とんだり はねたり

kinoppyの一日

秋の信州 vol1 松本城

2018-11-30 | 旅行
Hi!みんな元気?久しぶりだね。所用があって、松本に行ったよ。松本と言えば、りんご、松本城、安曇野など次々思いつくほど自然に恵まれた土地柄、kinoppyはホイホイと出かけて行った。お天気に恵まれて、ラッキー!!まずは松本のシンボル松本城を紹介しよう。

スーパーあずさからの車窓、う~ん、イイネ、ワクワク!紅葉はもう終わりかな?



松本に着いたよ。松本の風景はなぜかkinoppyを落ち着かせてくれる。なぜ?それは



山があるから。四方に高い山がある風景は懐かしく、心落ち着けるんだよね。kinoppyだけではないと思うけど。みんなはどう?

人口24万の松本市、ゆったりしてとても穏やかそうな街並み。落ち着く~。ただ、地方都市はどこもそうだけど、車だけは多くてちょっとうんざりね。
駅前の通りに大きな球体、なんだろう?と思ったら、からくり時計なんだって。午前10時から午後7時まで、1時間おきにパカット開いて、お人形とともに時刻を知らせてくれるそうな。へぇ~。



松本には他にも、こんなものがあって、感心した。昔の町名を残そうと建てられているらしい。良いことだよね。たとえ建物がなくなっても、歴史は残る。現在、未来の子供たちに伝え続けていくことができる。







大通りを真っ直ぐ行くと、両側には大きな建物がずらっと並ぶ。
毎日新聞のビル



角を曲がって北へ向かうと、ゆるやかに流れる1級河川女鳥羽川にであう。左岸に時計台が見える。ここに四柱神社の入口がある。川に沿って参道、ナワテ通り商店街がある。とても面白そうな所なので、ここは後に取っておこう。 



向こう側にせいじ・おざわのフェスティバルポスター、す・て・き いつなんだろう?



木の陰からそっと覗くと?何やら怪しい建物が・・・。(笑)



大きなビルとビルに挟まれ、縮こまっているように見える。お城を模した看板?骨董品の店?それとも?想像すると楽しいね。



この建物も昔の立派な風情を想像させる。信号には大名町通りとある。もうすぐだ、お城!



ハイ、お待たせ、やっと松本城に着いたよ。素晴らしい書体!誰の?



松本城の雄姿、立派なお城だ。さすが国宝。



内濠の橋を渡って、入場券を購入。博物館込みで600円。登るや否や、しばし悩んだけれど、折角だからと登城することにした。
お城のてっぺんから写真を撮りたかった・・・のだった。





黒門を抜けて太鼓門を通り抜ける。横をチラッと見ると石積みと歴代城主の名前が。

松本城は戦国時代の初め、深志城と言って、信濃の守護小笠原氏の林城の前面を固めるために造られた。その後武田信玄がこの地を占領したが、小笠原氏が本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城と改めた。
豊臣秀吉が天下を統一すると、小笠原氏は江戸に移封された徳川家康に従い、下総へ移ったため、秀吉は石川数正を松本城に封じた。
数正、康長父子は天守三棟、御殿・太鼓門・黒門・櫓・塀などを作り、城下町の整備を進め、松本城の基礎を固めた。天守の築造年代は、康長による文禄2年~3年(1593~4)年と考えられている。(松本城管理事務所作成のパンフレットより)

その後も数々の大名が城主となったようだ。



本丸御殿跡前に来ると、松本市のマスコットャラクター、アルプちゃんがお出迎え。



こんなこともしてくれます。もちろん一緒にカメラに収まることも。

  

登ってみた所がさあ大変。kinoppyは数年前、金毘羅さん登って、すぐその足で電車に飛び乗って、高知城に上ったりしてたので全然平気と思っていたら、ここ、松本城の何階だったか相当高さのある階段には参った。下りる時はもっと怖いよ。それに、最上階6階まで登ってもきちんとした写真は撮れない。誰かが開けた金網の破れ目から遠慮がちにシャッターを押すだけ。こんなに頑張って登ったのに~。下調べをしなかったkinoppyが悪い。仕方なか~。
その景色がこれ。でも、金網の破れ目から撮った写真には見えないでしょ?



松本は高い建物がないから、空が広いね~。すてき!



東側かな?先程登ってきた玄関口、本丸跡。



中に展示してあるのはほとんど火縄銃とその資料だけ。松本市出身の方から寄贈されたもののようだ。博物館がすぐ隣にあるので詳しい資料はそちらに行けば良いね、きっと。



火縄作りは女の仕事だったらしい。



長篠の合戦



銃刀の装飾品?



胸にかけているのは爆弾で、鎧兜は10kgもあったと、ガイドのおじさんが説明していた。怖っ!



2階から眺める景色。2階は月見櫓。月見をするために造られた櫓で周りに朱塗りの回廊がある。もう、金網はない。





北側かな?外堀が見える?



南側、内濠、城公園が見える。



外へ出て、内濠側からもう一度お城を見てみよう。



内濠は池のように曲線を描いている。どこからでも、お城が見渡せる。



水藻に映る松本城



紅葉と松本城



鴨さんと松本城





帰り道、近代的なホワイトのビルに映えるナナカマド



みんな最後まで読んでくれて、どうも有難う。久しぶりに長編だったね。信州編はまだまだ続くよ、お楽しみに。じゃ、また、すぐ会おうね

国分寺跡資料館

2018-11-17 | 歴史
Hi!みんな元気?お待たせしました。エッ、待ってない?興味のない人も興味のある人もちょっとだけ一緒に、資料館へ行こうよ。ここら辺は、緑の町国分寺を代表する自然あふれる散歩道。良かったら、初めての人も是非。長屋門をくぐって、資料館前に到着すると、紅の光輝く七重の塔が入館者を招いている。説明のボードを読むと、これはなんと、あの旧市庁舎前にくすんだ色でたたずんでいた、かの七重の塔の模型をペイントしなおして再生したもののようだ。10年以上前kinoppyが初めて市役所に行った時びっくり仰天したあの模型が生き返ったのだった。昔の村役場を思わせる建物の前に、更にくすんだ色のなにか塔のような物が・・・??ってビックリしたことを鮮明に覚えているkinoppyなのだ。リニューアルしてもらって本当に良かったね、七重の塔さん。ここにいる君を見てkinoppyはホットしたよ。塔の高さは60mでその十分の一の模型らしい。





嬉しくなって、意気揚々と資料館に入ると、すでに入館していたお客さんが、武蔵国分寺の模型の前で史跡ガイドさんの説明を聞いていた。とても楽しい解説に引き込まれたkinoppyはそのグループと一緒に資料館を周らせてもらうことにした。



聖武天皇の命により建てられた国分寺僧寺は全国68ヵ国の内、数ヵ国を除いて存在が確認されているが、尼寺は30ヵ国あまり。財政困難な国も多かったらしい。なぜか武蔵国分寺は、一般の国分寺僧寺の3倍の広さであったそうな。模型を見てもその広さが想像できる。



南に国府に続く広い傾斜地、西に南北に貫く東山道武蔵路、北に国分寺崖線を境とする高台、東に崖線の湧水が流れつく多摩川と四神相応の地と呼ぶにふさわしい土地柄だったようだ。



資料は数多くあるが、画像が上手く撮れていないこと(室内灯の反射)、量が多すぎることもあって、今回は瓦について報告するよ。ガイドさんに教わった内容でもある。

軒先を飾る鐙瓦(あぶみがわら)と宇瓦(のきがわら)の文様が諸国最多で、新羅や高句麗からの技術導入がうかがわれるそうだ。当時は朝鮮半島での内戦が続いていて多くの優秀な人もそうでない人も、難民となって日本に辿り着いた。当時は朝鮮の方が文化が進んでいたため、陶器などの技術を広く伝えたと言われている。
 




昔こんなに沢山の瓦の破片が武蔵国分寺跡にはごろごろしていて、子供達は自由に触って遊んでいたらしい。今では遺跡となって大切に保管されている。そういえばkinoppyも小さい頃古銭を掘り当てては遊んでいた思い出がある。アレ、どこに行ったんだろう?



武蔵国は広くて、埼玉、横浜、足立、豊島(隅田川、荒川を含む)広い地域だったようだ。
瓦は主に現在の埼玉県で焼かれたらしい。入間郡、比企郡、郷、都の文字が見える。



高麗郡は現在の埼玉県日高市



荏原は現在の東京都だよね。



植物の文様の瓦も沢山出土している。



kinoppyはこの仏像を紹介したかったんだけど、残念ながら、現在秘仏展?とやらで全国を行脚中らしくレプリカが展示してあったので撮らなかった。ここに載せるためにはレプリカでも撮れば良かったと大変後悔いたしました・・。



縄文時代の土器



(左)阿弥陀三尊画像板碑(祥応寺跡出土)
(右)阿弥陀三尊種字板碑(祥応寺跡出土)



長い事お付き合いどうも有難う。みんな、今日はこの辺で、サヨナラネ。国分寺史跡もまたまた少しづつ工事が進んでいる。タイル張りの囲い?要らないと思う。今までのままそっとしておいた方が、大木もそのままの方が、緑の史跡公園と呼ぶにふさわしいのでは?とkinoppyは思った。



みんな、じゃ、またね!風邪をひかないようにね。