学校教育を考える

混迷する教育現場で,
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真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

体罰もいじめ??

2013-01-27 | 教育
「いじめ防止対策基本法案(仮称)」について,「教諭による体罰もいじめと位置付けた」という報道がなされている。詳細を見てみる必要があるが,あまりアクロバティックな言葉の遣い方をしないほうがよいのではないだろうか。

「法」であるからには,現行法等にのっとった法案づくりをすべきであろう。「体罰」そのものは,学校教育法第11条違反,どの程度が体罰であるかも,「児童懲戒権の限界について」(昭和23年12月22日付け法務庁法務調査意見長官回答)や「問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)」(平成19年2月5日付け文部科学省初等中等教育局長通知)のなかの別紙「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方」に明記されている。したがって,「体罰」はそのまま違法行為であって,教育行為ではない。また,様態によっては,暴行・障害等,刑法に基づいて裁かれるべき行為でもある。そのことは現行法を厳格に運用することで足りるのではないか。それを,「体罰」を「いじめ」という新しい枠組で捉えることになると,現行法では「体罰」という行為そのものを違法だとしているのに対し,「体罰」を行う者の意図まで斟酌することになりはしないかと恐れるのである。

例えば,ある生徒に暴言をあびせて精神的に追い詰めているいじめっ子を教師がひっぱたいたとしよう。この教師の行為は,現行法上は「体罰」であり,違法行為であるが,教師による「いじめ」とは言えないのではないか。そのような混乱を生む可能性があるように思うのである。

聖職論の陥穽と社会の闇

2013-01-25 | 教育
 「駆け込み退職」を批判する文脈で、「聖職」という言葉が用いられていることに危惧をおぼえる。

 本来、聖職とは、宗教的な意味合いをもった言葉であり、キリスト教における司祭や牧師や宣教師といった人々などをそのように呼んだのである。教職を聖職といったのは、西欧中世以降もともと聖職にある者が教育に携わったからと言われている。それを我が国で明治以降、天皇中心の国づくりを担う者であるという理由で、聖職という言葉を教師に対して用いるようになったのである。それが、現人神たる天皇の赤子である臣民を育成するという崇高な使命を帯びているという意味を付与されるようになっていったのである。つまり、聖職という言葉は、教育そのものの重要性を言った言葉でもなく、教師の生徒に対する責任を言ったものでもないのである。戦後、戦前の教育が過ちであったという反省に基づき(これも今と同じ教員に責任を擦り付ける論法であるが)、教職の捉え方がさまざまな紆余曲折を経ながら変化してきたことは、少なくともマスコミで発言する人々は理解しているべきである。教職が聖職か労働者かをめぐっての教師の苦悩は、石川達三『人間の壁』に描かれているし、新田次郎『聖職の碑』においても、教師の聖職性とは何かが問われている。教師が聖職か労働者かという対立を止揚した教師専門職論も教師の自負心を満足させはしたが、医者や弁護士といった他の専門職と比較すると、自律性という意味で専門職としての要件を備えているとは言い難いことは、教育学をきちんと学んだ者なら知っているであろう。それゆえ最近になって、反省的実践家という捉え方もでてきている。いずれにせよ、教師という職業をどのような職業として捉えるべきかということについては、このように、戦前の聖職論を乗り越えるべくさまざまに考えられてきたのである。そのような歴史的背景を無視して、教師に聖職論をおしつけて批判するのはとても恐ろしいことである。「駆け込み退職」にしてもさまざまな個人的事情が関係しているであろう。家庭環境、再任用の可能性の有無、将来設計等もその判断に影響を与えているに違いない。

 一方、金のために生徒を放り出すのかという議論もまた的外れである。そもそも資本主義社会においては、財やサービスは基本的に金銭によって価値づけられている。3月末に退職する教員の2・3月の仕事、経済の言葉で言えばサービスに相当するものだが、このサービスは価値がないばかりではなく、負の価値があるとされているのである。戦前から無給講師というものがあったが、今回の場合は、働けば損をするという奴隷以下の条件なのである。民間との退職金格差をいう者があるが、そうであれば、教育界で最も賃金の低い平教員の退職金を云々するよりも、教育長はじめ高額な賃金を受け取っている者をこそ問題にすべきであろう。

 マスコミも作為的である。あるいは、初歩の算数もおわかりではないようである。3月末でやめると、2・3月分の給与40万円×2ヶ月分を入れても70万円の差などという言い方をする。その2・3月分の賃金合計80万円は勤労の対価である。一方、1月で退職した場合は、働かずして150万円よけいにもらえるわけである。もし,勤労の対価も計算に入れるとすれば,つまり、2・3月は別の仕事ができるということである。従って、退職前と同じ賃金を上限の獲得可能賃金と仮に考えた場合、他職で稼ぐと、最大230万円を獲得する可能性を持っているということである。すなわち150万円の差は縮まっていないのである。

 もしも教師がプロフェッショナルであるならば、誰がこのような仕事に従事するであろうか。実は、駆け込み退職する教員は、生徒に貴重なメッセージを与えているのである。自己の尊厳は自分で守らない限り、決して今の社会は守ってくれないのだというメッセージである。この社会の闇を生徒に知らしめること以上に重要な教育があるであろうか。強者は自己の利益を温存しておいて、弱者の利益を侵害したうえにあたかもわずかな利益を守ろうとすることを罪悪であるかのように非難する。そして、その構造が、周りの弱者には見えず、強者の論理が正論であるかのように見えるのである。そして、弱者がさらに弱い者をたたく構図である。このような構図をあおる文部科学大臣・埼玉県知事の発言こそ糾弾されるべきであろう。

顔を下にして

2013-01-24 | 教育
古代ギリシアの哲学者シノペのディオゲネスは、死の床にあったとき、どのように埋葬されたいかを聞かれると、「顔を下にして」と答えたそうである。これは、やがて世の中がひっくりかえるからという意味であったようだ。今の学校教育を巡る報道を見ると、まさにこのディオゲネスの思いに共感するばかりである。

大阪市立桜宮高等学校の生徒の会見を見て、まさに世の中がひっくり返ってしまったと感じた。30年ほど前の高校生であれば、仮に会見を行ったとしても、生徒会長が生徒の総意をまとめて声明を述べ、生徒の総意を代表する者として質疑に応じたであろう。それが高校生としての民主主義についての理解と自治の意識であったはずである。報道陣があのような発言責任の不明確な会見(取材ではなく会見である)に報道する価値を見いだしたか、疑問である。さらに、かつての高校生であれば、学友が教師に体罰(罰ではなく暴行だが)を受けたことが原因で自ら命を絶ったのであれば、生徒の間から友の死を無駄にするなという声が澎湃として起こり、生徒会を中心に教師糾弾と学校改革に立ち上がったであろう。そうしないまでも、友の無念を思い、喪に服し沈黙を守ったであろう。どうもそのような発想とは無縁のようである。むしろ、生徒自身が今の学校の伝統を守れなどと言っている。世の中は変わったものである。

「駆け込み退職」を選んだ教員に対して、聖職者のくせに、金のために生徒を放り出してやめるとは何事かと批判する。問題は金ではない。長年にわたり教員として働いてきた者としての尊厳を踏みにじられたことにある。尊厳を踏みにじっておいて、おまえは聖職者だろうとは、恐れ入る。厳しい財政緊縮の折、長年の功に報いられずまことに申し訳ないが、何とぞ年度末までは曲げてお願いしたいと頭を下げるのが知事のなすべきことであろう。今時、聖職者という言葉を都合よく持ち出して論評するコメンテーターもどうにかしているが、戦前の聖職者は聖職者として扱われていたのである。公僕や聖職者たる教員として勤め上げた者には、その労をねぎらい、他の民間人にはない恩給が支給されていたのである。つまり、貧しかっただろうけれども、一生生活は保障されていたのである。問題は金ではない。このように、聖職者としての尊厳を国が認めていたということが重要なのである。

以上2例から見ても、世の中はひっくり返ったということである。まったくディオゲネスは正しかったのである。

いわゆる「駆け込み退職」について

2013-01-24 | 教育
 まず,いわゆる「駆け込み退職」を選ばれた先生方に,心からご同情申し上げたい。
 教師生活をこのように締めくくらざるを得なかったことは,まことに悔しかったに違いない。
 おそらく,長年の教師生活を一教員として,現場にとどまり辛酸をなめてこられた先生方であろう。
 教員のライフサイクルの中で,もっとも尊ぶべき経歴を踏まれた先生方である。途中で教育委員会に行ったり,現場に管理職で戻ってきたりといったステップアップの道を選ばなかった先生方が大半であろう。
 3月末まで在職すれば退職金が減額されるという手法は,普通に考えれば,早期退職勧奨に相当する。つまり,満期定年までは在職してほしくないというメッセージと解釈しうる手法である。あなたのかわりはいくらでもいるというメッセージとも解されるのである。憶測だが,そのようなメッセージを読み取って身を引いた先生方もいらっしゃったのではないだろうか。
 最も敬意を払われるべき先生方,最も弱い立場にある先生方が指弾されるのは誠に嘆かわしい限りである。教育委員会関係者を含め,どのような教員履歴をもった者がどれだけの退職金を受け取ることになるのか,どういう教員経歴を持った人間がどのような職業に次に就いたかを精査すれば,物事の本質が見えてくるであろう。

橋下大阪市長及び大阪市教委は受験生を救ったのだ

2013-01-24 | 教育
 マスコミの論調に,大阪市立桜宮高等学校の体育科を志望している受験生の気持ちを考えよとか,不利益を考えよというようなものが多いのには,ほとほとあきれた。
 まず,高校はこの高校だけではない。まだまだ進路選択の余地はあろうし,このような事態に対して,市教委も最善の努力をしているのである。
 しかしなにより,体罰や暴行を伴う「指導」が異常な状態だということを明確に意識できない学校(学科),体罰を根絶できるかどうかがあいまいな学校(学科)に行かなくてすむよう,市長と市教委が受験生諸君を守ってくれたのである。これは大いに喜ぶべきことであろう。(このような体罰事件を受けてなお,この高校は公式ホームページに何らの言及もせず,何事もなかったかのように普段と変わらぬ情報発信をしている(1月23日現在)のは驚くべきことである。)受験生諸君は,橋下大阪市長及び大阪市教委に感謝すべきである。
 もちろん,在校生諸君も救われたのだ。学友の死を深く胸に刻み,新しいよりよい学校づくりをする使命は,教師などには任せておけない,諸君に期待されることになろう。その責任は重大である。

大阪市立桜宮高等学校体育科入試中止について

2013-01-22 | 教育
 私は,大阪市長の橋下氏の教育政策全般には賛成ではないが,今回の大阪市教委への要請は妥当であったと考えている。また,大阪市教委の判断もおくればせながら妥当である。
 そもそも体罰は学校教育においては違法行為である。学校が治外法権でない限り,違法行為を行った学校は,それが教師個人の問題にとどまらない場合は組織として責任をとるべき問題であろう。もしも体罰が常態化していたというような状態があったのであれば,傷害罪・暴行罪等の刑事事件となりうる可能性もあるし,単に教育問題としてかたづけることのできない問題なのである。
 ことここに及んで,「これから体罰のない学校づくりをします」というような対応は,教育問題としてこの体罰問題を捉えているからであって,刑事罰の可能性もある違法行為として捉えていないなによりの証左となる。組織としてこの問題を厳しく捉えた場合,廃校という案が出てきてもおかしくはないのである。教員の総入れ替えなど当然の措置であろう。それを,入試の停止,しかも体育科受験を考えていた受験生の不利益にならぬように最大限考慮してという穏便な措置を行ったというのは,十分に教育的配慮を行った上でのことであろうと思われる。
 なにより解せないのは,なぜ生徒による会見が行われ,かつ,報道されたのかということである。高校生が自主的に市長に意見具申するということはあり得るであろう。しかし,会見の場を設定することまで,生徒の自由意志でできるであろうか? 私には,背後に会見をさせた大人がいるのだと思えてならない。教師であれば,いくら生徒が意見具申をしたい,会見を開きたいといっても,これは生徒の決めるべき問題ではないといって,制止するのが当然であろう。学友が自殺しているのである。このような状況下で学校内部の者が意見表明するということは,社会常識からいって相当に覚悟のいることである。教師ならまずそのことを生徒に諭し,軽々に発言せぬように止めるべきであろう。
 生徒が会見に出てきたところを見て,なおさら体罰撲滅への途は遠いと感じる。学校の教師は,なんでも教育問題にしたがるが,学校もまた社会の一部なのである。社会で他人を殴ることが許されないように,学校でもそれは許されないことなのであるというのが当然の理路である。教師が殴ってきて身の危険を感じたら,生徒の側にも正当防衛の権利がある。それが道理である。
 「教育」の一言で,道理がぼやけてしまうところに,我が国の学校教育の病理があるのである。