学校教育を考える

混迷する教育現場で,
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「学び合い」という言葉のおかしさ

2018-11-03 | 教育

「学び合い」という言葉をよく聞くようになって久しい。

しかし、この「学び合い」という言葉はおかしな言葉だと感じている。「~合い」という言葉の「~」のところに入る動詞はふつう相手が想定されている動詞である。たとえば、「話し合い」という言葉は、「話す」という動詞そのものが、他者と言葉をかわすことを意味しているので、その行為を相互に行うことが「話し合い」という言葉である。ところが、「学ぶ」という言葉には2つの意味があって、ひとつは教えてもらって習うという意味、もうひとつは自分で勉強するという意味である。後者の場合は、他者が想定されていないので「学び合い」という言葉は使えない。前者の場合は、想定されている他者が教師なので、「学び合い」と言うと、教師と生徒が学び合うことになり、語義から言って矛盾が生じる。すなわち、「学び合い」という言葉は成立しないはずなのである。

ところが、「学び合い」という言葉が流布する背景には、ひとつには言語感覚に問題があると私は思っているが、もうひとつは「学ぶ」という言葉を原義から考えていないことにあると思う。「学ぶ」ということの意味は、他者を想定する場合であっても、知らない者が知っている者から習うということであって、ふつう、それは同輩からではなく、年齢的にも経験的にも上の立場にあるものから習うことを指している。もし、「学び合い」が児童生徒の間で成立するとすれば、それは児童生徒の間に教える者と教えられる者の上下関係をつくりだしているに過ぎない。「学び合い」がもし教室で成立するとすれば、皆が平等な学ぶ者として存在するのではなく、児童生徒を教える者と学ぶ者に分離させているに過ぎず、学ぶ者の共同体が形成されているようにみえながら、その実、優劣や上下関係を固定化させているのである。協同の名のもとで優勝劣敗をマイルドに内面化しているということには、あまり気づかれていないのではないだろうか。


「生きる力」という表現はおかしくはないか

2018-11-03 | 教育

いまさらだが、「生きる力」という表現はやはりおかしいのではないだろうか?

この言葉が出てきたとき、変な表現だなと思ったのだが、普通に使われるようになってしまって、だんだんその違和感は麻痺してしまったのだが、やはり考えてみるとおかしいと感じてしまうのである。

「生きる」というのは、もともと生命を保っている状態を指す言葉ではなかったか。当然、ここから生計を立てるといった意味が派生してくるのだが、「生きる」というのはもともとは、自分の力でどうこうできるものではなく、なにか人間の力を超えたものによって、それは自然かもしれないし、神と言う人もいるだろうが、そのようなものの力によって生かされているというのが、本当のところではないだろうか。

私が中学校の時の校長先生が、しきりに講話などで「生かされる身の尊さ」というお話をなさったが、当時はその意味がはっきりとは理解できなかったが、歳をとってくるとその言葉の重みが理解できてきたような気がする。

日本では、昔から生死は無常であり、人の力ではどうしようもないものと考えてきたように思う。だからこそ、生きていることに感謝し、命を愛おしむべきだと考えてきたように思う。

だから、「生きる」という言葉と「力」という言葉をつなげる感性にどうも違和感を感じてしまうのである。

「生きる力」という言葉が使われだした頃、通勤電車のなかで二人のサラリーマンが「生きる力っていったってなあ、力があろうがなかろうが、生きていかなきゃならないんだよな」と話しているのが聞こえてきたが、まさにそのとおりなのである。

「生きる」ことと「力」を結びつけるべき状況としては、瀕死の人が命の火を保ち続けているような状態のときであって、教育の世界にはふさわしくないのではないか。

教育は「生きる」ことには関わってはいない。西洋の先哲の言葉を借りれば、「よく生きる」ことにこそ関わっているのである。そして、「よく生きる」ために必要なのは「力」ではない。「徳(アレテー)」である。