学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

学習観を見直そう

2008-01-28 | 教育
どんなに環境に恵まれなくても,
どんなに能力的に劣っていても,
ただひたすら努力を怠らなければ,
こつこつと努力を続ければ,
立派な人間になれる。

刻苦勉励すべし。

ただひたすらに
だれが見ていなくても
誠実に正直に
励み続けることにこそ価値がある。

このことを,
日本の公教育は
きちんと教えてきたのではなかったか。

薪を背負って勉学にいそしむ
二宮金次郎の姿こそが,
学ぶ者の理想ではなかったか。

そして,学級のなかでは皆が助け合い,
できる者は自分ができるということに奢らず,
できない者の手助けをするということに
価値があったのではなかったか。

日本が戦後復興を成し遂げたのは,
ただ単に日本人の学力が高かったと
いうようなことではなく,
このような学習観や倫理観が
しっかりと公教育の中で庶民のなかに
育まれていたからではなかったか。

ひるがえって,
現在の風潮を見てみると,
嘆かわしいことこの上ない。

環境や条件が整わなければ,
勉強ができません。
塾に通わなければ,
学力はつきません。
成績を伸ばすために
塾の先生に学校で授業をしてもらいましょう。

そんなひ弱なことをしていて,
混沌とした将来を切り開ける
骨太のたくましい人間を育てることが
できるはずがない。

先人の学習観の豊かさを
われわれは
もう一度見直すべきではないだろうか。

公立 vs 私立

2008-01-28 | 教育
戦後の教育改革で
大打撃を被ったのは,私立学校であった。
新しく,義務教育の新制中学校ができて,
だれもが中学校に行くことができるようになった。
そして,新制中学校は,
公立学校へ行くものという流れができていった。

新制公立中学校と「社会科」こそは,
戦後民主主義教育の象徴だったのである。

「中学生日記」などの中学校をテーマにした
ドラマには,その雰囲気が残っていた。

一方,
戦前からの私立の旧制中学校は,
この戦後の改革に伴い,
制度上,中学校と高等学校のふたつの学校を
併設する形で再スタートを切ったところが多い。

しかし,前述の新制公立中学校の隆盛に伴い,
私立中学校の多くは,閉鎖・廃校されていった。

そのなかで,何とか中学校を維持し得た私立学校が,
「中高一貫教育」という新しい言葉を
生み出すに至ったのである。
むしろ,
戦後の教育改革を乗り越えた戦前の中等教育の
残存形態とも言える「中高一貫教育」が,
時代の変化とともに,
新しい教育の衣をまとって
脚光を浴び出したのである。

そして,根強い官尊民卑の考え方を
都市部では,
くつがえすまでになったのである。

これは,私立学校の努力というよりも,
むしろ,時代の変化によるものと
考えたほうがよいであろう。

ただ,当時の私立学校に
優れたところがあったとすれば,
当初の教育理念や教育方法を
かたくなに守りぬいたというところに
あったのではないだろうか。

いまや教育改革や競争原理の導入によって
公立も私立もなりふりかまわぬ変化の
時代に入っている。

おそらくは,この歴史の流れから見るに,
公立であれ,私立であれ,
変化の波に流されず,
教育の根本をしっかりと守ることのできる
学校だけが,
子どもたちの将来を託すに足る学校ということに
なるであろう。




小中一貫教育と通過儀礼

2008-01-21 | 教育
一貫教育のなかでも,
小中一貫教育というのは,
日本の教育史上前例がないという意味で
注目すべきものであると思う。
(中高一貫教育は,戦前の中等教育に
 その前例をもとめることができる)

しかし小中一貫教育を推進するにあたっては,
いくつか考えておかなければならないことが
あるのではないか。

確かに,義務教育の
教科カリキュラムの一貫性ということで
メリットはあるかもしれない。
ただ,そのメリットは,小学校・中学校が分かれた
カリキュラムのメリットと相殺される関係にある。

したがって,一貫教育のもたらす影響は,
教科カリキュラムによるものよりは,
学校風土のもたらすもののほうが
より影響が大きいように思われる。

さて,
学校制度というのは,
長年の間に社会制度の枠組を超えて
既存の文化的な枠組の中に
組み込まれているものである。

とくに,中学校入学というのは,
一種の通過儀礼として
成り立っていたのではないか。

私服から制服へ。
自由な世界から規範の世界へ。
他律から自律へ。
子どもから大人へ。

というような意味が,
隠れたカリキュラムとして,
戦後,新制中学校入学に
賦与されてきたのである。
それは,地域社会の古くからの
習俗の代替装置として
賦与されたカリキュラムといってもよい。

古くは,中学校入学と同時に,
男子の頭髪を丸刈りにさせたことにも,
一種のプリミティブな通過儀礼としての意味合いを
感じさせる。

小中一貫教育によって,
このような子どもから大人への通過儀礼を
失ってしまう可能性はないかということが
気がかりである。

案外,このような文化人類学的な事柄は
人間の成育にとって
大きな意味合いをもっているのであって,
このような観点からも
一度,一貫教育のメリット・デメリットを
検証してみるべきではないだろうか?


私立学校に対する誤解

2008-01-17 | 教育
よく公立学校の私学化,
あるいは,
公立が私学を越えるために,などという表現で,
昨今の新自由主義的な改革を捉える論評があるが,
大きな誤解である。

本来,私立学校は営利企業でない。

学校法人という法人格を有し,
公教育を行うのが私立学校である。

したがって,
学習指導要領に従った教育を行う義務があり,
都道府県の管理下にある(教育委員会の管理は受けない)。
公の性質を有しているのである。

経営は,
その学校を支える寄付,学納金,各種助成金で賄われている。
利潤を追求することはできない。

また,
学生生徒数が増加すれば,
経営が良好であると判断できるかというと
そうとも言えない。

規模が拡大すれば,
蓄積しておくべき基本金も増えるし,
また,規模の拡大は
その私立学校の「建学の理念」の
希薄化につながることが多いので
必ずしも
経営の拡大は好ましいことではない。

私立学校は,
その学校それぞれの適正規模で適正に運営していくことが
最も大切なことなのである。

このように考えると,
私立学校は本来,自由主義的競争の埒外にあるのである。

無論,少子化の流れのなかで,
少ない学生生徒を奪い合って競争しているかのように
見えることも否めないし,
また事実,競争好きな経営者のいる私立学校もあるが,
もともと私学それぞれの「建学の理念」によって
ターゲットとしている学生生徒層が異なるので,
他校と競合しないことが最も有利なのである。
したがって,競争は避けられるならば,
避けるのが望ましい。

それよりもむしろ,昨今,
本来私立学校が個々にもっている「建学の理念」を
失うことのほうを危惧しているのが実情である。

「建学の理念」こそが,私立学校の存立理由であり,
それを失ってまで学校を維持することに
何の意味も見出せないからである。

以上,述べてきたことからわかるように,
私立学校は,現在推進されている
公立学校の新自由主義的改革のモデルでは全くない。

改革を推進する公立学校は,
単に得体の知れない教育を目指しているだけである。



名もなき教師たちへ

2008-01-16 | 教育
教師よ,怒れ!

これまでどれだけの努力を重ねてきたか。
これまでどれだけ耐えてきたか。

日々押し寄せる教育現場の難題に
それこそ教師としての矜持だけを頼りに
なんとか乗り越えてきた名もなき教師。

それなのに,
日々の地道な努力をまるでなきがごとくの
昨今の世評,論評。
まるで無能な輩のように扱われ,
それこそ識者づらした輩のいい餌食。

そればかりか,
教育現場から見れば,
全く素人同然の,
あるいは,
マスコミ受けだけはするような,
あるいは,
一過性の花火のような,
あれやこれやの「改革」に振り回される。

しかし,
その「改革」は,
現場の目で見たときには
決して子どもにためになるものではない。
誰のための「改革」か,
誰が「改革」のかげで得をするのか,
そのことをはっきりさせることすら
はばかられる圧力。

学校が壊れ,教師が壊れ,
そして,子どもが壊れていく。
変化は,目には見えにくい。

その危うさが,
手に取るように
わかっていながら,
ただ,名もなき教師たちは
じっと耐えている。

善良な市民の代表のような
彼らがいるからこそ,
我が国の学校教育は
かろうじて維持されている。
そのことにはほとんど目を向けられない。

もう限界に近い。

善良な彼らの日常の努力を踏みにじる
「改革者」が後を絶たないからだ。

マスコミでもてはやされる「改革」の
真実の姿を,世の人々が知るのは,
ずっと先のことになるであろう。

そのときでは,遅いのである。

名もなき教師としての
一筋のささやかな努力をかき乱す者を
許すべきではない。

怒りを忘れてはならない。

しかし,
静かに深く怒りを秘めて,
ただ目立たぬ努力を続けなければならない。
子どもたちのために。


まどわされてはいけない

2008-01-13 | 教育
公立より私立の方がよい教育をしている。
学校より塾の方が学力が伸びる。
小中一貫教育や中高一貫教育は優れている。
民間活力を取り入れれば学校はよくなる。
教育改革をすれば教育はよくなる。
などなど。

すべて本当は根拠がない。

しかし,これらの言説が
広く信じられることによって
言説は事実となる。

なぜなら,「よい」と思われた教育を
行う学校なり機関に
よい人材が集まるからである。

このように根拠のない事柄であっても,
広く信じられることで事実となっていくために,
その根拠のない事柄が,
あたかも最初から根拠のある事柄であったかのように
見えるものである。
そして,そこには,
必ずビジネスチャンスが潜んでいる。

つまり,ビジネスチャンスの創出をもくろむ者が
風説を流布することに成功すれば,
ビジネスの成功をもたらすのである。

教育という世界では,
教育効果は,実証が不可能であるか
もしくは極めて長いスパンで見る必要があるので,
このような風説の流布が力をもつのである。

最初にだれがその教育に関する風説(言説)を
広め始めたのかを
詳しく見極めることができれば,
その構造がより明らかになってくると思われる。


「公」ということの意味

2008-01-10 | 教育
私が子どもの頃,
小学校の先生が,
「明日は,セロハンテープをもっていらっしゃい」と
おっしゃった。
当時,セロハンテープは
「セロテープ」というのが普通であったので,
子どもがそのことを問いただすと,
先生は,
「セロテープ」は登録商標なので
公立学校の先生である自分は
特定の企業の商標名を
教室で口にすることはできないのだという意味のことを
おっしゃった。

なぜか,印象に残っている。

「公」であるということは,
特定の「私」との関係を持たない,
あるいは,
どの「私」とも
一定の距離を保つということではなかったか。

そこに,「公」の「公」たる所以があり,
「私」にはない「公」の理念も生まれてくる
のではないか。

最近,杉並区の中学校が
特定の塾と連携したというニュースを聞いた。

連携する塾を公募したのであろうか?
競争入札したのであろうか?
なぜ,その「私」企業が選ばれたのか?
その塾の授業の会場である校舎の
電気代やチョーク代は誰が負担するのか?

学校ではなく,地域本部が主催などという
搦め手をつかっているのも解せない。

理由はどうあれ,
「公」としての矜持を見失った公立学校に
「公」を名乗る資格はないし,
「公」が維持する必要もない。
 

子どものため

2008-01-05 | 教育
よく小学生に
「日記をつけましょう」という
指導がなされることがある。

年の初めということもあり,
小学生用に適当な日記帳を探すのだが,
なかなか,よいものはみあたらない。

私自身が小学生のときにつけていた
日記帳を引っ張り出してみたら,
1968年の集文館の「小学生日記」というものが
でてきた。
大人用の日記と同じく上製本で
堅牢なつくりである。
中身は子供向けにきちんと編集されている。

日記帳というものは,
毎年同じものを購入する人も多いので,
あまり体裁を変えないでほしいものなのだが,
大人用のものでは,
そのような用途を満たすものがあっても,
子供用のものは,
年によってどういうわけか
全くデザインを変えてしまうことがよくあるし,
製本もあまり堅牢ではない。

よく考えてみると,
かつては,確かに粗悪品も多かったが,
探せば,
ノートにしても,鉛筆にしても,
消しゴムにしても,
子どもが使う学用品がきちんと,
その本来の機能を発揮して,
子どもがよく勉強ができるようにと
大人たちが願いを込めて作られた良質なものが
あったような気がする。

そのような良心的な製品が
どんどん少なくなっているような気がする。

「売る」ためのデザイン,キャラクター,
そのわりに,本来の機能という面では,
見劣りのする製品が跋扈している。

作る側の大人たちが,
「子どものため」に製品を作るのではなく,
「売るため」に製品を作るようになってしまったのか,
あるいは,
買う側の大人たちが,
本当に「子どものため」に
製品を選ばなくなってしまったのか,

とにかく,
教育論がかまびすしい割には,
「子どものため」に丹精込めて作られたと
思われる学用品が少ないように思うのである。








あけましておめでとうございます

2008-01-01 | 教育
あけましておめでとうございます

旧年中は多数のコメント・TBをいただきまして
誠にありがとうございます。

本年こそは,

教育現場をないがしろにした
教育の改革が行われませんように,

子どものことを考えているようなふりをしながら
子ども以外のところに利益がいくような
教育の改革が行われませんように,

一部の人々が
学校時代に抱いた恨みや思い込みに基づく
教育の改革が行われませんように,

切に祈念いたします。

すべての心ある教師の皆さんが,
健やかに「子どものため」の実践が
できますように

切に祈念いたします。

平成20年元旦