春節の休暇ももう終わろうとしている。大したニュースがないせいか、最も世間をにぎわせた話題の一つが「上海娘の逃走」だった。事件は上海に住む28歳の女性がネットに書き込んだ個人的な体験から始まる。
「私は正真正銘の上海人です。1988年生まれ、外見は普通、外資系企業で人事部門で働いています。父は国有企業に勤め、すでに定年退職、母は小学校の先生であと2年で定年です。家庭は中流レベル(小康)です。地方出身の男性と付き合って1年間になりますが、彼は仕事ができ、外見は私の好みです。ただ彼の実家が貧しいため、今後2年のうちに家を持つことができません。私の両親は地方出身者、特に貧しい家庭との結婚には強く反対しています。母親は、自分の娘が将来苦労することを望んでおらず、私も少し動揺しています。特に今年、彼の強い要望で彼の実家に行くことに同意しました。行かなければわからなかった、行ってびっくりしました」
彼女が驚いたのは、彼の実家がある江西省の駅から実家までまずバスに乗り、その後、「トラクターのような車に乗って、あまりに揺れるので酔ってしまうほどだった」こと。そして大みそかのご馳走として出てきた食事だった。彼女は上記の食卓の写真を乗せ、「想像していたものより100倍以上ひどく、とても受け入れられなかった」と書き込んだ。大都会で恵まれた環境に育った一人っ子には、全く別世界だったのだろう。彼女は恋人との別れを決意し、家族に連絡を取って迎えに来てもらった。
ことの次第は以上の通りだ。日本と同様、正月は家族や仲間と仲睦まじく過ごす人々と、その対極にある人々の落差が際立つときである。この落差がさりげない上海娘の話に投影され、春節に飽き始めたネット世論に火をつけた。
他人のメンツを顧みないあまりにも身勝手な上海娘には当然、道徳面からの攻撃が寄せられた。中には、食卓の写真で白米の椀に箸が立てられているのを見つけ、「家庭の教育がなっていない」との非難もあった。一方、社会の格差、地域間の格差が背景にあるのであって、一個人を道徳的に攻めても意味がないとする擁護論も出た。早く気が付いてよかったという同情論も少なくなった。これが理性的で、良心的な意見だとみなされた。
社会的反響が大き過ぎるのを気遣ったのか、13日になって『人民日報』の評論員が公式の微信(ウィーチャット)で、男女とも被害者であるとの観点を提示し、騒ぎの収拾に乗り出した。男性にとっては大都市のいい大学を卒業し、努力していい企業に就職しても家を買う負担が待っている。東京と同じ、あるいはそれを越える不動産価格がまかり通っている社会で、ゼロから自分の基礎を築こうとする地方の青年に、結婚の条件として、一軒の家を求めるのは酷と言うものだろう。仮に仕事で成功しても、自分だけでなく家族、親族が背景にあり、とても都市生活になじむには距離がある。地方出身者が完全に都市住民に溶け込んで暮らしていくには、乗り越えていかなければならないハードルがたくさんある。
『人民日報』は、格差社会の改善は多くの時間を要することに言及しながら、思いやりの心をもって相手に接することを説く。だがこんな言葉で何が救われるというのか。なぜ一人の身勝手な上海娘のメッセージが、社会を総動員するような騒ぎに発展するのか。そうしたことの反省がなければどんな議論も意味がない。
まずもって、個人的な不満を公開の場にさらす若者のやり方は批判されなければないが、それ以上に、同じ国でありながら都市部で生まれ育った若者が全く農村の生活を知らずにいることが深刻な問題である。沿海部の彼らは世界のことはある程度知ってはいるが、自分が住むエリアに後ろに広がる農村部の惨状には全く無関心だ。学校でも教えないし、メディアは農村が豊かに暮らしているという一面しか報じない。だから都市と農村の格差についての切実な認識も生まれない。これは彼女だけでなく、私が接した大都市の若者に共通している。
真実を伝えることの意義がここにある。メディアや教育者は、地域間や社会階層の格差について実例に基づく真相を伝える責任がある。今回の問題は、教育と宣伝部門がまず反省をすべきものである。真実から目を背け、ウソを語り継ぐ社会に将来はない。恋人の男性がネットで、上海娘を娶ることの浅はかさを反省する声明を発表したが、そんな必要はない。傷ついてもなお、そういう言い訳をしなければならない社会は健康ではない。実に痛ましい。
かつて都市部の青年は農村に送られ、肉体労働の中から思想改造を求められた。だれしももうそういう時代には戻りたくないだろう。だが、今の状況では、そうでもしなければ都市と農村の格差が縮められないほど深刻していることも認識した方がいい。
そもそも最初の一報がウソだとの指摘がある。実名も地名も不明である。確かにそれは言える。だがそんなことは重要でない。虚偽の分別もつかないままここまで議論してきた者たちは、「虚報」によって目を覚まされたと知るべきである。
「私は正真正銘の上海人です。1988年生まれ、外見は普通、外資系企業で人事部門で働いています。父は国有企業に勤め、すでに定年退職、母は小学校の先生であと2年で定年です。家庭は中流レベル(小康)です。地方出身の男性と付き合って1年間になりますが、彼は仕事ができ、外見は私の好みです。ただ彼の実家が貧しいため、今後2年のうちに家を持つことができません。私の両親は地方出身者、特に貧しい家庭との結婚には強く反対しています。母親は、自分の娘が将来苦労することを望んでおらず、私も少し動揺しています。特に今年、彼の強い要望で彼の実家に行くことに同意しました。行かなければわからなかった、行ってびっくりしました」
彼女が驚いたのは、彼の実家がある江西省の駅から実家までまずバスに乗り、その後、「トラクターのような車に乗って、あまりに揺れるので酔ってしまうほどだった」こと。そして大みそかのご馳走として出てきた食事だった。彼女は上記の食卓の写真を乗せ、「想像していたものより100倍以上ひどく、とても受け入れられなかった」と書き込んだ。大都会で恵まれた環境に育った一人っ子には、全く別世界だったのだろう。彼女は恋人との別れを決意し、家族に連絡を取って迎えに来てもらった。
ことの次第は以上の通りだ。日本と同様、正月は家族や仲間と仲睦まじく過ごす人々と、その対極にある人々の落差が際立つときである。この落差がさりげない上海娘の話に投影され、春節に飽き始めたネット世論に火をつけた。
他人のメンツを顧みないあまりにも身勝手な上海娘には当然、道徳面からの攻撃が寄せられた。中には、食卓の写真で白米の椀に箸が立てられているのを見つけ、「家庭の教育がなっていない」との非難もあった。一方、社会の格差、地域間の格差が背景にあるのであって、一個人を道徳的に攻めても意味がないとする擁護論も出た。早く気が付いてよかったという同情論も少なくなった。これが理性的で、良心的な意見だとみなされた。
社会的反響が大き過ぎるのを気遣ったのか、13日になって『人民日報』の評論員が公式の微信(ウィーチャット)で、男女とも被害者であるとの観点を提示し、騒ぎの収拾に乗り出した。男性にとっては大都市のいい大学を卒業し、努力していい企業に就職しても家を買う負担が待っている。東京と同じ、あるいはそれを越える不動産価格がまかり通っている社会で、ゼロから自分の基礎を築こうとする地方の青年に、結婚の条件として、一軒の家を求めるのは酷と言うものだろう。仮に仕事で成功しても、自分だけでなく家族、親族が背景にあり、とても都市生活になじむには距離がある。地方出身者が完全に都市住民に溶け込んで暮らしていくには、乗り越えていかなければならないハードルがたくさんある。
『人民日報』は、格差社会の改善は多くの時間を要することに言及しながら、思いやりの心をもって相手に接することを説く。だがこんな言葉で何が救われるというのか。なぜ一人の身勝手な上海娘のメッセージが、社会を総動員するような騒ぎに発展するのか。そうしたことの反省がなければどんな議論も意味がない。
まずもって、個人的な不満を公開の場にさらす若者のやり方は批判されなければないが、それ以上に、同じ国でありながら都市部で生まれ育った若者が全く農村の生活を知らずにいることが深刻な問題である。沿海部の彼らは世界のことはある程度知ってはいるが、自分が住むエリアに後ろに広がる農村部の惨状には全く無関心だ。学校でも教えないし、メディアは農村が豊かに暮らしているという一面しか報じない。だから都市と農村の格差についての切実な認識も生まれない。これは彼女だけでなく、私が接した大都市の若者に共通している。
真実を伝えることの意義がここにある。メディアや教育者は、地域間や社会階層の格差について実例に基づく真相を伝える責任がある。今回の問題は、教育と宣伝部門がまず反省をすべきものである。真実から目を背け、ウソを語り継ぐ社会に将来はない。恋人の男性がネットで、上海娘を娶ることの浅はかさを反省する声明を発表したが、そんな必要はない。傷ついてもなお、そういう言い訳をしなければならない社会は健康ではない。実に痛ましい。
かつて都市部の青年は農村に送られ、肉体労働の中から思想改造を求められた。だれしももうそういう時代には戻りたくないだろう。だが、今の状況では、そうでもしなければ都市と農村の格差が縮められないほど深刻していることも認識した方がいい。
そもそも最初の一報がウソだとの指摘がある。実名も地名も不明である。確かにそれは言える。だがそんなことは重要でない。虚偽の分別もつかないままここまで議論してきた者たちは、「虚報」によって目を覚まされたと知るべきである。