本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

小説011 : reProfesional#84 

2008-09-30 02:21:27 | reProfesional
第一部:幕開け ~ 「社会的なもの」とのかかわりの始まり

chapter#10 性と感情

日々の労働に追われ、肉体を酷使し、とてもこんな時間にパソコンに向かい、小説を書くなどということは疲労を伴うことでもある。
しかし、今のボクにはこの行為自体が重要な意味を持つといえる。

人間というものの特質として、実際になりたいと思うものを演じ続けることで、脳が実際にそれを現実と仮想を判別できなくなり、次第に実際にそのなりたい像になっていくということはよく聞くことである。
この物語をつむぎだしていこうとする姿勢こそが、まさにいまのボクにとっての確固たる自我なのである。
確固たる自我、つまり、ボクはこれから力が許す限り、言葉を振り絞っていかないといけないと思う。今のボクにとって、言葉を振り絞るという行為は、存在をつなぎとめるということにもつながる。
なぜか?ボクは物語を書く、著作物を書き、広く社会に認知され、それにより、一人でも多くの人間とかかわり、またそのかかわりを持った人が少しでも、この駄文により、幸福になってくれればという風に強く望む。

これまでのボクはこの願望を素直に表せず、アンニュイな、メランコリックなモンタージュを書き連ねることで、自己閉鎖的な快感を味わっていた。
自慰行為にも似た行為だったと思う。
過度な自慰行為は性器を痛めつける結果になりかねない。
性行為だけがこれまで、この物語の中で人生の比喩として語ってきた「恋」というものを成就させるわけではないということは百も承知だ。
しかし、ボクはこの物語において、決して完璧な構成を、完璧なシナリオを完璧な、ロジックを求めて、文章を書いているわけではない。
これは、できることならば、毎日文章を生み出す、創造性を高める、そして、できることならば、多くの人の目に留まり、ボクという存在の可能性を出来るだけ大きく開花させるための、ボクにとっての訓練でもあり、ボクといういまだ閉鎖された自己空間にいる存在にとってのひとつの挑戦でもあるのだ。

恋は完成されるためには、情緒的なつながりがまずは必要だ。
しかし、社会的に成功したいと思っている今のボク、そして、この世に生を授かったボクとしては、純粋な恋をするだけでは、不十分なのである。
男性であるボクにとって、比ゆ的にいうと、多くの女性に自慰に使っていたモノを可能な限り多くの女性に愛撫したいと思ってもらわないといけないのである。

しかし、ここでまた重要になってくるのは、乱雑に性器を愛撫されたのでは、キズだらけになり、危険性が伴う。
信頼が伴う女性に出来るだけ多く、愛撫してもらうことが必要になる。信頼にたる女性というのも比ゆ的な意味で、厳密に定義することは非常に難しい。
少なからず、ボクという存在に興味を抱いてくれるという弱い意味で捉えてくれたほうが、ここでは都合よく、意味がつながると思う。

~ (挿入) 本当の恋というのは人生に一度でいい。

ここでいう愛撫というのは、共感という言葉に近いのかもしれない。父の酒にあたるものをここでは性とおきかえることはできないが、比較的近い意味で捉えることが出来る。

性とどう付き合うかという命題は、人生の伴侶をいかに求めるかという命題と同じくらいに、ボクにとっては重要だった。
こちらから、欲情してしまっては、社会的成功はおぼつかない。
多くの「女性」(もちろんある程度比喩的な意味を含んでいる)に、自分の性器を、身なりを、オーラを感じ、相手側から愛撫したいと心底思ってもらわないと、いけない。
こちらから、欲情をし、接近してしまうようだと、それは、感情を紛らわせる「酒」のような、中毒的なものになってしまう。

ボクはなりたい姿になるために、なりたい姿を演じなければならない。
なりたい姿というのを粘り強く演じなければならない。
なりたい姿が、実はなりたい姿ではなかったという絶望を恐れながら。

「なりたい姿」

今のところ、ボクは安心している。
なぜなら、ボクは今、演じているなりたい姿は感情は、そむくことがないからだ。
ボクは、いま「なりたい姿」とおもっているものに対して、過大な情熱を感じている。僕の中でのなりたい姿というのは、宙ぶらりんになってしまっている、肉体疲労の深夜のボクに、ほんとうのボクという決して見ることのないであろう存在との間に、命綱をつないでくれる。

序章が終わった明確な理由というのも、この章を読んでいただき、明確になったと思う。宙ぶらりんで、「キルケゴール的」停止状態=ただ生きようという、ただ生きたいという漠然として、キルケゴールの批判する状態、つまりは、絶望という状態から開放されたからだ。

少なくとも、第一部でのボクには、どうなりたいかという姿が明確にある。
強烈に目指すべき姿というのがある。
後は、執念で、ボクが訓練を続けていけるかということにもかかわってくるだろう。
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小説010 : reProfesional#83

2008-09-29 00:11:03 | reProfesional
chapter#9 死という意義

 「私たちの最も深刻な恐れは、自分の力が足りないということではない。
  私たちの最も深刻な恐れは、自分にあまりにも力がありすぎるということだ。

  私たちが一番おびえているのは、自分の光であって、自分の闇ではない。
  私たちは自問する。この自分に、輝しくて、華麗で、有能で、すばらしい人間である資格などあるのだろうか、と。
  だが実際には、そういう人間であって当然ではないか。
  貴方はこの宇宙が生んだ子供だ。
  卑小な人間を演じていても世の中の役に立たない。

  周りに不安を抱かせないように縮こまって生きていたら、誰にも光を与えられない。私たちは宇宙の栄光を明らかにするために生まれる。
  そして、その栄光は私たちの中にある。一部の人の中にあるのではなく、すべての人の中にある。
  そして私たちが自分を光り輝かせるとき、
  私たちは知らず知らずのうちに他の人にも同じことを許している。
  そして私たちが自分自身の恐れから解放されるとき、
  私たちの存在は、自ずとほかの人も解放する。」
                 -マリアン・ウィリアムソン

ボクは、こんな言葉も以前ある本で読んだことがある。
「死というのは、体が上質な回復時間を求める究極の形なのだ。」

人が生きていく中でおそらく、最も醜いのは、その場で立ち止まってしまうという行為だろう。思考停止状態というか、あきらめ状態というか、人という存在は自分の価値を過小に評価する傾向があるのだろう。
過去に目を向け、甘美な香りに酔いしれ、現実という厳しさの中で足止めを食らう。
でも、そう考えてみると、現在から未来にかけては、過去よりより後退して耐え難いものになっていくということにならないだろうか?
過去は甘美ということは、現在は未来つまり、未来から見た過去という視点で見ると、少しはましなものということになる。
つまり、よりましなものとしての過去を乱立させるということは、その逆で、よりましでない未来を淫らに建設していってしまうことになる。

前の章で僕は死んだといった。
つまり、この章での以前読んだ本の言葉で言うと、決してボクは死んでいない。
死んだと自覚できるうちは少なくとも生きている。
ここでの死んだという意味はというと、ボクを構成していた一部がなし崩し的に崩れたという意味に他ならない。

今回の小説の主人公になろうとしているボクのケースで言うと、これまで、うぬぼれにまみれ、人生を序章から、次の章に移そうとしていたボクから、若さゆえのうぬぼれという感情が死んだということになろう。
世間的に見ると、健全な自信と、不健全とされるうぬぼれの差異はきわめて見出しづらい。どちらも本人の内的な感情に大きな差はあれ、外部からその見極めは難しいからだ。
ボクから、うぬぼれという感情は破壊されてしまったとしても、けっしてボクから、自信はなくならない。
なぜなら、ボクをなんとか、物語を書こうという勇気をわかせ、次の章を切り開いていこうとするその一部の大きな部分をなすものが自信という感情であるからだ。

周りの人間をこれまでの僕のように、コケおろしてしまうのは、僕という一人の人物の中からうぬぼれという感情が薄れてしまった今、非常に醜く感じてしまう。
しかし、ボクは自信を持って生きていくことに代わりはない。
生きていくうえで、おそらく幸せをつかむ上でひとつの重要な一因となるのが、自分に自信があるかということだろう。
未来をつくるものは、苦しいときでも、一歩を踏み出そうとすることを許す自信という媚薬だろう。

死んださばのような目をかなぐり捨て、目の下のクマを取り、第一部「まくあけ」へとそろそろ歩みを進めよう。
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小説009 : reProfesional#82

2008-09-26 01:46:29 | reProfesional
chapter#8 僕の死亡と感情

ボクは死んだ。
これまでの幸福な勘違いから開放され、死んだ。
もう過去の僕は生きていない。
なんというシアワセだ。
一歩間違えれば乞食にも、気違いにも十分にもなれるんだ。
ボクの人生はおそらく、もう自分のものではない。
そういう発見に気づいた。
このままいくと、自分のものではない。
もちろん、一歩を踏み出すには勇気がいる。
自分の預け主との決別。
それが、いわば勇気という言葉に該当するのだろう。
ボクはこれまで、生きがいをもって生きてこれた。
でも、死んでしまったのだから、生きがいを見つけ出すというのは、そんなに簡単なことではない。

生きがいを感じさせてくれる源泉。
感情というものだろうか?
ボクの周りの似非役者たちは、その感情を麻痺させて生きてきている。
そう。
感情に対して向き合い、生きがいを見出そうとすること。
それがおそらく人生の中でのおっきめの勘違いなのだろう。
家庭が出来、子供が出来、よりやりがいというものを見つけ出すことが、危険になってくる。

「人生って言うのはね、人生を預ける人が年をとるにつれて増えてくる。
 そんなもんなんだよ。」

いつも、父に会うとそういう言葉をボクは聴かされていた。
そんな父がボクは好きになれなかった。
預け主からつかの間に目を背けさせてくれるものは、彼にとってはお酒であった。
脳ミソを麻痺させ、感情を麻痺させていく。
そして、束の間の嘘つきの幸せを味わう。

「身分相応なのが一番なのよ。多くを望んじゃイケないのよ。」

いつも、母に会うとそんな言葉を聴かされていた。
母は、父は、子供の笑顔を見て、孫の笑顔を見て、シアワセを感じていた。
そんな両親をボクは好きになれなかった。

「カエルの子はカエル」

僕たちはよく、そんな言葉をたいしたことないやつに対してはき捨てる。

「親の七光り」

僕たちはねたみとともにそんな、言葉を吐き捨てる。

でもね。結局人生を切り開いたのは、その子供なんだよね。
自分の両親の「負け」に対する拒絶。
それが感情なんだよ。

ボクはうなずいた。
ボクは、でも、絶望の中でも、勘違いに辟易としていてもまだ、もう少し勘違いをすることが出来る。
そうでないと、こんな誰も見はしない文章を書こうとは思わない。
虚栄心の塊だ。

ボクは、自分のことをそう思っている。
でも、違うと思うんだ。
虚栄心じゃない。
まだ僕があっていない預け主からのメッセージなんだ。

「努力をしろ。今を懸命に生きろ。」

なかなか応えることが難しいメッセージだ。
どうしても、ボクは現実から、目を背けたくなる。

でも、こうやって、物語を整理し、俯瞰していくことで、ひとつだけ得をしたことがあるんだ。
この小説は序章を終えようとしている。
序章を終えるということはなんらかの新しいスタートを自分が切ろうとしているということだ。


祖父はこんなことをいっていた。
「勘違いもな、本気でやってるとな、まわりがその勘違いに沿って自分のことをみてくれるようになるんだ。だから、ボクももっと自分のなりたいように生きる努力をしてみろ。」

祖父はかっこよかった。
ピアニストで、絵描きで・・・
でも、いつも祖母を泣かせていたな。
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小説008 : reProfesional#81

2008-09-26 01:30:08 | reProfesional
chapter#7 僕の死亡

ボクは死んだんだ。
すくなくとも、この小説の序章を描く前のボクと、この序章に入ってからのボクは。これまでは、もしかしたら、自分が誰かに人生を預けているということに気づいていなかっただけなのかもしれない。

生きがい。
働き甲斐。
それは、もしかしたらひとつの美しい勘違いから生まれているのかもしれない。
妥当な実力にあった仕事と、気のあった仲間。
そういう環境の中での居心地の良さ。
そんなところから、安っぽい生きがいっていうのは生まれてきていたのかもしれない。
逆に言うと、妥当な実力に見合わない仕事、そう判断した場合、それまでの勘違いが、勘違いであったと思い知らされるゆえに現れる絶望に近いものなのかもしれない。

人生の預け主。
それは、きっと身近にいると、急激にやる気をそがれるのかも知れない。
自分の意志で生きていると思いながらも、実は身近にいなかった預け主、彼の操縦のものとに、自動操縦の列車のように動いてきた、それが人生だった。
そう気づかないまでがシアワセなのかもしれない。
気づいてしまったらどうするのか?
預け主への恋心はあまりに近くにいると褪せてしまう。
そんな性格のものなのかもしれない。
痘痕も笑窪。
ある程度の距離感があったほうが、自分が彼に人生を預けてしまっているなどという、絶望感は味わわないですんだだろう。
人生の預け主。
彼とはなれているときは、涙を流すことも、人生から逃げるということもある程度自由に許されていたのだろう。
しかし、預け主の前では、惨めな姿は見せることはタブーであろう。

預け主。
彼自ら、ボクの人生への審判を下せる。
そういう悲しい絶望を容易に彼の近くでは感じることが出来る。
旨が焦げ付く感じがする。
すべて預け主次第。
彼からの報酬をもらうそのためだけに、奴隷のように過ごしていく。
そんな環境では、いわゆる先に言った生きがいだとか、働き甲斐を見出すのは至難の業だろう。

自分の人生は空白だった。
ただの一度も自分の判断でなにも決めることが出来なかった。



そんな、感想をボクの死亡の時に感じる。
そんな結末だ。
でも、小説の最初にある程度力説したように、一時的にボクの身を取り囲む預け主は彼であったとしても、ボクは彼と生涯を共にするほど自分の人生を無駄にするという勘違いは出来ない。
勘違いなのか?
いずれ、彼が自分の人生の預け主でなかったにしても、ボク達はいつも、だれか圧倒的なだれかに人生を預けざるを得ない。

ボクには一人では何もできない。
これは、決していわゆる絶望なんかじゃない。

ボクには、到底こたえなんて出せそうもない。
シアワセ。
現世的なシアワセではない。
遠く何かにつながるシアワセ。
僕にできる唯一のこと。
ただ、水中で息が止まりそうになるという憔悴とともに、ただ、ひたするもがくということ。
ボクはもがける。
そう、もがくことが出来るんだ。
たとえ、自分の人生が預け主が誰であろうとただもがくことが出来る。
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小説007:reProfesional#80

2008-09-22 23:46:36 | reProfesional
chapter#6 序章の終わり


終わりは突然訪れる。
もうこの舞台での小説を描くことは難しいだろう。
クリアしなければならない課題がいくつかあり、そう簡単に身を移すということは出来ないんだろうか?
きっと糸口はあるはずだ。自分の武器をさび付かされ、くさったみかんの中に身体を捩じ込んでいく。
有名なドラマの一説じゃないけど、腐ったみかんのなかに浸されていくボクは、きっと腐り始めているのかもしれない。
これまでに、見たことがないリアルな不幸を感じさせる目の下の隈。
潤いを失った髪。
まさに、腐敗を始めている。
でも、ボクはきっとこの腐敗を食い止めるだけの勇気はある。

「序章という言葉」

ボクの人生での序章はとっくに終わったはずだった。
序章は終わったはずだった、それなのに、また序章を描かなければならない。そこに、この執筆家の不幸はある。
以前、ボクが決めた序章から、卒業した後には、晴れやかな舞台が待ち受けているはずだった。
脳ミソはクリエイティブに新しい舞台を描いていたはずだった。

それなのに、地獄は待ち構えていた。
まったく意味を感じない時間。
クリエイティブさから、かけ離され脳みそは腐っていくのを実感していた。
実際に身を移すタイミングを計らないといけない。
X-DAYを過ぎても甘い誘惑を感じていた、信じていたそんな自分が確かにいた。
あきらめも肝心だ。
自分は青いシャツを着るために生まれてきたんじゃない。
日雇い労働者のように、つまらない心配を胸にいっぱいに秘めて、生きるために生まれてきたんじゃない。
もし、ボクが本当にこの環境から、抜け出し、あたらしい価値を創造するに値する人間ならどうか、ここから抜け出す力をください。

本当に序章が終わり、新しい序章が、いや、もともと序章としておいたわけではなく、序章の次の発展の段階としておいたこの段階が、終わるとすると、僕にはいったい何が出来るんだろうか?

アメリカのドラマで、変わった帽子をかぶり、空に高らかに投げるように、ボクは序章から卒業をしたはずだった、まだ夢と希望に満ち溢れていたあの時。

また、序章は始まった。
序章を終わらせることはきっとそれほど難しいことでもないはずだ。



今が発展的段階ではなく、まさか、序章で築き上げてきたことが、無残に消え去るための時間だったなんて思いもしなかった。
序章として用意するつもりのなかったものが、序章としての華やかさもなく、序章が始まるまでもなく、終わっていく。
こんな結末は僕の周りの愛すべき人たちも誰も期待していなかった。

ボクには次の序章を描く力は残されているんだろうか?
そう。
顔つきも、みすぼらしい顔つきになってきた。
もうひたすら、無意味にテレビを見、寝ることしか才はなくなってしまったのだろうか?
日雇い労働者・・・
そんなワーキングスタイルが、ボクのライフスタイルまでゆがめてしまったのか?

そんなのはいやだ。
たとえ、序章がうまく成り立たなかったとしても、いや、序章として考えていなかった序章を切り捨て、もともと次なる段階に行こうと決意して書き始めたこの序章。

きっと、新しい打開策はあるはず。
そう絶対に序章はムダには終わらせない、失ったものを取り戻す。
それが、少なくとも、ボクが敢えてこのあほらしい空間のなかで、筆を取ろうと決意した理由じゃないか。
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小説006:reProfesional#79

2008-09-05 23:56:45 | reProfesional
chap#5 感情-2 恋

裏切り、悲しみ。
案外人間というのは、性善的につくられているものである。

「自分をこんなふうに扱うなんて」
「こんな思いをするなんて」

そう人間ていうのは、最初は積極の心をもっているものなのだろう。そうでないと、傷ついたり、悲しんだりしない。
人間の本性は自分という存在と周囲との関係において、好意的に考えるという前提で、組まれている。
だから、生きるということは、時に悲しみに満ち溢れてしまう。

人間が生きるということの本性は、恋をするということに近いのかも知れない。恋が始まるのは、始まるきっかけは、そういったほうが近いかもしれないが、自分に対して、相手はきっと好意を抱いてくれるに違いない。もしくは、自分がある程度の努力をすることで、相手もこちらに振り向いてくれるのではないかという、性善的な希望に彩られたときだろう。

「人生は恋に似ている」

とくにそんなに恋に精通しているわけではない僕が言うのもへんだが、最近直感的にそう感じる。
時に、空しい空振り三振の中でもう一回バットをふってみる。そんな感じをよく味わう。

「もう人をこうことはできないんだ」

人生に負けた気がする。

そんな気持ちになるときもあるだろう。今の自分の似非役者と名付けた人々と、登場人物との関係性は、そんな気分に彩られている。いろんなよくない気分が体を侵食していく。
序章の中で、はや希望を失いかけている。

人生で希望を失う一番大きな原因は、恋、比喩的意味でのそれが、失敗におわったときに生じるのだろう。

「もっと相手にしてほしい」
「もっとこっちを向いてほしい」
そんな、思春期の思いに似た感情でボクの心の中は、満たされている。
序章をうまく乗り切れるのか?そういう不安で一杯だ。
だれも、周りの人は、周りの登場人物は、ボクが泣きじゃくって悩みをいうことを許してくれない。
ただ、じっと我慢するために、この物語は立ち上げられたの?
そんな、絶望にも近い感情で、時々頭の中が一杯になるんだ。

「ボクには、人生という恋はできないの?」
「ボクはないちゃいけないの?」

登場人物の中で主人公は、強くないといけない。でないと、物語は一歩も前に進まないから。

「物語が前に進まない?」

たしか、ボクはこの小説を人生というものと代置するようなかたちで、書こうと決意したんだよね?
そうすると、恋をしない人生ってもう「ない」に等しいの?

「恋」

きっと、胸をときめかせるべきもの。
でも、よくよく考えてみると、片思い以外の恋って、よっぽど卓越した技術のある人意外はないよね。
人生に一度、比喩的な意味ではないほんものの恋があれば、それが運命。
だとすると、人生全体で見ても、恋というものを比喩的に使った場合でも、一勝九敗。
そんな感じなのかな?

こんなに悲しい感情の中でも、ボクはきっと物語を書き続けなければならないの?
きっと、ボクはこの物語を書くんだと思う。
だって、弱い僕には、この一度扉をあけてしまった物語の扉を閉じてしまう勇気はないから。

本当に、こんなボクに確固たる自我なんてもてるのかな?
人生は恋に似たものだとすると、そんなもの持たないで、恋を必死で他者依存的にするほうがてっとりばやく、よい日々をすごせるのかな?
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小説005 reProfesional#78

2008-09-02 00:14:58 | reProfesional
chapter #4 感情

ゲーテ曰く。
「瑣末なことに振り回されて重要なことをおろそかにしてはならない。」
と。

これまでにみてきた、この小説=物語の中での価値観。
ワタシという人生の中での哲学。
自分が変化のうねりとなろうとすることで、気分の不快が現れた。
きっと、そんなことが、新たな物語を作り出す必要性を生み出したのだろう。変化の中で、自分が主人公であろうとすること。
この小説はあくまでも、すべて今後続くボクという物語の序章に過ぎない。
短い時間の中での心理の変遷。
変化の中できっと自分には、他の似非役者が路頭に迷う中で、
きっと、路は見える。そう信じたことから、物語のすべてはスタートしたんだ。

前の章では、自分が感情の空白という自分の本来性から離遊し、根っこを引きちぎられる根無し草の心境を思い描いた。
いまだ、ここにきて、以前の章で私が描いた似非役者との関係性ということについての記述は本格的には書かれていない。
しかし、それはさして重要なミスではない。
サルトル曰く、自分という存在の中での自分との対自的側面を徹底的に見直さないことには、対他的側面は性格には現せない。
えらそうにいうと、そういうことになるが、簡単にいうと、日々の感情の戯れにより、こういう展開になっているというのが正確なとこだろう。
物語の主人公も、書き手も完成したプロットを持たず、必死で、その時々の関係性を自分という存在をアンガジェさせ生きている。
それが、人生というものだろう。

前章での「逃げ」からの逃げを行うことを徹底的に行う。
このことが、物語を新たに立ち上げる必然性となる。息苦しさは、その「逃げ」のなかから生まれてくる。
息苦しさは、新しい物語を立ち上げるにあたり、かき消すべきものなのであろう。
感情の空白を断ち切る、感情の空白の遊離から、永遠に離れようと努力するということ、それは、言い換えると、確固たる自己、自我を芽生えさせるということになるであろう。
このすべてが自分という物語の序章である小説においては、その確固たる自我とはなにか?ということへの回答をこころみるということが結論なるであろう。

感情の空白の逃げへの逃げということへの回答。
それが、この章の冒頭のゲーテの言葉につながるであろう。
気分に支配されてはいけない。決して感情がその時々の行動をつかさどるのではない。似非役者に囲まれ、気分を害され、本来はコントロールできるはずの感情をやすきに預けてしまう、それが原因だ。
そうだ、つまり、確固たる自我は、その時々に生じる残酷な気分をつかさどる何かをしっかりと持つこと。
自分が主人公であることを妨げる気分をコントロールし、その上で、感情をコントロールするということがすべてのスタートになるであろう。
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