ロワール古城をめぐる一日、まずはアンボワーズ城を対岸の中州から見る。現在残っている建物は往時の五分の一ほどでしかない。城の一角にはレオナルド・ダ・ヴィンチの墓があるとされる礼拝堂がある。
このブロンズの巨像は、レオナルド・ダ・ヴィンチなのだそうだ。
ふたつめの城はロワール流域最大のシャンボール城。城館もさることながら、ここは城の領有する面積が最大。パリと同じぐらいの一蹴32キロの壁で囲われている。そこへの入り口がここ。王の狩場は二十世紀でも大統領の狩場として使われていた。
駐車場から歩いて正面玄関へ。
中を貫く二重螺旋の階段はレオナルド・ダ・ヴィンチのアイデアが生かされているとされる。もっとも、この城の建築がはじまった時にはすでにレオナルドは亡くなっていたのだが。その螺旋階段の最上部をテラスからみあげたところがこれ。
**
そして、もっとも美しいと言われるシュノンソー城も、もちろん訪れる。
レオナルドを庇護したフランソワ一世王の財務官だったトマ・ボイエがつくりはじめた城館をもとに今のものが出来てきた。その管理は奥方のカトリーヌ・ブリゾネがあたっており、それ以降現代に至っても、この城は女性たちによって管理されている。
ひとつ、奇妙な一室をご紹介しよう。「黒い部屋」は、暗殺されたアンリ三世の妃ルイーズ・ド・ロレーヌがずっと白い喪服を着て祈りの日々を過ごしていた部屋。
この部屋は現在三階にあるが、実はオリジナルの場所は礼拝堂の二階に隣接するかたちで作られていた。この写真左手に見える窓は今は外になっているが、当時はここを開けるとすぐに礼拝堂を見下ろすことが出来たのであった。
***
橋の上の二階で、今までにない展覧会をやっていた。ジャン・ジャック・ルソーがこの城を頻繁に訪れていた頃の逸話を紹介していた。
企画したキュレーターの言葉を一部紹介。
「ルソーは悲観的な思想と憂鬱なイメージがあるが、この展示によってルソーのもっとちがった側面を知ってもらえれば幸いです。このシュノンソーを訪れていた時のルソーは間違いなくしあわせな時間をすごしていたのです」
時は十八世紀半ば。
この城はデュパン婦人という魅力的な貴婦人の主催するサロンが人気だった。彼女の父サミュエル・ベルナールはルイ14世の銀行家の一人で、三人の娘をもっていた。聡明さと美しさを兼ね備えていたルイーズ・マリー・デュパン婦人はまだ有名になる前のルソーを自分の教育アドバイザーとして雇っていた。
1746年ごろ、つまりデュパン婦人は四十歳ごろ、ルソーは六つ年下。思想も文章も、音楽さえ一流だったルソーは、静かな環境とおいしい食卓を饗され、確かに幸せな日々をすごしていたに違いない。デュパン婦人の、この肖像画はこの頃よりも少しだけ前に画かれたものだろう。
彼女の魅力に惚れこんだルソーは、ラブレターの様な詩を贈ったが、それはやんわり拒絶され、夫君の知るところとなってしまった。
出入りを禁止されたルソーは謝罪の手紙を送っている。
ルソーが懸賞論文に当選し、一躍名を高めていったのは、それから四年後のことであった。
このブロンズの巨像は、レオナルド・ダ・ヴィンチなのだそうだ。
ふたつめの城はロワール流域最大のシャンボール城。城館もさることながら、ここは城の領有する面積が最大。パリと同じぐらいの一蹴32キロの壁で囲われている。そこへの入り口がここ。王の狩場は二十世紀でも大統領の狩場として使われていた。
駐車場から歩いて正面玄関へ。
中を貫く二重螺旋の階段はレオナルド・ダ・ヴィンチのアイデアが生かされているとされる。もっとも、この城の建築がはじまった時にはすでにレオナルドは亡くなっていたのだが。その螺旋階段の最上部をテラスからみあげたところがこれ。
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そして、もっとも美しいと言われるシュノンソー城も、もちろん訪れる。
レオナルドを庇護したフランソワ一世王の財務官だったトマ・ボイエがつくりはじめた城館をもとに今のものが出来てきた。その管理は奥方のカトリーヌ・ブリゾネがあたっており、それ以降現代に至っても、この城は女性たちによって管理されている。
ひとつ、奇妙な一室をご紹介しよう。「黒い部屋」は、暗殺されたアンリ三世の妃ルイーズ・ド・ロレーヌがずっと白い喪服を着て祈りの日々を過ごしていた部屋。
この部屋は現在三階にあるが、実はオリジナルの場所は礼拝堂の二階に隣接するかたちで作られていた。この写真左手に見える窓は今は外になっているが、当時はここを開けるとすぐに礼拝堂を見下ろすことが出来たのであった。
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橋の上の二階で、今までにない展覧会をやっていた。ジャン・ジャック・ルソーがこの城を頻繁に訪れていた頃の逸話を紹介していた。
企画したキュレーターの言葉を一部紹介。
「ルソーは悲観的な思想と憂鬱なイメージがあるが、この展示によってルソーのもっとちがった側面を知ってもらえれば幸いです。このシュノンソーを訪れていた時のルソーは間違いなくしあわせな時間をすごしていたのです」
時は十八世紀半ば。
この城はデュパン婦人という魅力的な貴婦人の主催するサロンが人気だった。彼女の父サミュエル・ベルナールはルイ14世の銀行家の一人で、三人の娘をもっていた。聡明さと美しさを兼ね備えていたルイーズ・マリー・デュパン婦人はまだ有名になる前のルソーを自分の教育アドバイザーとして雇っていた。
1746年ごろ、つまりデュパン婦人は四十歳ごろ、ルソーは六つ年下。思想も文章も、音楽さえ一流だったルソーは、静かな環境とおいしい食卓を饗され、確かに幸せな日々をすごしていたに違いない。デュパン婦人の、この肖像画はこの頃よりも少しだけ前に画かれたものだろう。
彼女の魅力に惚れこんだルソーは、ラブレターの様な詩を贈ったが、それはやんわり拒絶され、夫君の知るところとなってしまった。
出入りを禁止されたルソーは謝罪の手紙を送っている。
ルソーが懸賞論文に当選し、一躍名を高めていったのは、それから四年後のことであった。