学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

学級経営に悩んだら

2010-06-22 | 教育
若いときは,
自分が担任するクラスの子どもたちに好かれているのか,
嫌われているのかがずいぶんと気にかかるものである。

やはり,教師になったからには,
子どもたちに好かれたい,
いい先生と呼ばれたいという思いをもつのが
人情である。

しかし,クラスが思うように運営できない場合,
子どもたちに好かれたいという気持ちが強いと,
上手くいかず,悩みもまた深くなる。

私が昔,確か何かの本で読んだはずなのに,
どの本であったか,とんと思い出せないのだが,
クラスを担任するときに,
いつも心に留めている言葉がある。
それは,次のような趣旨の言葉である。

 クラスの半分の子どもはあなたのことが嫌いです。
 残りの子どものうちの半分の子どもは,
 あなたのことが好きです。
 そして,残りの半分の子どもは,
 あなたのことをなんとも思っていません。
 それぐらいが普通です。

この言葉を聞いて,
ずいぶんと気が楽になったことを
思い出した。

もちろん,教師の側からは,
子どもたちを嫌うなどということはあり得ない。
そもそも教師にとって,
担任する子どもたちは,
好き嫌いの対象ではないのである。

そこもはきちがえてはいけない,
大事なところである。

学校のICT化の「推進」

2010-06-19 | 教育
学校のICT化を推進する議論が盛んである。

これらの議論で疑問に思うのは,
ICTを「活用」し「推進」することが
前提になっていることである。

学校でICTを活用せず,推進しない可能性が
はじめから除かれているのである。

これはなぜだろうか?

それはさておき,ここでは活用せず,
推進したくない側の言い分を書いてみよう。

よくさまざまな電子機器を学校に導入したが,
使われずに眠っているなどという話を聞く。
あたかもそれが教師の怠慢であるかのように語る人もいるが,
実際はそうとばかりも言い切れない。
現場感覚で,「使えない」と感じる場合が多いのである。

例えば,教室内に設置されるプロジェクタや
電子黒板などをみても,
さまざまな可能性があるように見えて,
根本のところで,教材提示装置としては未成熟である。

黒板とチョークその他
従来からある教材提示法のもっている柔軟さやすきま時間の創出,
もろもろのアナログの人間的な安心感は,
まだ現在のICT技術では実現できていないと思う。

現在のところ,教室のICT化によって,
新しくできるようになったと実感できることはあまりない。
いままで使っていたもので,十分対応できるばかりか,
むしろ,学習者にとっても安心である場合が多い。

欧米で普及しているからといって,
それがそのまま日本で有効であるとは限らない。
例えば,これは私の実感にすぎないが,
日本語の文字は,
アルファベットと比べて画数が多く複雑なために,
プロジェクタ等に移された文字がちょっと小さくなると,
認識するのに疲れてしまうのである(老眼のせいも多々ある)。


ともあれ,
学校のICT化を,
本当に「推進」すべきなのかどうなのか,
メリットとデメリットを勘案して,
もっと慎重に「検討」すべきであろう。



大学で学んだことは役に立つか

2010-06-17 | 教育
よく聞く言葉に,
「教育現場では大学で学んだことは役に立たない」というのがある。

現場の教員が言うのならまだしも,
教育実習生までもがこのような発言をすることがある。
教育実習生がこのような発言をする背景には,
教育現場で指導に当たっている教員への
リップサービスの意味も多々あるのであろうが,
あまり好ましい発言ではない。
大学で真剣に学んでいない者に限って
このようなことを言うものである。

さて,本当に大学で学んだことは
教育現場では役に立たないのであろうか。

私自身は,
大学で学んだことが教育現場でとても役に立っている。
とくに大学でしか学べないような内容,
テキストの厳格な読みの訓練や
テキストを批判的に読む訓練,
学問に対する深い情熱や
研究に対する厳しい姿勢など,
大学でお世話になった先生の人格的な感化ともあいまって
私の教員生活の大切な糧になっている。

当然のことながら,
教員としての実践的指導力の育成などということについては,
それほど直接的には大学では学んではこなかった。

しかし,
大学でしか学ぶことができないであろう
高くまた深い学問的修練や教養が
己のバックボーンとして
きちんと身についていれば,
資質を備えた教員であれば,
実践的指導力などはおのずと身につくものである。

要するに,「大学で学んだことは役に立たない」というのは,
その人に大学で学んだことを役に立てる力がないだけのことなのである。
役に立たないと思ったら,役に立てることができるところまで
学びなおしたほうがよい。

ともあれ,私は,昨今の教員養成における
実践的指導力重視の傾向を危なっかしく思っている。
学問への敬意や健全な批判精神,
幅広い教養といったバックボーンのない,
流れのままにただようクラゲ教員の大量生産だけは
ご免蒙りたいものである。

まずは整理整頓

2010-06-16 | 教育
学校の教室で
何が一番大切かといえば,
やはり整理整頓なのである。

どのような机の配置にせよ,
秩序を感じさせない配置は駄目である。

子どもの持ち物を収納する棚が
乱雑になっていたり,
掲示板が乱れていたり,
床にごみが落ちていたり,
落書きがあったりするのも駄目である。

もちろん,教室の先生の机や収納棚が
乱雑なのは論外である。

学級担任をまかされたら,
まずは毎朝教室に行って,
机を整え,ゴミをひろい,
乱雑な箇所は整え,
落書きを消し,
掲示板を直し,
窓を開け放って換気する。
子どもたちがもうすぐやってくる。
それを迎える準備である。

夕方,教室に行って,
机を整え,ゴミをひろい,
乱雑な箇所は整え,
掲示板を直し,
窓を閉める。
そして,教卓のところに立ち,
今日一日の子どもの様子を
思い起こす。
一人一人の顔を思い浮かべ,
今日その子どもたちがどうであったか,
振り返る。

教師とは,なんとよろこばしい仕事であることか,
それを感じられるのが,
この朝と夕方のひとときである。

教室に花があるのは,好ましい。
それが,教師の心ばえを示す。

少なくとも,
このような誰も見ていない地道な営みが,
学校を落ち着いた場所にするのである。

だれも評価などしないであろう
このような心配りのできる教員が,
なんと住みにくい時代になったものか。
なさけないことである。


舞台裏は隠しましょう

2010-06-14 | 教育
「わかる授業」とか「楽しい授業」という言葉が,
さも望ましいもののように子どもたちの前でも
堂々と語られるようになったのは,
よくないことである。

教師が,子どもの前で,
「すべての子どもに分かる授業をします」とか,
「楽しい授業を追求します」とかいうのは,
愚である。

子どもには,
「どんな授業でも,
 その授業の中から自分でヒントをつかみ,
 自分で分かるまで勉強に励みましょう」,
あるいは,
「勉強をこつこつ続けていけば,
 そのなかに楽しさが見つかるものです」と
教師は言うべきなのである。

教師は,
子どものいないところで教材を研究し,
子どもの成長にもっとも有効な教材を準備する。
それは,ただ分かりやすければよい,
楽しければよいというような
単純なものではないが,
良質な教材には,当然分かるためのヒント,
楽しみを見出すことの出来る端緒が含まれている。

しかし,このようなことは,
教師の舞台裏での努力の指針であって,
子どもに対しては,
自分の力で糧をつかむように言っておくべきなのである。

そのあたり,
最近の教師は,
もう少し老練になるべきなのであろう。

子どもの可能性

2010-06-13 | 教育
よく「子どもには無限の可能性がある」というような
書き方をしている教育関係の書物などがある。
子どもに無限の可能性があってほしいという願望はわかるが
それは事実ではない。

正確には,
子どもはどんな可能性をもっているかわからないし,
どんな可能性が花開くかわからないというべきであろう。
すなわち,
子どもの可能性は未知ではあるが,
無限であるとは限らないということである。

願望に基づく言説を慎重に排除することで,
より意味のある教育論が形成されるはずである。


見せる改革 見えない改革

2010-06-12 | 教育
改革には,実は2種類ある。

学校教育について言えば,
世間でいわれる教育改革は「見せる改革」のことである。
つまり,
「こんな改革をしましたよ。素晴らしい改革ですよ」ということを
外部に発信する改革である。
この種の改革は,内部の者から見れば,
矛盾や不備がたくさんあるのだが,
それらの声は発信されることはない。
もうひとつ,この種の改革のポイントは,
お金がかかる改革であるということである。
しかも,そのお金は,児童生徒のために使われるのではなく,
なんらかの改革関係者の利益を生むような構造になっているが,
そのことも発信されることはない。

学校で本当に必要な改革は,
「見えない改革」である。
これは,教育現場の心ある教員が,
日々行っていることである。
改革をやっていますというには,
あまりにも小さな変化が日々積み重ねられているのだが,
長いスパンで見れば,
いわゆる教育改革よりも大きな変化を内部的には生み出すことができる。
これらは,外からは見えない。
発信することが目的ではなく,
ただ「学校をよくしよう」という
当事者感覚から発したものだからである。
当然,コストも許された範囲内で使われ,
その受益者は直接に児童生徒である。

そろそろ,どちらの教育改革をすすめるべきか,
賢明に判断すべきであろう。

デモシカ教師の価値

2010-06-10 | 教育
最近,デモシカ教師が少なくなった。
これが学校の活力を奪っているのではないか。

まず,デモシカ教師について考えてみよう。

デモとシカではちょっと違うのである。

まず,デモ教師は,
もともと学校や教師というものに対する
自分のなかでの価値付けが低い。
だから,学校の論理や教師至上主義を
盲信することがない。
なにを上から言われても,
「なにいってんだい,へっ」てなものである。

次に,シカ教師は,
能力は低かったかもしれないが,
教師にしかなれないという
本人の自覚のもとで,
自分なりのやり方で,
必死で教師であろうと努力して
教師である自分に逆に喜びを感じるように
なっている人も多い。

もともと教師にあこがれて教師になった者だけでなく,
デモやシカが混在した学校が,
多様な大人モデルを子どもたちに提供していたのである。

そして,
教育万歳,学校万歳の教師たちが
陥りがちな偏狭な教師意識に
風穴を開け続け,
本当の意味で学校を支えてきたのは,
これらデモシカ教師たちだったのではないか。

いまや時代は変わり,
デモシカ教師という言葉さえ
あまり聞かれなくなった。

今無気力に陥っている先生は,
デモシカ教師などではなく,
もともと,まともに教師になりたかった先生たちが
多いのではないか。

ともあれ,本当は,
生涯一教師を看板にしている先生や,
教師なんて仮の姿で
本当の俺はこんなんじゃないぜという先生や,
とにかく俺には教師しかないんだ,
ここをくびになったらいくとこないよという先生や
まあまあ人生こんなものよという先生や,
その他いろんな経験を持ち,
いろんな価値観の先生が混在しているのが
いちばんいい学校なのではないのだろうか。


教員の資質能力への疑問

2010-06-09 | 教育
 「教員の資質能力」という言葉に前からどうも引っかかるものを感じていた。

 例えば,1997年の教育職員養成審議会・第1次答申「新たな時代に向けた教員養成の改善方策について」で「教員の資質能力」を定義した次の文が私には理解できないのである。

  教員の資質能力とは、一般に、「専門的職業である『教職』に対する愛着、
  誇り、一体感に支えられた知識、技能等の総体」といった意味内容を有する
  もので、「素質」とは区別され後天的に形成可能なものと解される。

 その理由のひとつは,この文は,「資質」や「能力」という言葉のもともとの意味を無視して書かれているように思えることにある。広辞苑によれば,「資質」とは,「うまれつきの性質や才能。資性。天性。」であり,「能力」は,「物事をなし得る力,働き。」である。なぜ,もともと先天的な性質や才能を意味する語である「資質」という語を用いて,ほぼ同義語である「素質」と区別し,さらに「後天的に形成可能」などという原義とは正反対の意味づけを与えているのであろうか。

 さらに,この文では,修飾語を取り除くと「教員の資質能力」とは,「知識・技能等の総体」という意味だということになる。この文構造がわからない。もっと省略すると,「資質能力とは知識・技能等の総体である」となってしまうのである。資質能力と知識・技能ではもともと意味するところが全く違うのに,それがイコールで結ばれているのである。

 このような文で定義される「教員の資質能力」とは,一体何なのであろうか?
私のような素人の言語感覚では到底理解不能である。どう考えても,この定義文はアクロバティックすぎる。私には,まるで,「りんごとは,一般にぶどう・ももの総体といった意味内容を有するもので,ひめりんごとは区別され,じゃがいものようなものと解される」とでも言っているかのように聞こえてしまうのである。

 かくして,根本のところでこのように定義される「教員の資質能力」というものは,どのようなものなのか,その実体がつかみきれないのである。摩訶不思議である。

 

教師として?

2010-06-08 | 教育
教師としてどうあるべきか,ということは,
教師自身の職業倫理として自戒すべきことである。
それは,教師の自律性に関わる問題でもある。

ところが,
教師を取り巻くさまざまな教師ではない人々から,
「教師とは○○であるべきだ」という発言を聞くことが
多くなった。
しかし,その○○が,その教育現場の教師からみると,
妥当性を欠いていることもまた多いのである。

そのようなとき,
教師はどのような態度をとるべきであろうか。
とにかく,
「○○であるように努力します」と言って対立を回避するか,
やはりはっきりと,
「いいえ,教師は○○であるべきではありません」と言うべきか。

もし,後者のような言い方をすれば,
最近の風潮からいって,
「教師たる者が何たることを言う」というような怒りを買うことは,
必至である。

しかし,
教師は自ら顧みて教育者として正しいと思うことは,
はっきりと言わなければいけないのではないか。
それ以前に,
自らの人間としての尊厳を守らなければならないのではないか。

そして,
誠実に安心して仕事のできる職場をつくるべきではないか。

コメント欄は事前承認制とします

2010-06-08 | 教育
ブログを長くやっていると,
時々起こることだが,
ここ数日,ずいぶんと長文のコメントがたくさん寄せられている。
その内容も,どのような意図か知らないが,
エントリーと直接関係しないものが多くなっている。

ゆえに,
しばらくコメント欄は,
管理者による事前承認制とします。

思考停止の危険性

2010-06-06 | 教育
学校教育界の病根のひとつは,
思考停止にあるのではないかと考えるようになった。

学校教育界でよく使われるフレーズは,
どれも反論されにくいフレーズである。
それゆえ,思考停止を導きやすい。

以前話題にした「生きる力」にせよ「教育愛」にせよ,
その他いくらでもあげられるが,
それらに疑問を呈する論陣をはると,
あたかも教師失格であるかのような感情的な反応が
寄せられるのは,実に興味深い現象である。

これまで,このブログでは,
そのような学校教育界で所与の前提とされているような事柄に対して,
違った角度から違った認知が可能ではないかという意味の
エントリーをいくつも書き記してきた。

エントリーをいくつも書き記していくうちに,
現在の学校教育に行き詰まりがあるとすれば,
その原因の一つは,
学校教育の所与の前提とされている事柄への問い直しを阻む力が,
学校を取り巻いて,
強く作用しているからに他ならないと考えるようになった。
学校教育を取り巻く者たち,すなわち,教育学者,教育行政,
教育に関心の高い保護者,あるいは教員自身さえもが
問い直しを阻んでいるのである。

そして,この力は,
私の感覚では,21世紀になる前後から
次第に強まってきているように思える。

学校教育そのものは,
見ようによっては,すでに制度疲労を起こしている。

制度疲労を起こしたシステムを維持するためには,
そのシステムを成り立たせている理念を根本から十分吟味し,
そのシステムの本質を見極め,
そして,見極めたその本質をあくまでも維持し,
変更しないことが必要である。
(その吟味の目をもてば,「生きる力」であれ「教育愛」であれ,
 本質ではないことが分かるであろう。)

それが無理であれば,
そのときは,システム全体を廃止し,
新しいシステムを構築することである。
脱学校の方向性である。

将来的に,どちらの方向性をとるにせよ,
現在の学校教育界に蔓延している
所与の前提を鵜呑みにしてしまう思考停止の風潮は
はなはだ危険な兆候であると思われる。


教育愛の欺瞞

2010-06-03 | 教育
「教師が愛情をもって
 根気よく子どもに接すれば,
 必ず子どもにその愛情が届き,
 子どもは教師の愛情に応え,
 よりよく成長する」
というと,非常に教育的なすばらしい言説のように感じられる。

しかし,同じ論理構成をもつ次の言説はどう感じられるであろうか。

「男性が愛情をもって
 根気よく女性にアプローチすれば,
 必ず女性にその愛情が届き,
 女性はその男性の愛情に応え,
 よりよい関係が結ばれる」

これでは,ストーカーである。

なぜ,このふたつの言説の捉えられ方に
違いが生ずるのであろうか。

このあたりから考えると,
教育愛の欺瞞が見えてくるように思われる。

学校は社会維持のための装置にすぎない

2010-06-02 | 教育
近代学校は,そもそも近代社会を維持するための装置にすぎない。

とくに公の性質を帯びた現在の学校制度は,
現代社会を維持するための装置としての機能を果たすようにつくられている。
学習指導要領の文言をよくよく読めば,それは明らかである。

したがって,個人の個人としての成長や,
個人が学校で感じる喜びや楽しさは,
すべて副次的なものであって,
それらが主目的になることはないのである。

学校は,その本来の機能ゆえに,
社会の要請に敏感に反応せざるを得ないようになっている。
キャリア教育にせよ,情報教育にせよ,
伝統文化の尊重にせよ,小学生の英語教育にせよ,
すべて,現実の社会の要請あるいは
誰かが想定した(あまり根拠のない)ありうべき社会の要請に
答えるものであって,
これらのことを学んだからといって,
すべての子どもたちに幸せが保証されるわけではない。

ところが,教育的言説の多くは,
学校で個人の幸せが得られるかのように錯覚させている。
そのような言説は無謬性を感じさせるフレーズを使う。
楽しい学校,すべての子どもが高い学力を身につける学校,
わかりやすい授業などなど,あげればきりがない。

このような錯覚が有効に機能している理由は,
それらの言説をもっとも望み,
それらの言説にもっとも共感し,
それらの言説の矛盾に気づこうとしないのが,
教師自身であるからである。
むしろ,子どもたちのほうが覚めている。

それゆえ,この錯覚は,
教師のモチベーションを高めるために,
都合よく利用される。

しかし,これらは学校の本来の機能からいって
不可能であるがゆえに錯覚なのであるから,
この錯覚に基づいて教育に精励しても,
冷静に検証すれば,はかばかしい成果は出ないものである。

現代のように,
社会全体の教育力が落ちている社会では,
学校という装置は,
本来社会がもつべき教育力の分まで,
過剰な教育機能を要求される。

到底,学校にはにないきれない要請であるのに,
子どもたちの「幸せ」のために,
誠実に働く教師が錯覚ゆえに病んでいく一方,
この錯覚を無意識にか感じとり,
己の存在を守るために,
すべてを拒絶するかのような教師もいる。
さらに,
もともと錯覚には無縁であるのに,
錯覚しきっているようなふりをして,
その実,自らの地位を高めるために,
よろこんで社会の要請に応えるかのようなポーズをとる教師もいる。
そして,そのような教師のもとでは都合のよい成果がでることになっている。

この構造的な矛盾を何らかの方法で解決しない限りは,
教育改革をすればするほど,
学校を「よく」しようとすればするほど,
学校教育は劣化する。