前回、「『AERA』2007年1月29日号の左利き記事」お茶でっせ版、新生活版 が右利き寄りに偏向しているのではないか、と書きました。
今回もう少しその点を考えてみましょう。
記事が特定のイデオロギーに偏向しているからといって、それが必ずしも悪いとは言いません。
思想の自由・表現の自由は保障されています。
道義的にはともかく、いかなるものであれ、否定されるものではありません。
しかし、19世紀イギリスを代表する哲学者・経済学者、J・S・ミルはその著書(約150年前の名著)『自由論』(山岡洋一/訳 光文社古典新訳文庫 2006.12刊)「第2章思想と言論の自由」のなかで、次のように書いています。
古代ローマの政治家キケロは、論敵の意見を研究するのを習慣にしていた。この点は、「真理をみつけだすために研究している人の全員が真似るべきである。」
「自説の根拠しか知らない人は、その問題についてほとんど何も知ってはいない。」
たとえ自説の根拠が適切で、かつ誰にも論破されていない場合でも、
「その人も論敵の根拠を論破できないのであれば、あるいは論敵が何を根拠にしているのかすら知らないのであれば、どちらか一方の意見を選ぶ理由をもっていないのである。合理的な立場をとるのであれば、どちらの意見についても判断を留保すべきであり、それでは満足できない場合には、権威にしたがっているのか、世間の人たちがそうしているように、自分の好みにいちばんあうと感じる意見を選んでいるのである。」
また「その意見を実際に信じている人から、つまり、その意見を真剣に擁護し、そのために最大限に努力する人から、主張を聞くことができなければならない。」と、論敵の主張にふれることの大切さを述べています。
「正しい意見のうち、反対論との議論で決定打になり、議論の全体に通じている人の判断を左右する部分 … をほんとうに知っているのは、両方の意見に公平に平等に注意を払い、両方の根拠のうち最強のものを理解しようとつとめた人だけである。」
この『AERA』2007年1月29日号「アエラネット/レフティー(1)-子どもの左利き、直す?直さない?」の記事の中で、ラストの方に、利き手の「矯正」は簡単にできるが、利き目の「矯正」はそうではない、という学者の意見を取り上げていたように記憶しています。
今回の記事だけを見ますと、まるで、利き手を変えることは容易であり、「直せる」という立場は不動のもののような印象を受けます。
こういう一方の側から書かれている記事は、多くの悩める左利きの子を持つ親御さんたちに誤ったシグナルを送ることになる、と私は考えます。
今後の連載がどのような展開を見せるのかは不明でありますが、基本姿勢は変わらないのではないかと危惧しております。
表題の「直す?直さない?」やアンケートにおける「矯正」という言葉を用いることに関しても、自説による見方に基づく言葉使いではなく、もう一方の見方も配慮した言葉使いがあっても良かったのに、と考えます。
実際、多くの利き手研究家がこの「矯正」という言葉の不適切さを訴えています。
1970年代前半、左利き友の会の主宰者であった精神科医・箱崎総一(『左利きの秘密』立風書房マンボウブックス 1979)や、利き手の研究成果をまとめた八田武志教授(『左ききの神経心理学』医歯薬出版 1996)のような、右手使い指導に反対する人たち。
また、一部右手使いに変えることを視野に入れても良い、もしくは容認する立場の人たち―『右利き・左利きの科学』(講談社/ブルーバックス 1987)の著者、前原勝矢、児童かきかた研究所所長・高嶋喩(『だれでもできる幼児・児童の書き方指導(硬筆編)』あゆみ出版 1994年刊)の両氏も著書で、この言葉の不適切さに言及しています。
ネットの検索でも、この言葉について色々な情報が得られます。
不適切さに言及しているサイトはいくつもあげられます。
これらの情報はすべて、左利きについてちょっと調べれば出てくるものであり、左利きを研究する人の間では常識といえなくもありません。
どうも左利きを語る上での資格についても疑問を感じてしまいます。
広く一般に使われている言葉だから、という理由であれば、それはおかしいと思われます。
実際に、広く一般に使われている言葉であっても、それが現実に差別的に使われていたり、あるいは誤解を招くおそれがある、もしくは偏見や差別を助長するおそれがある、と考えられる言葉を差別用語として自主規制してきたのは、新聞やマスコミ業界だったのではないでしょうか。
大きな声には耳を貸すが、小さな声は聞かなかったことにするのでしょうか。
差別用語の類は既に広く認知されているが、こちらはそうではない、というのなら、それこそは、マスコミの誘導(よく言えば、啓蒙。悪く言えば、洗脳)の結果ではないでしょうか。
百歩譲って、ライターが先入観を持たないで取材に当たりたいという考えであったとしても、「先入観を持たない」こと=「基礎知識を持たない」ことではないでしょう。
取材に当たる者、および書き手が当該対象に基礎的な知識を持つことは、最低限の常識ではないでしょうか。
テレビのバラエティ番組でリアクションを期待されている出演者ではないのですから。
今後はぜひとも、もう一方の声にも公平に耳を貸していただきたいものです。
その上で、左利きの問題において、誰もが公正な判断を下せるような立派な記事にしていただきたい、と願っています。
※ 参照:
・1月22日発売の週刊誌:『AERA』2007年1月29日号
アエラネット/レフティー(1)-子どもの左利き、直す?直さない?
・アエラ・ネット
アエラ総研 月刊テーマ(2007-01-11 更新)「左利きは得か損か?」
・前回の記事:2007.1.24
『AERA』2007年1月29日号の左利き記事 お茶でっせ版、新生活版
・サイト『左組通信』、ブログ『お茶でっせ』「アピール:左利き」
「利き手(左利き)の矯正」という言葉の使用について
「矯正」という言葉の不使用のお願いアピールについてのアンケート
『左組通信』<レフティやすおの左利き私論2>右手使いへの変更(左利き矯正)について
[追記]続編記事:
2007.1.30『AERA』左利き記事(3)―「利き手は変えられる」の発想?
お茶でっせ版、新生活版
※本稿は、ココログ版『レフティやすおのお茶でっせ』より「『AERA』左利き記事(2)―右利き偏向について」を転載したものです。
今回もう少しその点を考えてみましょう。
記事が特定のイデオロギーに偏向しているからといって、それが必ずしも悪いとは言いません。
思想の自由・表現の自由は保障されています。
道義的にはともかく、いかなるものであれ、否定されるものではありません。
しかし、19世紀イギリスを代表する哲学者・経済学者、J・S・ミルはその著書(約150年前の名著)『自由論』(山岡洋一/訳 光文社古典新訳文庫 2006.12刊)「第2章思想と言論の自由」のなかで、次のように書いています。
古代ローマの政治家キケロは、論敵の意見を研究するのを習慣にしていた。この点は、「真理をみつけだすために研究している人の全員が真似るべきである。」
「自説の根拠しか知らない人は、その問題についてほとんど何も知ってはいない。」
たとえ自説の根拠が適切で、かつ誰にも論破されていない場合でも、
「その人も論敵の根拠を論破できないのであれば、あるいは論敵が何を根拠にしているのかすら知らないのであれば、どちらか一方の意見を選ぶ理由をもっていないのである。合理的な立場をとるのであれば、どちらの意見についても判断を留保すべきであり、それでは満足できない場合には、権威にしたがっているのか、世間の人たちがそうしているように、自分の好みにいちばんあうと感じる意見を選んでいるのである。」
また「その意見を実際に信じている人から、つまり、その意見を真剣に擁護し、そのために最大限に努力する人から、主張を聞くことができなければならない。」と、論敵の主張にふれることの大切さを述べています。
「正しい意見のうち、反対論との議論で決定打になり、議論の全体に通じている人の判断を左右する部分 … をほんとうに知っているのは、両方の意見に公平に平等に注意を払い、両方の根拠のうち最強のものを理解しようとつとめた人だけである。」
この『AERA』2007年1月29日号「アエラネット/レフティー(1)-子どもの左利き、直す?直さない?」の記事の中で、ラストの方に、利き手の「矯正」は簡単にできるが、利き目の「矯正」はそうではない、という学者の意見を取り上げていたように記憶しています。
今回の記事だけを見ますと、まるで、利き手を変えることは容易であり、「直せる」という立場は不動のもののような印象を受けます。
こういう一方の側から書かれている記事は、多くの悩める左利きの子を持つ親御さんたちに誤ったシグナルを送ることになる、と私は考えます。
今後の連載がどのような展開を見せるのかは不明でありますが、基本姿勢は変わらないのではないかと危惧しております。
表題の「直す?直さない?」やアンケートにおける「矯正」という言葉を用いることに関しても、自説による見方に基づく言葉使いではなく、もう一方の見方も配慮した言葉使いがあっても良かったのに、と考えます。
実際、多くの利き手研究家がこの「矯正」という言葉の不適切さを訴えています。
1970年代前半、左利き友の会の主宰者であった精神科医・箱崎総一(『左利きの秘密』立風書房マンボウブックス 1979)や、利き手の研究成果をまとめた八田武志教授(『左ききの神経心理学』医歯薬出版 1996)のような、右手使い指導に反対する人たち。
また、一部右手使いに変えることを視野に入れても良い、もしくは容認する立場の人たち―『右利き・左利きの科学』(講談社/ブルーバックス 1987)の著者、前原勝矢、児童かきかた研究所所長・高嶋喩(『だれでもできる幼児・児童の書き方指導(硬筆編)』あゆみ出版 1994年刊)の両氏も著書で、この言葉の不適切さに言及しています。
ネットの検索でも、この言葉について色々な情報が得られます。
不適切さに言及しているサイトはいくつもあげられます。
これらの情報はすべて、左利きについてちょっと調べれば出てくるものであり、左利きを研究する人の間では常識といえなくもありません。
どうも左利きを語る上での資格についても疑問を感じてしまいます。
広く一般に使われている言葉だから、という理由であれば、それはおかしいと思われます。
実際に、広く一般に使われている言葉であっても、それが現実に差別的に使われていたり、あるいは誤解を招くおそれがある、もしくは偏見や差別を助長するおそれがある、と考えられる言葉を差別用語として自主規制してきたのは、新聞やマスコミ業界だったのではないでしょうか。
大きな声には耳を貸すが、小さな声は聞かなかったことにするのでしょうか。
差別用語の類は既に広く認知されているが、こちらはそうではない、というのなら、それこそは、マスコミの誘導(よく言えば、啓蒙。悪く言えば、洗脳)の結果ではないでしょうか。
百歩譲って、ライターが先入観を持たないで取材に当たりたいという考えであったとしても、「先入観を持たない」こと=「基礎知識を持たない」ことではないでしょう。
取材に当たる者、および書き手が当該対象に基礎的な知識を持つことは、最低限の常識ではないでしょうか。
テレビのバラエティ番組でリアクションを期待されている出演者ではないのですから。
今後はぜひとも、もう一方の声にも公平に耳を貸していただきたいものです。
その上で、左利きの問題において、誰もが公正な判断を下せるような立派な記事にしていただきたい、と願っています。
※ 参照:
・1月22日発売の週刊誌:『AERA』2007年1月29日号
アエラネット/レフティー(1)-子どもの左利き、直す?直さない?
・アエラ・ネット
アエラ総研 月刊テーマ(2007-01-11 更新)「左利きは得か損か?」
・前回の記事:2007.1.24
『AERA』2007年1月29日号の左利き記事 お茶でっせ版、新生活版
・サイト『左組通信』、ブログ『お茶でっせ』「アピール:左利き」
「利き手(左利き)の矯正」という言葉の使用について
「矯正」という言葉の不使用のお願いアピールについてのアンケート
『左組通信』<レフティやすおの左利き私論2>右手使いへの変更(左利き矯正)について
[追記]続編記事:
2007.1.30『AERA』左利き記事(3)―「利き手は変えられる」の発想?
お茶でっせ版、新生活版
※本稿は、ココログ版『レフティやすおのお茶でっせ』より「『AERA』左利き記事(2)―右利き偏向について」を転載したものです。