和歌山城二の丸御座之間の裏鬼門に当たる位置に追廻門がある。国道26号線に面しているのでよく見ていたが、潜ったのは今回が初めてだった。
門の外には、最近設置されたと思う説明板があり、田中善蔵が暗殺されたことが記されている。和歌山県人として60年を超えているが、それを知るのは初めてだった。和歌山の歴史には触れることが多かったが、県民の間ではほとんど話題に上らなかった事件ではないだろうか。
説明版には、「・・第二次長州征伐に先鋒隊として出陣しますが、戦費で藩財政が苦しくなり、その敗北で兵制改革の必要性を痛感します。このため藩政改革が求められ、慶応2(1866)年に津田出を登用した。だが翌年保守派の反撃で失脚し、急進改革派であった奥右筆組頭の田中善蔵が、追廻門で暗殺される事件が起こります。」と書かれている。
門を出て左の石垣の下には、梅が植えられていて、目立たないがこの件に関する石碑が二柱建てられている。左の碑は、右の石碑を明治百年を記念して秋葉山からここへ移した故が刻まれている。
右の石碑は明治18(1885)年に最後の藩主徳川茂承卿の揮毫を刻んでいる。碑の正面上には盡忠之碑と記され、「先生(田中善蔵)が登城中にここで襲われ独りで刀をふるって応戦したが、ついに殺害された。慶応三年一月十二日行年四十三」といった内容が漢文で記されている。(「紀州歴史遊学」参考)
この事件は、有名らしくデジタ版日本人名大辞典+Pulusや朝日日本歴史人物事典にも記載がある。前者には6名に襲われたと書かれているが、儘忠之碑の前の碑には、実行者として小坂、東使、衣笠、上田、赤見の5名となっている。数の違いは意図的か単なる間違いか・・・