教員の質が云々されて,
教員の質の向上にむけた教育行政の取り組みが,
教育改革の一環として,
実効性は怪しいが,いろいろと打ち出されている。
教員に対する評価も盛んになっているが,
このことは,
個々の教員には資質の差が歴然としてあるということを
公的に認めてしまったということを意味している。
ところが,ここで困ったことが起る。
ある保護者がいて,
「うちの子のクラスを変えてください。
となりのクラスの先生は優秀で評価も高い先生なのに,
うちのクラスの先生は評価の低い先生です。
うちの子がなんで不利益を受けなければならないんですか?」
この保護者に対して,
反論ができるであろうか?
教育をサービスと考えれば,
義務教育の場合,
均質なサービスを受けられると考える
この保護者の論理は正当である。
ところが,
教員の質に差があることを公的に認めてしまった現在,
「教員は誰であっても教員免許を取得した,
教える能力を保証された人ですから,
心配要りません。」
などという論理は通用しないのである。
もしかしたら,
「みんな更新講習を無事修了していますから
大丈夫です」とでも言うのであろうか。
それも無理であろう。
この問題を解決する方法は
ふたつある。
ひとつは,教員の質を完全に均質化するため,
質の異なる教員はすべて排除するという方法である。
しかし,そもそも現在の教育財政の中で,
それほど質のそろった人材が確保できるであろうか。
おそらく不可能である。
もうひとつは,
教員の質にかかわらず,
教育の質が保たれるようにする方法である。
それは,
教師のいるいないにかかわらず勉強が可能な
教科書なり学習方法なりを考えることである。
つまり教師の質が学習に及ぼす影響を
最小限にすることである。
究極は,e-learningということになりそうである。
しかし,果たしてそれは望ましい方法であろうか?
このように考えてくると,
現在の学校制度の枠組の中では,
教師の質を公に云々することは
タブーであったことがわかる。
事実かつては学校は,
教師の質の差を公に認めてはこなかった。
それは,学校制度の崩壊を意味するからである。
教師の質を公に認めるということで,
パンドラの箱を開けてしまった現在,
現在の「学校」はもはや維持できない。
教育改革が教育の場を破壊してしまう一例である。
いまや「学校」に変る教育のシステムを
考えなければならないのかもしれないが,
果たしてそれが可能であろうか?
教員の質の向上にむけた教育行政の取り組みが,
教育改革の一環として,
実効性は怪しいが,いろいろと打ち出されている。
教員に対する評価も盛んになっているが,
このことは,
個々の教員には資質の差が歴然としてあるということを
公的に認めてしまったということを意味している。
ところが,ここで困ったことが起る。
ある保護者がいて,
「うちの子のクラスを変えてください。
となりのクラスの先生は優秀で評価も高い先生なのに,
うちのクラスの先生は評価の低い先生です。
うちの子がなんで不利益を受けなければならないんですか?」
この保護者に対して,
反論ができるであろうか?
教育をサービスと考えれば,
義務教育の場合,
均質なサービスを受けられると考える
この保護者の論理は正当である。
ところが,
教員の質に差があることを公的に認めてしまった現在,
「教員は誰であっても教員免許を取得した,
教える能力を保証された人ですから,
心配要りません。」
などという論理は通用しないのである。
もしかしたら,
「みんな更新講習を無事修了していますから
大丈夫です」とでも言うのであろうか。
それも無理であろう。
この問題を解決する方法は
ふたつある。
ひとつは,教員の質を完全に均質化するため,
質の異なる教員はすべて排除するという方法である。
しかし,そもそも現在の教育財政の中で,
それほど質のそろった人材が確保できるであろうか。
おそらく不可能である。
もうひとつは,
教員の質にかかわらず,
教育の質が保たれるようにする方法である。
それは,
教師のいるいないにかかわらず勉強が可能な
教科書なり学習方法なりを考えることである。
つまり教師の質が学習に及ぼす影響を
最小限にすることである。
究極は,e-learningということになりそうである。
しかし,果たしてそれは望ましい方法であろうか?
このように考えてくると,
現在の学校制度の枠組の中では,
教師の質を公に云々することは
タブーであったことがわかる。
事実かつては学校は,
教師の質の差を公に認めてはこなかった。
それは,学校制度の崩壊を意味するからである。
教師の質を公に認めるということで,
パンドラの箱を開けてしまった現在,
現在の「学校」はもはや維持できない。
教育改革が教育の場を破壊してしまう一例である。
いまや「学校」に変る教育のシステムを
考えなければならないのかもしれないが,
果たしてそれが可能であろうか?