野ゆき山ゆき海邊ゆき

日々の生活の中で出合う自然や民俗、歴史遺産を記録します。主な舞台は和歌山県中部。タイトルは佐藤春夫の「殉情詩集」より。

黄葉に沈む夕日

2022年11月28日 | 植物
土生から千津川に抜ける道沿いのイチョウがきれいに黄葉している。黄葉が夕日に照らされるのが美しかったので、少し時期は遅いが昨夕撮影に行ってみた。
尊光寺は江戸時代の高僧徳本が水行したところらしい。断食しかも塩断ちや五体投地までやっていたらしい。その荒行の末念仏専心に到達したのであろうか。


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憲法発布30年記念碑

2022年11月28日 | 歴史
また話題を和歌山城にもどす。
岡口門から出て広瀬通の歩道沿いに、二本のクスの間に石碑があり「憲法発布30年記念碑」、その背面には大正8年2月11日 和歌山市と印刻されている。 憲法とは大日本国帝国憲法だったのだ。憲法とくれば日本国憲法しか浮かばない戦後生まれの者には、意外さを感じた一瞬だった。
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夕焼け空がまっ赤か

2022年11月26日 | 色と光
和歌山城は少しわきのおいて。
今日はぐずついた天気だったが、午後からは雲も晴れて夕暮れ時は西の空には雲一つな上天気になった。グラデーションがきれいな空に三日月までかかっていた。
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かつての大手門

2022年11月24日 | 歴史
和歌山城は、秀吉の紀州平定(1585年)後に弟の秀長に築かせたのが始まりとされる。同年に大和郡山城の整備もされ、秀長はそこの城主となり家臣の桑山重晴*が和歌山城の城代となった。関ケ原の戦い(1600年)のあとは、浅野幸長が城主になった。このころまでは、岡口門が大手門となっていたが、大阪の陣後の1619年に、徳川頼宜が入城し、徳川御三家の城となった。頼宜は1621に城を拡張した際に、大手門を現在の位置に移し岡口門は搦手門(裏門)となった。
   
太平洋戦争終末期の1945年7月の和歌山大空襲で城の大半が焼失したが、岡口門は難を逃れた。
*桑山重晴は城代になる前は、天空の城とし有名な但馬竹田城の城主だった。紀州征伐にも従軍し首級をあげている。
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和歌山城の奇木

2022年11月23日 | 植物
城内には植栽された木や自然木が多くみられるが、奇妙な木3本にであった。
これは植えられたものだが、相当に太くそのねじれ具合がダイナミックだった。樹齢はどのくらいあるだろうか。下の標識には「1000年と推定」とある。伸びる方向に左巻きなのがノダフジで、右巻きがヤマフジである。
   
東側の城壁の上にクスノキを裂いて伸びるエノキである。近い位置で同じころ伸び始めたのだろう。エノキのほうが太く大きくなってクスの幹を裂いていったいったのだろう。こんな状態でもクスは青い葉を茂らせている。

これは城外の岡公園の頂上の結晶片岩の割れ目にしっかり根を張ったエノキである。実に逞しいというか凄まじささえ感じる。
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和歌山版 桜田門外の変

2022年11月20日 | 歴史
和歌山城二の丸御座之間の裏鬼門に当たる位置に追廻門がある。国道26号線に面しているのでよく見ていたが、潜ったのは今回が初めてだった。

門の外には、最近設置されたと思う説明板があり、田中善蔵が暗殺されたことが記されている。和歌山県人として60年を超えているが、それを知るのは初めてだった。和歌山の歴史には触れることが多かったが、県民の間ではほとんど話題に上らなかった事件ではないだろうか。

説明版には、「・・第二次長州征伐に先鋒隊として出陣しますが、戦費で藩財政が苦しくなり、その敗北で兵制改革の必要性を痛感します。このため藩政改革が求められ、慶応2(1866)年に津田出を登用した。だが翌年保守派の反撃で失脚し、急進改革派であった奥右筆組頭の田中善蔵が、追廻門で暗殺される事件が起こります。」と書かれている。

門を出て左の石垣の下には、梅が植えられていて、目立たないがこの件に関する石碑が二柱建てられている。左の碑は、右の石碑を明治百年を記念して秋葉山からここへ移した故が刻まれている。
     
右の石碑は明治18(1885)年に最後の藩主徳川茂承卿の揮毫を刻んでいる。碑の正面上には盡忠之碑と記され、「先生(田中善蔵)が登城中にここで襲われ独りで刀をふるって応戦したが、ついに殺害された。慶応三年一月十二日行年四十三」といった内容が漢文で記されている。(「紀州歴史遊学」参考)
この事件は、有名らしくデジタ版日本人名大辞典+Pulusや朝日日本歴史人物事典にも記載がある。前者には6名に襲われたと書かれているが、儘忠之碑の前の碑には、実行者として小坂、東使、衣笠、上田、赤見の5名となっている。数の違いは意図的か単なる間違いか・・・
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和歌山城 御橋廊下

2022年11月18日 | 歴史
西の丸と二の丸の間に屋根付きの橋が架かっています。平成18年に再建されたらしいです。

傾斜があり平板な床板だと滑るのかのこぎり状になっているが歩きにくいこと甚だしいです。
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嗚呼 和歌山城

2022年11月17日 | 歴史

和歌山城には何度か足を運んだが、護国神社や西の丸方面には行ったことがなかったので、今回西回りでお城の麓を回ってみた。
尾張徳川の名古屋城に比べると規模はかなり小さいが、いろいろ見どころはあるものだ。今回は一番のハイライトであろう西の丸
庭園をご紹介することにします。ちょうど紅葉の見ごろで、さすが紅葉渓と別称されている価値がある景観でした。


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