最近,とくに公立中学校あたりで顕著なことなのだが,部活動が学校教育の中で治外法権化しているように思えるのである。部活動といえども,学校の教育課程の一環として行われているのだろうから,おのずから活動時間の長さや時間帯については規制がかかっていてしかるべきなのだろうが,早朝も放課後も,さらに休日も返上で活動する部というのも最近多いようである。ちょっとエスカレートしすぎではないかと思われることも多々ある。この原因を推察するに,部活動が実質的に校長の管理下から離れていることにあるのではないか。学校の教育活動のなかで,教師にとってもっとも自律性を発揮できるのが部活動の部長(顧問)という立場である。部活動を熱心にやる先生,休日返上で部活動を指導する先生は,よい先生という保護者や世間の考え方も,部活動の部長(顧問)の自律性を後押ししている。つまり,教師にとって,部活動の部長(顧問)は他からの指図を受けずに行える唯一の教育活動となっている。だから,そこにいわゆる自己実現を求める教師も多くなる。生徒も部活動のことなら文句を言わずついてくる。さらに,部活動においては,勝利至上主義の教師が多いし,生徒もまた同じ考えになる。そもそも,スポーツにせよ,文化活動にせよ,勝利至上主義が学校の教育活動の理念の相いれないことは明らかである。そのことは,例えば,スポーツであれば,体育教師ならばよくわかっていることなのだが,ふつう部活動の部長(顧問)になる教師で幅を利かせるのが学生時代にそのスポーツなどを少しかじった程度のいわば素人である。「素人+勝利至上主義」ほど危ないものはない。校長の指導能力の弱い学校ほど,「熱心だ」という名目で,部活動が独走する危険性が高い。校長は,部活動をも教育活動の一環として,きちんと指導方針を明示するべきではないか。あわせて,教員のボランティア的な休日出勤はやめさせたほうがよい。給与が発生しない活動においては,心情的に校長の命令権が及びにくくなるからである。このあたり,考え直す時に来ているのではないか。
学問を究めようとする者は,「真理」を希求する。そして,「真理」が「真理」であるためには,美しい単純さが必要である。学問とは,複雑で混沌とした事象の中から,ある美しい単純な原理や秩序を見い出そうとする営みである。しかし,その単純さは,長い緻密な努力の果てに得られるものであって,決して一朝一夕に見い出されるものではない。これは,自然科学でも人文科学でも,分野を問わず同じであろう。だから,学問を究める者は,この単純さに到達する過程で,自らの偏見(バイアス)に気づかされ,自らのバイアスと戦いながら,そして,いくたびも「懐疑」におそわれながら,一歩一歩,歩みをすすめるのである。
ところが,このような苦しい道をたどらなくとも,単純さに到達することはできる。それは,複雑で混沌とした事象の全体を見ずに,ごく一部だけを見て,判断を下すことによって可能になる。当然そのような方法で到達した単純さは,「真理」とは似て非なるものではあるのだが,「懐疑」を断ち切って,それが「真理」であると言いきってはばかることなければ,それが,学問の果てに到達し得た「真理」であっても,このような危うい「真理」であっても,ぼろがでないかぎりは,ともに自らの思考の結果であるとは言えるのである。その「真理」の質がどのようなものであるかを正確に判断できるのは,やはり前述のような学問的経験に触れたことのある者であろう。この学問的経験を「教養」という。
なぜ勉強しなければならないかといえば,このような「教養」を身につけるためであって,「真理」であるかのようによそおって近づいてくるものを退けることのできる力を身につけるためである。その意味では,「真理」を見い出すことは並大抵の努力ではできないことなのだ,ということを骨身にしみてわからせる必要がある。これは,学問であれ,職業訓練であれ,まったく同じである。教育とは,実は,自らが到達したいと思っている地点には到底到達できないのだということを知らせることにその本質がある。
このような視座から,現代の学校教育を考えてみると,間違いだらけである。例えば,PISAの影響による思考力重視の傾向によってか,現在の学校では,自分の考えや主張を述べることをよしとする傾向がある。しかし,たかだか未熟な子どもの考えである。そのような考えに自信をもってもらっては困る。少し賢い子が,相手を論破するような経験を積んでしまうと,その子どものバイアスは決して修正されなくなるのである。それは,我が国の教育に,論理的思考力の育成に関する基礎的な共通認識が形成されていないからである。西欧の場合は,「考え方」に関しては,とても厳しい規範がある。その規範の上に,思考が成り立っているのである。いわば,論理とは,文化を異にする者が共通理解をするための不可欠のツールなのである。西欧における思考力の教育とは,この規範すなわち「型」を身に着けさせることに主眼があり,自主性だの個性だのというようなものは,この「型」を身につけたうえでの話なのである。ひるがえって,現代のわが国には,その論理の「型」を重んじようとする気風が希薄である,というよりもむしろ,そのような「型」が存在するという自覚を教師ですら持っていない場合が多い。情緒的なアピールの方が優位を占める文化的背景のなかで,子どもたちなりの考えなどを重視したりすれば,独断的な過ちを強化し,独りよがりの理屈を振り回すことがよいことのように思わせて自信をもたせているに過ぎない。
それだけではない。昨今のマスコミの状況,政治状況,インターネットをはじめとするITのなかで取り交わされる情報,すべてが「真理」に対する謙虚さを失ったかのようである。謙虚さをうしなえば,残されるのは愚かなる単純さである。愚かなる単純さの導くものは何か,歴史をみれば明らかであろう。
ところが,このような苦しい道をたどらなくとも,単純さに到達することはできる。それは,複雑で混沌とした事象の全体を見ずに,ごく一部だけを見て,判断を下すことによって可能になる。当然そのような方法で到達した単純さは,「真理」とは似て非なるものではあるのだが,「懐疑」を断ち切って,それが「真理」であると言いきってはばかることなければ,それが,学問の果てに到達し得た「真理」であっても,このような危うい「真理」であっても,ぼろがでないかぎりは,ともに自らの思考の結果であるとは言えるのである。その「真理」の質がどのようなものであるかを正確に判断できるのは,やはり前述のような学問的経験に触れたことのある者であろう。この学問的経験を「教養」という。
なぜ勉強しなければならないかといえば,このような「教養」を身につけるためであって,「真理」であるかのようによそおって近づいてくるものを退けることのできる力を身につけるためである。その意味では,「真理」を見い出すことは並大抵の努力ではできないことなのだ,ということを骨身にしみてわからせる必要がある。これは,学問であれ,職業訓練であれ,まったく同じである。教育とは,実は,自らが到達したいと思っている地点には到底到達できないのだということを知らせることにその本質がある。
このような視座から,現代の学校教育を考えてみると,間違いだらけである。例えば,PISAの影響による思考力重視の傾向によってか,現在の学校では,自分の考えや主張を述べることをよしとする傾向がある。しかし,たかだか未熟な子どもの考えである。そのような考えに自信をもってもらっては困る。少し賢い子が,相手を論破するような経験を積んでしまうと,その子どものバイアスは決して修正されなくなるのである。それは,我が国の教育に,論理的思考力の育成に関する基礎的な共通認識が形成されていないからである。西欧の場合は,「考え方」に関しては,とても厳しい規範がある。その規範の上に,思考が成り立っているのである。いわば,論理とは,文化を異にする者が共通理解をするための不可欠のツールなのである。西欧における思考力の教育とは,この規範すなわち「型」を身に着けさせることに主眼があり,自主性だの個性だのというようなものは,この「型」を身につけたうえでの話なのである。ひるがえって,現代のわが国には,その論理の「型」を重んじようとする気風が希薄である,というよりもむしろ,そのような「型」が存在するという自覚を教師ですら持っていない場合が多い。情緒的なアピールの方が優位を占める文化的背景のなかで,子どもたちなりの考えなどを重視したりすれば,独断的な過ちを強化し,独りよがりの理屈を振り回すことがよいことのように思わせて自信をもたせているに過ぎない。
それだけではない。昨今のマスコミの状況,政治状況,インターネットをはじめとするITのなかで取り交わされる情報,すべてが「真理」に対する謙虚さを失ったかのようである。謙虚さをうしなえば,残されるのは愚かなる単純さである。愚かなる単純さの導くものは何か,歴史をみれば明らかであろう。
少子化がすすむと,行政が学校の統廃合を計画するようになる。当然,地域や卒業生からは反対の声がおこる。それを避けるためか,学校の統廃合が,教育改革とセットになっている事例も多く見受けられるようになってきた。そのときに多く使われる教育改革の論理が,学校選択制や一貫教育校の新設である。学校選択制を行えば,市場原理が働き,人気のない学校が生まれる。そうすれば,その学校を廃校にしやすくなるわけである。あるいは,小中一貫,中高一貫などの学校を作れば,やり方によっては,複数の学校の統合が正当性をもつわけである。これは,財政という純粋に行政的な問題に,教育の論理を重ね合わせた,非常に巧妙なやり方である。
学校は,もともと政策的に設けられたものであるから,行財政の論理によって統廃合されることはやむを得ないことである。しかし,同時に学校は,「母校」という言葉もあるように,そこで生活した者にとっては,情緒的に大きな拠り所になっていることもまた多いのである。学校でであった教師がいなくなっていても,自分が学んだ教室,机,そして,校庭の樹木,そういったものを,自らの若き日の思い出として,支えとしている人も多いのではないだろうか。そこに,戻る場所がある,思い出に浸れる場所があるということは,理屈抜きにその人にとっては大切なことなのである。
とはいっても,子供の数は減り続ける。しかし,学校は,そこで学びたいという児童生徒が最後のひとりになるまで守られる,そういう行政判断もあってもよいのではないか。どんどん新しい教育政策を打ち出すことも結構だが,そのためのお金があるのであれば,古くから続いている学校を守ることもまた意味のあることではないかと,年寄りの私は思うのである。
学校は,もともと政策的に設けられたものであるから,行財政の論理によって統廃合されることはやむを得ないことである。しかし,同時に学校は,「母校」という言葉もあるように,そこで生活した者にとっては,情緒的に大きな拠り所になっていることもまた多いのである。学校でであった教師がいなくなっていても,自分が学んだ教室,机,そして,校庭の樹木,そういったものを,自らの若き日の思い出として,支えとしている人も多いのではないだろうか。そこに,戻る場所がある,思い出に浸れる場所があるということは,理屈抜きにその人にとっては大切なことなのである。
とはいっても,子供の数は減り続ける。しかし,学校は,そこで学びたいという児童生徒が最後のひとりになるまで守られる,そういう行政判断もあってもよいのではないか。どんどん新しい教育政策を打ち出すことも結構だが,そのためのお金があるのであれば,古くから続いている学校を守ることもまた意味のあることではないかと,年寄りの私は思うのである。
そもそも教育改革が必要かどうかも疑問だが,改革好きな人たちは,よく「これからの教育はこうあるべきだ」というような論議を好まれるようである。そのとき,決まって,今までの教育を全面的に否定するようなレトリックを好まれるようである。「これからの教育は,Aでなく,Bでなければならない」といった具合にレトリックを展開されるのである。この種の言説は,ほぼ誤りであると断じてよい。なぜならば,検証可能性がなく,科学的でなく,論理的でないからである。つまり,知的でないということである。常識的な知性をもつものならば,この言説が危ういということはすぐに分かる。AにはAのよさがあり,BにはBの,Aにはないよさがあるであろう。それと同時に,AにはAの欠点があり,BにはBの,Aにはない欠点があると考えるのが妥当であろう。そればかりではなく,よく見ていると,意図的にAを貶めようとするかのような言説が目立つのである。例えば,近頃はやりのOECDのキーコンピテンシーの説明などで用いられる「単なる知識や技術だけではなく」などという言い方である。よく考えてみてほしい。「単なる知識」や「単なる技術」などというものがどこにあるのであろうか。「知識」や「技術」は,それがどんなものであっても,「知識」や「技術」と呼ぶに値するものである限り,意味のあるものである。それに「単なる」などという形容をつけるということからして,知的な謙虚さを欠いているのである。文部科学省や中央教育審議会自らがこのような言説を何とも思わず用いるようになっていることが,実は,我が国の教育を危うくさせているのである。小学校における外国語教育にせよ,中学校における武道必修化にせよ,キャリア教育にせよ,どうしてもやらなければやらないほど大切なものではなかろう。やってよいこともあろうが,やらないときのほうがよかったことも多々生じるような類のものである。こんなことを言うと,それらによって,儲かったり,立場がよくなる人々からは猛反発を受けるであろうが,現場にいる方々の多くは,同意してくださるのではないか。おおもとをたどれば,「生きる力」などと言いだしたころから,おかしくなりだしたのではないか。知育・徳育・体育と言っていた時代のほうが実質的であったという主張もまた可能なのである。ともあれ,バランスを欠いた,「AではなくB」の議論にはもう飽き飽きしているのである。
服従力
2012-02-09 | 教育
昨今は,「力」ばやりである。生きる力,人間力,言語力,学士力,などなど,文部科学省御自らが,日本語の健全な言語感覚を大胆に超越する形で,「力」を強調なさるのには恐れ入る。その大胆さにあやかって,わたしもひとつ,作ってみた。いわく,「服従力」である。現代の学校に欠けているのは,正にこれである。服従する力,服する力,従う力である。先生や大人のおっしゃったことをきちんと聞き,言われたとおりにやる力,いいつけを守る力,黒板に書かれたことをそのまま写す力,以前習ったことを忘れず,ずっと守り続ける力などなど。子どもたちの,個を尊重したり,「よさ」を認めたり,主体性を発揮させたりしている間に,この「服従力」が大幅に低下しているのである。考えてみれば,人生において,主体的に自ら行動するよりも,他者の指示通りに動いていることのほうがはるかに多いのである。したがって,この指示に従い,きちんと服従する力がないと,健全な社会生活を営むことはできない。むしろ,個性や主体性よりも,この「服従力」に富むほうが,学力も高かろうし,人間関係もスムーズであろう。すなわち,将来の仕合せを約束する可能性が高いのである。社会では,多くの職場が,本音では,主体性などより「服従力」を求めているはずだと思うが,間違いだろうか。いまこそ,「服従力」を育成することを本気で考えるべきである。教師は,児童生徒をきちんと従わせることを,もっと真剣に考えなければならない。なんてことを言うと,教育学者の偉い先生方や教育熱心な保護者の皆さまに叱られそうだが,要はバランスの問題である。
現在の教育の混迷は,ひとつには,「子供のよさを認めよう」という動きが強まりすぎ,学校の研究課題などに「よさ」という言葉が氾濫しだしたことに起因している。なぜなら,子供には「よさ」もあれば,「わるさ」もある。そのいずれをも冷徹に観察するのがプロフェッショナルとしての教育者である。ところが,この「子供のよさを認めよう」という動きは,「わるさ」に目を向けることを避けさせるように作用しすぎた。確かに減点主義のはびこっていた教育現場にあっては,子供の「よさ」を認めようとする姿勢は一定の教育効果を生んだであろう。しかし,これは,バランスの問題であって,「よさ」を認めることがすなわち教育の改善につながったわけではないのである。そこのところをはき違えてしまったのではないかと思われる子供中心主義者の跋扈には辟易している。
私は,目の前の子供を信頼しない。ただ目の前の子供がよりよく成長する素地をもっているということは信じている。しかし,実際に目の前の子供がよりよく成長すると保証することはできない。それが私の教育観の原点である。だから子供の現在の「よさ」は,成長可能性の一面でしかないと思っている。「よさ」をほめたから伸びるというような単純なものではあるまい。「わるさ」については,成長を阻む要素であるから,これに対しては,厳しい態度をとる。よりよい成長を信じつつ祈りつつ,厳しく対処するのである。
昨今,子供の作文を直さない教師がいると聞く。とんでもないことである。子供の作文に対して,表現の不備,漢字の間違い,文法の過ちなど,修正してやらなければ作文が書けるようになどなるはずがない。きちんと朱を入れ,書き直させる。これが教師の仕事である。子供の作文の「よさ」を認めてほめて終わり,などというのは,教育の放棄でしかない。
ややこしい教育理論などにまどわされず自然体で真剣に子供にあたれば,おのずと教育の在り方はわかってくるはずなのだが。
私は,目の前の子供を信頼しない。ただ目の前の子供がよりよく成長する素地をもっているということは信じている。しかし,実際に目の前の子供がよりよく成長すると保証することはできない。それが私の教育観の原点である。だから子供の現在の「よさ」は,成長可能性の一面でしかないと思っている。「よさ」をほめたから伸びるというような単純なものではあるまい。「わるさ」については,成長を阻む要素であるから,これに対しては,厳しい態度をとる。よりよい成長を信じつつ祈りつつ,厳しく対処するのである。
昨今,子供の作文を直さない教師がいると聞く。とんでもないことである。子供の作文に対して,表現の不備,漢字の間違い,文法の過ちなど,修正してやらなければ作文が書けるようになどなるはずがない。きちんと朱を入れ,書き直させる。これが教師の仕事である。子供の作文の「よさ」を認めてほめて終わり,などというのは,教育の放棄でしかない。
ややこしい教育理論などにまどわされず自然体で真剣に子供にあたれば,おのずと教育の在り方はわかってくるはずなのだが。
真剣に考えなければならなくなってきたことは,教師の教養あるいは知識レベルということである。教職の専門性ということを言い立てる割には,教師の教養あるいは知識レベルは保証されていない。
その影響は特に小学校教諭において顕著である。御存知のように小学校教諭は全教科を教える。しかし,現行カリキュラムや入試制度,免許法制度やあるいは教員採用試験の方式によっては,例えば,日本史に触れたのは中学校が最後とか,数学や化学にはまともに取り組んだことがないというような先生がすでに教壇に立っているのである。大学でも,教養課程が多くの大学で廃止されて久しく,広く浅い知識教養を得ることは学校教育の中では難しくなっている。それに加えて,教科書の記述も,児童の主体性を尊重したり調べ学習を尊重したりするためか,非常に薄っぺらな子どもに迎合したかのような漫画のキャラクター入りのものまで出ている始末である。このような状況において,子どもの主体性を発揮させたり,子どもの「よさ」を重視したりすることは極めて危ういことである。それは,子どもに学ばせないのと同義である。なぜなら,教師の方も,その教科内容についてさほど深くは理解できておらず,教科書にも詳しく書いてあるわけでもなく,授業は子どもの興味関心を重視して進められる,それは子どもを遊ばせているのと同じである。「さあ,班になって,何を調べるかを話し合いましょう」,「それではグループごとに調べましょう」,「調べたことを発表しましょう」「調べたことを新聞にしましょう」,「それぞれの班にそれぞれよいところがありましたね。すばらしい」。こんな授業で,子どもに何が身につくのであろうか。独りよがりで自信過剰な中身のない人間を量産しているにすぎないのではないか。
教育というのは,我々が先祖から受け継いだ文化的な遺産を次世代に誤りなく伝えていく営みである。そのためには,時には知識をたたき込むことも必要であろうし,子どもの興味関心をより伸ばしていける方向付けを教師がしてやることが必要であろう。子どもの「よさ」を認めるのではなく,子どもを「よりよく」するためでなければ,学校の存在価値はない。子どもを新しい世界に引っ張り出す力が教師になければならない。それこそが本当のeducationの意味である。
その影響は特に小学校教諭において顕著である。御存知のように小学校教諭は全教科を教える。しかし,現行カリキュラムや入試制度,免許法制度やあるいは教員採用試験の方式によっては,例えば,日本史に触れたのは中学校が最後とか,数学や化学にはまともに取り組んだことがないというような先生がすでに教壇に立っているのである。大学でも,教養課程が多くの大学で廃止されて久しく,広く浅い知識教養を得ることは学校教育の中では難しくなっている。それに加えて,教科書の記述も,児童の主体性を尊重したり調べ学習を尊重したりするためか,非常に薄っぺらな子どもに迎合したかのような漫画のキャラクター入りのものまで出ている始末である。このような状況において,子どもの主体性を発揮させたり,子どもの「よさ」を重視したりすることは極めて危ういことである。それは,子どもに学ばせないのと同義である。なぜなら,教師の方も,その教科内容についてさほど深くは理解できておらず,教科書にも詳しく書いてあるわけでもなく,授業は子どもの興味関心を重視して進められる,それは子どもを遊ばせているのと同じである。「さあ,班になって,何を調べるかを話し合いましょう」,「それではグループごとに調べましょう」,「調べたことを発表しましょう」「調べたことを新聞にしましょう」,「それぞれの班にそれぞれよいところがありましたね。すばらしい」。こんな授業で,子どもに何が身につくのであろうか。独りよがりで自信過剰な中身のない人間を量産しているにすぎないのではないか。
教育というのは,我々が先祖から受け継いだ文化的な遺産を次世代に誤りなく伝えていく営みである。そのためには,時には知識をたたき込むことも必要であろうし,子どもの興味関心をより伸ばしていける方向付けを教師がしてやることが必要であろう。子どもの「よさ」を認めるのではなく,子どもを「よりよく」するためでなければ,学校の存在価値はない。子どもを新しい世界に引っ張り出す力が教師になければならない。それこそが本当のeducationの意味である。
「問題解決学習」などというものに
本当に意味があるのだろうか?
「問題解決」ならば,人生これすべて「問題解決」の連続である。
子どもたちだって,子どもたちなりの「問題」に
日々直面しているはずであって,
それらを自分なりに「解決」しつつ成長しているのである。
なぜ「問題解決」を「学習」などに矮小化するのであろうか。
「学習」は,
人生における「問題解決」の手段にはなりうるかもしれないが,
「問題解決」にはてんで役に立たないものも多い。
もともと「学習」は「問題解決」を目的とはしていないから,
これは当然である。
わざわざ「問題解決学習」などと言わなくたって,
さまざまな環境の中で,家庭生活を営み,
学校で集団生活をし,授業以外に,特別活動をはじめとする
さまざまな活動を行っている子どもたちは,
十分に集団における「問題解決」の「体験」を積んでいくのである。
「問題解決学習」における「問題」は,
学習指導要領の下で行われる教育活動においては,
いわゆる問題集の「問題」のように
常に擬似的な「問題」にすぎず,
それが教室で扱われる限りにおいて,
人生の切実な問題や社会の現実に関わってはこない。
「問題解決学習」の名のもとで,
擬似的な「問題」を「解決」させる
矮小化された「学習」を積めば積むほど,
子どもたちは,「解決」の手段を見失うか,
または,
理想的かつ虚偽的な「解決」手段を
学んでしまうのではないか。
「問題解決学習」と称されているものは,
実は,「擬似問題擬似解決学習もどき」か,
もしくは「問題解決遊び」にすぎないのではないか。
深く危惧するのである。
本当に意味があるのだろうか?
「問題解決」ならば,人生これすべて「問題解決」の連続である。
子どもたちだって,子どもたちなりの「問題」に
日々直面しているはずであって,
それらを自分なりに「解決」しつつ成長しているのである。
なぜ「問題解決」を「学習」などに矮小化するのであろうか。
「学習」は,
人生における「問題解決」の手段にはなりうるかもしれないが,
「問題解決」にはてんで役に立たないものも多い。
もともと「学習」は「問題解決」を目的とはしていないから,
これは当然である。
わざわざ「問題解決学習」などと言わなくたって,
さまざまな環境の中で,家庭生活を営み,
学校で集団生活をし,授業以外に,特別活動をはじめとする
さまざまな活動を行っている子どもたちは,
十分に集団における「問題解決」の「体験」を積んでいくのである。
「問題解決学習」における「問題」は,
学習指導要領の下で行われる教育活動においては,
いわゆる問題集の「問題」のように
常に擬似的な「問題」にすぎず,
それが教室で扱われる限りにおいて,
人生の切実な問題や社会の現実に関わってはこない。
「問題解決学習」の名のもとで,
擬似的な「問題」を「解決」させる
矮小化された「学習」を積めば積むほど,
子どもたちは,「解決」の手段を見失うか,
または,
理想的かつ虚偽的な「解決」手段を
学んでしまうのではないか。
「問題解決学習」と称されているものは,
実は,「擬似問題擬似解決学習もどき」か,
もしくは「問題解決遊び」にすぎないのではないか。
深く危惧するのである。
教員の資質能力を向上させる前提として,
教員の「資質能力」という言葉を解体しなければならない。
まず,教員の「資質」は向上しない。
「資質」とはその語義からいって,「生まれつき」のものである。
「資質」と「能力」をいっしょくたにして,
「後天的に形成可能」などという詭弁はやめてもらいたい。
では,教員採用の段階で,すぐれた「資質」をもつ教員を選べるであろうか?
おそらくは不可能である。すぐれた「資質」を見極めるのであれば,
1年ぐらいは現場に立たせてみて,そのあとで判断しないと無理であろう。
そもそも,「興味」と「適性」は別のものであって,
教職に就きたいと思っている者に適性があるとは限らないのである。
では,教員養成に携わっている大学が学生の適性を見極めて
ふるいにかけているかというと,
開放制原則の下ではまあそれは無理であろう。
さらに,一度教員として採用されてしまえば,
そのあとで「資質」を理由に退職させることなど,
試用期間制度をフル活用すれば別であるが,
事実上ほとんどできないのである。
教員免許更新制度も,
不適格教員排除のためのものでないということは,
文部科学省自らが明言しているので,
「資質」のない教員排除のためには機能しないのである。
したがって,「資質」のある者が,教員になるとは限らず,
「資質」のない教員が教育現場には多く存在し,
かつ,「資質」のない教員を排除することも事実上不可能であるということは
前提条件となる。
では,「能力」についてはどうであろうか。
こちらについても,「資質」と同様,
「能力」のない者が採用される可能性が高いが,
「資質」よりは開発可能性が高いと思われる。
ここで気をつけなければならないのは,
我が国では,「意欲」があれば「能力」があるかのように,
受け取られがちなことである。
実は,「意欲」と「能力」もまた別物である。
「能力」開発のためにはどうすればよいか。
それは,教員の専門性を開発しようとするのではなく,
教員としての基礎訓練により,
教員としての身体性を身につけさせることである。
つまり,子供の前でどう動きどう話すかを
体に覚えこませるのである。
そのためには,緻密なマニュアルをつくることも可能である。
実は,教員にはこの基礎訓練が欠けているのである。
教職は専門職であるという言辞に甘え,基礎訓練がおろそかになっている。
そのため,
子供の前でどうふるまえばよいかが本当にはわかっていない教師が多いのである。
だから,教育が安定しないのである。
この基礎訓練は,強制的に行わないと,
プライドの高い教員たちが自主的に行う可能性は極めて低い。
「研修」などでは,「能力」開発は不可能である。
したがって,
現職の教員の能力開発はOJTを組織化する以外に方法はないが,
もともと学校が内在的に持っていたOJT機能は,
昨今の教育改革でずたずたにされているので,
ほぼ絶望的である。
これから教員になる者については,まだ基礎訓練が可能である。
この基礎訓練の最大の目的は,教員個々の我執を断たせ,
子供のために生きる自覚をもたせることにある。
どのような職業であっても,
この基礎訓練のうえに,専門性が成り立っているのである。
この基礎訓練の機能を,
大学や大学院あるいは教育委員会にゆだねることは
おそらく無理であろう。
国がお金をかけて,教員用の職業訓練校をつくる必要がある。
本当に教員の能力向上を考えるのであれば,
教員になることを志望するものは,
免許取得後,全寮制の訓練校で,
一定期間の厳しい職業訓練を受けることを義務とし,
その間は国が給与を支給する,とでもしておけば,
今よりは少しはましになるであろう。
教員の「資質能力」という言葉を解体しなければならない。
まず,教員の「資質」は向上しない。
「資質」とはその語義からいって,「生まれつき」のものである。
「資質」と「能力」をいっしょくたにして,
「後天的に形成可能」などという詭弁はやめてもらいたい。
では,教員採用の段階で,すぐれた「資質」をもつ教員を選べるであろうか?
おそらくは不可能である。すぐれた「資質」を見極めるのであれば,
1年ぐらいは現場に立たせてみて,そのあとで判断しないと無理であろう。
そもそも,「興味」と「適性」は別のものであって,
教職に就きたいと思っている者に適性があるとは限らないのである。
では,教員養成に携わっている大学が学生の適性を見極めて
ふるいにかけているかというと,
開放制原則の下ではまあそれは無理であろう。
さらに,一度教員として採用されてしまえば,
そのあとで「資質」を理由に退職させることなど,
試用期間制度をフル活用すれば別であるが,
事実上ほとんどできないのである。
教員免許更新制度も,
不適格教員排除のためのものでないということは,
文部科学省自らが明言しているので,
「資質」のない教員排除のためには機能しないのである。
したがって,「資質」のある者が,教員になるとは限らず,
「資質」のない教員が教育現場には多く存在し,
かつ,「資質」のない教員を排除することも事実上不可能であるということは
前提条件となる。
では,「能力」についてはどうであろうか。
こちらについても,「資質」と同様,
「能力」のない者が採用される可能性が高いが,
「資質」よりは開発可能性が高いと思われる。
ここで気をつけなければならないのは,
我が国では,「意欲」があれば「能力」があるかのように,
受け取られがちなことである。
実は,「意欲」と「能力」もまた別物である。
「能力」開発のためにはどうすればよいか。
それは,教員の専門性を開発しようとするのではなく,
教員としての基礎訓練により,
教員としての身体性を身につけさせることである。
つまり,子供の前でどう動きどう話すかを
体に覚えこませるのである。
そのためには,緻密なマニュアルをつくることも可能である。
実は,教員にはこの基礎訓練が欠けているのである。
教職は専門職であるという言辞に甘え,基礎訓練がおろそかになっている。
そのため,
子供の前でどうふるまえばよいかが本当にはわかっていない教師が多いのである。
だから,教育が安定しないのである。
この基礎訓練は,強制的に行わないと,
プライドの高い教員たちが自主的に行う可能性は極めて低い。
「研修」などでは,「能力」開発は不可能である。
したがって,
現職の教員の能力開発はOJTを組織化する以外に方法はないが,
もともと学校が内在的に持っていたOJT機能は,
昨今の教育改革でずたずたにされているので,
ほぼ絶望的である。
これから教員になる者については,まだ基礎訓練が可能である。
この基礎訓練の最大の目的は,教員個々の我執を断たせ,
子供のために生きる自覚をもたせることにある。
どのような職業であっても,
この基礎訓練のうえに,専門性が成り立っているのである。
この基礎訓練の機能を,
大学や大学院あるいは教育委員会にゆだねることは
おそらく無理であろう。
国がお金をかけて,教員用の職業訓練校をつくる必要がある。
本当に教員の能力向上を考えるのであれば,
教員になることを志望するものは,
免許取得後,全寮制の訓練校で,
一定期間の厳しい職業訓練を受けることを義務とし,
その間は国が給与を支給する,とでもしておけば,
今よりは少しはましになるであろう。
教師は,人間相手の仕事であるから,
明らかに経験豊かな方がよいはずである。
教職にとって経験に勝る財産はない。
ただ,自分だけの経験では,
ひとりよがりになることもある。
だから,
それを修正するために研修が必要なのである。
しかし,やはり経験豊かな教師は優れた教師である。
ところが,
昨今,一般企業等の傾向と異なり,
年配の教師ほどやる気を失うという趣旨の
分析結果が出てきた。
その原因を,若い教師に比べて
年配の教師の生徒教師関係が
うまくいかないことに求める考察が
識者によってなされている。
なぜ,そのような考察がなされるのか,
はなはだ疑問である。
普通に考えてみればわかりそうなものだが,
人と付き合うときに,年齢と性格と,
どちらを重視しているだろうか?
年配でも好かれる教師はたくさんいるし,
若い教師でも生徒から
総スカンをくっている教師もたくさんいる。
年配の教師がやる気を失うのは,
自身の経験が教育現場で軽視されるからである。
いや,年配の教師の蓄積を無にするような
わけのわからない「新しい」教育が,
改革の名のもとに導入されてきたからである。
実は,その改革こそ,学校崩壊の元凶なのだが,
改革の旗振り役は一時期脚光をあびればそれでよいのであって,
ゆっくりとあらわれてくる改革の結果までは責任を持ちはしない。
年配の者がその職業生活の中で築き上げてきた
さまざまな経験の蓄積を,
若い世代が敬意をもって遇するという,
一般社会ではごく当たり前であって,
かつての学校でも当たり前であったことを,
今の学校でも行うようになれば,
確実に学校はよくなっていくのである。
明らかに経験豊かな方がよいはずである。
教職にとって経験に勝る財産はない。
ただ,自分だけの経験では,
ひとりよがりになることもある。
だから,
それを修正するために研修が必要なのである。
しかし,やはり経験豊かな教師は優れた教師である。
ところが,
昨今,一般企業等の傾向と異なり,
年配の教師ほどやる気を失うという趣旨の
分析結果が出てきた。
その原因を,若い教師に比べて
年配の教師の生徒教師関係が
うまくいかないことに求める考察が
識者によってなされている。
なぜ,そのような考察がなされるのか,
はなはだ疑問である。
普通に考えてみればわかりそうなものだが,
人と付き合うときに,年齢と性格と,
どちらを重視しているだろうか?
年配でも好かれる教師はたくさんいるし,
若い教師でも生徒から
総スカンをくっている教師もたくさんいる。
年配の教師がやる気を失うのは,
自身の経験が教育現場で軽視されるからである。
いや,年配の教師の蓄積を無にするような
わけのわからない「新しい」教育が,
改革の名のもとに導入されてきたからである。
実は,その改革こそ,学校崩壊の元凶なのだが,
改革の旗振り役は一時期脚光をあびればそれでよいのであって,
ゆっくりとあらわれてくる改革の結果までは責任を持ちはしない。
年配の者がその職業生活の中で築き上げてきた
さまざまな経験の蓄積を,
若い世代が敬意をもって遇するという,
一般社会ではごく当たり前であって,
かつての学校でも当たり前であったことを,
今の学校でも行うようになれば,
確実に学校はよくなっていくのである。
結局,いま目の前にいる子供たちのために,
一所懸命になることしかないのではないか。
自分の限られた力を出しきって,
うまくいったときには,
有頂天になって喜び,
うまくいかないときは,
己の非力を嘆いたり,おろおろしたりする。
認められたり,感謝されたりすれば,
教師こそ我が天職と思い,
批判や非難を受ければ,
自分は教師に向いていないのではないかと思う。
それが,教師の姿である。
揺れ動くのはあたりまえ。
それでも,
「子供たちのために」,
その気持ちだけが,
教師の人生を支えている。
一所懸命になることしかないのではないか。
自分の限られた力を出しきって,
うまくいったときには,
有頂天になって喜び,
うまくいかないときは,
己の非力を嘆いたり,おろおろしたりする。
認められたり,感謝されたりすれば,
教師こそ我が天職と思い,
批判や非難を受ければ,
自分は教師に向いていないのではないかと思う。
それが,教師の姿である。
揺れ動くのはあたりまえ。
それでも,
「子供たちのために」,
その気持ちだけが,
教師の人生を支えている。
教師は,子供と一緒にいると元気になる。
それが本当。
でも,子供と一緒にいることが苦痛だったり,
嫌になったりするときもある。
そんなときは「教師」である自分を責めないで,
無理をせず,ちょっとのんびり休養するのがよいでしょう。
それが本当。
でも,子供と一緒にいることが苦痛だったり,
嫌になったりするときもある。
そんなときは「教師」である自分を責めないで,
無理をせず,ちょっとのんびり休養するのがよいでしょう。
授業でわからないことは先生に質問することは
よいことであると思われている。
事実,大人の世界でも,
アメリカの大学の様子などを引き合いに出して,
質問する力が大切だなどと言われることが多い。
しかし,本当にそうだろうか。
私が子供の頃を考えてみると,
質問する子と質問しない子がいた。
質問する子は,だいたい成績で言うと,
中ぐらいのちょっと上ぐらいが多かったように思う。
逆によく出来る子供は,
ほとんど質問しなかったように思う。
授業内容に疑問などなかったか,
さもなくば,疑問点があっても,
自分で調べたり,考えたりして,
自力で解決していたのであろう。
自分で調べたらわかりそうなことは,
安易に質問すべきではないと
考えていたのではなかろうか。
これもまたひとつの見識である。
こういうことを思い出していると,
授業でただただ質問することがよいことのように言うのは,
いささか浅薄にも思える。
質問しないという美質もまた認められるべきであろう。
よいことであると思われている。
事実,大人の世界でも,
アメリカの大学の様子などを引き合いに出して,
質問する力が大切だなどと言われることが多い。
しかし,本当にそうだろうか。
私が子供の頃を考えてみると,
質問する子と質問しない子がいた。
質問する子は,だいたい成績で言うと,
中ぐらいのちょっと上ぐらいが多かったように思う。
逆によく出来る子供は,
ほとんど質問しなかったように思う。
授業内容に疑問などなかったか,
さもなくば,疑問点があっても,
自分で調べたり,考えたりして,
自力で解決していたのであろう。
自分で調べたらわかりそうなことは,
安易に質問すべきではないと
考えていたのではなかろうか。
これもまたひとつの見識である。
こういうことを思い出していると,
授業でただただ質問することがよいことのように言うのは,
いささか浅薄にも思える。
質問しないという美質もまた認められるべきであろう。
突き詰めて考えれば,
学校現場で起こる諸問題を解決しようとするのであれば,
ただひとつのことが出来ればよいのではないかと思う。
それは,「本音で語る」ということである。
教職員同士が本音で語り合うことができ,
保護者にもまわりの大人にも本当のことを話す,
ということに尽きるのではないかと思う。
それを難しくしているのが,実は「教育の言葉」そのものである。
教育学者や教育関係者は,
とかく理想論を語りたがる。
美辞麗句を語りたがる。
子供や教育関係というものを美化して,
かっこいいフレーズを多用する。
だから,現場の教職員も,
綺麗に飾られた言葉でしか「教育」を語ってはいけないと
思い込んでいる。
しかし,これらの「教育の言葉」は,
教育の現実の前では,嘘やまやかしに過ぎない。
学級崩壊が多発し,
授業もままならないような学校の教育目標が,
「よく考える子ども」だったりするのは,
ジョークとしか思えない。
「授業をきちんと受ける子ども」とか,
「教科書をもってくる子ども」というふうにすべきであろう。
「教育の言葉」には善意の欺瞞がつきものである。
このような「教育の言葉」を避けること,
それができなければ,いかなる教育問題も解決しない。
学校現場で起こる諸問題を解決しようとするのであれば,
ただひとつのことが出来ればよいのではないかと思う。
それは,「本音で語る」ということである。
教職員同士が本音で語り合うことができ,
保護者にもまわりの大人にも本当のことを話す,
ということに尽きるのではないかと思う。
それを難しくしているのが,実は「教育の言葉」そのものである。
教育学者や教育関係者は,
とかく理想論を語りたがる。
美辞麗句を語りたがる。
子供や教育関係というものを美化して,
かっこいいフレーズを多用する。
だから,現場の教職員も,
綺麗に飾られた言葉でしか「教育」を語ってはいけないと
思い込んでいる。
しかし,これらの「教育の言葉」は,
教育の現実の前では,嘘やまやかしに過ぎない。
学級崩壊が多発し,
授業もままならないような学校の教育目標が,
「よく考える子ども」だったりするのは,
ジョークとしか思えない。
「授業をきちんと受ける子ども」とか,
「教科書をもってくる子ども」というふうにすべきであろう。
「教育の言葉」には善意の欺瞞がつきものである。
このような「教育の言葉」を避けること,
それができなければ,いかなる教育問題も解決しない。
教育界にはびこる悪弊は,
やたら新しい言葉を作りたがることである。
なさけないことに文部科学省がそのお先棒を担いでいる。
そもそも「生きる力」あたりからおかしくなった。
何の修飾語句もなく「生きる力」などと普通には
言うはずのない言葉である。
「生きる」ための「力」という意味であろうが,
それでもおかしい。
私はそんなに力を入れて生きてはいない。
そもそも意味をよく考えると,
「生きる」と「力」は直接には結びつかない言葉である。
「力」がなくとも生きている,生かされている,
「力」があっても生きられない,そういうことがあるのが人間である。
「伝え合う力」もまた怪しい。
お互いに伝え合うための力ということであろうが,
ふつうは言わない言葉遣いであろう。
この「力」は,技能か,能力か,知識か?
内実がないのである。
ほとほと「力」がお好きなようである。
そういえば,「人間力」などというよくわからないものもあった。
「心の教育」も難しい。
道徳を教えることはあろう,
人の道を教えることはあろう,
規律を守らせたり,規範を示したりもできよう。
しかし,それは「心」を教えることとは違う。
「心」は教える対象とするには,
無限定に過ぎる。
「食育」というのもすわりが悪い。
「知育」「徳育」「体育」と並べてみると,
それぞれ「知を育てる」「徳を育てる」「体を育てる」である。
「食を育てる」とは何ぞ。農業のことか?
「外国語活動」も変である。
外国語活動があるならば,国語活動もあるだろう。
はて,国語活動とはなんじゃろう。
単に「外国語」あるいは「国際理解」でよいではないか。
「外国語」をやらせたいのに,
「外国語」と直截に言えないのであれば,
成果は上がらないからやめたほうがよい。
「熟議カケアイ」に至っては,
もう何も言うことはない。
世も末である。
このように文部科学省を中心に,
教育界では,新語珍語のオンパレードである。
こんな言葉を使っていると,
こちらの言語感覚まで狂ってしまう。
こんな言葉をおかしいと思わないのは,
国語に対する敬意がない証拠である。
これこそが我が国の教育の危うさである。
こんなわけの分からない言葉でごまかさないで,
昔からある語義の明らかな言葉で堂々と,
新しい教育の在り方を語るべきではないか。
やたら新しい言葉を作りたがることである。
なさけないことに文部科学省がそのお先棒を担いでいる。
そもそも「生きる力」あたりからおかしくなった。
何の修飾語句もなく「生きる力」などと普通には
言うはずのない言葉である。
「生きる」ための「力」という意味であろうが,
それでもおかしい。
私はそんなに力を入れて生きてはいない。
そもそも意味をよく考えると,
「生きる」と「力」は直接には結びつかない言葉である。
「力」がなくとも生きている,生かされている,
「力」があっても生きられない,そういうことがあるのが人間である。
「伝え合う力」もまた怪しい。
お互いに伝え合うための力ということであろうが,
ふつうは言わない言葉遣いであろう。
この「力」は,技能か,能力か,知識か?
内実がないのである。
ほとほと「力」がお好きなようである。
そういえば,「人間力」などというよくわからないものもあった。
「心の教育」も難しい。
道徳を教えることはあろう,
人の道を教えることはあろう,
規律を守らせたり,規範を示したりもできよう。
しかし,それは「心」を教えることとは違う。
「心」は教える対象とするには,
無限定に過ぎる。
「食育」というのもすわりが悪い。
「知育」「徳育」「体育」と並べてみると,
それぞれ「知を育てる」「徳を育てる」「体を育てる」である。
「食を育てる」とは何ぞ。農業のことか?
「外国語活動」も変である。
外国語活動があるならば,国語活動もあるだろう。
はて,国語活動とはなんじゃろう。
単に「外国語」あるいは「国際理解」でよいではないか。
「外国語」をやらせたいのに,
「外国語」と直截に言えないのであれば,
成果は上がらないからやめたほうがよい。
「熟議カケアイ」に至っては,
もう何も言うことはない。
世も末である。
このように文部科学省を中心に,
教育界では,新語珍語のオンパレードである。
こんな言葉を使っていると,
こちらの言語感覚まで狂ってしまう。
こんな言葉をおかしいと思わないのは,
国語に対する敬意がない証拠である。
これこそが我が国の教育の危うさである。
こんなわけの分からない言葉でごまかさないで,
昔からある語義の明らかな言葉で堂々と,
新しい教育の在り方を語るべきではないか。











