行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

80年ぶりに帰郷した范長江『中国の西北角』邦訳(その2)

2017-12-19 13:09:03 | 日記
范東昇学院長は四川省内江市の范長江記念館を訪れ、父のいくつかの遺品とともに邦訳『中国の西北角』(松枝茂夫訳、改造社、1938年)の初版を贈呈した。関係者が集まった正式の式典が行われ、公式報道もされた。思いもよらなかったが、私も不在ながら、寄贈者として感謝状まで受けた。





さらにおまけがついて、私は学内メディアからも追いかけまわされたが、私は自分のことではなく、人の「縁」について話した。

邦訳がなぜ生まれたか。1983年再刊(筑摩叢書版)の「解説」に、訳者の中国古典文学者、松枝茂夫が書いている。気が付けば、私の書棚には、松枝茂夫編訳の中国古詩集が並んでいる。その松枝が生々しいルポルタージュの翻訳をしたのは、当時、改造社にいた増田渉に「面白いから訳したらどうか」と勧められたからだという。増田渉は後に魯迅研究でその名を残す。

松枝「解説」いわく、

「昔からノンポリの私は最初あまり気乗りはしなかったが、生活のためにやってみることにした……たしか四十日あまりかかって一気に訳了したと思う。別に投げやりにしたわけではない。訳しているうちに著者の熱気にあおられて、我にもなく興奮してしまったのだ」

松枝は初版の序で、

「図表を種にして机上ででっちあげたものでなく、文字通り足で書かれた人生記録だ」

「その深い学識と卓越した政治理想は彼が単なる一介のジャーナリストでないことを窺わしむるに足る。しかも字裏行間に燃え上がっている著者の烈々たる民族精神は読者を振い立たせずにはおかないものがある」

と激賞している。、

解説によると、邦訳は3000部刷ったというから、記念館に寄贈されたのは三千分の一ということになる。松枝、増田という二人の若者、後に日本を代表する中国文学研究者が、見たことも、会ったこともない中国人ジャーナリストに惹かれ、もっぱら中国への深い関心に突き動かされて一冊の邦訳を生んだ。それが日中の戦争、国交回復をはさみ、80年後、ようやく作者の故郷に戻った。その過程に、私と范院長という日中の元記者がかかわっている。私は昨年、范院長と出会い、彼の推薦を経て現在の職場にいる。

しかも、増田が魯迅と知り合ったのは、当時、上海にあった内山書店の店主、内山完造の紹介を通じてだった。初版の古本が東京神田に移った内山書店に蔵されていたことを思えば、奇縁はさらに深まる。

それぞれの縁はバラバラで、どうしてそこに現れたのかわからない。気付かないまま、ふとそこにある。だが、それ自体に価値があるのだ。だから、縁が見えない糸によって結びついていくと、その価値が次々と導き出される。問いかけはまだ続いている。内山書店に、あんなにも大切に蔵されたものを、当初はいったい誰が守っていたのか。扉にある丸印はだれのものか。縁とはかくも興味深く、尊い。


中島みゆき『糸』の歌詞を思い出した。

なぜ めぐり逢うのかを

私たちは なにも知らない

いつ めぐり逢うのかを

私たちは いつも知らない

どこにいたの 生きてきたの

遠い空の下 ふたつの物语

縦の糸はあなた 横の糸は私

織りなす布は いつか誰かを

暖めうるかもしれない

80年ぶりに帰郷した范長江『中国の西北角』邦訳

2017-12-19 09:08:30 | 日記
中国メディア界の開拓者として知られる范長江が著した『中国的西北角』の邦訳初版『中国の西北角』(松枝茂夫訳、改造社、1938年)がこのほど、范長江の故郷、四川省内江市にある范長江記念館に収蔵された。私が大学内の先生に頼まれて探し、内山書店で見つけて購入した。ひょんなことから私が寄贈者となり、予想もしない反響があった。ささいなことが、実は、糸で結びついた深い縁のなせるわざであることを思い知らされることがある。



范長江についてはこれまでブログで詳しく書いた。http://blog.goo.ne.jp/kato-takanori2015/e/adfd255fff20ecc6f964ac376876f33e

『中国的西北角』は、范長江が1935年から36年にかけ、ベールに包まれていた中国の四川から甘粛、陝西、青海を含む中国西北部を10か月をかけて歩き、『大公報』紙上に連載したものをまとめたものだ。1936年8月に中国で出版され、翌年6月まで計8版を重ねる好評を博した。中国での出版から1年半後の38年1月、邦訳が出され、1983年、筑摩叢書から再刊された。私は83年版の邦訳を読んでいたので、38年の初版にはことさら関心を持っていなかった。ただ、范長江は、汕頭大学新聞学院の范東昇院長の父でもあるので、その人物自身については学内でしばしば話題になる。

今夏、学内のベテラン教授が学生を率い、『中国の西北角』にある范長江の旅程を再訪する企画を行った。その発表会が11月13日、学部内であり、私も興味をもって参加した。その際、83年版の邦訳を持参し、発表会の感想とともに参加者に紹介した。すると数日後、その教授から「初版の38年版を入手できないか。記念館が強い関心を持っている」と話を持ちかけられた。私は半信半疑だったが、調べてみると、内山書店に一冊だけあった。

12月初め、所用でちょうど一時帰国したので、その一冊を購入して持って帰った。80年前の古本と思えないほど、キズや汚れがなく、大切に保管されてきたことがわかった。扉にはもとの蔵書者が残したと思われる丸印が押してあり、奥付には「昭和十三年一月十七日印刷 昭和十三年一月二十日発行」「定価一円七十銭」と書かれている。





大学に戻ったのが12月5日。2日後の7日、依頼した教授に渡す前に、范院長に一声かけたところ、「ちょうど9日、記念館に行くので、その時にお持っていきたい」とのことだった。院長はかなり興奮し、本を大事に広げながら、巻頭の写真が中国に残っている原本よりも鮮明に保存されていること、地図も正確に写し取られていることに驚いていた。私に本を持たせ、一緒に記念写真を撮るほどだった。

范長江はもともとは国民党系の『大公報』記者だったが、1939年、周恩来の紹介で共産党に入党。国共内戦では従軍記者として活躍し、建国後は『人民日報』社長などを歴任した。文化大革命期は「反共」の濡れ衣を着せられ、河南省の農村に送られたが、70年、農園の井戸で死んでいるのが発見された。文革後の1978年、名誉回復された。苦難の最期を迎えた父親の業績を残したいと望む子の心境を思えば、院長の興奮も痛いほどわかる。私は、院長のことはよく知っているつもりでいたが、一冊の本が持つ重みを十分理解していなかった。

(続く)