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7/24 沖縄2日目

2019-07-31 | 旅行

7/24 いいお天気です。フレンチの朝ごはん食べたかったけど、時間ないからと早々に宿を出ます。

体調はイマイチ。冷房つけたい人と、寒くて眠れない私は寝不足。でも頑張っていきましょう。

まずは宿近くの真栄田まえだ岬へ。

ハマユウ

野生のユリ

アダンとソテツの間を岬まで

海食崖

ダイビングスポット。インストラクター付きの体験ができます。

駐車場横には店がたくさん。

朝から光たっぷり。

またユリが咲いてます。

まだ人はいません。

自販機も沖縄仕様。

続いて万座毛へ。車の中にデジカメ置き忘れ。

フリー素材はこちらでお借りしました。https://stock.adobe.com/jp/

岩が侵食されて面白い形に。

さらに歩いて行くと、ANAインターコンチネンタル万座ビーチリゾート

https://www.anaintercontinental-manza.jp/

という豪華ホテルが入江の向こうに見えてきました。

次の新婚旅行ではあそこへ行こう。きっぱり。

朝ごはんはまだ食べていません。前日買った塩せんべいの残りをぼりぼりかじります。

汗がたくさん出るので、塩気のものがおいしい。

夫は何食べてたかな。ローソンでおにぎり買って、運転しながら食べてました。


続いて本日のハイライト、古宇利大橋。

約二キロの島に架かる橋。駐停車禁止。

渡り終えたら海水浴場。最近は子供が水遊びするのに、服を着たまま大人がついているのがトレンドらしい。

一回り大きいハマヒルガオ。

砂浜は真っ白で

珊瑚が砕けて砂になったようです。黒い小石などは皆無。

 再び戻って展望台から。

亜熱帯の花。


続いて今帰仁城なきじんじょうへ。

琉球統一以前の北部の王の居城だったそうです。

サトウキビ。ジュースにして売っています。

広いです。

沖縄の世界遺産。全体として指定された模様。

石垣がよく残っています。

一番高いところまで徒歩で上がります。

万里の長城のような石垣。

東シナ海が見えます。

うちかびって何?

このくぼんだ所が聖なる場所で、人が拝む場所らしい。勝連城にもありました。

こちらも拝むところのようです。

降りて行きます。暑いです。小さな石が崩れずによく残っています。

統一されるまでは戦いもいろいろあったことでしょう。沖縄の歴史に思いを馳せます。

こちらも拝む場所。屋根付きで立派です。

古宇利島の人がこの建物の方角を向いて拝んだと、説明にはあります。

また今帰仁ノロ(巫女のような人?)が拝むとか。移築復元と言うから、前は別の場所にあった?


続いて沖縄美ら海水族館へ。

大水槽。左上から餌がまかれて、魚が食べています。

エイやら

ジンベエザメやら

クラゲ

砂に立っている魚

 

座布団のようなヒトデ

深海魚の標本

外へ出るとウミガメの水槽など。子供連れの人がほとんど。高齢者はすくなし。


続いて海洋博の頃に整備されたらしい、広い「熱帯・亜熱帯都市緑化公園」無料ゾーンへ。

いろいろな木を植えた試験場のようなところ。入場無料。

暑くて誰もいません。

熱帯ドリーム園は有料ゾーンで手入れされています。

欄とか

サルオガセ?

池もあって

ココナツ

欄各種。地植え。


瀬底島へ瀬底大橋わたります。

海水浴場もありましたが、空模様がおかしいので、今夜の宿のある名護市へと急ぎます。


本日の反省。

海と橋がきれいだった。

水族館は子供を連れていたらもっと楽しめたと思う。

旅はまだ半分残っています。頑張りましょう。


沖縄旅行1日目・・・2

2019-07-29 | 旅行

7/23分後半。

さて、ちゅら海水族館の割引券求めて「おんな道の駅」へ行きます。

向いの墓地にびっくり。

立派です。別の日、農協で見本を展示していましたが、小さいので150万円くらいから、こちらだといくらでしょうか。

沖縄は所得水準が低いと言われていますが、なかなかどうして。物価も安いし、こんな立派なお墓もあるし、全国一律の基準では分からないこともあるようで。

沖縄中部の西海岸、東シナ海に突き出した残波岬に着きました。

車停めて灯台まで。茂っているのはクサトベラと言うそうです。

左側の色の違う海の縁はサンゴ礁?

アダン。パイナップルに似ていますが繊維が強く、おいしくないそうです。

木ですが名前は…?


今夜のお宿はオーベルジュ ボヌ シェール ラウーというところです。

名前が難しすぎて憶えられません_| ̄|○

道沿いですが、大きな看板もなく、迷いに迷ってたどり着いたのは別館、そこから電話すると隣のレストランからスタッフが現れました。何度もその前を通った店でした。

階段で三階へ。マンションをペンション風に改装したまあまあ広いお部屋。海も見えます。

6:45から食事です。食事はライトのコースでお願いしました。後で明細見たら、食事付き、朝食はついてない予約でした。夫の計画したスケジュールがタイトで、結局朝食抜きで出発しました。朝ごはん、宿で食べたかったなあ~ぐちぐち。

店内

店内

写真撮りましょうと勧められて…

めったに一緒の写真撮らないので気恥ずかしい。

乾杯してくださいって親切に言ってくれました。

気恥ずかしい。

こんなのやら

こんなのが。じゃがいものスープ、フォアグラ入り。

紫芋のパンもあったり・・・

お魚やら

デザートやら。とてもおいしいお料理でした。ごちそうさま。

沖縄でこんなおいしいものに出会えて感動です。

部屋に備え付けの雑誌にはこのレストランが紹介されていました。

南仏にいる錯覚って…南仏よりもうんとおいしいと思います。

ニース、エクサンプロバンス、コンク、アルビ、トゥールーズなどなどで食事いただきましたが、なかなかどうして。いえいえ、安いツアーだったので、本当はもっとおいしいのかもしれませんが。

沖縄は小さな県ですが観光客が多く、街から離れていてもこんなお店が成り立つのでしょう。私たちが終わるころ、常連さんらしい人も現れ始めました。

それからコンビニも多く、広島県の北部よりもうんと便利と思いました。何ごとも行かないと分からないことがあります。物価も安そうでした。

このお宿、お勧めです。夕食のみついた場合、一人一万円程度でした。が、名前が覚えにくいです。それもまた、わざわさ行く感じでいいのかもしれませんが。


「ふしぎな鉄道路線」 竹内正浩

2019-07-29 | 読書

旧国鉄宇品線跡 2010年

当時はまだ線路の面影あり。今はこの柵はなくなっています。


全国に張り巡らされたJRの路線、そこにあるのは当たり前すぎて、なぜそこにあるのか考えることもないけど、この本では資料を当たって、鉄道草創期の路線確定のいきさつを丁寧に解き明かしている。

私は普通程度にしか鉄道に興味がないけれど、それでも大変面白かった。

明治時代に作られた東海道本線、山陽本線、鹿児島本線などの主要路線も、初めは現在とは違う路線が計画されている。

原因は陸軍が主張する国防の必要から。山の中を通したい軍部と、工費、開業後の採算性から、人口の多い海岸線を通したい、当時は認可を受けた民間鉄道会社。その駆け引きが面白かった。

当時は工法も未熟、なるだけ急勾配を避けるはずが、山陽線の八本松と瀬野の間では100分の一の勾配と半径300メートルの曲線が連続する。

鉄道と並走する国道2号線もこの区間は勾配とカーブがきつく、住居もほとんどない区間。その昔、受験に付き添って来ていた友達のお母さんたち、「まあ、山の中ばかり通るので広島はどんな田舎かと思ったら、やっと街に着いた」と驚いていた。

山陽本線の原案のひとつとして、八本松付近から北へ行き、志和から三田村へ抜け、今の芸備線のルートで広島へ入るのがあったそうな。こちら勾配緩いそうだけど、びっくり。知らなかった。

工費が高くついて運賃が上がり、汽船との競争に負ける恐れから今の路線になったそうだけど、「瀬野八」と言われる山陽本線最大の難所、今でも西条と広島では、貨物列車に補助機関車を着脱するそうです。知らなかったーーー。

広島までの開業は1894年6月10日、続いて広島駅から港の宇品までの工事5.8キロが始まる。

7/30 測量開始。予定地の地権者が駅前の専立寺に集められ、市長(元広島藩勘定奉行)の説得を受け全員借り上げに応じる。

8/4 着工

8/5 測量終了

8/20 工事終了

とものすごいスビードで鉄道が整備されたことが分かります。

https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/about/p002.html

国立公文書館のサイトによると、緊張していた朝鮮半島で清に宣戦布告したのが8/1。この戦争の鉄道輸送に山陽線、宇品線は大きな役割を果たしたのでした。天皇も広島に移り、臨時の帝国議会の建物も旧広島城内に作られます。今の県警本部付近です。

こうして宇品の港から朝鮮半島に戦時物資と兵員が運ばれたけど、山陽本線が北に大きく迂回していたら開戦には間に合わず、歴史も変わっていたかもしれないと本書では指摘されています。なるほど。そうでしょうね。

広島駅から宇品まで、貨物は輸送したけど、兵隊は隊列くんで歩いていたのでは。行進する出征兵士を女学校から見送りに来たと、夫祖母が申しておりました。

旧被服廠、現日通出汐倉庫。軍服などを全国から集めて保管、近くの出汐駅から港へ運ぶ。


私が嫁に来た46年前には、まだ港付近には軍用地の名残りの広大な空き地が広がり、ススキが生えて、息子たちとバッタ獲ったりしていました。いまはウォーターフロントになり、一新しましたが。

うわあ、長話になりました。

その他興味深いことも多々あります。京都、東京間は中山道ルートが初め考えられ、ルートの探査に行った人が箱根を超えるのに酒匂川から御殿場を抜けるルートを、湯治場で耳にして現在の東海道線を考えたというのが面白かったし、現在の新京成線は東京湾と太平洋の分水地点をたどるように曲がりくねっているとか…

あまりに長くなるのでもうやめますが、面白かったです。鉄道大好きの長男にこの本、譲る予定。


沖縄1日目は珍しいものばかり

2019-07-28 | 旅行

今回の旅行は、夫が計画、予約担当。レンタカーも全行程夫が運転。有難いことであります。

どこへ行っても若い人ばかり。太陽のまぶしい沖縄は若い人が似合うけど、3泊4日の旅、私たちなりに楽しんできました。


広島発のぞみ7:26→博多着8:28 地下鉄で2駅、福岡空港に移動。

チェックイン終えて飛行機待ってます。

福岡発10:30→那覇着12:15。

海と空、島がきれいです。島の周りが白いのは珊瑚?


空港出て、レンタカー会社のマイクロバスに15分くらい乗ります。途中はレンタカー会社がたくさん。沖縄観光は車がメインのようです。

着いたのはとても大きな会社、借りるのも行列、同乗者は横の方で待っています。冷房がなくて、とても暑い。中国人も多いです。子供もたくさん。エネルギーに圧倒されます。

結局出発したのは飛行機降りてから1時間後くらい。お借りしたのはトヨタヴィッツ。運転しやすいそうです。「あんたもせえ」と言われますが、慣れない車は怖い。結局一度も運転しませんでした。ごめん

・・・って小学生の絵日記みたいにだらだらと。ちょっとスピードアップします。

那覇から北へ。うるま市の勝連城跡へ。15世紀、貿易で栄えた阿麻和利の城跡だそうです。

地形を巧みに利用した石垣がインパクトがあります。

城跡から金武湾(きんわん)が見えます。

2000年、ユネスコの世界遺産に指定されたそうです。

珍しい花がいっぱい。後で月桃げっとうと知る。

ハイビスカス?

ゆらゆらと揺れる花。名前は???

続いて海中道路を渡り、宮城島へ。製塩工場を見学して、塩水をたくさん飲ませてもらいました。

暑い時に真水飲むと、体中のミネラルが薄くなり、却って体調悪くなります。

それにしても暑いです。ずっと梅雨だったので、体がついて行きません。

向こうが工場。こちらはお土産売っています。繁茂する亜熱帯の植物たち。

工場外から展望台へ。バンタとは沖縄の言葉で崖のことだそうです。

海、空、砂浜、崖。絶景。

続いて万座毛と言うところへ行きますが、その日はそこから人を突き落とすという事件があったと、ニュースで聴いた気がします。別の日かもしれませんが。

二時間ドラマのような景色が広がっていました。長くなるので、ここで一度中断。


沖縄へ行ってました

2019-07-27 | 旅行

23日から26日まで、仕事を臨時で休んで、夫と二人で沖縄へ行きました。

博多までは新幹線、福岡空港から飛行機で二時間の沖縄、同じ日本国内とは言え、本土とはいろいろと違うものが多く、見聞を広められた旅行でした。

印象に残っていることをいくつか。

マングローブの林を生まれて初めて見た。感動。

那覇市内、長堂川河口の汽水域、漫湖。

殆どがメヒルギ。オヒルギ、ヤエヤマヒルギの見分け方を学芸員の方に教わる。

那覇市内の商店街の活気に圧倒された。

表通り、国際通りから網の目のようにアーケード街が並んでいて、人も多かった。

京都の新京極通りを10倍くらいパワーアップした感じ。

こちらまで元気が貰えます。

ここで食べた沖縄そばはとてもおいしかった。

さらに歩いて行くと壺屋やちむん通りへ。琉球王国時代にたくさんの窯元が集められたそうです。

街中にいきなり現れる登り窯跡と、捨てられた壺を抱き込んで繁茂するガジュマル

うーーーん、エネルギッシュ!!

下の石垣にも陶器が埋め込まれています。


戦跡、慰霊碑、記念館もいろいろ回りました。

こちらは那覇市内にある旧海軍司令部跡

殆ど人力で掘った洞窟に、司令部があり、将校、兵士、動員学徒が潜んでいたそうです。

狭い狭い通路や部屋に胸が痛みます。

あとは南部の平和祈念公園、ひめゆりの塔、那覇市内の対馬丸記念館など。

沖縄戦は住民を巻き込んだ地上戦、知っているつもりでしたが、見学してみて、その悲惨さがいっそう実感できました。

軍隊は、究極の場面で住民を守るのでしょうか…

沖縄戦終結直前に解散命令の出たひめゆり部隊、解散して各自で何とかしろって…

日本軍が来なかった村は集団自決を強いられることもなく助かったとか…

いろいろと考えさせられました。


祖先を大切にするのが沖縄の風習のようです。

立派なお墓はまるで小さな家。

あの中に家族の遺骨を入れるのでしょうが、離婚した女性は家に災いをもたらすとして墓は別だったと、「葬送と何とかの日本史」とかいう本で(←うろ覚え)読みました。

今はどうでしょうか。

識名園という、琉球王家の庭園を出たところで、突然、地元ラジオ局のインタビューを受けました。

どこから来たのか、沖縄は何度目か、沖縄とこの園の印象などなど。

終わった後、記念品頂きました。手回しで充電できるラジオとライトです。

ラッキー(^^♪~


一泊目、夫が予約していたホテルは行ってみると素泊まりと判明、えええーーーーー

どうするのよーーー、こんな店もないところでーーーー

場所は沖縄中部、国頭郡恩名村字何とか。

以前の悪い私なら文句言うところだけど、歳とって、今は穏やかなもんです。

で分かったのは、ホテルにレストランがあるのではなく、レストランがメインで、マンション風の宿泊施設が併設されているホテルということで、何とか食事にありつけました。

とてもおいしいフレンチでした。シェフはホテルで働いた後、この地にレストランを開いたそうで、地元雑誌にも紹介される有名店だそうで。

知らんかった~~

お値段も都会ではありえないくらいリーズナブル。よかったあ~


その他に珍しかったのは、家はほぼ全部が鉄筋コンクリートの頑丈な造り

沖縄風の赤瓦を漆喰で固めた屋根の家は数軒だけ見ましたが、半分は空き家、廃屋。

残りは古民家を生かした飲食店、店など。

向こうの家は飲食店だったかな。屋根に大きなシーサーが載っています。


水田は皆無殆どはサトウキビ、南部へ行くと果物栽培、マンゴーや一部ドリアンなど

南部以外、平地はわずか。低いなだらかな山の中腹まで、白い鉄筋コンクリートの家が並ぶのはスペインそっくり。緑と白の配合の具合がです。それとさらりとした暑さも。風が気持ちよくて蒸し暑くありません。暑いことは暑いけど。

「スペインに似ている」と言ったら「またスペインの話かー」と嫌われたので、そのあとは言うのは二、三回に留めました。


今夜は花火大会。夫の友人が来訪予定。残りは明日以後、順次まとめたいと思います。この項、続く。See You again!!


家族の呼び方

2019-07-26 | 随想

屋上菜園のキュウリ/3年前。今年はうっかり水やりをしない日が続き、不作だそうです。残念。


先日の「チコちゃんに叱られる」で家族の呼び名を取り上げていた。

お兄ちゃん、お姉ちゃんというのになぜ弟ちゃん、妹ちゃんと言わないかって。

それは家族の中で最も小さい者を基準に呼ぶからだそうで。

なるほど。簡単なようだけど、そういう習慣なんですね。納得。

とすると、我が家は異端かもしれない。

息子たちはお互い名前を敬称抜きで。要するに呼び捨て。

私たち夫婦は、私は名前にさん付けで呼ばれ、私は夫を昔息子がつけたあだ名にさん付けで呼ぶ。

人前では先生が無難。名前だけで6つも音がある。面倒。

お父さん、お母さんとお互いを呼んだことは皆無。いえ、一度くらい呼ばれたかな。

「私はあなたのお母さんではありません。お母さんは**さん。産んでもないのに、あなたに責任取れません」とかわいくないことを、その時は言ったと思う。

だから、お爺さん、お婆さんと呼び合うこともない。


たかが呼び方だけど、その呼び方にその家のあり方が反映されている。

男女の別、長幼の序、我が家にはよその家より少ないかも。どの性に生まれるか、何番目に生まれるかは偶然。秩序を重んじるのは、そうして助け合って生きた時代の名残。かな?

自分の子供でもない人からお母さんと呼ばれると、とっても違和感ある私。この流れだと、この先、お婆さんと呼ばれるのかしら。孫でもない人から。

ああ、嫌だ嫌だ。私は私。名前で呼んでしい。そしてあたりさわりのない呼び方されないよう、これからも自分は自分と、誇りを持てるように暮らしていきたいもの。


苛められたことはありますか

2019-07-25 | 日記

と聞かれて、一度もないと言える人は稀だと思う。

その稀な一人がわが母。母は三歳のときに実母をなくし、継母が来たけれど、兄たち(私にとっては伯父たち)がなつかず、しばらくして不縁になったと聞いた。

小さい時から何でも自分でして、気の強かった母。

いつか「お母さんはお母さんがいないって苛められたりしなかった?」と聞いたら、母は怪訝そうな顔して、「いゃあ、私は人を苛めることはあっても苛められることはなかったのお」と話していた。近所で女のガキ大将していて、年下の男の子をよく泣かしていたそうな。

いえいえ、大家族の農家に嫁いだ母、言うに言われぬ苦労もあったと思うけど、苦労を自分のパワーに変換できる人。去年くらいまでずっと気が強かった。

その娘の私だけど、母の迫力にはとうていかなわず、今まで人を泣かしたことは(たぶん)皆無。人の彼氏をとったことはある。でも相手が鞍替えしたんだもの、私の責任ではありません。(と、虎の子のたった一つの例でさりげなく持て自慢絵)

小学校の一年生くらいまでは、運動が全くダメで思い切りとろいのでよく苛められたけど、それ以後の学校時代は無事に過ごしてきました。

苛められたのは、30過ぎて、いろんなサークル活動の時かな。まだまだ未熟な私、出しゃばりすぎると中心になっている女性にきつく言われたりした。すみません、気を遣わず、社会性の乏しいその頃の私。今もそんなにはないけど。

サークル活動やお稽古事は、給料もらうわけではないので、縁が切れたと思えば離れるのもいいかなと思う。狭い人間関係の中で煮詰まるのはよくない。人生の時間は有限だから。

私たちの世代になると、次第に協調性がなくなり、人の話も聞かなくなりがち。気を付けないと。そして肝心なことは人に頼ったり。

自分のできること、したいことだけを究めるのもこれからはいいのかなと思う。で、何をする?と、自分の内側を見るのが怖かったりして


幸せな夏のこと

2019-07-23 | 随想

昔の人の常として、実父は兄弟姉妹が多かった。いとこ達も多い。

夏休みはいろんな家に遊びに行って、とても楽しかった。宿題は「夏休みの友」みたいにな薄い宿題帳。それに絵が一枚、工作一つとかそんな感じだった。絵日記はなかった年がおかったけど、私は絵や作文書くのが好きで、自主的に書いて出していた。先生は迷惑だったかも。

昔のことだから、大したイベントがあるわけでなく、きょうだいで遊んだことや、親戚へ行ったことが中心。

中でも楽しかったのは、小1の夏休み、祖母に連れられて、祖母の妹の嫁ぎ先へ行ったこと。ふだんあまり行き来する家でなかったので、格別珍しかったのだと思う。

電車の駅から、半島の中腹の砂利道を歩いてだいぶ行った。松の間から青い海が見えていた。6歳の私の記憶は断片的なのが残念だけど、離れで祖母と寝て、近所の子と海で遊んで、小さなフグは捕まえようとすると腹を膨らませて死んだふりするのでいくらでも捕れて、砂浜に作った池に浮かべたり、ヤドカリをたくさん拾ったり、それは持って帰って箱に砂浜の絵を描いて入れていたけど、すぐ死んだ。巻貝に脚があるのが不思議だった。

車のない時代は暑くても歩いて行く。いや、今ほど暑くはなかったはず。祖母もとうになくなり、その親せきにはもう一度行く機会があったのに、私は友達の家に遊びに行っていて行きそびれた。とても残念。

大人はみんなのんびりと優しかった。祖母はグレーのスーツに手提げ袋、先割れの靴下に草履履いていた。洋服なのに。今の私よりあの時の祖母の方が若いと思うけど、私も祖母をしのんで、洋服に草履履こうかしら。受けるかも。

夏になるとよみがえる思い出がある。

しばらく続けます。

どこかで探して来た故郷の町。

元のサイトが分からないので無断でお借りします。ごめんなさい。

昭和40年から50年の頃でしょうか。

この付近は宇高連絡船が廃止になって広い土地ができ、再開発で一変しています。

左端は国鉄高松駅。これは新しい駅舎で、木造のレトロな旧駅舎は五年生か六年生の夏休み、火災で全焼。黒い紙のかけらが我が家付近にも降ってきました。

右は玉藻城。

 


ああ、たまには一人になりたい

2019-07-22 | 随想

 

芸北町、八幡湿原で 2016年8月


きのう機織りを頑張ったせいか、今朝は腕と肩、腰も痛かった。動いているうちにだいたい治ったけど。

数日前から風邪気味、寒さがこたえるのに、夫は「蒸し暑い!!」とエアコンの除湿機能と扇風機の二段構え、見るだけで震え上がる。

この私、夏も冬もエアコンが大の苦手、夏は手縫いのワンピース一枚で、冬は冬山へ行く格好で家の中で過ごしている。夏は家を開け放ち、冬は陽の差し込む部屋で過ごす。

がしかし、同居する人がいるとエアコン嫌いとも言っておれず、不自然な温度に身をさらす。これがとってもストレス。

ストレスと言えば、きつい光に大きな音も大の苦手。朝起きて台所へ行ってみると、夫が大音量で、朝の情報番組見ていたりすると、女性タレントの、脳天突き抜けるようなけたたましい笑い声に眩暈のする思い。

野球放送も苦手。騒々しすぎる。野球は好きでも嫌いでもありませんが。でも外ではカープの勝敗が気になるふりをする。これもこの広島という土地で生きていくための知恵。軽いストレス。

温度、光、音。これを自分の好きな状態にいつも保っておくにはもう一人でいるしかないわけですが、同居する人がいる限りそうも言っておれず、広くもない家をシェアして住んでいるわけです。

ああ、一人になりたいなあ…毎日の食事の支度も、一人なら斜め向かいのコンビニへ財布一つ持って走って行って、おにぎりとサンドイッチ買って来て済ませる。洗い物もなし。パック容器のゴミもなし。文句言う人もいないし。

たまには一人で涼しい高原を旅したいなあ。木陰を歩きたいなあ。湿原に出会ったら、その周りをしっかり歩いて、山野草をしっかりと見たいなあ。

体を動かして、どこへでも一人で行けるのはもうあと10年くらいでしょうか。

夫が家で仕事しているので、遠慮しつつ(のつもり)遊びに出るけど、ツアーでなくて海外を旅行したり、京都や信州に10日くらい滞在して、暮らすような旅がしたい。軽井沢の植物園にも行ってみたいなあ。

と、願望ばかりがが膨らむ。ホームページのころからだと16年、昔のホームページは転送のPW分からなくなって、保管できなかった。写真も消滅。残念。

私はやっぱり信州の高原が好き。軽井沢より、人の少ない追分辺りで過ごしたいなあ。。。。


地元の友達の話では、いつも集まるメンバー、自分やご家族の不調を抱えている人が複数との話。また前みたいに我が家に集まりたいのですが、先ずは体大切。

私の思いは後回しでいいんだけど、老いの波は誰の身にもひたひたと押し寄せているのを実感。


模紗織りストール、二枚目完成!

2019-07-21 | 機織り

17:35 もう織れなくなって終了です。

最後はシャトルが入らないので板杼で。

筬がまちを後ろへ下げると、この織り機では前後の糸は40cmでいいことが分かりました。

教室で使っていた織り機は大きすぎて、誰も引き取り手がなく、先生は分解してゴミに出されたようです。

私は人の使っていた小さいのをいただいたのです。

初め慣れなかったけど、少しずつ使い方が分かって来たなんて、もう卒業して四年も経つのに遅すぎ。

7/11 整経

7/12 緒巻

7/13 緒巻を織り機につける

7/14 綜絖と筬を通す

7/15 筬の残り、女巻に結んで機ごしらえ完了

7/17 織り始め。48cm織る。

7/19 25cm

7/20 27cm 昨日まででちょうど1m

7/21 朝から断続的に3時間くらいで105cm織る。完成

明日以降に端の始末をします。

今回は隙間の多い織り方で、速くできました。

次は、古い浴衣を紐状に裂いたので、裂き織りでマット作りたいと、自分を追い込んでみる。

裂き織り、習い始めの頃何回かつくって7,8年ぶり。頑張ります。

 

 

 


孫と遊ぶ

2019-07-20 | 日記

何かこんな記事ばかり書いている気がする。

女の子は次第に一人前の話し方して、それが面白い。

本人曰く、母親実家の血を引いているから運動が得意だそうです。

ふーーん、今まで勉強がよくできるという話を一度も聞かないけど、それはどうなってるの。と祖母は思う。

この際だから、お父さんはクラスで一番よくできてたと言いたかったけど、お嫁ちゃんがいたので遠慮した。昔の姑なら絶対言ってたと思うけど、悔しい。。。。

今度いないところで直接本人に言って奮起を促そう。

が、まあしかし人の子なので、元気に育っていればいいんだと思いなおす。

二人で雑誌の付録の紙人形作って遊んでいます。桃太郎の話です。

お姉ちゃんのワンピースは以前私が縫ったもの。昨日は学校へ着て行ったそうです。

制服がない学校、私は好きです。

長男、三男の通っていた男子校も式の日以外は服装自由、親は楽でした。いかに人と違う恰好するかに価値があったようで、姉ちゃんの女子高の制服着てくる子も…

制服あると、いかにその中でおしゃれに見えるかに頑張る年頃、崩して着る子と、生徒指導とのイタチごっこです。

ママのカーディガンの袖から首を出す。

教えれば何でも憶える子だと思うけど、私からは口出ししない。私の子育てはもう終わったから。自分の子育て、もう少し本人のいいところを褒めてやればよかったと、孫を見ながら、してもせんない反省をする。


枝付きトマトを描く

2019-07-19 | 水彩画

昨日は月に一度の水彩画。先生のお宅へ伺います。

広いアトリエの真ん中の机にモチーフ置き、各自で描きます。

私は枝付きのトマト、雨で絵の具が乾きにくかったけど、なるだけ水たっぷりで、トマトのみずみずしさが出るよう頑張りました。

線に色をきちんと納めなくてもいい。はみ出しても隙間があってもいい。きちんと描くと窮屈な絵になると、たくさんの画集の中から佐藤忠良のデッサン集を見せていただき、参考にした。

静かに絵だけに集中できる時間、得難い半日でありました。

奥様がおいしいコーヒー淹れてくださって、先生も一緒に少し話して帰る。

帰りは豪雨、あんな雨で車運転するのは二回目くらい、友達をそれぞれ送り届けて、昨日のミッション終了。

来月はまた頑張りましょう。


夏の木陰

2019-07-18 | お出かけ

暑い時は、緑の木陰が恋しい。

街中にいても、探せば大きな木があります。大きな木の陰を歩きましょう。

クスノキ。広島市郷土資料館。

その前はカルビー製菓所有。

そのもっと前は陸軍糧抹支廠。戦地に送る牛肉の缶詰作っていたそうです。

小説「黒い雨」では主人公はここで働いていた設定。旭町から徒歩通勤していたという。

クロガネモチ。煙突の基部だけが残っている。

裏は涼しげなケヤキ。

京橋川の堤防へ。下流は日陰少なくて暑い。

向かい側。平野町付近。昔は別荘通りと呼ばれていたそうですが、今はマンション。

広島では東に川のある土地が人気。通風、採光、眺望よし。

建っているのは広島大学跡地の高層マンション。

誰かが植えたスモークツリー。

ベンチと鶴見橋。左手、平和大通り。今年のカープ優勝パレードはあるのでしょうか。心配。

オニユリと被爆ヤナギ。ひこばえが元気です。

オニユリは実家にあった。私の背丈くらいあったように思うけど、それは子供だったから。

咲き残りのヤブカンゾウ。実家のケンショウジ(田んぼのニックネーム)の畔に毎年咲いていた。

田植えが終わって、その頃はもう子供は田んぼには行かない。

梅雨が明けたら蛍を取りに行くけれど、それも用水路がコンクリートになってからは見なくなった。

蛍は蚊帳の中に放して寝る。朝にはもう動かななくなっていた。いくらでもいるので資源保護は言わない。

20代の終わり、廿日市の広島総合病院(当時は佐伯総合病院)の敷地内で一匹だけ見たのが、私にとっては最後。

海に近いので、家の中でカニを見たことも。その頃は病院の中に住んでいたのです。

小さなお堂あり。

千切ちきり太子堂。江戸時代はこの付近に刑場があったそうで、その供養として。

街はずれ、山の際の淋しい場所だったのでしようか。

軒下。安永と享保の墓石あり。

比治山下まで。花は季節ごとに植え替えるらしい。

昔は松葉ボタンと言っていたけれど、今は?

園芸品種が分からない私。

沓脱石のような石に腰かけてしばしの休息。

川風が気持ちいい。

歩いている人はほとんどいない。静か。

勝手に枝を切らんように。

 東大橋渡って右岸に。この付近は樹木が大きい。

土の道を歩く。右は土色の舗装路。

あまりに楽しそうだったので、失礼して後ろから。

虫よけ剤巻いてから、お弁当食べておられました。

草の上の昼食。

またまたお地蔵様。

延命地蔵尊。ご利益ありそう。

もう一時間半も歩きました。出会ったのは数人。

癒しの散歩は暑かった。。。。

次はまた別の場所を歩きたいと思います。


模紗織りのストール、二枚目

2019-07-17 | 機織り

お嫁ちゃんが要ると言うので、今日から織り始めました。

7/10整経

7/15この日までに機ごしらえ完了。自作の筬は使いにくい。今度からまた粗筬(仮筬)、綾返しの予定。

7/17織り始め。夕方までに25cm織った。頑張ればあと数日と言うところでしょうか。

隙間が多いのではかどります。


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