昔から「教師は世間知らず」と言われている。
この言葉のもつ響きは,かつては単純な揶揄であった。
学校という一種世俗から隔絶した世界に住む住人に対して
一般から寄せられていたある種の尊敬を裏返した形での揶揄であった。
だからといって,
「それじゃあ世間を知りましょう」という教師はいなかったのである。
なぜなら,
教職の専門性に対する自信と誇りを持ち続けることができたからである。
時代は変わり,
この言葉は,実効性をもって,
教育行政までも左右するようになった。
「学校の常識は世間の非常識」というような雑駁な言い回しが
公然と横行する昨今,
学校教育が今後さらに荒廃するであろうことは
教育現場の視座からはほぼ自明のことである。
単なる「揶揄」の言葉が「侮蔑」へと変わり,
教師自身が謙虚にも「世間知らず」であることを自認し,
自己反省するようになっている昨今,
やはりこの問題は真正面から捉えられなければならないであろう。
まず,「世間」という言葉に隠されているものは何であろうか。
この言葉は,
市場原理や競争原理という言葉に象徴されるような
資本主義的な価値体系を指している。
そして,資本主義的な価値体系は,
本来,経済原理として,
利潤追求という目的のもとでしか
意味を持たないはずのものである。
経済原理以外の価値基準が確立していた時代には,
この意味での「世間」は「俗世間」と称される。
また,最近流行の「民間」という言葉に隠されているものは何であろうか。
なぜ,「民間人校長」であって「市民校長」ではないのか。
「民間人」という,
あたかも,コミュニティー性を重視したような言葉に隠蔽されているものは,
実は,上記の「世間」と同様,経済原理である。
そして,「民間人」とは,
すなわち「市民」ではなく「企業人」なのである。
現在就任している「民間人校長」の多くは,
企業の管理職級の方々である(社長ではない)。
学校は,非営利組織である。
経済原理からみて非常識であっても,
幼い子供たちを育てる場において培われてきた
価値基準が厳然として存在するのである。
「俗世間」には存在しない価値基準もあるのである。
その価値基準がどんなものであるかについては,
また日を改めて。
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この言葉のもつ響きは,かつては単純な揶揄であった。
学校という一種世俗から隔絶した世界に住む住人に対して
一般から寄せられていたある種の尊敬を裏返した形での揶揄であった。
だからといって,
「それじゃあ世間を知りましょう」という教師はいなかったのである。
なぜなら,
教職の専門性に対する自信と誇りを持ち続けることができたからである。
時代は変わり,
この言葉は,実効性をもって,
教育行政までも左右するようになった。
「学校の常識は世間の非常識」というような雑駁な言い回しが
公然と横行する昨今,
学校教育が今後さらに荒廃するであろうことは
教育現場の視座からはほぼ自明のことである。
単なる「揶揄」の言葉が「侮蔑」へと変わり,
教師自身が謙虚にも「世間知らず」であることを自認し,
自己反省するようになっている昨今,
やはりこの問題は真正面から捉えられなければならないであろう。
まず,「世間」という言葉に隠されているものは何であろうか。
この言葉は,
市場原理や競争原理という言葉に象徴されるような
資本主義的な価値体系を指している。
そして,資本主義的な価値体系は,
本来,経済原理として,
利潤追求という目的のもとでしか
意味を持たないはずのものである。
経済原理以外の価値基準が確立していた時代には,
この意味での「世間」は「俗世間」と称される。
また,最近流行の「民間」という言葉に隠されているものは何であろうか。
なぜ,「民間人校長」であって「市民校長」ではないのか。
「民間人」という,
あたかも,コミュニティー性を重視したような言葉に隠蔽されているものは,
実は,上記の「世間」と同様,経済原理である。
そして,「民間人」とは,
すなわち「市民」ではなく「企業人」なのである。
現在就任している「民間人校長」の多くは,
企業の管理職級の方々である(社長ではない)。
学校は,非営利組織である。
経済原理からみて非常識であっても,
幼い子供たちを育てる場において培われてきた
価値基準が厳然として存在するのである。
「俗世間」には存在しない価値基準もあるのである。
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