学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

「教員の資質」論から生じる問題

2007-12-22 | 教育
教員の質が云々されて,
教員の質の向上にむけた教育行政の取り組みが,
教育改革の一環として,
実効性は怪しいが,いろいろと打ち出されている。

教員に対する評価も盛んになっているが,
このことは,
個々の教員には資質の差が歴然としてあるということを
公的に認めてしまったということを意味している。

ところが,ここで困ったことが起る。

ある保護者がいて,
「うちの子のクラスを変えてください。
 となりのクラスの先生は優秀で評価も高い先生なのに,
 うちのクラスの先生は評価の低い先生です。
 うちの子がなんで不利益を受けなければならないんですか?」

この保護者に対して,
反論ができるであろうか?

教育をサービスと考えれば,
義務教育の場合,
均質なサービスを受けられると考える
この保護者の論理は正当である。

ところが,
教員の質に差があることを公的に認めてしまった現在,
「教員は誰であっても教員免許を取得した,
 教える能力を保証された人ですから,
 心配要りません。」
などという論理は通用しないのである。

もしかしたら,
「みんな更新講習を無事修了していますから
 大丈夫です」とでも言うのであろうか。
それも無理であろう。

この問題を解決する方法は
ふたつある。

ひとつは,教員の質を完全に均質化するため,
質の異なる教員はすべて排除するという方法である。
しかし,そもそも現在の教育財政の中で,
それほど質のそろった人材が確保できるであろうか。
おそらく不可能である。

もうひとつは,
教員の質にかかわらず,
教育の質が保たれるようにする方法である。
それは,
教師のいるいないにかかわらず勉強が可能な
教科書なり学習方法なりを考えることである。
つまり教師の質が学習に及ぼす影響を
最小限にすることである。
究極は,e-learningということになりそうである。
しかし,果たしてそれは望ましい方法であろうか?

このように考えてくると,
現在の学校制度の枠組の中では,
教師の質を公に云々することは
タブーであったことがわかる。

事実かつては学校は,
教師の質の差を公に認めてはこなかった。
それは,学校制度の崩壊を意味するからである。

教師の質を公に認めるということで,
パンドラの箱を開けてしまった現在,
現在の「学校」はもはや維持できない。

教育改革が教育の場を破壊してしまう一例である。

いまや「学校」に変る教育のシステムを
考えなければならないのかもしれないが,
果たしてそれが可能であろうか?



児童生徒による授業評価はやめましょう

2007-12-17 | 教育
「児童生徒による授業評価」などというものを
いったい誰が考え付いたのだろうか?

相当に想像力の欠如した人間の思いつきとしか
考えられない。

教えられる者が未熟な場合,
教える者と教えられる者という立場の転倒が
どのような意味をもつのか
全くわかっていないのである。

だいたい,学校で一斉に児童生徒に
教師の授業の良し悪しを尋ねた結果など,
管理者が教師の序列化と抑圧の道具として使う以外に
使いようがないではないか。

授業改善のためなら,
教師の自主性にまかせて
教師一人一人が独自にアンケートを作って
子どもに聞きたいことを聞けばよいことで,
一斉にやる必要など全くない。

また,子どもの授業批評など
聞く必要がないという判断も
教師のひとつの見識である。

そもそも,評価というものは,
評価する能力がある者がするべきものであって,
評価能力がない子どもに評価させることには
百害あって一利もないのである。

ましてや,匿名で書かせるなどということは
言語道断である。
自由に悪口・陰口を言いなさい,
陰に隠れて人を非難していいですよと
教えているようなものである。

匿名でなければ言えない意見など
言うべきでないし,
聞く必要もないと
教えるのが学校である。

全く正反対である。

ともあれ,最近導入されている
児童生徒による授業評価は,
教師に多大な精神的打撃を与える。

授業内容など関係なく,
容姿や身なり,たわいない癖などについて
誹謗中傷されるのである。

さすがに相手は子どもだと思っていても,
匿名で押し寄せてくる非難には耐え難いものがある。

ネットいじめと同じである。
学校がそれを奨励しているようなものである。

教師としては,対抗策を打ち出すしかない。

そこで考え付いたのが,
「ひどいこと言われちゃいましたコンクール」である。

子どもが書いた内容の中で
どれだけひどいことを書かれたかを
教員間で競い合うのである。

「目が細いのが嫌いです」
「ダイエットしたほうがいいんじゃないですか」
「授業中,私のノートをのぞきこまないでください」
「鼻毛が出ています」
「机の間を歩かないでください。くさいです」
「いつまでこの学校にいるつもりですか」
等々,なかなかひどいことを書かれている。
強敵である。

しかし,私がかつて書かれたことのある
「すべてを変えてほしいです」
に勝てるものはないであろう!

優勝は私のものである!

2006年PISAの結果をめぐって(2)

2007-12-06 | 教育
文部科学省のHPに
2000年,2003年のPISA調査の結果の要約が
掲載されている。

そこで気づいたことなのだが,
2000年調査と,2003年・2006年調査では,
調査対象が異なっているようである。

2000年調査では,
「高等学校本科全日制学科」の1年生が対象であり,
2003年調査と2006年調査では,
「高等学校本科の全日制学科,定時制学科,
中等教育学校後期課程,高等専門学校」の1年生が対象なのである。

HPから得られるデータをもとに,
「読解力」について
2000年と2003年と2006年調査の
レベル別分布をグラフ化してみると,
2003年と2006年がほぼ重なり合う分布を示すのに対し,
2000年だけが分布が大きく異なるのである。

このふたつの事実に気づいていなかったのは
私だけなのだろうか??

調査対象の違いは,
データに差異をもたらすほどのものでは
なかったのであろうか??

よく吟味する必要がありそうである。

ともあれ,
それぞれの調査の調査対象が同一でない限り,
データ比較上,学力の変化を云々することは
できないとするのが,
科学的リテラシーというものではないだろうか?

2006年PISAの結果をめぐって

2007-12-06 | 教育
批判的思考力というものが大事である。
PISA型学力においても重視されている。

さて,乏しい批判的思考力を駆使して,
2006年PISA調査を考えてみよう。

考えるべき諸点をあげておく。

1 PISAの提唱する学力観は,果たして妥当なものであるか?

2 PISAの行っているテストは,果たして,PISAの提唱する学力を
 はかることができているのであろうか?

3 OECD(経済協力開発機構)が,学力観を提示し,
 世界各国の学力を順位付けすることの政治的意図は何か?

4 PISA型学力を,我が国の学校で育成することが
 果たして可能であるか,不可能であるか?

5 PISA型学力を,我が国の学校で育成する必要性があるのか,
 ないのか?

6 なぜ,新聞各紙をはじめマスコミは
 PISAが指摘している我が国の教育の強みと弱みを冷静に報道せず,
 ランキングというわかりやすい指標のみ強調したがるのか?
 また学力低下を,PISAの結果が示す以上に強調するのか?
 その意図は何か?

7 我が国の,いわゆる新学力観や「ゆとり教育」の理念は,
 冷静に見ればPISA型学力を先取りする形のものであったのに,
 なぜ,その理念のもとでの学力形成が十分できなかったのか?

8 アンケートに対する回答傾向に及ぼす文化的要素を
 どの程度斟酌しているのか?

9 無回答が多いことに関して,なぜ,無回答にしたのかを
 無回答とした受験者から聞き取る等の解明手段が
 存在するのか否か?

思いつくままにあげてみたが,
これらの事柄は,
それこそ論理的に追究されなければいけない問題であるが,
いかんせん,PISAの場合は,
問題が完全には公開されていなかったり,
個々の生徒がどのように解答したかが公開されていないなど,
この結果を論理的に分析することはほぼ不可能である。

したがって,この結果をめぐる論議は,
すべからく印象批評とならざるを得ない。

学力観そのものも,雑多な印象批評によって
翻弄されている我が国においては,
学力向上の具体的方策が提示される可能性はない。

そもそも子どもの学力低下が仮に存在するとして,
学力低下とは,
それが我が国の社会に
どのような影響を及ぼすかの評価がなされ,
それが我が国に将来的な危機をもたらすということが
認められる場合にのみ意味のある議論であって,
印象批評を繰り返すべき問題ではないであろう。


てっとりばやい学校改革

2007-12-03 | 教育
もっともてっとりばやい学校改革の方法を
考えてみましょう。

まず,おさえておきたいことは,
「改革」とはイメージに過ぎないということです。
間違っても,本当に改革しようなどとは
思ってはいけません。

それは無理です。

改革とは,改革イメージを周囲にアピールすること,
それにつきます。

そのためには,
改革のためのキャッチフレーズ,
改革のわかりやすい図解,
改革を喜ぶ教師・生徒・保護者の声,
生徒の笑顔の写真多数(モデルでも可),

この4つを準備してください。

そして,それを,HPや学校便り,
保護者会(パワーポイント使用のこと)で,
これでもかというほど
アピールします。

もちろん,校長のリーダーシップというか,
改革の成果を信じて疑わない狂信的態度が必要ですし,
職員室の中に,改革者にあらずんば人にあらずという
雰囲気を醸成することも忘れてはなりません。

そうすれば,教師も生徒も保護者も,
学校全体が改革気分に満ち溢れます。
それでも改革気分になれない人は,
不適格者とみなすことにします。

それだけで,学校改革は十分成果がでます。
生徒の学力は向上し,生活態度はみるみるよくなります。
教師も元気いっぱい,活力ある学校の誕生です。

なんといっても,
改革はよいこと!
改革はすばらしい!
改革バンザイ!
というイメージをつくることに
成功しさえすれば,
学校はよくなってしまうのです。

成果が上がっているふりをしていれば,
そのうち,本当に成果が出てしまいます。
摩訶不思議なことですが,
学校改革の現場ではよくあることです。

もちろん,このような改革は,
時がたてば,その無力さを露呈し,
学校の状態は以前もさらに悪化するでしょう。

でも,そのときはまた改革をぶち上げればいいんですから,
気楽に考えましょう!

というのが,今の学校改革の現状のように
思えてなりません。やれやれ。