電力会社からの口止め料、
百億円を断った科学者がいた!
反原発、 故高木仁三郎!2000年没
/福島原発事故予見!
福井原発群も…
組織や権力にこびることなく!
/ 鎌田 慧:本
ひとり起つ―私の会った反骨の人
口止め料を提示された当時
(1979年)の3億円は、
今の100億円くらいに相当する。
この方は2000年10月8日に
ガンで亡くなった
福島第一原発 について、
老朽化により耐震性が
劣化している「老朽化原発」であり、
「廃炉」に向けた議論が
必要な時期に来ていると
(1995年の時点で)指摘。
加えて、福島浜通りの
「集中立地」についても、
大きな地震が直撃した場合など、
どう対処したらよいのか、
想像を絶する。と
その危険に警鐘を鳴らしていた。
もし大地震が起きれば
原発の給水系は壊れ、
制御棒はメルトダウンする。
原子炉がいくつもある
福島、福井では複合的に壊滅する。
1997年、長崎被爆者手帳友の会
平和賞を受賞。
同年、スウェーデンで
ライト・ライブリフッド賞を受賞。
プルトニウムの危険性を
世界に知らしめたという
理由で受賞しました。
ひとり起つ―私の会った反骨の人: 鎌田 慧: 本
内容紹介
組織や権力にこびることなく、自らの道を疾走した著名人22人。その挑戦と飛躍とは何だったのか。高木仁三郎、灰谷健次郎、家永三郎、松下竜一、斎藤茂男、本島等、新藤兼人、戸村一作他、今もかけがえのない輝きを放つ個人の想いを伝える人物ルポ。一人の決断と頑張りから、社会が一歩ずつ変わっていくことを実感させる。 --このテキストは、 文庫 版に関連付けられています。
内容(「BOOK」データベースより)
たったひとりの発言・行動が人々に勇気をあたえ確実に社会を変える。反骨・異端のすすめ。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
鎌田/慧
1938年青森県に生まれる。ルポライター(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
Amazon.co.jp: ひとり起つ―私の会った反骨の人: 鎌田 慧: 本
電力会社からの「口止め料3億円」を
断った科学者がいた
写真は2011/05/21号の「週刊現代」の記事。
口止め料を提示された当時(1979年)の3億円は、今の100億円くらいに相当する。 この方は2000年10月8日にガンで亡くなった、高木仁三郎氏です。
(群馬県立前橋高校から東大理学部卒。核化学が専門)1974年ごろからすでに反原発科学者として活動。
「原子力資料情報室」(東中野にある)を創設し、室長も務めました。大学卒業後に日本原子力事業に入社したときのことを、こう回顧しています。
「会社で期待されていた放射能の専門家としての役割は、一口に言えば『放射能は安全に閉じ込められる。』とか
『こうすれば放射能はうまく利用できる。』ということを外に向かって保証するものだった。」
そしてそこを4年間で退社します。自分をごまかせなかったと。1978年、反原発運動全国連絡会『反原発新聞』を創刊。
編集長を務めました(88年まで)。
静岡県にある浜岡原発の賛否をめぐって、1995年くらいに反対派と賛成派が議論を交わしたことがあったと、「大沢悠里のゆうゆうワイド」で話題にしていたことがあったらしい。
その時反対派の論客として、高木氏が登場してこう断言。
「もし大地震が起きれば原発の給水系は壊れ、制御棒はメルトダウンする。原子炉がいくつもある福島、福井では複合的に壊滅する」
今から18年も前に、福島第一の事故をピタリと言い当てていたんだ。それに対して賛成派の論客(官庁の課長)は、こう反論したんだと。
「反対派は原発がいかに危険かばかりを議論している。安全この上ないのに。事故は仮想にすぎない。事故は決して起きないからマニュアルは不要。万一事故があったらマニュアルは役立たない。事故があったら終わりだ。」
「事故があったら終わりだ」と認識しているのに、そのことを想定する必要は無い、という感覚。国のやっていることはすべてがこれです。高木氏は尾行や無言電話、嫌がらせなどにも屈することなく、信念を曲げずにきた。
三里塚闘争に関わり、必死で抵抗して農地を守ろうとする老婆の姿に、「自分は国家権力側なのか、市民側なのか…」と疑問を抱き、市民学者として一生を捧げ、成田空港も生涯使わなかったという信念を貫きました。
今も尊敬される高木先生の遺志を引き継ぐべく、信念をもった科学者を育てようと、「高木学校」というものもできています。
亡くなる直前にも講義をされています。
故・高木仁三郎氏(反原発核化学者)の言葉。
「科学者を40年やってきて、今どう思うかというと確かに知識は増えた。科学の進歩を一概に否定するつもりはない。しかしそれと同時にその周りに、未知の世界、それも真っ白な未知の世界ではなくどうも非常に未来が暗い。暗黒を含めたような未知の世界、もっと大きな未知の世界が広がっている
ということも、同時にわかってきた。
科学とはそういうもんだと思う。知れば知るほど実は、色んな問題が見えてくる。ところがこの問題を、こちら側を担ってくれる科学者がほとんどいないし、予算も付かない。放り投げちゃう。
私がオルターナティブとか、高木学校をやりたいのは、こっち側(未知の世界)をやる、ちゃんとやる人達をつくりたいし、そうでないと、ほんとに人類の未来を奪われてしまうんではないか」
また、高木氏は『雨ニモマケズ』の一節が、化学者としての原点になっているという。
「『日照りの時は涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩き』というこれが素晴らしい。彼(宮沢賢治)は農芸技術者で、言ってみれば『農』の科学者だったわけですけど、その原点にあるのは、自分が涙を流したり、どうしていかわからなくてオロオロしてしまうという、
そのオロオロしたそこからスタートして、専門というところに行かないと、そこを忘れて科学式の上で踊ったりしてしまうとダメなんだというのを、この2行で言い表しているというかな、それを自分の体験を通して感じた時には、ものすごい感激があった。」
1997年、長崎被爆者手帳友の会平和賞を受賞。
同年、スウェーデンでライト・ライブリフッド賞を受賞。
(「現在のもっとも切羽詰まっている問題に対し実際的模範的な
回答を示した者」を表彰する。主に環境保護、人権問題、持続
可能な開発、健康、平和などの分野にて活躍した人物、団体に
授与されることが多い。)
プルトニウムの危険性を世界に知らしめたという理由で受賞しました。
群馬県が世界に誇れる科学者、高木仁三郎氏 |群馬食べ歩きブログ =グルメ好き集まれ!=
友へ 高木仁三郎からの最後のメッセージ
必読のサイトです
高木仁三郎の部屋
「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会のためのあらかじめのメッセージ」と名付けますが、このメッセージです。私は大げさな葬式のようなことはやらないでほしい。もし皆にその気があるなら「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々と共にあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向かって進めてくれました。
幸いにして私は、ライトライブリフット賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うべきものとしての受賞でした。
残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウムの最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。
すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。
なお、楽観できないのは、この末期症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。
JCO事故からロシア原潜事故までのこの1年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な結局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向かっての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
いつまでも皆さんとともに
高木仁三郎
世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ
科学を人間の手に 高木仁三郎 闘病からのメッセージ - YouTube
友へ-高木仁三郎からの最後のメッセージ
8月1日・市民エネルギー調査会シンポジウム案内 | 原子力資料情報室(CNIC)
高木仁三郎 - Wikipedia
高木 仁三郎(たかぎ じんざぶろう、1938年7月18日 - 2000年10月8日)は、日本の物理学者、専門は核化学。理学博士(東京大学)。
群馬県前橋市出身。群馬県立前橋高等学校、東京大学理学部化学科卒業。
政府の原子力政策について自由な見地からの分析・提言を行う為、原子力業界から独立したシンクタンク・原子力資料情報室を設立、代表を務めた。原子力発電の持続不可能性、プルトニウムの危険性などについて、専門家の立場から警告を発し続けた。
特に、地震の際の原発の危険性を予見し地震時の対策の必要性を訴えたほか、脱原発を唱え、脱原子力運動を象徴する人物でもあった。原子力発電に対する不安、関心が高まった1980年代末には、新聞、テレビ等での発言も多かった。
福島第一原発 について、老朽化により耐震性が劣化している「老朽化原発」であり、「廃炉」に向けた議論が必要な時期に来ていると (1995年の時点で)指摘。 加えて、福島浜通りの「集中立地」についても、「大きな地震が直撃した場合など、どう対処したらよいのか、想像を絶する」と [1]、その危険に警鐘を鳴らしていた。(以下は、引用)
『考えられる事態とは、(中略) 地震とともに津波に襲われたとき 』
『原子炉容器や1次冷却材の主配管を直撃するような破損が生じなくても、 給水配管の破断と 緊急炉心冷却系の破壊、非常用ディーゼル発電機の起動失敗といった故障が重なれば、メルトダウンから大量の放射能放出に至るだろう。』
『老朽化原発が大きな地震に襲われると、いわゆる共通要因故障(一つの要因で多くの機器が共倒れする事故)に発展し、冷却材喪失事故などに発展していく可能性は十分ある。』
『原発サイトには使用済み核燃料も貯蔵され、(中略) 集中立地が目立つ(福島浜通り、福井県若狭、新潟県柏崎、青森県六ヶ所村など)が、どう対処したらよいのか、想像を絶する (中略) これから徹底的に議論し、非常時対策を考えて行くべき。』
『「原発は地震に対して大丈夫」という言い方は、上述のような疑問や不確かさに対して、すべてを楽観的に解釈した場合にのみ成り立つもの(中略)。 国や電力事業者は、「原発は地震で壊れない」ことを前提にしてしまっているため、そこから先に一歩も進まず、地震時の緊急対策を考えようとしない。』
『行政側(注:通産省)にも事業者側にも原発の安全性を見直して、この大災害(注:阪神大震災)をよい教訓にするという姿勢が少しも見られなかった。』
『「原発は壊れない」建て前になっているため、今のような機会(注:阪神大震災の教訓) を生かして、原発が被災した場合の緊急時体制や老朽化原発対策などを真剣に考えるという姿勢もまったくみられない。』
『 そのような事態を想定して原発の安全や防災対策を論じることは、「想定不適当」とか「ためにする議論」として避けられてきた。 しかし、(中略) 考えうるあらゆる想定をして対策を考えていくことが、むしろ冷静で現実的な態度と思われる。』
高木仁三郎 - Wikipedia
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ひとり起つ―私の会った反骨の人
口止め料を提示された当時
(1979年)の3億円は、
今の100億円くらいに相当する。
この方は2000年10月8日に
ガンで亡くなった
福島第一原発 について、
老朽化により耐震性が
劣化している「老朽化原発」であり、
「廃炉」に向けた議論が
必要な時期に来ていると
(1995年の時点で)指摘。
加えて、福島浜通りの
「集中立地」についても、
大きな地震が直撃した場合など、
どう対処したらよいのか、
想像を絶する。と
その危険に警鐘を鳴らしていた。
もし大地震が起きれば
原発の給水系は壊れ、
制御棒はメルトダウンする。
原子炉がいくつもある
福島、福井では複合的に壊滅する。
1997年、長崎被爆者手帳友の会
平和賞を受賞。
同年、スウェーデンで
ライト・ライブリフッド賞を受賞。
プルトニウムの危険性を
世界に知らしめたという
理由で受賞しました。
ひとり起つ―私の会った反骨の人: 鎌田 慧: 本
内容紹介
組織や権力にこびることなく、自らの道を疾走した著名人22人。その挑戦と飛躍とは何だったのか。高木仁三郎、灰谷健次郎、家永三郎、松下竜一、斎藤茂男、本島等、新藤兼人、戸村一作他、今もかけがえのない輝きを放つ個人の想いを伝える人物ルポ。一人の決断と頑張りから、社会が一歩ずつ変わっていくことを実感させる。 --このテキストは、 文庫 版に関連付けられています。
内容(「BOOK」データベースより)
たったひとりの発言・行動が人々に勇気をあたえ確実に社会を変える。反骨・異端のすすめ。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
鎌田/慧
1938年青森県に生まれる。ルポライター(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
Amazon.co.jp: ひとり起つ―私の会った反骨の人: 鎌田 慧: 本
電力会社からの「口止め料3億円」を
断った科学者がいた
写真は2011/05/21号の「週刊現代」の記事。
口止め料を提示された当時(1979年)の3億円は、今の100億円くらいに相当する。 この方は2000年10月8日にガンで亡くなった、高木仁三郎氏です。
(群馬県立前橋高校から東大理学部卒。核化学が専門)1974年ごろからすでに反原発科学者として活動。
「原子力資料情報室」(東中野にある)を創設し、室長も務めました。大学卒業後に日本原子力事業に入社したときのことを、こう回顧しています。
「会社で期待されていた放射能の専門家としての役割は、一口に言えば『放射能は安全に閉じ込められる。』とか
『こうすれば放射能はうまく利用できる。』ということを外に向かって保証するものだった。」
そしてそこを4年間で退社します。自分をごまかせなかったと。1978年、反原発運動全国連絡会『反原発新聞』を創刊。
編集長を務めました(88年まで)。
静岡県にある浜岡原発の賛否をめぐって、1995年くらいに反対派と賛成派が議論を交わしたことがあったと、「大沢悠里のゆうゆうワイド」で話題にしていたことがあったらしい。
その時反対派の論客として、高木氏が登場してこう断言。
「もし大地震が起きれば原発の給水系は壊れ、制御棒はメルトダウンする。原子炉がいくつもある福島、福井では複合的に壊滅する」
今から18年も前に、福島第一の事故をピタリと言い当てていたんだ。それに対して賛成派の論客(官庁の課長)は、こう反論したんだと。
「反対派は原発がいかに危険かばかりを議論している。安全この上ないのに。事故は仮想にすぎない。事故は決して起きないからマニュアルは不要。万一事故があったらマニュアルは役立たない。事故があったら終わりだ。」
「事故があったら終わりだ」と認識しているのに、そのことを想定する必要は無い、という感覚。国のやっていることはすべてがこれです。高木氏は尾行や無言電話、嫌がらせなどにも屈することなく、信念を曲げずにきた。
三里塚闘争に関わり、必死で抵抗して農地を守ろうとする老婆の姿に、「自分は国家権力側なのか、市民側なのか…」と疑問を抱き、市民学者として一生を捧げ、成田空港も生涯使わなかったという信念を貫きました。
今も尊敬される高木先生の遺志を引き継ぐべく、信念をもった科学者を育てようと、「高木学校」というものもできています。
亡くなる直前にも講義をされています。
故・高木仁三郎氏(反原発核化学者)の言葉。
「科学者を40年やってきて、今どう思うかというと確かに知識は増えた。科学の進歩を一概に否定するつもりはない。しかしそれと同時にその周りに、未知の世界、それも真っ白な未知の世界ではなくどうも非常に未来が暗い。暗黒を含めたような未知の世界、もっと大きな未知の世界が広がっている
ということも、同時にわかってきた。
科学とはそういうもんだと思う。知れば知るほど実は、色んな問題が見えてくる。ところがこの問題を、こちら側を担ってくれる科学者がほとんどいないし、予算も付かない。放り投げちゃう。
私がオルターナティブとか、高木学校をやりたいのは、こっち側(未知の世界)をやる、ちゃんとやる人達をつくりたいし、そうでないと、ほんとに人類の未来を奪われてしまうんではないか」
また、高木氏は『雨ニモマケズ』の一節が、化学者としての原点になっているという。
「『日照りの時は涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩き』というこれが素晴らしい。彼(宮沢賢治)は農芸技術者で、言ってみれば『農』の科学者だったわけですけど、その原点にあるのは、自分が涙を流したり、どうしていかわからなくてオロオロしてしまうという、
そのオロオロしたそこからスタートして、専門というところに行かないと、そこを忘れて科学式の上で踊ったりしてしまうとダメなんだというのを、この2行で言い表しているというかな、それを自分の体験を通して感じた時には、ものすごい感激があった。」
1997年、長崎被爆者手帳友の会平和賞を受賞。
同年、スウェーデンでライト・ライブリフッド賞を受賞。
(「現在のもっとも切羽詰まっている問題に対し実際的模範的な
回答を示した者」を表彰する。主に環境保護、人権問題、持続
可能な開発、健康、平和などの分野にて活躍した人物、団体に
授与されることが多い。)
プルトニウムの危険性を世界に知らしめたという理由で受賞しました。
群馬県が世界に誇れる科学者、高木仁三郎氏 |群馬食べ歩きブログ =グルメ好き集まれ!=
友へ 高木仁三郎からの最後のメッセージ
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高木仁三郎の部屋
「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会のためのあらかじめのメッセージ」と名付けますが、このメッセージです。私は大げさな葬式のようなことはやらないでほしい。もし皆にその気があるなら「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々と共にあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向かって進めてくれました。
幸いにして私は、ライトライブリフット賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うべきものとしての受賞でした。
残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウムの最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。
すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。
なお、楽観できないのは、この末期症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。
JCO事故からロシア原潜事故までのこの1年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な結局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向かっての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
いつまでも皆さんとともに
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高木 仁三郎(たかぎ じんざぶろう、1938年7月18日 - 2000年10月8日)は、日本の物理学者、専門は核化学。理学博士(東京大学)。
群馬県前橋市出身。群馬県立前橋高等学校、東京大学理学部化学科卒業。
政府の原子力政策について自由な見地からの分析・提言を行う為、原子力業界から独立したシンクタンク・原子力資料情報室を設立、代表を務めた。原子力発電の持続不可能性、プルトニウムの危険性などについて、専門家の立場から警告を発し続けた。
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『考えられる事態とは、(中略) 地震とともに津波に襲われたとき 』
『原子炉容器や1次冷却材の主配管を直撃するような破損が生じなくても、 給水配管の破断と 緊急炉心冷却系の破壊、非常用ディーゼル発電機の起動失敗といった故障が重なれば、メルトダウンから大量の放射能放出に至るだろう。』
『老朽化原発が大きな地震に襲われると、いわゆる共通要因故障(一つの要因で多くの機器が共倒れする事故)に発展し、冷却材喪失事故などに発展していく可能性は十分ある。』
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『「原発は地震に対して大丈夫」という言い方は、上述のような疑問や不確かさに対して、すべてを楽観的に解釈した場合にのみ成り立つもの(中略)。 国や電力事業者は、「原発は地震で壊れない」ことを前提にしてしまっているため、そこから先に一歩も進まず、地震時の緊急対策を考えようとしない。』
『行政側(注:通産省)にも事業者側にも原発の安全性を見直して、この大災害(注:阪神大震災)をよい教訓にするという姿勢が少しも見られなかった。』
『「原発は壊れない」建て前になっているため、今のような機会(注:阪神大震災の教訓) を生かして、原発が被災した場合の緊急時体制や老朽化原発対策などを真剣に考えるという姿勢もまったくみられない。』
『 そのような事態を想定して原発の安全や防災対策を論じることは、「想定不適当」とか「ためにする議論」として避けられてきた。 しかし、(中略) 考えうるあらゆる想定をして対策を考えていくことが、むしろ冷静で現実的な態度と思われる。』
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