく閑散としていた。
駅に着いたのは2時、東京まで行く快速は2時29分、千葉までの各駅は2時17分であった。
快速が東京駅についたのは、3時半、1時間もかかるのであった。
快速は1時間に一本、1時間もかかり、しかも料金でも高く、とても混んでいるのである。
これでは京成との競争に勝てないなと思った。
佐倉城は明治時代、陸軍に接収され、陸軍の駐屯地となった。
廃城令と言う法律は、城を陸軍の財産とし、建物等を壊して陸軍駐屯地とすることの出来るものだったという。
また、明治時代、廃仏毀釈(仏教を捨てて神道にする)によって、多くの寺と仏像が破壊された。
さらに、太平洋戦争時には多くの鐘や仏像が強制的に取り上げられ兵器や工業製品にされた。
こうして日本の歴史ある建物や文化的遺産の多くが国家権力によって破壊されたのである。
それはバーミアンの大仏破壊との比どころではないすさまじいものであった。
佐倉城の北には豊かな水源の印旛沼などが広がり、そこから用水路が流れ、一帯は今でも豊かな水田地帯である。
また、丘陵地があちこちにあって山林や林の緑地帯を造っている。
私には、江戸時代大名の石高と城下町の人口や経済力との関係は想像がつかないのだが、
佐倉藩は石高10万石と言われる。
その城下町の規模はどうだったか現在の姿からは想像できない。
豊かな水田地帯であった事をうかがい知ることは出来るのだが、
今日大きな寺社が少ないことは当時、大きな都市だったとは想像できないのだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【以下、番外】
4月11日、三里塚に原さんの墓参りに行って来た。
暑いくらいであった。
墓の周辺は高いフェンスで被われている。 昔、沖縄の読谷村に「象の檻」と言われたアメリカの通信施設があった。
【引用】
ここに至る道も金属性の高いフェンスで被われている。
これは友人が採ってきてくれたウド、帰りには沢山の筍をもらってきた。

成田山に行く予定で、その前に少し佐倉に立ち寄ってと思った。
だがこれは失敗であった。
佐倉に国立歴史民俗博物館があることは知らなかった。
今回は中に入らず佐倉城跡だけを見て、しばらく散策してから成田山に行く予定であったのだが、
大幅に時間がかかってしまい、またも成田山は行くことが出来ず、JR佐倉に抜けて帰ってきた。

国立歴史民俗博物館・佐倉城趾~佐倉城跡に作られた立派な国立の博物館。


佐倉藩は、その所領は決して大きい大藩とは言えないが江戸の東に位置して江戸を守っていた。
また、藩主は譜代大名が勤め、老中などの幕府の要職を占めた。そのため失脚なども多く度々藩主が変わった。
馬出し空壕跡 本丸跡


城跡から"城下"・佐倉を臨む 幕末日米交渉をした老中・堀田とハリス 臼杵磨崖仏のレプリカ




(大分県臼杵市の石仏・大日如来)=博物館近く
重願寺 海隣寺(時宗)


勝全寺 嶺南寺


甚大寺(金毘羅尊)


堀田一族の墓(幕末老中の堀田正睦) 延覚寺


歴史生活資料館 教安寺



妙寺(金銅地蔵=1721年)


勝寿寺(曹洞宗)


妙経寺


三谷家住宅 松林寺(阿弥陀如来)



おはやし館 市立美術館(茶色の建物とその後ろ)


佐倉市武家屋敷{210円}


児玉源太郎旧宅


大聖院 周徳禅寺に行く途中の地蔵


周徳禅寺


さて、ここから帰るのだが、標識によるとJR佐倉駅までは500mとある、
また、京成線はかなり混むので佐倉から乗ると座れないことも予想されるので、
JR佐倉駅まで歩くことにした。
JR佐倉駅前は、広くゆったりしているのだが、店もなく人影もなく閑散としていた。
駅に着いたのは2時、東京まで行く快速は2時29分、千葉までの各駅は2時17分であった。
快速が東京駅についたのは、3時半、1時間もかかるのであった。
快速は1時間に一本、1時間もかかり、しかも料金でも高く、とても混んでいるのである。
これでは京成との競争に勝てないなと思った。
佐倉城は明治時代、陸軍に接収され、陸軍の駐屯地となった。
廃城令と言う法律は、城を陸軍の財産とし、建物等を壊して陸軍駐屯地とすることの出来るものだったという。
また、明治時代、廃仏毀釈(仏教を捨てて神道にする)によって、多くの寺と仏像が破壊された。
さらに、太平洋戦争時には多くの鐘や仏像が強制的に取り上げられ兵器や工業製品にされた。
こうして日本の歴史ある建物や文化的遺産の多くが国家権力によって破壊されたのである。
それはバーミアンの大仏破壊との比どころではないすさまじいものであった。
佐倉城の北には豊かな水源の印旛沼などが広がり、そこから用水路が流れ、一帯は今でも豊かな水田地帯である。
また、丘陵地があちこちにあって山林や林の緑地帯を造っている。
私には、江戸時代大名の石高と城下町の人口や経済力との関係は想像がつかないのだが、
佐倉藩は石高10万石と言われる。
その城下町の規模はどうだったか現在の姿からは想像できない。
豊かな水田地帯であった事をうかがい知ることは出来るのだが、
今日大きな寺社が少ないことは当時、大きな都市だったとは想像できないのだ。
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【以下、番外】
4月11日、三里塚に原さんの墓参りに行って来た。
暑いくらいであった。
墓の周辺は高いフェンスで被われている。 昔、沖縄の読谷村に「象の檻」と言われたアメリカの通信施設があった。


ここに至る道も金属性の高いフェンスで被われている。
これは友人が採ってきてくれたウド、帰りには沢山の筍をもらってきた。

